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十章⑧

            



            ***




「〝いにしえの秘境〟の魔法結界壁が、消失してしまうなんて……」


 空を埋め尽くすほどの魔物の群が、紅い夕闇をさえぎっている。


 ドーム状の結界壁が侵入を阻んではいるものの、魔力が足らず、可視化せずに透明になっている部分がある。そこに魔物が群がり、虫が葉を蝕むように、結界を壊そうとしているのだ。


 宮廷の一室からのぞむ王都は戦場のようだ。住民は家に閉じこもり、兵士や魔法士が奔走している。都の中心には巨大な噴水を囲む円形広場があり、水盤から水を抜けば、王都防衛用の魔法結界壁を築くための魔法円が現れる。広場には貴族、学生を問わず魔法を使える人間がすべて集められ、魔力を注入していた。


 魔法円に集結した魔力は光の柱となって立ち上り、王都を覆う大規模な魔法結界壁を築いている。


 アンジェリカは、窓枠を握る手に力を込めた。


 夫のフェリクスもあそこにいる。アンジェリカや娘たちを守るためだと、なけなしの魔力を振り絞りにいったのだ。魔法なんてお菓子作りに使ったことしかないくせにと引き留める自分を、彼は優しく諭した。「大切な人を守るためだ。なにもできないなんて言ってないで、自分ができることを精一杯やらなくちゃな」ーー彼らしい真っ直ぐな決意が、心の真ん中に突き刺さっている。


「わたしのせいだ……全部、わたしの……」


 〝いにしえの秘境〟の魔法結界壁が消失し、王都が魔物に襲われる。マリンローズとシリウスロッドの失踪が関わっているなら、今の状況は彼のルートでたどり着く凄惨なバッドエンドそのものなのかもしれない。だが、彼の存在すら知らなかったアンジェリカに、回避の方法などわかるはずもなかった。


 宮廷魔法士長である彼と、王国最強の魔法士であるマリンローズ・メルリーヌ。要の二人を欠く中で、いかに多くの魔法士達が集まろうとも限界がある。このままでは、魔物が結界を壊して侵入してくるのも時間の問題だ。


 ーー聖女の力が使えれば。


 首から下げた母の形見のペンダントを、痛いほどに握りしめる。


 聖女の力。ヒロインの故郷が魔物の群に襲われたとき、ヒロインは神聖属性の聖獣を召喚し、聖女の力を覚醒させて魔物を消滅させるーーそれが、新プリのオープニングだ。


 なのに、アンジェリカにはまだ聖獣が召喚できない。マリンローズとの修行のおかげで強化の魔法付与は使いこなせるようになったが、聖獣との絆が不完全のためか、人間に対しては効果がない。


 しかも、出産後の今は体内の魔素が少なく、魔法自体が使えない。


 ーーどこまで役立たずなのだ。


 噛み締めていた唇から血の味が滲んだ。震える肩に、ふいに、柔らかな手のひらが重なる。


「アンジェリカ。大丈夫です。貴女と赤ちゃんたちは、わたくしが必ずお守りします。それに、マリンローズ先生ならきっとご無事ですよ。彼女は〝天雷の魔女〟。アストレイア王国最強の魔法士なのですから」


「プリシラ姫……」


 ふわりと揺れる尻尾。


 公国の王女であるにもかかわらず、彼女は出産のときからずっとアンジェリカの側についてくれている。すべては彼女の好意からだった。真っ直ぐにこちらを見つめる金の目が、込み上げた熱いものに揺らぐ。純粋に向けられる優しさに、これまで心の奥に押し込めていた後悔が溢れてしまった。


「違う……違うんです……! 師匠が拐われたことも、王都が魔物に襲われていることも、全部、わたしのせいなんです……!!」


 ヒロインであることを放棄した自分を、これほど憎んだことはない。


 生まれ変わったこの世界で、ただ好きな人と一緒になりたかった。そんな独りよがりな考えが、なにを引き起こすかなんて考えもせずにーーこの惨状はきっと、自分の幸せだけを追い求めた罰だ。


「わたし……わたしは、神聖属性の聖獣の加護を授かった聖女なんです……! でも、好きな人と一緒になりたくて、自分の運命から逃げてしまった。そのせいで、師匠が……っ!!」


「アンジェリカが、聖女……? かつて、〝魔王〟を封じたという伝説の……?」


 突然の告白に、プリシラは美しい金の目を見開くばかりだ。信じてもらえるはずがない。魔法を使えるだけでも珍しい平民出の少女が、〝魔王〟を封じた聖女の再来だなんて。そんなことを真に受けるのは転生者くらいだ。

 

 ーー〝天雷の魔女〟マリンローズ・メルリーヌのように。


 彼女に初めて出会ったとき、アンジェリカはどれほど責められても仕方がないと覚悟した。しかし、マリンローズは一度たりともアンジェリカを責めたりしなかった。


 定められた運命に縛られず、自分に正直に生きること。


 それが貴女が選んだ人生なのだからと。そればかりか、背負うはずだった運命を、任せてと請け負ってくれたのだ。


 誰よりも生徒たちを、〝プリンス&プリンセス(この世界)〟を愛している彼女。


 その明るい笑顔と力強い言葉に、どれだけ救われたことか。


 信じてもらえないと知りながら、しかし、一度堰を切った言葉はもう止まらなかった。

 

「聖獣が召喚できないのは、わたしが運命から逃げ出したことを怒っているからです……! だから、どんなに願っても、現れてくれないんです……っ!!」


「アンジェリカ、落ち着いて。そんなに嘆いては、身体に障ってしまいます」


 プリシラは、絹のハンカチでアンジェリカの頬を流れる涙を丁寧に拭き取った。そして、そっと顔を覗き込む。


「貴女の言葉を疑ったりしませんわ。わたくしたちは、ずっと貴女が作るスィーツに支えられてきましたもの。食べると悲しい気持ちが吹き飛んで、やる気と勇気が湧いてくる。それは、きっと、世界に救いをもたらす聖女の力だったのですわ」


「プリシラ姫……ほ、本当に、信じてくださるんですか?」


「勿論ですわ。でも、それなら泣いている暇などありません! わたくしが、貴女に魔力を送ります。それを使って、聖獣を召喚してみましょう。聖獣は自らの写身のようなものです。召喚できなかったのは、貴女が自分自身の弱さに向き合えていなかったからだと思うのです。ーーわたくしが、そうでしたもの」


 微笑むプリシラの背中で、白銀の尾が揺れていた。


 自身が獣人であることをずっと悩んでいた彼女は、事件解決のあと、初めて自身の聖獣を召喚できるようになったのだ。


 背負うべき運命から逃げ出した、弱い自分と向き合うことーー今なら、できると思った。



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