(1)
「そういえば、館長――先輩から聞いたんですけど…」
とある時代、とある国の国立博物館館長が、新人を連れて夜の館内を歩いていた。
理由は一言、研修だ。
何代か前の大統領政権が歳出削減を至上命題としていた余波が後を引いており、警備が主な業務となる夜勤を民間の警備会社へ任せきりに出来ず、本来なら省庁に就職した筈の国家公務員がシフトをやりくりしている。
いずれ政策立案にも携わる役職までのし上がらんとする上昇志向の強い者から見ると、この博物館勤務は閑職であり、異動辞令は悲嘆や憤懣の元となる。若手にとっては同期に遅れを取ってしまう運の悪い配属、ある程度の経歴を持った者からは「左遷」に近い印象があるらしい。
実際、何年か前に此処へ配属となった館長も――「位」の高さで云うなら長官に比肩する役職なのだが、これまでの前例では定年前の数年をやり過ごす名誉職と見なされていたため、まだ盛りを越えていない中堅の彼が同期から受けた昇進の言祝ぎは、憐れみか嘲りが含まれる皮肉に近かった。
とは云え、館長自身は己の境遇を悲観も絶望もしていない。
先日、比較的親しくしている同期とたまたま庁舎で再会したので昼食を共にした。その時、月半分は夜勤・宿直が占めている話をしたのだが、同期は不満を通り越した憤りを見せ、上層部に抗議するなどと鼻息を荒くしていた。異動の際にも、彼だけは嫌味な言祝ぎなどせず純粋な憐れみと上層部への不満を見せていたのだが――親しみを持って案じてくれていること自体は有り難くとも、その友情は余計である。
本人にとっては至福としか云えない、他の誰にも替わることが出来ない光栄な任務を抱えているからだ。
今、共に夜のしじまを懐中電灯だけで歩いている若手も、この博物館勤務を出世の足踏みなどとは考えていないようだ。昨年度末まで三年居た若手が見せていた膨れっ面を、この新人は配属されてからこちら、見せたことがない。
学芸員資格を持ち、学生時代は美術史が専門だったという人物であるから、多分、周りの人間の価値観はさて置いて、本人はこの配属を好ましく感じているのだろう――夜勤時の務めの一つ、館内の見回りルートを覚えて貰うべく連れ立っている今な訳だが、科学技術フロアから芸術フロアの美術ゾーンに入った時、ぱっと変化した表情で察せられた。
――しかし、壁に掛けられた絵画、プロムナードにそびえる彫刻、一つ一つに足が止まりがちになるのは困りものだな、と館長が苦笑する。閉館後、夜勤の見回りで確認すべきは所蔵品そのものじゃなく、その置き場所・入れ物である設備がメインなのだが。
まあ、まだ日が浅いから仕方ない、と飲み込み、殊更の叱責はしない。
若人の瞳には純粋な愛着のみから来る輝きがあり、「値踏み」するような卑しさや「欲求」から来る疚しさ、逆に「実利」を第一とするが故の無関心から来る冷めた色は無い――だからこそ、己の怠慢や不備で「これら」が失われる、害されることなど決して許容出来ないだろうから、日が経ち慣れさえすれば、職務に対して「意義」を見出し、「給与分の務め」を超えた誠実な態度で臨むことが予想出来る。故に館長の表情は苦笑止まりである。
芸術フロアの美術ゾーンを抜けると、展示品の無いプロムナードに出る。ジャンル別のエリア同士を繋ぎつつ、一旦心身をリセットするための緩衝地としての役割を持つので、単なる通路と思うには広い。
通路の真ん中に五人掛けのベンチが等間隔に並んでおり、閉館した今は格子状のシャッターで覆われている、記念品や土産物、パンフレット、学術誌、軽食・飲み物を置いた売店も併設された空間である。
当然のことながら、基本的に館内での飲食は禁止されているが、この博物館は多ジャンルに渡ってかなりの所蔵品を持ち、展示エリアも広いため、年間パスポートで毎週末来館するという近隣の趣味人でもない限り、大多数の見学者は丸一日使って巡ることになる。
売店が併設されているプロムナードは「飲食が許可」された空間という意味になり、歩き廻って疲れた足を休ませるついでに腹拵えと水分補給を行うのを目的にした空間になっている訳だ。それでもあくまで、売店で購入した物が許されているだけで、弁当等、持ち込みは禁止されている。
が、そこは夜間勤務職員の役得――まして館長という権力者の同行である。
次に向かう前に一息つくため、館長は新人をベンチに座らせ、夜間巡回の際に常に持ち歩くバッグからもう一度防水生地で作られた巾着を取り出し、その中から〝水筒〟とプラスティック製の〝デミタスカップ〟を取り出す。
「ブラックのコーヒーは大丈夫?」
保温されているそれをカップに注いで新人に差し出すと、「余り濃いものじゃなければ…」と小首を傾げてきた。
取り敢えず受け取るように云い、館長はバッグから個包装されたミルクキャンディを取り出して「じゃあ、これどうぞ」と差し出した。
「ありがとうございます」
