第二十二話 届かない声
ジャックは静かに調香台に向かっていた。
だが、今日はすぐに調香を始めなかった。香料瓶を並べることもせず、自分の手の平をじっと見下ろしていた。
しばらくそのまま、動けなかった。
感触と温度の記憶が、指の節に滲んでいた。
やがて、ほんの少しだけ息を吐くと、精油の瓶に手を伸ばした。
香りは、人に届く。届いてしまう。
それは、触れてしまうということだ。
香りを誰かのために作る。それは、相手に自分の内側を預けるということだ。
昨日は、それが怖いと思った。
今日は……今日も、やはり怖い。
***
「……オブリエの肌に溶け込むように。香印の記憶を遠ざけず、でも縛らないように……」
ぽつり、と呟く。
それが、ジャックが今回目指す調香だった。
オブリエに重すぎる香りは馴染まない。軽やかで、彼女の体温に溶け込むような香りを選ぶのがいいだろう。アルカ香料との相性もいい。
それで、今回は精油だけを使って香油を作ることにした。
特に、水蒸気蒸留法で抽出された香料――エッセンシャルオイルを使って。
「香油。オイル香水か……」
ふう、とため息を吐いてしまう。
正直なところ、ジャックは精油の扱いに自信がなかった。天然香料は香りが安定しにくく、扱いに難儀しやすい。合成香料のほうがずっと使いやすい。
実際、調香師学校で教えるのは有機化学としての調香、アルコールベースの香料構成である。
アロマ系の調香は計算ベースの調香とは少し違う。アロマの調香師は天然香料の――素材の〝声〟を聴くという。
因果でなく、共鳴を扱う調香。
ジャックのように、計算によって香りを構成する方向で研鑽を積む若手にとっては、ほとんど未知の領域だ。
それに、エッセンシャルオイルには良い思い出がなかった。
小瓶一本分のローズ精油を作ったことがあるからだ。
花の採取は時間との勝負だった。朝露で濡れた花びらを、畑を這いずりながら摘む。目標は五キロ。その後は、湿った草を煮詰めたような苦みと、酸化しかけた植物脂の匂いに包まれた工場で、日が傾くまで蒸留釜につきっきりで減圧と冷却を繰り返した。
人生でもっとも過酷な肉体労働。
手に入れたのは、たった数ミリリットルのローズ精油。
そのときの記憶が呼び起こされるという点でも、ジャックはエッセンシャルオイルがどうも好きになれない。
しかし、そうも言っていられない。
目下の課題は。
「フリージアをどう代用するか……」
フリージアは香りが取れない。
合成香料を使うしかないが、今回は避けたい。
ならば、ありもので再現するしかない。
ジャックは頭を振って苦手意識を追い出すと、一本ずつ精油を並べた。
それらをまず、頭の中で組んでみる。
トップには、軽やかで新鮮な柑橘類のようなベルガモットに、柑橘と草の中間のようなリツェアクベバ。
ミドルはフリージアの再現だ。ネロリと、ローズウッドと、ジンジャーでつくるのが現実的だろう。パルマローザもいれてみようか。
ベースには森の質感や苔のニュアンスがほしい。ヒノキ、フランキンセンス、スモーキーで土っぽいベチバー。
希釈剤そのものに香りがついているとブレてしまいそうだ。そう考えたジャックは、匂いに癖のないグレープシードオイルを選んだ。
濃度五%、合計二〇滴。
……肌に載せるには高濃度だが、試作ならいいだろう。
「まあ、つくってみるか……」
ジャックは慎重に配合を整えた。
一滴ごとに香りの印象を確認して、記録する。
できあがったアロマオイルを素早く嗅いでみる。
トップの柑橘がすぐ消える。
ミドルの花が互いを拒絶するように競り合っている。
スパイスはよく効いてるが、後味が苦く、土っぽくて、くすむ。
トップとミドルの音域がぶつかり合い、旋律にならない。
香りたちは、互いを恐れていた。他者に呑まれることを拒んでいるようだ。
――それはたぶん、自分自身の姿だった。
届いてしまうことが、怖い。触れられない。
だから、誰にも届かない。
ジャックは無性に焦りを覚えた。
香りは語ろうとしている。なのに、何ひとつ届かない。それは言葉ではなく、ただの音として届いてくる。意味のある響きに変換できないまま、空気をすり抜けていく。
自分だけが別の言語を喋っているような感覚だった。
言葉にならない音が、ビーカーの底から濁って立ち昇る。
香りはそこにある。間違いなく、確かに。
だが、手を伸ばすとすり抜ける。
いや……自分が怖くて触れられないだけだ。
なのに、まるで相手が離れていくかのように錯覚してしまう。
――それが、情けない。
ただの手遊びならば、香りの変化を逐一楽しめただろう。
だが、今のジャックには明確な目標があった。
何が何でも到達しなければならない目標が。
まったく思い通りにいかない。
ジャックは手を止めた。
これ以上は、彼の腕では限界だった。
「ああ……届かない。なんでだよ……」
ジャックはそう呻いて、机に突っ伏した。
香りは喋っているのに。言葉はそこにあるのに。
耳を塞いでいるのは、自分だ。
自らの未熟さが、空気を通じて部屋に滲み出しているような――そんな錯覚。根を詰めすぎた故にイメージは暴走する幻覚に化けて、自力では食い止められなくなりつつあった。
……匂いが、ただの空気になる。
そんな焦りが、舌の奥にまで染みてくる。
ジャックは一度、椅子の背にもたれた。
深呼吸する。オイルの香りは、肺の奥にまだ残っている。
……頭を冷やせ。これは試作だ。
拳を握り直す。
わかっていても、手が震えた。
香りは、もう部屋中に満ちていた。指先にまとわりつくように漂う香りに、それでも自分から手を伸ばせなかった。




