(2)
博物館のゾーニングとして名付けられた「音楽ゾーン」というエリアは一つだけだが、中身は大きく二つに分けられる。
美術ゾーンから順当に歩いて来ると、音楽芸術に関わる歴史的な品々が展示された如何にも博物館めいたフロアが目に入る。
大小のガラスケースが並んでおり、特に順路は決まっていない回遊型である。但し、展示ケースに触れられないよう、間を空けてポールに支えられたロープが囲っている。
館長がそちらに懐中電灯を向け、光が届く範囲で床から頭の高さくらいまでを、ゆっくりと舐めるように振った。
「深夜勤のシフトで君が一人、または私以外と組んで巡回する時は、こんな風に床からガラスケースの周りに異変が無いか、見るだけで良いです。ちゃんと中に入って歩き回る必要は無い」
ゆっくりと丁寧な光の動きではあったが、空間の入り口から奥に向けて懐中電灯を前後左右させただけだ。
「そんなので良いんですか?」
「落とし物や不審物が無いか等は、閉館後の巡回で見るから、深夜はそこまで神経質にならなくて良い。この程度の光量でも判るくらいにロープが歪んでるのが見えたらポールを戻しに行くとか、その程度で。――それこそ誰も居ないはずなのに何か動くものが見えたりした時は、むしろ中には入らず、少し引き返してから警備室に連絡して」
先程の、のんびりとした噛み合わない会話から引き続いたような言葉であったから、一瞬、新人は館長が冗句を口にしたのかと思ったが、声は至極真面目なものだった。
「念のため先に、『むしろ中に入るな』の理由を云っておくよ。もしやそれが実際に侵入者でもあり、迂闊に刺激して捕り物になってしまったら、展示品に被害が出るかもしれないから、です」
「むしろ」までも繰り返したことからして、それは理由として最大、第一なのだろう――侵入者を迂闊に刺激して「怪我をする、命を落とす」より、「展示品が害される」ほうが問題なのだ。
「展示品を守って怪我をした」なら名誉の負傷だが、「侵入者を逮捕する際に展示品が壊れた」は、当人の安否に関わらず最悪である。だったら「展示品を守るために侵入者を見逃す」ほうがまだしもなのだ。
しかし、己の哲学にそんな無法は先に来ないという正義感の強い者も、当然居るだろう。だからこその「念のため先に」であり「むしろ」である。
この新人の場合、冷静に言葉を反芻すればその通りだな、と感じたので「はい」と素直にして真面目に、館長の言を承った。
「深夜――つまり今の時間帯ね、この巡回が終わってから、警報用の赤外線をオンにします。その作業自体は、私か、警備室長か、何にせよ君から見て上司に当たる人間が責任者として行いますから、君は巡回が終わって事務室に戻った時の点呼認証を忘れないように」
「はい」
頷く新人に同じく頷きを見せて、「では」と館長は懐中電灯を大きく振った、音楽ゾーン残りの半分へ。
展示エリアと隣接しつつも、少し床の高さが下がっている範囲である。すり鉢状……と云うほど深くはない、似たジャンルの器物で例えるなら「カレー皿」くらいだろうか、展示エリア側、プロムナード側から、緩い傾斜を階段で下りる形になっている。
ここは、結構な床面積があるのに、殆ど何も置かれていない。辛うじて、空間の角に二つ、小部屋と云える位の天井と繋がった大きな展示ケースがあるのだが、今は外側から幕で覆われている。
だだっ広い、という表現が似つかわしい空間であるから、恐らく音楽ゾーンの見学者は不思議に思うだろう。展示ケースが並んだ半分がそれなりにせせこましいので、こちらにも展示物を分けて置けばもっとゆったり歩けるのに、何故空間を遊ばせているのか、と。
「君、音楽ゾーンへ見学しに来たことはある?」
館長が訊ねると、新人はばつが悪そうに頭を掻いて、「恥ずかしながら…」と口ごもった。
「美術ゾーンの常設展示なら、位置もタイトルも作者も全部覚えてるくらいに、しょっちゅう来てたんですが……。そういえば、音楽側は全く」
気恥ずかしげな新人に、軽く首を振りつつ館長が「そうか」と微笑む――小学校の課外授業で一回来たきりだとか、生まれてこの方一度も、芸術フロアどころかそもそも博物館に来たことが無い、という人物も配属されてくるのだから、恥じ入る必要は無い。
殺風景なフロアの奥側角のカーテンへ、館長は懐中電灯を向けた。
「あの奥にピアノがあるんだよ」
「…そうですか」
随分と気のない相槌を打ち、こてんと首を傾いだ新人に、館長が気取られない程の小さな苦笑を浮かべた。
「実のところ、私がホール・ムジカの専任というのも、彼処のピアノのためだけと云って過言じゃない。本来の持ち主の方にとって最も大事なものが彼処にある。極端な話、こっちの展示エリアにある品が全部失われたとしても、あの内部だけは無事であれば、持ち主の方は許してくれるだろうくらいにね」
