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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓


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第十九話 キャプティブNo.882 ③

 その日の午後、スフル・デテレの休憩室には、アンシーとグラントの姿があった。

 

 アンシーはその小瓶にスポイトを入れた。

 赤黒く沈殿する液体が、粘性を保ったままスポイトの中に滑り込む。

 

 匂いを抽出したあとの液体に色がつくのは珍しいことではない。

 

 だが、この濃度、この色味。

 わざわざ染料でも混ぜたのかと思うほどの不透明さに、彼女の眉がわずかに寄った。

 

 香試紙を嗅いだアンシーの反応は一瞬遅れた。だが、すぐに不快と不安の入り交じった表情を浮かべた。

 

「……あたしも、これはシニストル・メモアロームの香印だと思うね」

 

 グラントは無言で頷く。

 

 ちょうどそのとき、ジャックが入ってきた。片手にジョウロを持っている。

 

「あれ?」

 

 グラントを見つけると、興味深そうに視線をやりながら、休憩室に並んでいる鉢植えのほうへ寄った。

 

「グラントさんがここにいるなんて珍しいですね。どうしたんですか?」


「この香料の匂いを婆さんに確かめてもらっててな」

 

「へえ、香料。ぼくも嗅ぎたい」

 

 グラントはアンシーを一瞥した。

 アンシーは躊躇いを含んだ視線のまま、ゆっくりと頷いた。

 

 ジャックは小瓶を受け取り、試香紙を一枚取る。

 慎重に蓋を緩め、スポイトで一滴吸い上げる。

 赤黒い液体がムエットの表面に落ちた瞬間、濃い赤がじわりと広がった。


「変な色。使いにくそう……」

 

 誰に言うでもなくそう呟きながらムエットを持つ。鼻を近づける前に感じたのは、リナリルアセテートが放つ軽やかで青みを帯びた花の気配だった。だが、その奥深くには、鉄を擦ったような冷たさがひそんでいる。


「……ラベンダー?」


 声というよりは、反射のような呟きだった。


 言葉はそこで止めたが、ジャックの嗅覚はさらに明瞭に捉えた。

 

 ラベンダーの花を丁寧にもぎ取って氷水にたっぷりと漬け込んだような匂い。それでいて、枯れた藁のような匂いも含んでいる。

 ラベンダーが朽ちた後に骨が残るならば、きっとこんな清々しい香りがするだろう。


 だが、奥に不釣り合いな匂いが沈んでいるのが気になった。鉄にこびりついた錆を思わせる酸味。

 

(冷たくて清潔な香りなのに……)

 

 色と香りの乖離。

 それがジャックの嗅覚に強く引っかかった。

 通常の精油ではありえない。不安のような感覚が、香りと一緒に皮膚を伝ってくる。

 

「……」

 

 ひとまず無難に評しようとしたが、言葉が見つからなかった。


 何よりも――この香りに妙な既視感がある。


 だが、思い出せない。記憶に触れる気配はあるのに、ノートがどこか噛み合わない。

 

 ジャックは思わず顔をしかめ、ゆっくりと顔を上げた。

 

「なに? これ……」

 

 アンシーが椅子を引き寄せる音が休憩室に響いた。

 

「香印だ」

 

「香印……? 香印由来の香料?」


「そうだ」


「へえ。これが……」


「うちでは絶対に扱わないがね」

 

 アンシーは言い捨てて、テーブルの上に置いてあった資料を取り上げる。そこには、香気成分の質量スペクトルとガスクロマトグラフィーの分析結果が並んでいた。


「香印の封緘は、調香ではない」


 それは、調香師の信念としての言葉だった。


 ジャックは否定こそしなかったが、心の片隅でそっと思っていた。


(……それは古いよ、おばあちゃん)

 

 別に、死体から香りを抜くわけでもない。

 香印応用が禁じられているのは薬への応用だけで、香料はまだ制度の網の外にある。


 それに、香りとしては興味深い。


 だが、理屈と別に、どこかで皮膚が拒んでいた。

 この香りに漂う、言葉にできない不穏さには、説明のつかない不快感がある。


 今回ばかりは、祖母が正しいのだろう、という直感があった。


 わずかな間。アンシーはその沈黙に気づいたが、何も言わなかった。

 

 ジャックは手元の小瓶に視線を落とした。

 香印――そう言われて、意識がゆっくりと裏返る。

 

「……ラベンダーの香印には、最近会ったな」

 

 小さく呟いた瞬間、グラントがガタッと立ち上がる。そのただならぬ雰囲気に、ジャックは思わずグラントから目を逸らしてしまった。

 

「そいつは誰だ」

 

 グラントの低い声が上から降ってくる。

 ジャックは目を逸らしたまま、答えた。

 

「……ネファスト・ノブレサントです。先日、訪問したときにご挨拶しました」

 

 グラントは椅子に沈み込んだ。背凭れが鈍い音を立てた。

 アンシーは何かをこらえるように眉間を押さえ、数秒沈黙したまま、息を吐いた。

 

 ジャックが顔を上げる。

 アンシーは、ようやくゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「香印は複製できない。ただ、理論上、香気構造の一片は抜き取れる。〈保存〉系の香印を使えば、香料として封緘できる」


 声に確かな警戒を混ぜながら、アンシーは手元の解析資料を指先で一枚めくった。

 マススペクトルの異常なピーク値。通常ではあり得ない芳香族の密度。


「だが、定着率が異常だ。高すぎる。ありえない……香印がまるごと転写されているのかと勘繰っちまうね」


 その言葉に、ジャックは息を呑んだ。

 

 ジャックは試香紙に目を落とし、僅かに眉をひそめた。

 グラントが口を開く。

 

「誰かの香りを封じる、あるいは残すって発想は、どこにでも転がってる。だが……」

 

 彼は机の縁を拳で軽く叩いた。

 

「問題は、これが工業製品として出回ってることだ。しかも正規ラボのものとしてな」

 

 グラントは椅子に体を預け、天井を見上げた。

 

「……シニストルの、あいつの香りだ。だけど、違う。これは整いすぎてる。あいつのは……もっと、激しかったんだ。あいつの香りは」


 グラントは自分の胸元に触れ、制服の内ポケットに指先だけを沈めた。

 

「……シニストルは消えた。〈癒し〉の香印を最後まで出し続けたまま。何も残さず。香りだけを置いてな」


 ジャックはふと、あのときの香りを思い出した。

 朝食の席で、グラントが受け取った匂い袋。

 

(あ……だから、クラリセージ……)


 ジャックの中で、香りの情報が静かに接続されていく。

 

 ラベンダーと似ていながらも、決して重ならないクラリセージ。記憶を沈めるセダーとベチバー。意識を逸らすパインニードル。

 

 あれは、ラベンダーを思い出させないための香りだ。

 ――グラントは、ラベンダーを喪っている。

 

 だが今は、訊くべきじゃない。

 

 アンシーがそっと小瓶のキャップを閉めた。

 

「これを誰がどうやって作ったのか、何を保存したがったのか。その過程を知りたいとは、思わない方がいい。……こんなものは香料ではない」

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