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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓


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第二十一話 他人の香りに触れた日 ②

 商店街には、週末らしい喧噪が広がっていた。


 ジャックは一歩遅れて歩く。


 スカートの裾が風に浮くたびに、アイリスのつけている香水の香りが鼻先をすべり抜ける。意識を向ける前に、香りはすでに遠ざかっている。


 少し寝ぼけたまま、慣れた服に手を伸ばした朝――そんな気配がした。

 

 ペッパーウッドが眠気を押し出すように芯を保ち、緑茶のようなグリーンマテが続く。トップには遠慮がちなシトラス。すぐに飛び立ちそうなのを、静かなミドルが呼び止めていた。

 

 揮発したノートは早々に抜けていく。目立たずにいたい、でも存在を消したくはない。そんな距離感。

 

「荷物持ちとして来たって顔ね?」

 

 アイリスがそう言いながら振り返ったので、ジャックは素直に頷いた。

 

「君がそう言ったからね」

 

 彼女の目元が、少しだけ綻ぶ。

 

 香水専門店の扉を開けた瞬間、微かに空気の層が変わった。

 

 店内は静かだった。棚に整然と並ぶフラコンたちが、装飾ではなく、製品としての気品を漂わせていた。

 

 強い香りはない。無臭に近い。

 

 だが、ジャックには、香水を空吹きした名残が見えた。ジャスミンの骨組みが遠くに沈んでいる。 空調に巻き込まれて褪せた残香が、崩れたまま漂っている。

 香りを読む。それは、空気に書かれた文章を読むことに近い。

 

「いいお店だね」

 

「でしょう?」

 

 アイリスは楽しげに笑い、次々とテスターを試していく。だが、どの香りにもすぐに手を伸ばさなくなる。

 

 ジャックは傍で黙っていた。意識的に、手を出さなかった。自分が勧めるのは変に思われるかもしれないと、そう考えていた。




 ***


 ジャックはすでに別世界へ飛んでいた。

 

 壁際の小さな椅子に腰かけて、カタログを開いたまま身体は微動だにしない。ページをめくる指だけが一定のリズムを保っている。

 

「ねえ」

 

 アイリスが声をかけても、ジャックは応じない。

 手を止めたが、それはただ中身を読んでいるだけだった。

 

「ジャック・ローラン」

 

「なに?」

 

「あたし、香水選んでるんだけど?」

 

 ジャックは顔を上げた。本を読んでるときに話しかけるなと言わんばかりの、少し迷惑そうな視線だった。

 

「見ればわかるよ。決まったら教えて」

 

「せめてこっちを見なさいよ。店員さんも困ってるわよ?」

 

 横を見ると、店員がムエットを5本手に持ったまま、少し居心地悪そうに佇んでいた。

 

 ジャックはそれに気づくと、少しばつの悪そうな顔をした。視線を落としながら小さく伝える。

 

「あ……すみません。ぼくのことは気にせず、彼女に……」

 

 空気がふっと凪ぐ。

 

 ジャックは一つ息をついて、カタログを静かに閉じて膝の上に置いた。

 

 アイリスは相変わらず軽い調子で言った。

 

「ねえ、ジャック。香水選んでくれない? あたしに似合いそうなの」


「ええ……?」


 ジャックは視線をカタログに落とした。そこに逃げ場でもあるかのように。

 ここまであからさまに嫌そうな表情は、ジャックにしては珍しい。

 

 アイリスはほんの少し眉を上げる。

 

「嫌なの?」

 

「めんどくさい。特に、君みたいな香水好きに勧めるのはね」

 

「選んでくれないわけ?」


「そうは言ってない」

 

 言いながら、ジャックは再び店内のカタログを手に取った。ページを繰る手は先ほどよりも速い。

 

 香水名、ざっくりとしたノート構成、情緒的なディスクリプション。香りの実像を掴むには断片的すぎるが、処方の骨格を探るには十分だ。

 

「嗅ぐのが一番確実よ? 最近はディスクリプションが先行しすぎてるものが多いわ」

 

「試すのは六本が限界だ」

 

 そう言いながら、ローズやバニラを含む処方を意識の外へ押し出していく。

 それはアイリスの〝いつもの〟だ。香りが先に立つ、外に出るための香り。

 

 今日の彼女は、いつもより落ち着いている……ような気がした。なぜそれが引っかかるのか、自分でも答えは出せない。

 

 とにかく、拡がるより、内に沈む香りが欲しい。

 