「――」
言葉通り極端な話に、新人はパチパチと瞬きした。
「彼処のピアノの為にこのホール・ムジカは設えられている、と云って、これも過言じゃない。で、だ――これで解るかな?」
館長が新人に、何だか真意の分からない微笑を浮かべ、首を傾げてみせた。
「つまり、この音楽ゾーンがそういう場所であることを、心から理解して、畏れ入っている人間が管理すべき、ということなんですね。これを勘違いしている人物は、『万が一』があった時の『推定賠償額』でしか畏れ入ることが出来ない。――君になら解るでしょう? 『そうじゃない』と」
「……は、……はい…多分」
新人は狼狽えつつも、肯定した。――正直、そこまで「音楽ゾーン」に思い入れが無いのは、恐縮だが本当だ。
だが、館長が云っていることを美術ゾーンに置き換えて想像すると、心の底から理解出来る。そこまで思い入れの無い見学者であれば見過ごすかもしれない「ポストカード」くらいの絵一枚だけだろうが、もし万が一失われることがあれば、己は正気で居られない気がする。それを、失ったことを前提とした賠償額でしか測れない人間に管理を任せるなど、嫌悪感と拒絶心しか湧かない。
館長は、この新人のそうした哲学については既に察した上で、先を続ける。
「その上で、『責任』を君みたいな若者に負わせるのは酷だ。それに、複数人に負わせて希釈することも許されない。だから、『館長』でもある『私』だけ、と着地する訳です」
ああ、そういうことか……と新人は嘆息した。
館長が数秒、何か思い返すような顔をして「この子に云うべきは云ってしまったな」と判断し、ふ、と一つ息を吐く。
「じゃあ、音楽ゾーンについてはこれで。君はこのまま、先程のプロムナードに戻って、お手洗いの点検をして下さい。点検する内容は覚えている?」
「えっと、目で不審物や落とし物忘れ物が無いか見て、異臭がしていないか鼻を使って、水漏れや――……それ以外の不審な音がしないか、耳で」
何か思い出すように目玉を上に向け、指を折りつつ言葉を紡ぐ新人の声が、途中で少し緊張感のあるものに変わった。
――不審な音――
館長はそんな新人へ特に言及せず、薄い笑みを浮かべて「うん」とただ頷く。
「あのプロムナードからバックヤードに入る扉は、把握してる?」
館長の問いに、新人は少し困ったような声で、
「大体のゾーニングは頭に入ってるんですけど、バックヤードとの連結位置は、まだ、全部は……」
済みません、という表情と共に答えた。館長が「別にそんな恐縮しなくても」と苦笑交じりに首を振る。
そりゃあ今の段階で完全に把握しているなら、頼もしくて優秀、という評価になるが、新人なのだ、――こう云ってはなんだが――そこまでの「期待」はしていない。云い方を変えるなら、こっちも「要求」していない。正直に「分かりません」と答えられるほうが、今の間は「好感」というプラス因子である、実際には頭に入っていないのに自信満々で嘘をつかれるほうが、上司としては「失望」と「混乱」の元だ。
それじゃあ、と館長が懐中電灯を新人に渡し、
「だったら、今日のところは美術ゾーンまで引き返して、職員用扉を使えば良いよ」
そう云うと、新人は「えっ」と目を見張った。
「そっちなら、覚えてるでしょう?」
館長は、さっきも見せた悪戯っ子のような表情で、ウィンクを見せた。
「あ、ありがとうございます」
思わず新人が、微かに口角の上がった顔をして云うと、館長の顔が「礼まで云われる筋合いは無いな」と苦笑に戻る。
「初回の今日だけですよ、次の深夜シフトまでには、巡回ルートと、その開始・終了に当たる扉くらいは、しっかり覚えといてね」
「はいっ」
殊更の苦言と取られないよう、バッグから追加の懐中電灯を取り出しつつサラッと云うと、新人は頼もしい頷きを見せた。
何だか張り切った雰囲気も見える新人を見送り、館長は、音楽ゾーンの「何も置かれていないほう」へ下りる。
そして、先程照らした「ピアノが納まっているほう」の展示ケースへ近づく。
見学者から見ると「奥」「裏」に当たる壁に、職員以外には関係が無い認証端末がある。この端末で「認証」が可能な通行証を持っているのは、職員では館長だけだから、実質、館長だけが開けられる扉が其処にある、という意味になる。このドアの先は通路になっており、そのままバックヤードの廊下と繋がっているので、他の職員が認証出来ないからと云って職務上の支障がある訳ではない。
館長のみが、「音楽ゾーン」に限っては、かなりのショートカット手段を持っているというだけだ。
