第四話 開かれざる気配
車が走り出すと、ジャックは助手席で頬杖をついた。
風に打たれながら、車窓の向こうに視線を泳がせる。春の名残を含んだ冷気に、巻き上がった土埃、焦げ草、錆びた油が溶け合っている。
時折グラントと他愛のない話をし、休憩をはさみながら東を目指して走り続ける。
ようやく、車が首都ルードに入った。
巨大な空中庭園のような街だ。見上げれば大厦高楼が並び立つが、下を見れば街路樹や花壇にあふれている。自然とテクノロジーが溶け合うこの首都は、景観も匂いも統制下に置きたがる神経質さを隠そうともしない。
だが、ルード北端のオーベルナ地区に差し掛かると、空気は一変する。
土の匂いがぬるく立ち上り、苔と腐葉の匂いがじっとりと鼻腔にまとわりつく。陽光は木々に遮られ、香りすらも静かに沈殿しているようだった。
ノブレサントの屋敷が見えてきた。
周囲に他の館は無く、人はおろか車さえ近くを通らない。昼間にもかかわらず、邸宅の周囲には薄靄のような影が漂っていた。
グラントは車を路肩に寄せ、エンジンを切る。ジャックは問いかけるようにグラントを見た。
「ここで降りろ」
「門の前まで行かないんですか?」
「あんなとこで路駐したら追い出されるだろ」
そう言いながら、グラントは懐から手帳を取り出し、迷いなくペンを走らせると、ページを破ってジャックへ差し出した。
「何かあったらここに連絡しろ。端末は?」
「持ってますけど、工房から借りてるものです。公共回線には繋げませんよ」
ジャックが紙片を受け取りながら答える。
走り書きの文字に一瞬だけ眉を動かしたが、何も言わずに鞄へ納めた。
「ノブレサントには公衆端末がある。貸してもらえ」
「わかりました」
「三時間以上かかるなら教えろ」
それだけ言って、グラントは車のシートを倒し、サングラスを引き下ろした。これから昼寝でもするらしかった。
ジャックは肩をすくめて車を降りた。
香水箱の入った鞄を持ち直し、静かに門へと歩き出す。
***
ノブレサント邸の正門には、かつての威厳が未だ染みついていた。
鍛鉄細工の柵を抜け、石畳の敷かれた中庭を歩けば、足元からひやりと湿り気が立ち上る。
玄関口から、老人が姿を現した。
深緑の燕尾服に包まれた痩身が、凛とした佇まいを引き立てている。
その厳かな雰囲気にはそぐわない、甘やかな残り香がふっと鼻をかすめた
沈香様の燻香とローズウッドの辛味が香りの底を支えている。おそらく、龍涎香の代用として焚かれた甘い樹脂の煙が、衣服に染みついているのだろう。
ジャックは香りに意識を奪われかけて――、
「スフル・デテレの調香師の方ですね」
「調香師補助です」と言いかけて、ジャックは口を噤んだ。
今は〈調香師〉としてここにいる。不安を事実のように語ることは、自分には許されていない。
老人は一歩を踏み出し、軽く頭を下げた。動きに無駄がない。名乗る声もまた礼節を湛えていた。
「私はノブレサントの邸仕えをしております、ジュゼマン・モレルと申します」
間があった。
ひと呼吸置いてから、ジュゼマンは静かに続けた。
「ノブレサントの門を叩く者には、すべからく〈虚偽看破〉を行っております。どうかご了承くださいませ」
感じたのは、呼吸を整える前の静けさ。思わず姿勢を正してしまう緊張感。
――瞬間、ユーカリの冷気が、粘膜を冷やす。
ゼラニウムの仄かな薔薇に青葉を忍ばせた刃が、胸を撫でるように裂く。
最後には、ブラックカルダモンの焦げた薬草めいた残香が、喉奥を焼き落とす。
剥がす、刺す、焼く。
順を追って、香りが通過していく。
「……え」
皮膚の奥を何かが這ったような気がして、ジャックは咄嗟に胸元へ手をやった。
状況を飲み込むよりも早く、ジュゼマンが続ける。
「せっかく御足労いただいたのに申し訳ないのですが、本日はお引き取りいただけますでしょうか」
