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14.木曜日午前10時
麻衣の部屋には帰らなかった。
おれがメッセージをうけとったと知った先方が、どういう動きをするのか見当がつかなかったからだ。
とはいえ、遠く離れたわけではない。
麻衣の新しいアパートの近くにネットカフェがあったので、そこで夜を過ごした。日本を脱出するまえから使っていた偽の身分証を利用したのだが、問題はなかった。
麻衣には《かかし》がついているはずだから、過度に近づく必要はない。が、おおまかな動きは把握しておくべきだ。彼女がイレギュラーな動きをするのは、眼に見えている。将棋でいえば、それこそ『桂馬』だ。
朝になって、彼女は家を出た。そのまま大学に行けば、それでいい。が、やはり進路はちがった。よりにもよって、世良の事務所に向かっていた。
事務所のまわりには、蠢くヤカラはいないようだった。「と金」の騒動で、それどころではなくなったのだろう。いまのところ、《おおやけ》もいない。
麻衣を影ながら守っている《かかし》も、警戒することなく世良の事務所に入っていった。
《かかし》という男を詳しく知るわけではないが、この機になにかを世良に提案するのではないだろうか?
そうでなければ、いかに麻衣の護衛を依頼した人物であろうと、直接会うことはないだろう。
おれは、しばらく事務所を監視しながら、その動きに注意した。
世良をはじめ、麻衣と《かかし》がなかから出てきた。すぐにわかった。いま事務所には世良しかいなかったのだ。助手の男も、あの刑事もいなかった。
そして《かかし》は、その状況を見計らって、世良に姿を隠せと進言したのだ。
世良は、それにのった。
たしかに賢明な判断だ。おれも世良も、なにかしらの陰謀に利用されようとしているらしい。
ならば、それをあぶり出すためにも、ここでトリッキーな動きをしてみたらどうかと《かかし》は提案したのだ。
おれが「と金」をつくったのと同じ原理だ。
さて、蛇が出るのか、蛙が出るのか……。
世良たちの動向をどこまでさぐるか判断に迷ったが、とにかく彼らを尾行することにした。
いや、急速に近づいてくる気配に、それを中断せざるをえなかった。
「おまえは……」
またあの女だった。今回は偶然ではなく、あきらかに意思をもって近づいてきた。ただしおれは、前回も偶然だとは信じていないが……。
「なんの用だ?」
「いっしょに来てもらうわ」
「なに?」
「どうせ、あなたも次の行動を決めかねていたんでしょう?」
「そんなことはない。それに、どこへ行くというんだ?」
「遠いところよ。あの人から離れてもらうわ」
「おい……」
女の眼は、真剣だった。
「それは、そういう指令がくだったということか?」
「ちがうわ」
世良のことを心配しての行動だろうか?
いや、この女の発言を鵜呑みにしてはいけない。
「おれを動かそうというのなら、それなりのメリットをしめしてもらおうか」
「あなたが知りたいこと、わたしも協力してあげる」
「なんだと?」
おれは、瞬時に頭を切り替えた。世良から遠ざけることは女自身の意思なのかもしれないが、おれの協力をすることこそが、この女にあたえられた指令なのだ。
おそらく、いつもおれに接触してくる《おおやけ》が親玉なのだろう。
「その様子だと、おれがなにに巻き込まれてるか知ってるようだな」
「それはどうでもいいでしょ。来るの、来ないの?」
「……わかった、行ってやる」
おれは決断した。
「あんたのことは、なんと呼べばいい?」
「好きなように呼んで」
「じゃあ、マリでいいな?」
夢見まりも。そこからとった。
女は不満そうな顔だったが、べつの案を用意するつもりはないらしい。
「あなたのことは?」
「ユウでいい」
マリは早足で歩きはじめた。おれは、それに従った。
目的地をたずねても、どうせ答えてくれないだろうから、おれは黙っていた。
徒歩で秋葉原から上野方面に向かっていた。上野駅周辺を過ぎても彼女の歩みは止まらなかった。さすがに、目標もなく歩くことに飽きてきた。
「どこまで行くんだ?」
「どこでもいいわ」
「本当に、決まってないんだな」
「あなたは、どこまでつかんでるの?」
「なにがだ?」
「一連のことよ」
「おれは、殺し屋だぜ。背景になにがあるとか、興味はないね」
