13
13.7日午前10時
話を整理する必要があった。
ここまででわかっていること……そうであろうと推測できることを考察しておくべきだ。
中国国家安全部は、未知のウイルスのワクチンデータをさがしている。どうやら国外に持ち出されたそれを受け取ったのは、沢口茜の兄であるようだ。
その兄も死亡(殺害?)し、しかしデータのある場所はわかっていない。そこで、妹である茜にも監視がつけられた。その過程で世良が彼女に接触したから、安全部は世良にも興味をもった。
それとはべつに、茜につきまとっていたと思われる田所雅史という男性が殺害された。が、男性のことをただのストーカーと考えることに、世良は違和感をおぼえるようになっていた。
そうだ。そんな偶然はない。これには、なにか裏がある。
そして、バチカンの諜報員だというWHOの研究員・新崎の登場。
こっちの世界においての常識がある。
──だれも信用するな。
新崎が事務所を訪問した翌日、世良はこれからの行動をきめかねていた。事務所のなかは、ほかに峰岸がいるだけだ。桐野はいない。桐野には、べつのことをお願いしていた。
幸いなことに、上司からはこのまま個人行動を許されたようだ。《U》が近づいてきた以上、捜査一課としても動かざるをえなくなったのだ。もはや公安だけの関心事ではない。そういう事情において、桐野は適任だ。
桐野はいま、音響科学研究所にいる。世良の推理どおりなら、奥村に危険が迫る可能性があるのだ。
解析を頼んだあのCDのなかに、ワクチンのデータが隠されているはずだ。世良が違和感をおぼえた音律の乱れ──専門的になんというのか忘れてしまったが、特殊な音律が一部まぎれていた。そこが重要な鍵になるはずだ。国家安全部はそのことをわかっているのか、いないのか……。
わかっていたとしても、彼らではそれを解くことができなかった。それで泳がせている可能性がある。解けた瞬間に襲撃されることも考えておかなくてはならない。
桐野がいれば、解析結果が奪われることもないだろうし、奥村に危険が迫ったとしても、うまく回避するだろう。
もう一つ……。
重大な不確定要素がある。それが《U》の存在だ。はたして、やつがなんの目的で近づいてきたのか……。
その結果によって、事態はさらに混迷していくか、逆にシンプルになっていくか。
事務所の電話が鳴った。
「はい、世良探偵事務所です」
峰岸が出た。
「あ、奥村さん」
世良にかわった。
「どうですか?」
『まえにも伝えたとおり、Fの音が平均律ではではなく、純正律で演奏されていたんですが、すべてのオクターブではありません』
専門的なことはわからない。
『ピアノの鍵盤は、ドからシまでの1オクターブが七つ並んでいます。二番目のオクターブと、四番目、六番目のオクターブのファの音が純正律でした』
三つの音だけが異なっていた……。
そこに、なにかしらのメッセージが込められているということだろうか?
『この音自体に暗号のようなものが隠されているのなら、ヘルツ数のようなものに意味があるのでしょうか?』
隠されているものがあるとしたら、二種類のことが考えられる。まず一つは、塩基配列のようなワクチンの構造や仕組みそのものが隠されていること。
もう一つが、ワクチンのデータはほかにちゃんと残してあって、その隠し場所をしめしている……。
どちらもありえるが、さすがにワクチンそのものを音楽にこめるのは難しいだろう。生物学に詳しわけではないが……。
「たとえば、数字に置き換えるとかできそうですか?」
『解釈しだいですね。何小節目なのか、音符の種類とか……とにかく、楽譜におこしてみましょうか?』
「お願いできますか?」
『峰岸君を貸してくれると助かるのですが』
返してくれると、という言い回しでもまちがいではなかった。峰岸は、もともと奥村のもとでアルバイトをしていたのだから。
「それはもちろん」
峰岸がいるであろう方角に顔を向けた。
「奥村さんの仕事を手伝ってくれないか?」
「いいですよ」
屈託なく、峰岸は答えた。奥村のもとで働くさらにまえ、彼はコンサートなどの音響設置・調整をおこなっていた。ある意味、峰岸も音楽のプロなのだ。
「だそうです」
『それはありがたい』
「いえ、こちらがムリなお願いをしているんです。すぐに峰岸君をおくります」
通話を終えて十分後には、峰岸は出発していた。むこうには桐野もいるはずだから、彼にも危険が迫ることはないだろう。
事務所には、世良が一人だけになった。
もし敵勢力がその気になるとしたら、このタイミングで接触をしてくる……。
国家安全部。
あの女から敵対するような意思は感じなかった。だが、工作員にそんな理屈は通用しない。嘘をつくつもりがなくても、嘘をつく。人を殺すつもりがなくても、人を殺している。
心と行動がともなわなくても、矛盾はない。それが諜報の世界だ。
が、仮にあの女に裏がなかったとしたら、敵勢力はほかにあることになる。これもまた、あの新崎の言葉を信じればだが……。
