表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓
第二章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/58

第二十二話 届かない声

 ジャックは静かに調香台に向かっていた。今日はすぐに調香を始めなかった。香料瓶を並べることもせず、自分の手の平をじっと見下ろしていた。

 しばらくそのまま、動けなかった。

 昨日、アイリス・ドレーヴの香水選びに付き合ったときの感触と温度が、今なお指の節に滲んでいる。

 やがてジャックは小さく息を吐き、精油の瓶に手を伸ばした。

 香りは、人に届いてしまう。それは、触れてしまうということだ。

 香りを誰かのために作る。それは、相手に自分の内側を預けるということだ。

 昨日は、それが怖いと思った。

 今日も、やはり怖い。


 ***


「……オブリエの肌に溶け込むように。香印の記憶を遠ざけず、でも縛らないように……」

 ぽつりと呟く。それが、ジャックが今回目指す調香だった。

 オブリエに重すぎる香りは馴染まない。軽やかで、彼女の体温に溶け込むような香りを選ぶのがいいだろう。アルカ香料との相性もいい。

 それで、今回は精油だけを使って香油を作ることにした。特に、水蒸気蒸留法で抽出された香料――エッセンシャルオイルを使って。

「香油。オイル香水か……」

 ふう、とため息を吐いてしまう。正直なところ、ジャックは精油の扱いに自信がなかった。天然香料は香りが安定しにくく、扱いに難儀しやすい。合成香料のほうがずっと使いやすい。

 実際、調香師学校で教えるのは有機化学としての調香、アルコールベースの香料構成である。

 アロマ系の調香は計算ベースの調香とは少し違う。アロマの調香師は天然香料の――素材の〝声〟を聴くという。

 因果でなく、共鳴を扱う調香。ジャックのように、計算によって香りを構成する方向で研鑽(けんさん)を積む若手にとっては、ほとんど未知の領域だ。

 それに、エッセンシャルオイルには良い思い出がなかった。小瓶一本分のローズ精油を作ったことがあるからだ。

 花の採取は時間との勝負だった。朝露(あさつゆ)で濡れた花びらを、畑を這いずりながら摘む。目標は五キロ。その後は、湿った草を煮詰めたような苦みと、酸化しかけた植物脂の匂いに包まれた工場で、日が傾くまで蒸留釜につきっきりで減圧と冷却を繰り返した。

 人生でもっとも過酷な肉体労働。手に入れたのは、たった数ミリリットルのローズ精油。そのときの記憶が呼び起こされるという点でも、ジャックはエッセンシャルオイルがどうも好きになれない。

 しかし、そうも言っていられない。

 目下の課題は。

「フリージアをどう代用するか……」

 フリージアは香りが取れない。合成香料を使うしかないが、今回は避けたい。

 ならば、ありもので再現するしかない。

 ジャックは頭を振って苦手意識を追い出すと、一本ずつ精油を並べた。それらをまず、頭の中で組んでみる。

 トップには、軽やかで新鮮な柑橘類のようなベルガモットに、柑橘と草の中間のようなリツェアクベバ。

 ミドルはフリージアの再現だ。ネロリと、ローズウッドと、ジンジャーでつくるのが現実的だろう。パルマローザもいれてみようか。

 ベースには森の質感や苔のニュアンスがほしい。ヒノキ、フランキンセンス、スモーキーで土っぽいベチバー。

 希釈剤そのものに香りがついているとブレてしまいそうだ。そう考えて、匂いに癖のないグレープシードオイルを選ぶ。

 濃度五%、合計二〇滴。

 ……肌に載せるには高濃度だが、試作ならいいだろう。

「まあ、つくってみるか……」

 ジャックは慎重に配合を整えた。一滴ごとに香りの印象を確認して、記録する。

 できあがったアロマオイルを素早く嗅いでみる。

 トップの柑橘がすぐ消える。ミドルの花が互いを拒絶するように競り合っている。スパイスはよく効いてるが、後味が苦く、土っぽくて、くすむ。トップとミドルの音域がぶつかり合い、旋律にならない。

 香りたちは、互いを恐れていた。他者に呑まれることを拒んでいるようだ。

 ――それはたぶん、自分自身の姿だった。

 届いてしまうことが怖い。

 触れられない。

 だから、誰にも届かない。

 ジャックは無性に焦りを覚えた。香りは語っているのに、何ひとつわからなかった。ただの音として届いてくる。意味のある響きに変換できないまま、空気をすり抜けていく。

 自分だけが別の言語を喋っているような感覚だった。

 言葉にならない音が、ビーカーの底から濁って立ち昇る。

 香りはそこにある。間違いなく、確かに。

 だが、手を伸ばすとすり抜ける。

(いや……。自分が怖くて触れられないだけだ)

 なのに、まるで相手が離れていくかのように錯覚してしまう。

 ――それが、情けない。

 ただの手遊びならば、香りの変化を逐一楽しめただろう。

 だが、今のジャックには明確な目標があった。何が何でも到達しなければならない目標が。

「ああ……届かない。なんでだよ……」

 ジャックはそう呻いて、机に突っ伏した。

 まったく思い通りにいかない。

 香りは喋っているのに。言葉はそこにあるのに。

 耳を塞いでいるのは、自分だ。自らの未熟さが、空気を通じて部屋に滲み出しているような――そんな錯覚。根を詰めすぎた故にイメージは暴走する幻覚に化けて、自力では食い止められなくなりつつあった。

 匂いが、ただの空気になる。

 そんな焦りが、脳髄の奥まで染みてくる。

 ジャックは一度、椅子の背にもたれた。そのまま深呼吸する。オイルの香りさえ、もううまくわからなかった。

(……頭を冷やせ。これは試作だ)

 拳を握り直す。わかっていても、手が震えた。

 香りは部屋中に満ちている。指先にまとわりつくように漂う香りに、それでも自分から手を伸ばせなかった。

 これ以上は、彼の腕では限界だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