館長の意図を察し新人は笑みを浮かべ、一旦ベンチにカップを置いてキャンディを口に含み、コーヒーを口にした。
館長ももう一つカップを取り出して、己は水筒からそのままのコーヒーを口に運ぶ。
「次は音楽ゾーンだけど、其処は私が専任でね。私が同行出来ない夜勤の時は、巡回しなくても良いです」
「えっ、そういうものなんですか」
「うん。今日は基本ルートを知って貰うために一旦ホールに向かうけど、君は今居るこのプロムナードに戻ってお手洗いを点検したら、バックヤードに戻って良いよ。それと、私がホール・ムジカを巡回している間は、警備カメラとモニタを当該エリアでオフにするのだけど、それもミスや誤作動ではないから、心得ていて下さい」
「――? 何故ですか?」
首を傾げつつコーヒーを一口含み、溶けたキャンディと合わせて飲み込んでから、新人が訊ねた。
館長は微苦笑を見せてから、小さく肩を竦める。
「ホール・ムジカに展示されているものは、とりわけ民間からの貸与品が多くてね……。当館が与るにあたっての、本来の所有者から出された条件なんだ、私が専ら管理することも含めて」
「館長以外には任せられない、ってことですか」
「館長って肩書きにじゃない。『私』だね。――もし、私が配属替えになったりしても、後任に管理を任せられない、って意味です。私が居なくなったら、所有者に品を返却しなきゃいけなくなる……可能性が高い」
「えぇっ……」
己の配属に腐ってはいない新人だが、この博物館勤務が侮られがちなのは理解している――ということは館長は今後、異動が出来ない……かなり真に迫って「出世」が望めない、ということになるじゃないか――
「……民間が、そんな人事にまで介入する条件を出してるんですか?」
すると館長は苦笑して、曖昧に首を捻った。
「主観が『組織側』になる君からしたら、『人事に介入』に見えるんだねぇ。先方にとっては、私が館長だろうが大臣だろうが、定年後の再就職だろうが、何なら雑用アルバイトでも構わないんだけど」
「は……?」
「先方からしたら、『私』に替わる人材が『組織』に居ないのが悪いの。本当なら国立博物館になど預けたくない大事な物を、私が管理者として居るから預けてくれている。――『人事に介入』と云うならね、『上』は私を絶対にクビに出来ない、という意味で、有り難いことなんだよ」
ふふ、と悪戯っ子のような笑みを見せた館長に、新人は愛想として薄い笑みを返したが、何だか釈然としないと云うふうに小首を傾げる。
「それにしたって、どうしても『定年』があるじゃないですか、私達の場合。それこそ即座に、というか前以て再就職を約束でもしてないと――」
「そうだね。別に『定年』って遠い将来を見据えなくても、人間、明日がどうなるかなど判らないものだし」
そう云って館長は、何だか遠い目をした。
「私の後継者ってくらいの人材が居るなら、先方も寛容になってくれるのかもしれないけどね」
「……今の話からすると、それは『後任』って意味じゃないんですよね?」
「勿論。『上』からの下達で異動してきた『館長』の身分は、本来の持ち主にとって何の関係も意義も無いからね」
コーヒーを一口飲み、ほう、と館長が息を吐いて、苦笑を見せた。
「出世の足踏みになる閑職、定年までをやり過ごす名ばかりの腰掛け、そんな認識で不貞腐れてたり侮ってたりする人物に、ホール・ムジカの管理は任せられない。それが、先方の意向――いや、それだけじゃなく、私自身の矜持です」
「……」
「新卒で配属された君自身、どう? 館長がもし、定年までの数年を退職金吊り上げて消化するためだけにこの役職を受け入れた腰掛け館長だったら。音楽ゾーンに限らずアートフロア――さっきまで歩いていた、あの美術ゾーンに最終的な責任を負う上司として仰げるかい?」
「うっ……。あ、えっと、その、すいません」
若者は反射的に不快を覚えて眉を寄せ、館長を睨み付ける顔になってしまった。自分で直ぐにそれに気づき、慌てて顔を背けて頬を擦り、口を塞ぐためにカップを口に運ぶ。
館長は微笑を浮かべ、気にしていない、と首を振る。
「今、君が顔を顰めたのと同じ意味で、ホール・ムジカの品を本来所有している方は、私以外に管理を任せたくない、ということなんですよ」
「あ――」
新人は瞬きをして、「成る程」と胸中で合点した――自分自身は、同期からどんな生温い目で見られて何のこともないが、あの手合いと「一緒に此処で働く」と思ったら、それは御免被りたい、と思いついて。
館長が最後の一口のコーヒーを呷る。新人もそれに合わせて、キャンディを噛み砕き口内でコーヒーと混ぜて飲み干した。
「――君のような……いや、君が、配属されて良かったよ」
カップを頂戴、と云うふうに手を差し出してきたので、新人は「ごちそうさまでした」と云いながら館長に返し、実際の言葉の意味には首を傾げる。
