主人公はモテる
鳥居の向こうは、散り始めた桜の花びらに彩られて、地面が鮮やかなピンクに染まっていた。
この時間帯、砂場で遊ぶガキンチョや、『ケイドロ』をして走り回る小学生で賑わっていたが、俺の視線は二人の背中に釘付けだった。仲睦まじげな二人……小学校までの幼馴染・姪浜心と、彼女と同じ私立に通う中学生・指宿流水だった。二人はしばらく黙ってお参りをした後、桜の下のベンチに腰掛けて、何やら談笑し始めた。
俺が指宿流水と出会ったのは、この時が初めてだった。
もうお判りかと思うが、こいつがまたいけ好かない奴だった。
背はスラリと高く、俺より10センチか15センチは高い。
顔立ちが良く、何とかという俳優に似ているとかで、彼の周りにはいつも女子が群がっていた。家は地元で有名な指宿宗酒造。将来は、会社を引き継いで社長になるのだろう。それでいて、別に威張ったり、何かをひけらかすこともない。
物心ついた時から剣道を習っていて(後に街がトカゲ兵に占拠された時は、流水が竹刀で敵を追っ払い、俺らを先導した)、道場で厳しく指導されてきたとか、とにかく誰に対しても礼儀正しかった。だから嫌いだった。性格も良くて顔も良い奴なんて、死んでしまえばいいのにと思う。
その後、俺たちが正に生きるか死ぬかの状況になるとは、その時は夢にも思いはしなかった。
……俺は鳥居のそばの生垣に身を隠し、只管二人の様子を眺めていた。
何でそんなストーカーみたいな真似をしたのか、自分でも良く分からない。ただ、放課後二人が並んで歩く姿を偶然見つけて、何故かイライラが止まらなくなってしまったのだ。心なしか彼女の頬が紅潮し、楽しげだったのが、余計に俺を苛立たせた。
そのうち流水の方がトイレに行った。桜色のベンチには、心が一人残された。俺は唾を飲み込んだ。今がチャンスだ。砂利を踏みしめ、できるだけ平静を装って心に近づいていく。呼吸が上手くできない。何故か内臓が、キリキリと絞られる感じがした。
「あ、進くん」
俺が姿を現すと、心は少し吃驚した顔でこちらを見た。立ち止まり、数メートルの距離から彼女を見下ろした。
「久しぶり! どうしたの? こんなとこで」
「…………」
別々の中学に進学し、通学路も別々の方向で、心とはしばらく会っていなかった。心が小さく首をかしげた。短めに切り揃えられた前髪が揺れる。風の噂で聞いたのだが、彼女も中学から剣道を始め、近頃は筋トレもやっているようだった。
「進くん?」
「…………」
……俺は、答えられなかった。
何かと話そうと思って彼女に近づいたはずなのに、いざ目の前にすると、何も言葉が出て来なかった。頭の中を、ぐるぐると考えが巡る。
……よぉ、久しぶり。偶然会ったな。いやぁ、偶然。そういや心、お前最近どうしてる? 何か変わったな。いや、もちろんいい意味で……そういや剣道始めたんだって? お前、昔はあんなに運動音痴だったのにな。ははは。懐かしいよな、昔は家が近くて、よく一緒に帰ってたのに。昔は……。
その間、俺の目はずっと彼女の輪郭に吸い寄せられていた。そうして幾千もの言葉が巡り巡った挙句、俺の口から出てきたのは、
「……んで」
などという、カラカラに掠れた、しょうもない濁音だった。
「え?」
当然心は、何が何だか分からないと言った顔で俺をまじまじと見た。俺は息を吸い込んだ。それまで、息をするのを忘れていた。
「……なんで、剣道なんか始めたんだよ?」
「え??」
境内がシン……と静まり返った、気がした。
あれほど騒がしかった子供達の声も聞こえなくなり、轟々と冷たい風の音だけが、俺の耳でやけに騒いでいた。言った瞬間、俺が言いたかったのはこれじゃないと気がついた。だけど、もう遅い。
「……どういうこと?」
