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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓
第一章

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第九話 再会は処方通りに ②

 東棟の一室を後にし、廊下へ出る。

 あの甘ったるい幻のような部屋を離れても、オブリエの姿はほとんど見えなかった。香印を的確に捉えているはずのジャックでさえ、かろうじて薄靄のような気配を感じられるだけだ。

 ジャックとグラントが東棟の石段を下りた先に、ジュゼマンが立っていた。

「まさか、本当に、オブリエさまが……?」

 ジュゼマンの眉が震え、空振りするように鼻先で息を探る。

「ジッキー。香水をわたしにつけてくれ」

 そう言うオブリエの声は、小さかった。

 ジャックは頷き、香水の蓋を外す。オブリエがいるであろう方向にノズルを向け、慎重に香りを吹きかける。

 霧雨の香りが広がり、彼女の姿にわずかな境界がくっきりと――ややわざとらしいほど鮮鋭(せんえい)に、現れる。

 研ぎ澄まされた華やかさ。気品を称えた高貴な女性。みずみずしいライチが先頭を走り、ベルガモットがその後ろから全体を包むように広がる。そこへ、ピンクペッパーが冷たい稲妻のように走り込む。

 冷香の閃光スパークリングエフェクト

 香気が光の粒子のように跳ね、視線を引き寄せる。

 美しさとは、目が冴えるような明るさなのかもしれない。そう思わせる、艶やかなトップノートだった。

 ジャックは息を呑んで――自身を(いさ)めるように、まぶたを強く閉じた。

 香りは不思議だ。この香水の処方(フォーミュラ)はよく知っている。使われている香料は馴染みのあるものばかりだ。

 それなのにうっかり魅惑(みわく)されそうになる。

 いや、魅惑ではない。安堵だ。

 ――助かった。

 ほんの一瞬だけ、そう思ってしまった。香りがすべてを救った気がして、その奇跡にすがりたくなった。そう思った時点で、もう罠にかかっていたのかもしれない。

 これは処方された〈安心〉だ。人工的な安堵。香りが作った錯覚。

 ジャックは額を抑えた。ああ……。

 そんなジャックのようすには気づかずに、オブリエは笑った。

「おばさまのつくる香りは美しいものばかりだ。いつもわたしに勇気をくれる」

 ジュゼマンは香水の香りを捉えて、目を大きく見開いた。よろめきながらオブリエに近づき、彼女の手を取ろうとする。

「オブリエさま。本当に、オブリエさまでいらっしゃいますか。ああ、ご無事でよかった!」

 ジュゼマンの反応を見たジャックは、香水瓶を箱に戻した。小さく息を吐き、肩の力を抜く。

 ――彼の目が見ているのは、本当にオブリエだろうか? それとも〈魔法の香水(アルカ)〉の幻影か?

 グラントがぼそりと呟いた。

「……あんな状態だった割に、元気だな」

 ジャックは目を伏せた。それは、まさに自分が感じていた違和感だった。

 オブリエはジュゼマンの手を握り返し、微笑んでいる。その笑いには一切の迷いや不安が見えない。

 ――そんなことがありえるのか?

 アルカが馴染むほど、オブリエの姿は鮮明になっていく。処方の完璧さが、彼女の不在をはっきりと映し返すようだった。

(ジュゼマンにとっては、きっとオブリエなのだろう。だけど……ぼくの記憶にはいない女性(ひと)だ)

 芳香が像をなぞっているだけで、そこにオブリエがいるという確証は、ついぞ見つけられない。そんなことを考えていると、ジュゼマンが感極まったように話しかけてきた。

「ありがとうございます、調香師殿。あなたのおかげで――」

「ジャックでいいですよ」

 ジャックは苦笑して言った。老練で気品に満ちた侍従にあらたまって調香師と呼ばれるのは、借り物の肩書を押し戴かれているような気分だった。

「……では、ジャックくん。改めて、御礼申し上げます」

 言い直した声には、どこか遠慮がちな親しみが滲んでいた。

 ジャックはジュゼマンに微笑んでみせてから、手元の箱に視線だけを落とした。

 やるべきことはやった。

 だが、これでいいのか?

 ジャックは片手でこめかみを押さえた。まともに考えられない。緊張の糸が切れ、香料に晒され続けた代償が、じわじわと体を蝕み始める。

 香料疲労だ。

 耳鳴りが、金属めいた軋みを伴って跳ね上がる。あらゆる香りの境界が歪み、潰され、溶け合い始める。すべてが、同じ甘苦さに塗り潰される。

 判断力が濁る前に、香りを記憶に留めておかなくては。

(思い出せ。言葉にして記憶しろ。刺すような拒絶、くたびれた茶の苦味、ピネン系だ。一瞬で沈んだ。ベール越しの声の残響……アルデヒド、だが浮いてない。不愉快な手の湿り気。ラクトン系。喉元で急に切れた。部屋の角に溜まっていて……)

 頭痛がひどすぎて吐きそうだったが、その様子をおくびにも出すまいと決めていたジャックは、あえて背筋を伸ばした。

 ……気を抜くな。まだ終わってない。

「オブリエ様、お湯をお使いになってください。それから……すみません、ぼくたちも、シャワーを借りられますか?」

 ジャックの問いに、オブリエは一瞬、間を置いた。

「もちろんだ」

 オブリエは完璧な所作で頷いた。東棟にいた、儚く消えそうな女性はどこにもいなかった。まるで香水の処方をなぞるように――処方どおりのオブリエ・ノブレサントを演じていた。

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