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第八話 再会は処方通りに ①

 ジャックは、うっすらと浮かび上がる女性の目をひたと見つめていた。

 女性もまた眉を寄せ、まるで責めるように、それでもなお、すがるようにジャックを見つめ返している。


 女性は、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。


「……わたしが、見えているのね。無香人(むこうびと)か」


 ジャックはゆっくりと頷いてみせた。そして、ちらりとグラントを見た。


「グラントさん。彼女の声は聞こえますか?」


「声? 声はしねえよ。なんか喋ってんのか?」


 女性が、おずおずと口を開いた。


「もしかして……君には、わたしの声も聞こえているのか。だとしたら……鼻がいいんだね。まるで……」


 彼女の香りと声に、身体のほうが先に応えそうになった。何も知らなかった子ども時代のように、無邪気に話しかけそうになった。

 だが、それはもう許されない。

 いまの自分は〈調香師〉だ。あの日のままでは、彼女と向き合えない。


 ジャックは言葉を飲み込み、代わりに胸に手を当てて一礼した。


「お久しぶりです、オブリエ様」


「……。ジッキー……?」


 思い出すような、ためらうような声だった。


 その名を呼ばれた瞬間、胸の奥に冷たいものが沈んだ。恐れではない。消えかけているのがオブリエであるという確信。誰にも教えなかった愛称だった。ただ、オブリエだけがそう呼んだ。


「……はい。ジャック・ローランです」

 

 名を聞いたオブリエの声が、ぱっと明るくなった。

 

「本当に? ……ああ! まさかジッキーが来るなんて!」


 ジャックは思わず苦笑した。

 ジッキー。まるで女の子みたいだ。いまの自分には似合わない。だが、否定する気にもなれなかった。

 気恥ずかしさよりも、懐かしさの方が先に立つ。


「オブリエ様はおきれいになりましたね」


 そういうジャックに、オブリエはさも面白そうに手を叩いて笑った。その姿はあまりに自然で、今にも触れられそうだった。


「あはは! いくら君とてそこまでは見えていないだろう? 一端(いっぱし)に敬語も社交辞令もできるようになって、まあ!」


 オブリエは大きく手を広げてジャックを抱きしめようと――したのだろう。


 だが、触れる前に、その姿はふっとほどけた。近づいてきた〝姉〟の形が、空気の揺れとともに消えた。


 雨の香りだけが、通り過ぎていった。


「やはり、だめか……」


 落胆の声が、真後ろから響いた。慌てて振り返っても、そこには誰もいない。


 だが、香りは確かにあった。灰と、苔と、森の冷気。

 香印はそこにある。だが、捉えられない。


 吸い込むとたしかに存在するのに、吐く頃にはすべて剥がれ落ちている。空気が匂いを溶かしているようだった。


 ただ、香りが近くにある。それだけが確かだった。


 沈黙。三人の気配が、燐香の煙たい空気に沈む。

 それを破ったのは、グラントだった。


「おい、ジャック。こいつ本当に〈香り付き〉なのか?」


「どういう意味ですか?」


「美人の幽霊が目の前に現れて色目使ってんじゃねえだろうな」


 ジャックは抗議の意味を込めて、無言でグラントの背中を思いきり叩いた。グラントは笑っている。全く効いていない。


「冗談でも言わなきゃやってらんねえだろ」


 こんな話に構ってやる暇はない。自分のやるべきことは一つだ。ジャックはそう思い直して、オブリエに向き直った。


「オブリエ様に渡したいものがあります」


「うん?」


 ジャックは手に持っていた豪奢な木箱を、オブリエに――オブリエがいるであろう白い靄のかかった空間に向かって差し出した。


「ご注文いただいた香水です。どうぞお受け取りください」


「あ、ああ。そうだったな……」


 オブリエは呟いた。


 グラントにはその声はまったく聞こえていなかったが、ジャックの言葉から状況を正確に読み取った。彼のほうは呆れた表情をありありと浮かべてジャックに言ったものだ。


「おまえさあ。こんな状況で言うことがそれかよ?」


 ジャックはきわめて真面目な顔で肯いた。


「ぼくの仕事はクライアントに香水を渡すことなので」


「はあ。まあ、いいけどさ……」


 グラントは呆れて首を振る。

 オブリエはずいぶん長い間黙っていたが、やがて口を開いた。

 

「その、ありがとう。受け取ろう」


 オブリエの姿はまだ見えない。霞のようにぼやけた気配をわずかに感じられるだけだった。


 空気の圧に、ふわりと押された。


 そう感じた瞬間、木箱が宙に浮き、霞の中にぴたりと止まった。空気がそっと押し返してくる。見えない指先が、箱を包んだようだった。

 

 ジャックとグラントは息を詰めて木箱を見つめた。


 香水瓶を包んでいたベルベット地の布がゆっくりと引き抜かれ、するりと落ちる。


 ジャックは木箱を凝視したまま呟いた。


「いったい、どうなってるんだ……」


 質問というよりも、心の声が漏れた。

 オブリエはかすかに笑ったようだった。


「香印がね、暴走してるんだよ」


「暴走……?」


 その言葉に、グラントは顎を引く。


「香りの文が書きかけで止まってるの。始まりも終わりも曖昧で、何を伝えようとしてるのか自分でもわからない。記号は残っていても、意味が結べない。……だから、消えかけている」


 沈黙の中、香水箱の蓋がわずかに開いた。内側から、冷たい火花のように香りが散った――瞬間、室内の匂いが吸い込まれたように退いた。

 甘さも、苦味も、滞留していた煙すらも、香水の方へゆるりと引き寄せられていくようだった。


 一拍、空気が無音になった。


 再び、オブリエが口を開く気配がした。


「……香印を識別できる人がいれば、見つけてもらえるんだけどね。だけど、ここには芳主しかいないでしょ? 自分の香印にずっと晒されている〈香り付き〉は無香人よりも鼻が効きにくいの」


 目の前に確かに居るはずのオブリエの声すら、遠くから聞こえてくるように感じる。もう判然としない。


 声は同じだ。言葉の選び方も、口調も。


 だが、記憶の中のオブリエは、簡単に触れられる存在だったはずだ。


 六年前には、もっとはっきり見えていた。あの頃の彼女を知っているからこそ、今のオブリエがどれほど異常な状態にあるか、痛いほどわかってしまう。


 見失うのが怖くて、言葉を繋ごうとする。何かを確かめたくて、声をかけてしまう。


「……幽霊みたいだな」


 言って、すぐに後悔した。


 オブリエは乾いた声で笑った。声だけが空気に漂って、消えた。


「相変わらずの減らず口だ。六年前と同じことをされたいのか?」


 ジャックは笑ったつもりだった。だが、喉が詰まって、うまく息が押し出せない。声にできない感情が内側に渦を巻いていた。笑いたいのか、泣きたいのか、自分でもわからなかった。


 かつて姉と呼んで頼っていた女性の存在がゆがみ、消えかかっている事実を、少年はまだ受け入れられないでいた。


 それでもジャックは、香りの残るその空間に、手を差し伸べていた。そこにまだ姉がいると信じたかった。


 その手に空気が滑り、温かさがそっと指を撫でた。ひどく慎ましかった。だが、確かに触れた。

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