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第六話 視えない痕跡を追って ②

 グラントはシートを倒したまま、空を睨んでいた。

 

(香水を届けるだけだったはずだろうが)

 

 時間を測っていたわけじゃない。

 だが、遅すぎる。

 

 車の窓を開けると、門前の空気がさっきとは様子が違っていた。


 生ぬるい風に乗って、火を通しすぎたジャムのような甘さが漂ってくる。砂糖ではない。熱で崩れた何か、まとわりつくもの。皮膚のような、内臓のような、ぬるりとした気配が、舌裏にへばりつく。

 

 普通の匂いじゃない。

 

(……門の外にまで香を? 有り得ねえだろ。あれは焚いた香りじゃない。漏れてやがる)

 

 グラントは素早く身を起こし、車を出た。


 皮膚の裏側に染み込んでくる、鈍く、ぬるく、粘質な空気。

 鼻より先に、身体が「逃げろ」と叫ぶ。


 それは、()()()()で何度も嗅いできた匂いだった。


「……はあ、クソ。なんで嫌な予感ってのはこうも当たるかね」

 

 舌打ちを一つ。覚悟を踏み締めるように、ゆっくりと門を越えた。



 

 ***


 遠慮がちなノックの音がして、応接室の扉が開かれた。

 

「訪問者がございます。門で待機されていた方かと」

 

 ジュゼマンが顔をしかめた。その眉が戻るより早く、男が応接間に入ってきた。

 

 男が一歩踏み込んだ瞬間、空気が揺れる。

 ジュゼマンは即座に察した。


 この場に、相応しくない風が入ってきた。


  明確な香りはない。男は〈香り付き〉ではなかった。ただ異質な流れが絨毯(じゅうたん)を撫でた。

 

「勝手に通されたんでな。歓迎はされてないみたいだが」

 

 グラントは埃を払うようにコートの裾をさばき、何の許可も得ずソファに腰を落とした。

 

 ジュゼマンの顔がわずかにしかめられたまま固まる。

 

「……どちら様でしょうか」

 

「調香師が来ただろ。俺はあのガキの付き添いだ。ただの送迎係さ。香水を届けたら、おとなしく連れ帰るはずだった」

 

 直後、ひやりとした空気がグラントの喉をなぞった。舌の奥に薄荷(ハッカ)飴の欠片を突っ込まれたような刺激。金属を舐めたときのような苦み。

 

 ――香印か。

 

 そう思う前に、目の前の老人が続けた。

 

「私の前で虚偽(きょぎ)は意味を為しません。それをご理解いただいた上でお答えください。――どういうご用件で?」

 

「予定外の回収だ。調香師に危害が及ぶ前にな」

 

「危害?」

 

「香りが漏れてんだよ。誰か、暴走してんだろ」


 ジュゼマンが息を呑んだ。その反応に、グラントはわずかに目を細めた。

 

「それを、外から察知したと?」

 

「ああ」

 

「……嘘ではないようですが、なぜそんな離れた場所から香印がわかるのです?」

 

 グラントは息を吐いた。口調は変わらないが、目の奥には緊張があった。

 

「強すぎる匂いは離れた方が気づきやすい。暴走した香印のそばにいすぎると、匂いがわからなくなる。鼻が麻痺すんだよ。匂いが情報にならなくなる」

 

「それは……」

 

「ここに入ってから、もうほとんどわからなくなった。――燐香(りんこう)の匂いもな」

 

 応接間の空気が、ひときわ重く沈む。


「燐香を、ご存じで?」

 

「ああ。芳主がこいつで制御不能になったのを何度も見てきた。建物をまるごと吹き飛ばした現場もあった。そのときは死者五名。部下も一人やられた」

 

「それは……つまり、あなたは……」

 

 ジュゼマンの声は低い。

 

 グラントは懐から金属製のバッジを取り出し、机に静かに置いた。

 応接間の沈黙を切り裂くように、厚みのある金属の(ふち)が鳴った。

 

「――香特(コウトク)、現場対応部、第七機動班。グラント・フォッサーだ」


 その声には、余計な誇張も脚色もなかった。ただ事実がそこに置かれた。


 香特(コウトク)――〈香異(こうい)特定局(とくていきょく)〉。

 香印や香料由来の事件を扱う国家査察機関。


「別にお前らに何かする気はねえよ。今日は非番だからな。……だが、調香師に何かあったら、そうも言っていられなくなる。それだけは分かってくれ」


 ジュゼマンはバッジを見つめたまま、短く息を吐いた。


「虚偽はないようだ」

 

 ぽつりとジュゼマンがつぶやく。


 一拍の沈黙。


 ジュゼマンはグラントの顔と、机の上のバッジを交互に見て、口を引き結んだ。

 

「……背に腹は代えられませんな」


「なら話は早い。調香師はどこにいる?」




 ***


 廊下の突き当たり、薄く開いた扉から、空気が漏れている。


 グラントは歩みを止め、気配を消して覗き込んだ。

 

 窓は開け放たれているのに、部屋は仄暗い。壁を背の高い書架が囲み、使われた形跡のない机と椅子がぽつんと置かれている。


 ――いた。


 その中央に、ジャックが立っていた。香水箱を抱えたまま、ただ、じっと一点を見つめている。


「おい」


 声をかけると、ジャックの肩がびくりと揺れた。


「グラントさん? なんで……」


「迎えに来た」


 ジャックは慌てて腕時計を見る。


「……まだ三時間経ってませんよ」


「芳主と〈燐香〉が揃ってる場所に長居できるかよ」


「どうして燐香のことを……」


 グラントは軽く手を上げて遮る。


「なあ。ここの匂い、何か変じゃねえか? 応接間のほうとは明らかに違うよな。燐香だろ、これ」


 グラントの言葉に、吸い込んだ空気が肺の奥でじわりと熱を帯びる。


「……ほんとだ。リンコウ樹脂、ですね」


 言ってから、わずかに遅れて眉が動いた。


「なんだ、気がつかなかったのか? 珍しい」


 部屋の中心に立つジャックの足元には、リンコウ樹脂の香りが澱のように滞留している。


 グラントは廊下側に立っていた。

 ドアの境界で、最初に反応したのは彼だった。


 ジャックは言葉を選ぶように、慎重に吐いた。


「読めてませんでした。たぶん、避けていて……」


 オブリエを傷つけているかもしれない香りは、鼻が捉えても、心が恐れて拒む。


 嗅覚訓練の副作用。


 匂いの読解と、読み飛ばす術は表裏一体だ。嗅がない力がなければ、嗅ぎ分けることもできない。感度の高すぎる嗅覚はすぐに飽和し、調香どころではなくなる。訓練を積んだジャックには、感じたくない匂いを曖昧に処理する癖が根づいていた。


 ――それに、曝露(ばくろ)時間が長すぎる。

 香りの差異が拾えなくなりつつあった。変化を捉える感覚そのものが、ずれ始めている。


 沈んだ香りの膜を破るように、グラントの足音が鳴った。


「で、この匂いはどこから来てる?」


 ジャックはそろりと歩を進めた先で、ためらうように窓の外を指差した。


「たぶん、向こう……東棟から。でも、あそこは誰も使ってないって言ってましたよ」


「使ってない建物から匂いがするんだろ。それはな、誰かが〝使ってる〟ってこった」


 そう言って、グラントは部屋に背を向けた。


「とにかく、行ってみようぜ」

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