主人公は戦える
「それじゃ……」
狼男が何か言いかけた、その時だった。
思わず仰け反った。突如、地鳴りのような轟音が外で鳴り響く。更衣室全体が飛び跳ねるように揺れ始めた。視界がガクガクと揺れ、パンダの姿が何重にも見えた。
「何だ……!?」
「地震!?」
「気をつけろ!」
「外だ!」
扉の向こうで、獣人族たちの悲鳴や怒号が飛び交っていた。
地震だ。
縦揺れに合わせて、内臓がふわっと浮き上がる。それまで考えていたことや感じていたことが一瞬で吹っ飛んだ。足元がガクガクと揺れ、立ってられない。脱衣所にあったバスタオルや衣類が、まるで乾燥機の中に放り込まれたかのように、ぐるぐる宙を舞っている。地震……
「……違う!」
「襲撃だァッ!!」
再び悲鳴。
揺れはまだ続いている。
耳鳴りが酷かった。自分でも気がつかないうちに、尻餅をついていた。天井と壁の境目がなくなったかのような、どっちが上でどっちが横か分からなくなる。どこからか、怒気に溢れた獣の咆哮が聞こえた。心臓が早鐘を打つ。ブレにブレる視界の中で、俺は不安げにパンダの姿を探した。
「な、なななな何なんでしょう……!?」
「分からない……何かが起こっているらしい」
パンダは二本足で立っていた。ものすごいバランス感覚だ。
「とにかく君はここにいろ。私が様子を見てくる」
そう言ってパンダは素早く上着を羽織り、脱衣所を飛び出して行った。揺れはまだ収まらない。外では子供たちの悲鳴が続いている。まるで建物全体が……何か巨大なものに揺さぶられているような……そんな感じだ。
そんなことあり得るだろうか?
恐竜か、鯨の体当たりでもなければ、こんな揺れは……情けないことに、俺はしばらくその場から立ち上がれなかった。流したはずの汗が全身からどっと吹き出して来る。やがて揺れが弱まっても、目線はまだぐるぐると泳いだままだった。
襲撃……?
確かにそう聞こえた。
でも、一体誰が?
地獄の使者か?
もしかして、さっきの老婆が執念深く追いかけて来たのか?
……などと思っていると、突然空が割れた。脱衣所の天井が、激しい音を立てて俺の目の前に落ちて来た。
「……ぇぇえッ!? ええええぇえッ!?」
それと同時に、巨大な、巨大な黒い影が降って来る。俺は目をひん剥いた。軽くバス一台分くらいはあろうと言うその影に、俺は見覚えがあった。確か
『ディンゴ』
とか言った……俺たちの街を襲った、あの五人の転生者のうちの一人だった。
一人……人……ヒト、なのだろうか? こんなに大きかったか? 俺は目を擦った。ディンゴは全身を真っ黒な毛むくじゃらに覆われていた。夜の闇に全身を溶かし、血走った赤い目が爛々と輝いて見える。とんがった耳や尻尾の生えたその姿は、むしろ獣人族に近かった。
空からの襲撃者は、そのまま床に背中を思いっきり打ち付け、獣のような咆哮を上げた。
「ギャアァァァウッ!!」
「ひぃッ……!?」
ディンゴが鋭い牙の隙間から蛇のような舌を突き出し、床をのたうち回った。一体全体なんだというのか。泣き叫びたいのはこっちの方だ。突然の出来事に、俺は呆気に取られたまま、身動き一つ取れずにいた。
ディンゴの重みに耐えかね、脱衣所の床は発泡スチロールみたいにいとも簡単に砕け散った。風呂場のフローラルな香りが、鼻が曲がるような獣の匂いで上書きされて行く。酸っぱい空気が目に入って、俺は思わず顔をしかめた。
「石動くん!」
すると、割れた天井からさらに人影が降って来た。パンダだった。どうやらこのデカブツとやりあっていたのは、あのパンダのようだ。パンダは空中落下しながら刀を振りかぶり、そのまま一直線にディンゴに斬りかかった。
「ガァァアッ!!」
雄叫びが半壊した脱衣所に響き渡る。パンダの刀は見事ディンゴの肩口に命中した……が、致命傷には至らなかった。ディンゴは緑色の血液を脱衣所中に撒き散らしながら、さらに激しくのたうち回った。
「石動くん! 無事か!」
「無事じゃないです!」