ジャックは思わずジュゼマンを見た。老人は相変わらず厳格そうな面持ちで、背筋を伸ばして直立している。
「お会いできない理由を、お伺いしても?」
ジャックの問いに、ジュゼマンは静かに答えた。
「オブリエさまのご様態が宜しくないのです。ですので、本日はお会いできません」
淡々とした口調だったが、明確な拒絶の意思があった。
ジャックは返す言葉を見つけられないまま、香水の箱を胸元で抱え直す。
任された仕事を果たせない。たったそれだけのことが、思いのほか重くのしかかった。予感に過ぎないはずなのに、なぜかひどく堪えた。
「……もう一つ、お伺いしてもいいでしょうか」
「〈虚偽看破〉のことでしょうか」
心を見透かされたようで、ジャックは小さく身を固くした。ジュゼマンは淡々と続けた。
「〈虚偽看破〉は私に刻まれた香印です。虚偽があれば、即座に感知いたします」
「ではあの……あなたは芳主でいらっしゃるということですか」
「そうですとも。ノブレサントの邸仕えは芳主にしか務まりませんゆえ」
そんなわけない。
ジャックは咄嗟にそう思った。
なぜか、あの甘く焦げつくような香りが引っかかるのだ。
瞬時に記憶を探る。
思い当たる香料は、ひとつしかなかった。
――リンコウ樹脂。
言いかけた言葉を飲み込み、慎重に問いかける。
「最近、特殊な香料を……樹脂を扱いましたか?」
「樹脂? いえ、そのような記憶はありませんが……」
ジャックは小さく息を吸い、わずかに間を置いてから言った。
「……〈燐香〉をご存知ですか」
空気が変わった。
ジュゼマンの表情が一瞬で引き締まる。
「それは……失礼、存じてはおりますが。なぜ、その名を」
「……〈燐香〉には未精製のリンコウ樹脂が使われます。その匂いが、あなたの衣服に残留しているように思われます」
ジュゼマンの顔色が如実に変わった。
「まさか。そんな、はずは……」
ジャックは視線を落とし、静かに言葉を続けた。
「信じられないのも無理はありません。香水にするならともかく、リンコウ樹脂を精製せずに香印に近づけるのは危険ですから……」
精製されていない樹脂には、不安定な揮発成分や刺激性の芳香分子が残る。
リンコウ樹脂に含まれる揮発成分は、繊維や皮膚に強く定着する。時間が経っても、汗や皮脂の分泌で再び香りが立ち上がる。焚かれた場から離れても、完全には抜けない。
皮膚に染み付いて、体臭を変えてしまう香り。
それは、芳主にとって致命的な、遅効性の毒になりかねない。
「何かの、間違いでは? それこそ〈アルカ〉ではないのですか」
ジャックはそっと首を傾けた。何から伝えるべきか。言葉を慎重に選ぶ。
「香りが潰れすぎています。香水として設計された構造には、ちょっと思えません。仮にアルカだったとしても、リンコウ樹脂には濃度の上限があります。いまの香りは、おそらくそれを超えている」
少し間を置いて、核心に触れる。
「香印に、影響が出る可能性があります。体調に、変化はありませんか?」
ジュゼマンは息を呑みながら、ジャックの言葉に耳を傾けていたが、やがて静かに口を開いた。
「つまり……こういうことですか。リンコウ樹脂が――〈燐香〉の原料として知られるそれが、このノブレサントで焚かれていると?」
「はい」
ジャックは静かに、だがはっきりと頷いた。
「リンコウ樹脂は、香印を活性化させる性質があります。どんな意図であれ、制限を超えた濃度で使われるのは異常です」
ジュゼマンは目を伏せ、胸中を測るように一つ息を吐いた。
「……嘘では、ないようだ。理も通っている」
やがて眉間のしわがゆるみ、肩の力がわずかに抜けた。
「香りの専門家の見立てを、軽んじるわけにはいきませんな。……詳しいお話をお聞かせいただけますか、調香師殿」
ジャックはジュゼマンをまっすぐに見つめて、静かにうなずいた。
ノブレサントの屋敷の重たい扉が、音もなく開いた。
揮発しきらぬ香りが、空気を押し返したようだった。