「だったら、どうして首をつっこんでるの?」
「なんだか知らないが、むこうのほうからやって来るんだよ。トラブルってやつが」
マリは、おもしろくなさそうに笑った。
「どこの国が関係してるかは、知ってるんでしょ?」
「ああ。そっちは、どこまで知ってるんだ」
「脅威ってことかしら」
「脅威?」
物騒なワードが美しい唇から飛び出した。
「なんの脅威だというんだ?」
「人類の……よ」
「やはり、なにかのウイルスか」
おれはつぶやいた。
「どこかの勢力が接触してきたのね?」
「おまえらじゃないのか?」
小さな神社まで、おれを誘い込んだことだ。
「わたしは、どこの勢力にも属していないわ」
白々しいことをマリは言った。
「どんなヒントをもらったの?」
「アンプルを確保しろってさ」
「そう」
やはりマリは知っていたように、さらりとした反応だった。
「世良が持ってるのか?」
そうでなければ、この女が出てくることはないだろう。
「どうでしょうね」
このテの人種にとっては、肯定を意味する返答だ。
「そうか……世良の手にあるが、それはまだ解読されていない。暗号なのか、データなのか」
それを中国が狙っている。
だが、それだけではないだろう。
「《おおやけ》も、手に入れたいようだな」
「わたしは知らないわ」
本当に白々しい。マリが公安の息がかかっていることは、ほぼまちがない。そして《おおやけ》の指示があったから、おれに接触したきたはずだ。
「病原菌のほうなのか? それとも、それを治すワクチンか?」
「そんなことは重要でないでしょう」
マリは、はぐらかすつもりなのか、そう答えた。
「人類の脅威なんだろ? そんな悠長なことでいいのか?」
おれは、他愛もない言葉のやりとりをしているようで、ちゃんと物事の本質を見抜こうとしていた。
「なるようにしかならないわ」
なるほど。世良がもっているのは、ワクチンだ。ワクチンがどこかの国に奪われたとしても、だれが儲けるか、というちがいがあるだけで、この世界が未知のウイルスで死滅することはない。
逆なら、もっとこの女も緊張感をもっているだろう。
「なら、おれが奪ってやろうか?」
マリが怖い顔になった。
「なぜ怒る? そのほうが、愛する男のためでもあるんだぞ」
「なぜ?」
「おれの手に移れば、狙われるのはやつではなく、おれになる」
「……」
それでは不服なようだ。
どうやら、おれにはおれの役目があるらしい。
「じゃあ、おれはなにをすればいいんだ?」
「ナイトになってもらう」
「ナイト? 正義の騎士にでもなれってか?」
「チェスよ」
おれは今回、ルールもよく知らない将棋の例えを多用しているが、さらに知らないチェスの話にかたむこうとしていた。
「あなたには、事態をかきまわしてもらいたい」
たぶん将棋でいえば、桂馬のような駒なのだろう。
「さしずめ、あんたはクイーンってとこか?」
たしか、チェスにおいて最強の駒はクイーンだったはずだ。
「わたしは、ただのポーンよ」
「おれも、ただの歩だ」
こんなところで、おたがいが謙遜しあっていてもしかたがない。
「目的地がないのなら、おれがきめてもいいんだな?」
マリの瞳は冷たい。世良に近づかないように牽制しているのだ。
「おれも、いろいろと仕込みをしてるんだ」
「なんなの?」
「と金をつくっておいた」
「わたし、将棋は知らないの」
おれは将棋もチェスもよく知らない。
「その、と金っていうのは?」
「特殊な駒だ。そいつに情報を流す」
「どんな?」
「おれが、世良から奪ったと」
「偽の情報を流すってこと?」
「本当に奪ったら、あんたが許さないんだろ?」
「効果があると思うの?」
「やってみなきゃわからない」
「わかった。その駒はどこにいるの?」
「いまごろは、仲間からの尋問も終わってるだろうよ」
「だから、どこ?」
「わからん」
あきれたような表情が返ってきた。
「だが、むこうからしたら、おれと接触して生き残ってる数少ない人間だ」
「大切に保護してるってこと?」
「逆だな。もう一度、おれが接触するかもしれないと、わかりやすいところにおいておく」
「で、それはどこなのよ?」
少しイラついたように、マリは問いかけていた。
「むこうがどう考えるかによるが、たとえば、おれが訪れたことのある場所とか」
「いいかげんにして。結論だけを言って」
「ついてこい」