やがて心が口を開いた。さっきまでの暖かな笑顔は、今やすっかり消え失せていて、まるで不審者でも見るように眉をひそめて俺を覗き込んでいた。俺は思わず目を逸らした。
「あ、いや……」
「もしかして進くんも、剣道するの?」
「そういうわけじゃ……」
「どうしたの?」
しどろもどろしているうちに、最悪のタイミングで流水が戻ってきた。俺はギクリと体を強張らせた。自分たちとは違う制服を着ている俺を見て、流水は怪訝そうに首をかしげた。
「誰?」
「小学校の頃の友達よ」
「あぁ、そうなんだ」
流水がフッと笑みを零した。その笑顔が、無駄に爽やかだった。
「よろしく。僕は指宿流水」
「…………」
「こっちは石動進くんよ。ね?」
固まったままの俺を見かねて、心が代わりに紹介した。しばらく俺は突っ立ったまま、石のように動かなかった。無言の時間を何とか埋めようと、心が気を遣って流水の紹介を始めた。
「こっちは指宿くん、剣道部よ。男女で道場は違うけど、見てて、すっごく上手なの。私初心者だから、色々教えてもらってて……」
「流水で良いって。名字じゃ堅苦しいよ」
流水が心に砕けた感じで笑いかけた。心の方も、いつの間にか暖かな笑みを取り戻していた。その瞬間、俺は剣道が大嫌いになった。剣道なんて、この世から消え去ってしまえば良いのに。野蛮だし、乱暴すぎる。大人たちは誰も、剣道の危険性について議論しないのだろうか。
「……ねえよ」
「え?」
「しねえよ、剣道なんか! 誰がするかよ、そんな……」
「ちょっと!」
ぽかんと口を開ける流水の横で、心が鋭い声を上げた。俺はそこでハッとなった。いつの間にか、俺たちの間に気まずい空気が流れていた。だけど、もう遅い。心が流水に身を寄せ眉をひそめた。その距離感に、俺は頭の中がぐちゃぐちゃになった。
「変だよ、進くん。どうしたの? 急に……」
「変じゃねえよ!」
気がつくと、俺は何か叫んでいた。何を叫んでいるんだろう。イマイチ良く分からない。とにかく怒りが収まらず、叫ばずにはいられなかった。
「変なのは心の方だろ! 急に剣道なんか、今までスポーツなんかやったこともない癖によ……」
「何よそれ!? 意味分かんない!!」
俺の言い草に、ついに心も怒り出した。その時には、後に引けなくなってしまった。子供達の歓声に混じって、俺と心の怒鳴り声が境内に響く。
「今までスポーツやってなかったら、これからも何もしちゃダメなわけ!?」
「だって……だって狡いよ! 剣道なんて、別に剣道じゃなくても良いだろ!」
「何が? よく分かんないよ……私が剣道始めたら、何が狡いの?」
「そりゃ……!」
「もう、行こう」
やがて流水が静かにそう告げ、心の手を引いた。流水は俺を哀れむような目で見ていた。心は鼻息を荒くしていたが、やがて二人して手を繋いで、そそくさと神社を後にした。
一人後に残された俺は、しばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。頭上で咲き誇っていた桜の花びらが、冷たい風に吹かれて、呆気なく散った。
「どうしたの?」
家に帰ると、弟の歩が一人携帯ゲームをしていた。母さんは、夕食の買い出しに出かけているのか、まだ帰ってはいなかった。歩が俺の顔を見て、驚いたように目を丸くした。
「兄ちゃん、目が真っ赤だよ?」
俺はそれには答えず、気を抜くと漏れ出しそうな嗚咽を隠そうと、乱暴にテレビのスイッチを入れた。それから急いで踵を返して、部屋に逃げ込もうとして、
『……現場からは……何が起こったのか……非常に危険な状況で、付近の皆さんはくれぐれも……!!』
アナウンサーの、途切れ途切れの声が耳に飛び込んできた。
俺は滲んだ目を凝らし、テレビを振り返った。
画面の向こうでは、父さんの勤めていた県庁が、跡形もなくぺしゃんこに潰れていた。