扉の先の通路は狭い。成人が一人、壁に肩を触れさせずに歩ける、というくらいの「細さ」である。
ホールからの扉を開けて三歩ほど行くと向かって右の壁にまた扉があり、そちらも館長のみ認証端末で開けられる。
その扉を開けると、一度「控え室」のような雰囲気で素っ気ないテーブルと椅子だけがあり、館長はそのテーブルにバッグを置いて、必要なもの――マスクと特殊な布、掌に握り込めるくらいの小さな鞴、それから、櫛――を取り出す。マスクは今のうちに着けておく。
控え室の中でもう一度、右側にドアがある――その先が、「展示ケース」の内部だ。
古い、大きなグランドピアノが置かれている。管理の都合上、響板である屋根は開いていない。鍵盤蓋も開けていない。
添えてある椅子は、長方形の座面に四つ足ではなく、円形で回転するタイプのものだ。これも管理の都合上。
椅子には、古い成人男性型のロボットが座っている。ピアノよりは新しいが、今は人型のロボットなど何処にも無い。これは、世紀単位の過去に製造されたものである。
――昔はピアノという楽器が、こんなふうに演奏されていました。
そのモデルとして、此処でピアノと共に展示されている。
館長は、身を屈め、ロボットの肩と胸から腰に掛けて両腕で支え、ゆっくりと椅子の座面を回す。そうして、鍵盤に向いていた正面を自分に向かせた。
この時、いつも緊張するので、深呼吸をしてから、作業を始める。
タイは無いが襟のあるシャツを着せているので、まず首元のボタンを一つだけ外す。
目を閉じている顔を、専用のクロスでゆっくりと、撫でるように拭う。額、頬、鼻梁……。
顔が終わると、次は手。カフスのボタンも外して、指を一本ずつ、掌、甲、手首までを拭う。
ボタンを戻す前に、小さな鞴を手に、首筋へ顔を近づける。ここには、もう意味が無くなった「外部メディア用のスロット」や「電源ボタン」がある。――これも昔「カメラのレンズ」を手入れするために使われていた小さな鞴――手動でしゅこしゅこと音を立てて風を出す道具で、慎重に小さな埃を吹き飛ばす。滅多に外気の入らない展示ケースの中であるから、埃などそうそう積もるものではないが、深夜勤の三回に一度は、この作業も行う。
首回りとカフスのボタンを戻して、最後に頭へ櫛を通す。
それから、再びゆっくりと慎重に、鍵盤へ体の正面を向ける。
これが、この館長にしか許されていない仕事だ。
他者に見せることも許されていないので、監視カメラとモニタがオフにされる。
一仕事終え、展示ケースを出て、扉を閉める。
控え室のバッグに布と鞴、櫛を入れ、マスクを外す。
そこで緊張が解け、ふう、と息を吐いたところで、
「カタン」
展示ケース側のドアから、小さな音が聞こえた。
館長は気にせず、マスクもバッグに入れて、「控え室」を出る。
ゆったりとした三拍子の曲が聞こえ始めた。
館長は通路に面した扉を閉め、歩く。
背後に、微かに、曲が聞こえる。
誰もいないのにピアノの音が聞こえる――か。
館長が、誰も見ていないのに苦笑を作った。
此処にはピアノがあって弾き手が居るのだから、ピアノの音がして何の不思議も無い。
ピアノ曲がピアノから流れているところを見たことがなくて、何故、「誰もいない音楽ゾーンから、ピアノの音がする」ことを、「怖い」と感じるのだろうか。
ヴァイオリンからピアノの音が聞こえるどころか、ピアノが無いところでしかピアノ曲を聴いたことはない筈であろうに。
新人にそれを引き継いだ若手に至っては、その話をする「資格」が無いとすら、館長は感じる――だからこその「与太話」。
館長が振り返ることはない。
だが、その曲を出来るだけ長く聴いていたくはあるので、とてもゆっくりと歩く。
2026.8.21
ここまで読んで下さってありがとうございます。
この作品は、拙作「アンティーク」(N2072JZ) に追加する形で番外編を書いてから最後の最後に「アンコール曲」のような雰囲気で独立した短編として出すつもりにしてたんですが、2025年11月にPCが壊れた際、番外編の方のメモががっつり消えちまいまして(幸い、本文の書き始めは残ってますが)。
アウトプットしたメモがなくなると頭の中も白紙状態になるってもんで、コレのことも忘れかけてたんですが、もともと「ちょっと怖い話」くらいに仕立てたかったので、夏のホラー2026のテーマに、そういえばそぐうか?と思いつき、期間内に投稿できるよう先に書きました 。
「アンティーク」を先に読んで下さってる方には、全く「ホラー」には見えないかもですけど。というか、ホラーみたいなホラーを書いたことが無いので、コレだけでも「どこがホラー?」と思われてるかもしれませんけど。
それでは。お目汚しでこざいました。
文責:橘隆之