緑色の液体を全身に浴び、俺は泣き叫んだ。どうして風呂上がりに謎の生物Xの体液を浴びなくちゃならないんだ。悪夢だ。こんな状況、どう考えても無事ではない。逃げなきゃ。頭ではそう分かっているのに、体がついて行かなかった。頭からつま先まで全身ブルブルと震えているのに、感覚が麻痺したみたいに、視線はディンゴから離せない。恐怖を感じている自分を、どこか遠くの方からぼんやりと眺めているような気分だった。
「グルアアァアアッ!!」
そのうちディンゴは四つん這いのまま脱衣所の壁に体当たりし、そのまま向こう側へと消えて行った。本当に怪獣だ。まるで暴れイノシシか、闘牛でも見ているようだ。ほんの数分のうちに、壁に、天井に、床に穴が空き、脱衣所は崩壊していた。俺は放心した。視界の八割以上が緑色に塗りたくられ、吐きそうになった。
「どうやら狙いは君だけではないようだな」
やがて刀を鞘に収めたパンダが、低く唸った。息が荒い。あの巨大な怪物と、一対一でやりあっていたらしい。俺は何とか声を絞り出した。喉は乾きっぱなしだった。
「じゃあ、誰なんですか?」
「分からない。とにかく奴さん、話が通じないんでな」
「はい?」
「恐らくはこの社そのものを壊しにきた。破壊することだけが目的のようだ。まさに獣だよ」
パンダがため息をついた。
「石動くん。君、戦えるか?」
「え!? い、いやでも……」
俺は慌てた。戦えるか戦えないかと言われたら、もちろん戦えない。勇気とか、戦闘の快楽が……とか、さっきまでの理屈はすでに頭から吹っ飛んでいた。目の前に現実がある。破壊の跡が。突然の襲撃が、戦場の現実を、どんな理屈よりも雄弁に物語っていた。こんなものを見せられて、武器を取る方がどうかしていると思う。
「でも……」
「他の者たちが危ない。このままでは、この社全体が崩壊してしまう。『橋』を落とされる訳にはいかない」
パンダが見透かすように俺をじっと見た。俺は目を伏せた。
「でも……」
この場所に、仲間に危険が迫っている。それもまた一つの現実だ。ゆっくりと顔を上げた。パンダの目は先ほどまでと違い、氷のように鋭かった。俺はドキリと心臓を鳴らした。パンダが、腰に差していた脇差を俺に投げつけた。
「うわっ、と!? こ、これ……!?」
「何とかして奴をここから引き離さないと。行くぞ!」
「え……あ! ちょっ……!?」
パンダはそう叫ぶと、先ほどディンゴが開けた穴に飛び込み、さっさと一人で先に行ってしまった。後に残された俺は、ただただ途方に暮れてその背中を見つめるしかなかった。まだ腰は砕けたままだった。
どれくらいそうしていただろうか。
再び社全体が震えるように揺れ始め、天井が俺の頭上に落ちてきそうになった。慌てて俺は立ち上がり、その場から逃げるようにパンダの後を追った。
足はまだ震えていた。だけど確かに、俺はその一歩を踏み出したんだ。心の準備なんてなかった。戦場じゃ、スポーツやゲームみたいに、『START』の合図なんて誰も出しちゃくれない。いつだって突然やって来て、そして突然去っていく。戦闘状態とは、気がついたらそこにあるものなんだ。まるで安っぽい愛の歌のような教訓を、俺はこの転生者たちとの戦いで、嫌という程思い知らされることになる。
脱衣所から出る。社の外はすっかり様変わりしていた。
「ひでぇ……!」
俺は息を飲んだ。
まさに災害級だ。
建物は半壊している。足元にはゴミ箱をひっくり返したみたいに、割れた食器や壊れた家具が散らばっていた。
人が『山』になっている。
綺麗に整えられていた白い砂の上には、傷ついた獣人族たちが折り重なるようにして横たわっていた。呻き声やが、そこら中から幾重にも木霊している。連なる小さな『負傷者の山々』の向こうに、一際大きな『山脈』が見えた。その『山脈』の上で、真っ赤な太陽を背景に、ディンゴが夜空に向かって雄叫びを上げていた。
「貴様! そこから降りろ!」