新崎は、バチカンの諜報員だという。はっきり言って、荒唐無稽な存在だ。世良であっても、本当にそのような組織が存在しているのか確かめるのは難しい。まだ国家安全部のほうがリアリティがある分、信憑性がある。
新崎は、世良を守るために──そう主張した。
その言葉に、どんな裏があるのか……。
「ん?」
この事務所に近づいている人物がいる。
階段を上がってくる……。
足音を聞くかぎり、無造作であり、警戒もしていない。とても無邪気な足音だ。
扉が開く音がした。
「おじゃましまーす」
声も無邪気だった。
足音でほぼわかっていたが、やはりその声は利根麻衣のものだった。
「どうしましたか?」
世良は、なにげなく声をかけてしまった。じつは、あの事件以来の再会になる。だが、例のビラで彼女の関与を知っているから、久しぶりに会ったような気がしなかったのだ。
「お久しぶりです」
彼女のほうは、感慨深げだった。顔を見るのと、声を聞くのとでは、時の隔たりの感じ方がちがうのかもしれない。
「その節はお世話になりました」
「いや。こちらのほうこそ、麻衣さんのおかげで事件が解決したようなものだ」
誘拐された少女とこの麻衣は、むかしからの顔見知りだった。
「あの……しずくちゃんは、あのあと……」
「いまは、施設にいる」
「そうですか……」
悲しそうな声になっていた。
水谷雫の父親は、ある意味、事件に関係していた。敵側から拷問をうけて重症を負った。身体的にはすでに完治しているだろうが、精神的な痛手が大きい。
妻のほうも、もともと娘の誘拐で精神を病んでいた。雫を引き取れるような状況ではないのだ。
「会いに行くことはできますか?」
「事件も落ち着いたから、大丈夫でしょう。私のほうから施設に連絡をしてみます」
水谷雫にとっても、むかしから知っている麻衣と再会できれば元気が出るだろう。
「お願いします」
「それで……ここに来たのは?」
「あ、ええーと……」
とても答えづらそうだ。
「なにかあったんですか?」
「いえ、なにかあったということは……」
「きみからのメッセージはうかがいました」
世良は言った。すぐには意味が伝わらなかったようで、彼女からの反応はなかった。
数瞬後、
「……バレてましたか」
「殺し屋参上」
「はは、は……」
ごまかすような笑い声だった。
「なにをしようとしてるんですか?」
彼女が、という意味のほかに、あの殺し屋が、という意味もこめていた。
「……ごめんなさい。あれは、わたしが提案したんです」
予想していない答えだった。
「どういうこと?」
「あの人が、突然あらわれたんですけど……」
彼女は事情を話しはじめたが、複雑な内容だった。
やつはアメリカで活動していたが、そこであらたな仲介役と知り合った。しかし罠にかけられて、この日本にもどってきた。
それらすべての行動は、その仲介役によって仕組まれていたのだと、やつは考えているようだ。
「それは、どんな人物なんですか?」
「女性だとしか……本人も電話で話しただけで、姿は見ていないようです」
裏の世界では、そんなものかもしれない。日本でも、闇サイトで顔を合わせることもなく殺人を請け負う事例はいくつもある。
「それで……日本にはもどってきたけど、その人がなにをさせたいのかわからないので」
なるほど。日本にもどってきたことを知らせ、なおかつ相手の反応を見るために、派手な動きをする必要があった。
やつの派手な動きとは、仕事をおこなうことだ。
「で、おれが選ばれたってわけか」
「ごめんなさい! もちろん、本気で殺すつもりじゃないです」
この国でやつは、ただ一人の仲間ともいえる人物を失った。当然、やつほどの殺し屋ならば単独でも活動はできるだろう。が、そういう事情で急遽もどってきたのなら、だれか頼れる人物が必要だった。
それが彼女だ。
やつの顔を知っていて、信用できる人物。
だが、彼女を巻き込んだ以上、殺しはできない。それをすれば、この利根麻衣は協力を拒否しただろう。
「で、目的は達成できましたか?」
「それが……」
どうやら、ここに来た相談内容が、そのことのようだ。
「やつが、どうかしたの?」
《U》が殺されたということはないだろう。そんなことができるのなら、もうすでにだれかがやっていた。もし奇跡がおこったのだとしても、いまごろ裏の世界ではバカ騒ぎ状態になっているはずだから、世良の耳にも届いている。
「昨日から、帰ってこないんです……」
ということは、いまは彼女といっしょに住んでいるということだ。
かつては数日ではあるが、ともに行動していたのだから、彼女的に考慮しても、ありえない選択ではない。
「なにかはあったのかもしれない。しかし、きみが心配するようなことはないはずだ」
「でも……」
まだ納得できないことがあるようだ。
「わたしのことを一人にするでしょうか? だって、わたしをどうにかしようとするかもしれないし……」
つまり、《U》になにかを仕掛けるのではなく、麻衣本人がターゲットにされるのではないかと心配しているようだ。
