第二十話 他人の香りに触れた日 ①
ジャックは久々に、調香師学校を訪れた。
誰もいない廊下に、薬品と紙と古い木材の混じった匂いが残っている。初めてここを訪れたときから変わっていない。
再講義は、以前と同じ教室で行われていた。
石造りの壁、古びた木のベンチ。前の列から順に詰めるよう指導される座席配置。
いつもと同じように座る。
だが、席に着いた途端、胸の奥がどこかよそよそしく騒いだ。
――今までは、こんなことなかったのに。
講義の内容は聴き取れていた。反応も返した。ノートも取った。だが、思考の半分は常に別の場所にあった。
調子が合わないのは、教室のせいじゃない。たぶん、調香室のほうが自分の呼吸に近くなっているのだ。
それが少し、寂しかった。
息をついて、ノートを閉じようとしたときだった。
ふと、視線の隅に、ローズとレモンピールの影が射した。どちらもすでに香りは飛んでいて、余韻だけがある。嗅ぎ取った瞬間、背骨をひと撫でするような既視感が走った。
「まさか、亡霊じゃないでしょうね?」
振り返らずとも、誰かはわかっていた。
咲き終わったローズの残り香を講義室に持ち込むのは、相変わらずアイリス・ドレーヴしかいなかった。
彼女は香料マーケター課程で、ジャックとは専攻が異なる。だが、〈香りの印象論〉のような横断科目では、たびたび顔を合わせていた。
視線が、合う。
目の奥には、面白がるような、試すような光があった。金に近い髪が、首のあたりで柔らかく揺れている。その下には、着る人を選びそうな赤のトップス。彼女によく似合っていた。
教室のざわめきが、遠くへ引いた。空気の流れが変わる。彼女を中心に、場の重心がゆっくりとずれていく。
――前から、そうだった。
「……アイリス」
ジャックは、わずかに間を空けてから言った。
声音を調整する。いつも通り。努めて明るく。軽薄にはならないように。
「久しぶり」
「復学祝いくらいはあげてもいいわよ?」
「休学届はまだ出してない」
言ってから、少しだけ言い方がきつくなった気がした。すぐに修正する。
「……講義は、受けられるときに受けておこうと思って」
アイリスは笑っていた。口元よりも先に、目のほうが笑っていた。
「そ。じゃああんたに免じて、今日の香水を教えてあげようか」
「〈もう咲いている〉だろう」
ローズの影はもう薄い。レモンピールもすでに揮発していた。その余韻をなぞるように、パウダリーなムスクと古びたレザーが肌の奥に沈んでいる。
「クラシカルにしても、ずいぶん振り切ったな」
「母の香水を借りたのよ。案外似合うでしょ?」
「ああ」
(……踏み込みすぎたな)
ほんの少しだけ生まれた自己嫌悪を押し殺しながら、ジャックは口を開いた。
「……新作で、いくつか見ておきたいものがある。特に、メゾン・ソレシズム系統の低拡散処方を」
「真面目ねえ」
ジャックは頷いた。冗談のように聞こえたが、彼の中では真面目以外に答えようがなかった。
「課題が追えてない。必要な情報を揃えたいんだ」
「それで、あたしに?」
「頼れるのは君だけだから」
淡々と答えた。事実でしかなかった。
アイリスが新作香水を網羅していることは、もはや周知の事実だ。ジャックにとっては、学ぶべきデータソースのひとつでしかない。そのはずだ。
「メゾン・ソレシズムの新作のサンプルも何本か貸してあげるわ。特別にね。感謝しなさいよ」
アイリスの声は相変わらず軽い。だが、その奥にさりげないやさしさがあった。
断る隙を与えないところも、変わらない。
「……ありがとう。助かる」
「これでもあたしは優等生なの。舐めないでよね」
「知ってるよ。だから君に頼んだんだ」
即答したジャックに、アイリスはゆっくりと微笑んだ。その笑みには、少しだけ息をつくような気配があった。試すために放った言葉がまっすぐ打ち返されたことに思わず肩の力が抜けたような、そんな柔らかさ。
ジャックはゆっくりと口を開いた。
「……それで、どうお礼をしたら」
「決まってるでしょ。香水選びに付き合って」
ジャックはしばらく黙ってアイリスを見つめた。
「それはいいけど。……君と、ぼくだけで?」
「荷物持ちを増やすのは歓迎するわよ」
返答に詰まり、ジャックは小さくうめいた。アイリスはますます笑みを深くする。
彼女の笑顔にはローズと同じ、あとから効いてくる残香があった。