 ページを繰るたびに、過去の調香が立て続けに浮かび上がり、消えていく。

 

 拡散が立ちすぎる。終息に影がない。ミドルが薄い。甘さが膨らみすぎる。

 

 根拠は曖昧でも、身体が知っていた。この感覚のために、ジャックは何百通りも組んで、何百回も失敗した。

 

 視線を落としながら、ふと気づく。

 指の先が、わずかに汗ばんでいた。

 

(……落ち着け)

 

 これはただの香水選びだ。

 そう――それ以上でも以下でもない。

 

「試したい香水があります。出していただけますか?」

 

 静かに告げて、番号を伝える。

 店員がムエットを準備していく。

 

 香水を待っているあいだ、ジャックは理由もなく指先をこすり合わせていた。

 

 ……いま漂っているこの空気が、なんだか落ち着かない。

 最初に入った時は、くずれかけたジャスミンの香りがかすかに残っていたが、もう知らない層になっている。

 香りはズレて、混ざって、どこかで引っかかって、残る。

 頭では、そうわかっているのに。

 

 ほどなく、香水とムエットがジャックの前に並んだ。


 ムエットは指先で軽くつまむ。紙に手の熱が移らないように。

 

 スプレーは正確に1プッシュ。15cmの距離を保ち、紙の先端だけを染め、空気を撹拌するようにゆっくりと振る。

 

 10cmで浮かばせ、3cmで厚みを見て、1cmで残香を読む。

 

 鼻は動かさず、空気だけを吸う。

 心臓は少し速いが、呼吸は一定に保つ。

 

 何を嗅いでも決まらなかったのに、この香りだけはすっと胸に入ってきた。

 

「うん。……これがいいな」

 

 六本目のムエット。

 

 トップはマンダリン。ミドルにオスマンサスとオリス。ベースはベチバーとベンゾイン。


 明るさの中に、休める場所がある。派手ではないが、芯がある。


「夜にひとりで楽しむような香りだ。君がこういう静かな香りを選ばないのは知ってるけど、リラックスできると思うよ。寝香水に向いて……」


 そう言ってムエットを差し出した瞬間、自分が何を言ってしまったかに思い至って、わずかに目を開いた。


 ――今、なんて言った? 寝香水?

 自分の言葉に、軽く吐き気がした。


(やりすぎた。分析するだけでよかったのに)


 言い直すには、もう遅かった。踏み込みすぎたという自覚が体の奥で反響して、無性に喉が渇いた。


 ムエットを差し出した手を、思わず引いた。

 その動きを読んだように、アイリスが手を伸ばす。ムエットを彼の指先からそっと受け取ると、すぐには嗅がず、ただ軽く視線を落として呟いた。


「ええ、確かに寝香水が欲しかったわ。なんでわかったの」

 

「なんで。そう言われると、困るな……」

 

 アイリスの反応に若干ほっとしながら、それでもジャックは正直に言った。

 

「君が今日つけてる香りの雰囲気と、このカタログを見て、なんとなくそう思ったんだよ」

 

 香りの構成が、自分の感情と噛み合った。それだけの話であるはずだ。


 でも、アイリスはたぶん、「自分を見てくれた」と思ったのだ。

 

 自分で組んだ香りじゃないのに、意図が伝わってしまう。

 他人の香りに、自分の感情が映る。

 それは少し厄介だなと思ったが、嫌ではなかった。

 

 ただ、そんなやり方で、誰かのために香りを選んでしまう自分が、少し、怖かった。

 

「あんた自覚ないだろうけど、それ普通の選び方じゃないからね」

 

「そもそも〝荷物持ち〟がやることじゃないよ」

 

「ほんと、そうね」

 

 皮肉の色はなかった。少し困ったように笑った彼女の声が、さらりと空気に沈む。

 そのまま視線を落とし、ムエットを鼻先に近づける。

 香りを吸い込み、確かめるように目を伏せたまま、わずかに頷いた。


「気に入ったわ、これ」

 

「……なら、あとで肌に乗せて相性を見るといい」

 

「今やりましょ。乗せてみて」

 

 アイリスが言った。

 ごく自然に、くるりと手首を返して差し出してきた。

 

 ジャックの呼吸が、ほんの一瞬だけ乱れる。

 

 わずかに瞬きをして、ムエットを握り直す。


 他人の香りを選び、自分の手で、彼女の肌に置く。たったそれだけのことなのに、足元がぐらついたような気がした。

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