おれは、そこへ向かった。といっても歩きでは遠すぎるので、レンタカーを借りた。無法者のおれがそんなものを利用できるはずもなく、もちろん彼女に借りてもらった。
ハンドルは、おれが握っていた。
「で、どこなの?」
「やつらのセーフハウスだ。いや、そんなに立派なものじゃないだろうが」
「やつら? 例の国の?」
「そうなんだろうな」
葛飾区と千葉県の境目付近に入った。しばらくして、あの住宅の近くに停車させた。
「どうするつもり?」
「潜入する」
「一度入ってるのは、むこうも知ってるのよね? 警戒してるんじゃない?」
「警戒してたとしても、おれを止めることはできない」
「すごい自信ね」
どこか揶揄するような響きがこもっていた。
「一応、確認しておこうか。おれはむかし、あんたの命を助けたことがある」
というより、殺すべきところを見逃したのだ。
「感謝しろというの?」
「少しは尊重してもらいな」
「でも、悪人は殺さないんでしょ?」
「あんたが悪人ではないと認めたわけじゃない」
「あら」
こんな美しい悪人がいるかしら、と言われたかのようだった。
マリを無視して、おれはセーフハウスに近づいた。
前回、カメラはすべて壊しているから、もっと厳重に仕掛けられているかもしれない。
いや、逆だった。入ってくれといわんばかりに無防備だった。「と金」に接触することを熱望しているのだ。
家は平均的な二階建てだが、一階の部屋にはだれの姿もなかった。あの主婦もいない。
二階にあがった。
気配を感じる。だれかはいるはずだ。
階段から、すぐの部屋を開けた。
「う、う、うー」
そこには、目隠しと猿轡をされた「と金」がパイプ椅子に縛りつけられていた。
ひどいあつかいだ。
まさかこいつも、仲間からこんな仕打ちをされるとは思ってもいなかっただろう。おれには、このようになった経緯が手に取るようにわかる。
この男はもう一度、おれとの接触を強要されたのだ。が、普通の神経では、再び殺し屋と会うのなんてごめんなはずだ。この男も、断った。諜報員といっても特別な訓練をつんでいる工作員ではなく、ただの連絡員なのだろう。それがあたりまえだ。
国家安全部は、そんなことを許してくれるほど甘くはないようだ。
おれは、気配を解放した。
「うー!」
うめき声が大きくなった。この哀れな彼にも、おれの存在が理解できたのだ。
「おれがわかるな?」
首が縦に振られた。
「おまえをここに置いていった人間たちに伝言がある」
「うう、う」
目隠しも猿轡もそのままにしているから、会話は成立しない。
「例のものは、おれが手に入れた。わかったな? 所有者から、おれが奪った」
「……うう」
「どうしておれが、そんなことを伝えるのかと疑問をもっているな?」
と金の首はどちらにも動いていないが、おれは勝手にきめつけた。というより、こいつの意思はどうでもいい。
「おれは金が欲しい。あんたらは、いくら出せるんだ?」
男の首は、横に振られた。
もちろん、この男がそんなことを知る立場にないのは百も承知だ。
おれは、この男の口を解放した。
「……あなたは、そういう金の稼ぎ方をしないと聞いた」
流暢な日本語で「と金」はしゃべった。
「どういう意味だ?」
自然な会話をしているようで、前回同様、おれは声音を変えている。たとえ、べつの場所でおれの声を耳にしても、絶対に気づいかれない。あのバケモノでなければ。
「あなたは殺し屋でも、こだわりがある殺し屋のはずだ」
だから、なにかを高く売りつけるような真似はしないはずだ──と言いたいらしい。
「そんなことはどうでもいい。おまえは、いまの言葉を伝えればいいんだ」
おれは、「と金」の猿轡をもどした。
「うーうー」
言い忘れていたが、この部屋にだけはカメラや盗聴器が仕掛けられていた。が、おれはわざと見逃していた。「と金」に伝えたようで、いまの会話を聞いていた上の連中にわからせたのだ。
もちろん、カメラに顔を向けるようなことはしていない。
「また、おまえに会いに来る」
おれは、そう言い残して家を出た。そう言っておけば、不要な追手につきまとわれることもない。
むこうだって、ヘタに死者は出したくないはずだ。「と金」に接触することがわかっているのなら、もし犠牲者が出るにしても「と金」一人だけですむ。
え?
あの男を殺すつもりがあるのかだって?
何度でも言おう。
おれは、悪人しか殺さない。