たしかに、やつと行動をともにするということは、その危険をうけもつということだ。
「それは考えすぎだよ。やつを狙う犯罪組織があったとしても、だからといって、きみが狙われることはない」
「そうでしょうか……前回のこともあるし」
実際に彼女は狙われてしまったのだ。それを救ったのが、やつなのだ。
世良は、気休めを口にするべきでないと悟った。
「そうだね。狙われるかもしれない」
「やっぱり……」
「でも大丈夫なんだよ」
「どうして、そう言い切れるんですか!?」
彼女は、少し怒ているようだった。
「きみは、守られている」
「守られてる? だから、わたしを守るはずのユウさんが、帰ってこないんですって!」
「いるんだよ、もう一人」
「え?」
「そこにいますよね?」
世良は、事務所の一点に顔を向けた。
さきほどからチロチロと気配が浮かび上がっている。わざと存在を知らせているのだ。
「あ!」
彼女にも見えたようだ。もともと彼女には気配をあやつる《U》のような人間を察知できる能力がそなわっているようなのだ。
「《かかし》さん!」
「ふふふ、お嬢さん、久しぶりですな」
「どういうことなんですか?」
「わしはただ、依頼をうけただけだよ」
彼女にみつめられていることが気配でわかった。
「依頼って……ユウさんが? それとも……」
「依頼主を話すことはない。この世界の常識だからね」
《かかし》が、そう口にした。
「世良さんが……」
しかし、彼女にも真相がわかってしまったようだ。
「安心して普段どおりの生活をおくればいい。だけど、できればやつとはかかわりをもたないほうがいいんだけどね……」
それは言っても無駄だろう。彼女にしてみたら、命の恩人でもある。
前回の事件後、警察に《U》の容姿を証言しなかった。見ていないと突っぱねた。
それは桐野が主導した捜査一課からの聴取だったのも幸いした部分が大きい。もし公安部に追及されていたら、どうなっていたか。公安は、彼女が本当に素顔を見ていないと信じたようだ。
《U》という殺し屋は、血の通わない非情の殺人者という固定観念が強かったのだ。世良のころからの因縁があるために、それを見誤った結果、利根麻衣を監視対象者からはずした。
《店員》という元公安員を確保したことも理由だろう。その線から《U》の正体をさぐろうとしたのだ。はたして、その人物はどうしているのか……。
公安は、利用できる人材は、どんな悪党でも重用する。ただし公安にも派閥がいろいろあることは、前回で学習ずみだ。世良が現役のころ知り得た常識は、しょせん井の中の蛙だったのだ。
「……わかりました」
元気なく麻衣は声を出した。
「だが、どうする? 外の様子が、なにやらおかしいようだ」
《かかし》が言った。
「おかしい?」
「あなたの見立てでは、この事務所はいろんな輩にマークされているということだった」
そのことは重要事項なので、当然のことながら伝えてある。が、いかに監視の眼があっても、一般の女子大生には関心をしめさないだろうことは確信していた。現に、公安も麻衣からは興味をなくしている。
「わしは、面倒なことに首を突っ込むつもりはない。依頼されたことはこなすが、おまえさんたちがどこと敵対しようと興味はないのだ。だから、その勢力のことは詮索はしない。だが、いまはどこもこの周囲にはいないようだった」
世良は、あくまでも聴力が驚異的なのであって、この男や《U》のように気配をあやつるような神業はできない。
「おや、わしを超人のような顔で見ているが、おまえさんたちにくらべれば、かわいいものさ」
おまえさんたち、の「たち」には《U》のこともふくまれているのだろう。
「それで……この一帯は、ノーマークだったということですか?」
世良は話をもどした。
「そういうことになる」
「なにか問題があるんですか? ここが見張られてないってことですよね?」
素朴な響きで、麻衣が会話に加わった。
「悪いということはないだろう。だがそのかわり、べつの場所に興味がうつったのかもしれんな」
「べつの場所? どういうことですか、かかしさん」
「もしくは、なにかイレギュラーなことがおきて、それどころではなくなったか……」
《かかし》は、さまようように考えをめぐらせているようだ。
「おそらく、あやつがなにかを仕掛けたのだろうな」
そう結論づけた。
「ここを離れるのなら、いまのうちだろう」
それは、麻衣のことだけではなく、世良についてもあてはめているようだった。
「姿を消せと?」
「左様。いまならば、助手のボウヤもいない。わしは彼女の護衛を請け負ったから、そのついでに手をかしてやってもよいが」
世良は、考えをめぐらせた。
「姿を消すことで、なにが蠢いているのかをあぶりだすことができるだろう」
そうも《かかし》は言った。
「どうする?」
「世良さん?」
短い時間での決断を迫られた。ぐずぐずしていたら、監視の眼がもどるかもしれない。
「わかった……そうしよう」