その下で、パンダが負けじと吠え返していた。彼の怒った姿を見たのは初めてだった。パンダは怒りで全身の毛を逆立たせ、その体躯は、普段の彼より数倍膨れ上がっているように見えた。しかしディンゴの方も、遠目に見てもそんなパンダのさらに五倍くらいの大きさがあった。俺は足がすくんだ。巨大。ただそれだけのことが、こんなに恐ろしく感じるものだとは。
「ギャアァアァァゥウッ!!」
ディンゴが、足元の獣人族を喰らおうと、その毛むくじゃらの手を伸ばした。パンダがやむなく『負傷者の山脈』を駆け上り、ディンゴに斬りかかる。ディンゴは、肩口からドバドバと滝のように血を滴り落としているにもかかわらず、痛がるそぶりも見せなかった。興奮で痛覚にまで気が回っていないのだろうか。
パンダの突き出した刃がディンゴの胸を貫いた。ディンゴが思わず掴まれた負傷者を手離す。しかし怪物は、怯むことなく大口を開けたまま、今度はパンダを羽交い締めにしようと両手を伸ばした。致命傷ではない。刃先がディンゴの太い肋骨に阻まれ、心臓まで至らなかったのだ。
「ちッ……!」
「グルァアアアッ!」
パンダは回避するため、やむなく刀から手を離した。それでもディンゴの長い両腕は、パンダの服の端を捉えていた。二人は柔道のようにもみ合い、そのまま『山脈』をゴロゴロと転がり落ちた。
「パンダ!」
先にたちあがったのは、しかしディンゴだった。
ディンゴは自分の胸に刺さった刀を不思議そうに眺め、やがてそれをごぼうのように引っこ抜いた。滝が二つになった。肉から剥き出しになった肋骨が、月明かりに照らされてヌラヌラと妖しく光って見えた。
「ひ……!?」
俺は後ずさった。新たな武器を手にしたディンゴは、嗤っていた。見開かれたその眼球は血走り、口元からは、だらだらと涎を垂れ流し続けている。恍惚に嗤う怪物の表情は、もはや何の知性も残していなかった。ただただ、目の前の獲物を嬲り続ける。殴る、蹴る。引きちぎり、噛み砕く。そんな破壊衝動だけで動いているような感じだった。自分が生き残る事すらも、ディンゴは頭の片隅にも考えていないだろう。その姿は、まさに畏怖の対象、恐怖の象徴だった。
「パンダァ!」
俺は叫んだ。気がついたら、目に涙が溜まっていた。仕方ない……怖いと思わない方がどうかしている。彷徨う怪物の視線が、不意に足元に向けられた。ディンゴの足元に横たわるパンダは、まだ起き上がれないでいた。俺は咄嗟に……無我夢中で……足元に転がっていた弓と矢を拾い上げた。震える手で狙いを定め、打つ。矢は大きく逸れて、ディンゴの手前の地面に突き刺さった。
だけど、ディンゴにはそれで十分伝わった。
どんな不意打ちだろうと、当てなければ敵に自分の位置を知らせるだけである。
「う……!?」
ゆっくりと首を回し、ディンゴが、焦点の合わない目でこちらを見る。ゾッとした。まるで動くものを反射的に追いかける動物のように、ディンゴは一直線にこちらに向かって走り出して来た。
「うわ、ぅわぁぁあああッ!?」
自分で弓を引いておいて何だが、俺は激しく動揺した。逃げなきゃ。今度は考えるよりも前に、足が走り出していた。
どうしてあんなことをしようと思ったんだろう? 分からない。頭の中を血液がものすごい勢いで逆流している感じだった。弓を当てて、あの怪物を仕留めるつもりだったのか? 本当にそんなことができると思っていたのか? パンダでさえ苦戦している相手に、この俺が戦えるとでも? その青臭い勇気のせいで俺が喰われる。いや勇気というのはあまりにも稚拙で、考え無しな行動で、だけど……
「……だけど助かったぞ、石動くん」
不意に背後からパンダの声がした。
ディンゴの気を一瞬こっちに逸らした。そのおかげで、パンダが態勢を立て直す時間ができた。
ディンゴは巨大だったが、あまりにも野性的で直線的で、そして無防備だった。目の前の敵に夢中になりすぎて、背後がおろそかだった。
ディンゴの首元に、後ろから飛んで来たパンダの一撃が突き刺さった。