「人事に介入というか、むしろ私自身が人材も選べる人事権を持てたら良いんだが、まだそういう訳に行かないものだから……。ここ数年、世を儚むか恨むか、それとも臥薪嘗胆の心意気で次の辞令を待つだけか、そんな若手しか見てなくてさ。――君は、此処で働くのが幸せそうだから、私も嬉しい」
若者は、照れたような困惑したような、何とも微妙な形に唇を歪めて頭を掻いた。館長の側に他意が無いのは判っているが、自分が「浮ついていた」ことに気付いているので、己を好意的に評してくれたことへ恐縮する気分が湧いてきたのだった。
――と、そこでふと、新人は、「そういえば……」と口にした。
館長個人は恐らく「音楽ゾーン」を主な舞台と想定しつつ「博物館」を「此処」として語っている上で、「此処」で働くのが幸せそうじゃなかった人物を、比較的新しい記憶で具体的に思い出したからだ。
カップを入れた防水生地の巾着をバッグに入れ、「そろそろ行こうか」と腰を浮かせた館長に、新人が何か思い出した声で、
「そういえば、館長――先輩から聞いたんですけど…」
と口にしながら同じくベンチから立ち上がった。
「誰もいない音楽ゾーンから、ピアノの音がするって……本当ですか?」
「――」
若者の、恐る恐る、という口調に、館長は若干呆れながら目を細めた。
「……先輩、というのは?」
「首都庁舎の総務に異動になった、$$さんです。引き継ぎで先月まで行き来してたじゃないですか」
――例の、上昇志向の強い、三年居た、膨れっ面を隠さない若手のことだ。この新人と入れ替わる形で書類上は年度末に配属替えとなっているが、正式に姿を消したのは先月のことだ。
かの人物も初回の夜勤時は同行し、今目の前に居る新人と同様、「館長の同行が無い場合、音楽ゾーンは巡回しなくて良い」旨を伝えた。そして、夜勤巡回で同行したことは数える程しか無く、その数少ない機会にもホール・ムジカの点検・確認に付き合わせる訳ではなく、先にバックヤードへ戻らせていたから、あの空間のことを大して知っている訳でもない筈だ。
一体、どういうつもりで新人にそんな与太話を吹き込んだのやら。
まあ、あの子は二度とこの博物館に勤務することは無いだろうし、気にすることもないか――やれやれ、と軽く首を振って、館長は「取り敢えず行こうか」と新人を促す。
本当ですか?という問いだから、イエス・ノーで答えるべきなのだろうが、館長は隣ながら一歩後ろをついてくる新人をチラと振り返り、薄い笑みを浮かべた。
「……君、ピアノの音を聞いたことはあるの?」
のんびりした声で問う。
若者は、きょとんとした顔をして、次には少しムッとした表情を見せた。
「そりゃ、ありますよ? ……ピアノ曲は好きです、ヴォーカルが入ってるのよりは、インストゥルメンタルのほうが」
「そうなんだ、気が合うね」
一瞬気を悪くしたのは伝わっていたが、それには触れずに館長は微笑んで頷いただけだ。新人のほうは、後が続かない。
歩を進めながら、館長は
「そうじゃなくて」
と続ける。
「ピアノの音が鳴っているのを見たことはあるか、と訊いたんですよ」
若者はさっきよりずっと、きょとんとした――というより、ぽかんとした。
「音、って見えませんよ」
館長は何を云っているのだろうと呆れる気持ちと、こんな当たり前の返答を果たして期待しているのか、もしかして此方が的外れなことを答えてしまっていないだろうか、不安な気持ちとが綯い交ぜになりながら、若人は素朴な声を出した。
館長は薄く笑んだままだ。
「じゃあ、『誰も居ないホール・ムジカからピアノの音がする』という話を聞いて、君は何を感じたの?」
今度は進行方向へ顔を向けたまま、館長が問う。
新人はチラッと館長の横顔を見てから、懐中電灯が照らす前を向き、
「そりゃ……、何かちょっと、気味が悪いというか、怖いというのか……こう、本当に誰も居なくて暗くて、今は館長が居られますけど、一人で心細いところに謎めいた音が聞こえたら、って想像したら」
「ふうん。――博物館が閉まった後、誰も居ないのは当たり前だから、誰か居たほうが怖いと私は思うけど」
「――」
それはそうだろうけど、と新人が眉尻を下げ、
「失礼に聞こえたらすいません、図太い……んですね、館長。それって、慣れですか」
もごもごと口ごもりながら云った。
館長は苦笑して、「さあ、どうなんだろう」と曖昧に呟いてから、
「ヴァイオリンからピアノの音が聞こえたんなら怖いけど、ピアノからピアノの音が聞こえても別に、何ともないかな」
のほほん、と形容できそうな声で返した。
新人はやはり、ぽかんとした。館長は何を云っているのだろう、と――どうも、会話が噛み合っていない、遣り取りが成り立っていないような感覚があった。腑に落ちない、と云うのも近いか。
だが、「何処がどう」が判らないので、返答や質問が難しく
「そういうものなんですか……?」
とだけ返した。




