①悪役令息の追放
ようやく自由になれた、と。
その瞬間、オルキス・ユーライトは、幼少から辛気臭いと言われ続けてきた黒い瞳を熱く潤ませながら心の中で歓喜の叫びを上げていた。
煌めく薄い水の膜の意味をどう解釈したのか、王太子レイバン・アークベルが夏の新緑の如く鮮やかな瞳で、騎士たちによって床に押さえつけられているオルキスを冷たく見下ろす。
「辺境にて、己の罪を償うが良い。……異論はないな、ユーライト伯爵」
「ございません」
答えたのは、オルキスの父、マカラス・ユーライト伯爵だった。嫡男ノーマンのように優秀ではなく、末妹トリーニアのように愛される人柄ではないオルキス・ユーライト。傲慢な思想の持ち主で、座学も魔法も武芸もできない。ユーライト家の汚点として社交界でも有名な存在であった。
「王太子殿下がご寵愛されるご令息に横恋慕した挙句、その身を穢そうと画策するなど……。本来なら処刑されて然るべきところを、多大なる温情により、辺境にて魔獣討伐という名誉ある死を選ばせていただきましたこと、心より感謝申し上げます」
レイバンへは丁寧に頭を下げながら、息子へは腐り果て汚臭を放つゴミを見るような目でユーライト伯爵が告げる。
「かような息子を持ったそなたの苦労、察して余りある。忠臣であるユーライト伯爵家への、せめてもの温情を受け取るがよい」
「ご配慮、ありがたき幸せ。これを持ちまして、オルキスをユーライト家から除籍いたします」
その会話はオルキスを中心に、だがオルキスを決して混ぜることはなく進められた。
硬い靴音を響かせ近づいてきたユーライト伯爵が、オルキスがクラヴァットに付けていた家紋が刻まれたタイピンをむしり取った。
腕や背を押さえつけていた騎士たちに無理やり立たされたかと思うと、問答無用で粗末な馬車に詰め込まれる。
乱暴に扉が閉められ、合図もなく馬車が走り出した。
オルキスは馬車に放り込まれた時に打ちつけた肘をさすりながら、「はあぁ……」と長い長いため息をついた。
「——……やっと終わった」
それは肺の中の空気を全て押し出しても、まだ足りないほどの長いため息だった。
オルキス・ユーライトには、物心ついた時から不思議な確信があった。
それは自身が『十八の歳の誕生日に辺境の砦に追放される悪役である』というものだ。
いったいなぜ、どこからそんな妄想が?と悩み、誰かに相談をしようとしても、どういうわけかオルキスの口から出てくるのは本人の意思とはまるで違う、傲慢で思いやりの欠片もない言葉ばかりだった。
平民出のメイドの日に焼けた肌を嗤い、泥で汚れた庭師とすれ違うことさえ許さない。いくら心の中で「違う。そんなことは思っていない」と叫んでも、それらは表面化することはなく、家族や周囲との距離がどんどんと広がっていった。あまりにも酷い物言いに、舌を抜こうとしたことさえあった。だが道具を手にしたオルキスを見て、父であるユーライト伯爵は『トリーニアが怪我をしていた。犯人はお前か』と激昂し、オルキスを伯爵家敷地内にある小さな別棟に隔離するようになった。使用人たちは必要最低限しか寄り付かず、オルキスは少年時代を孤独に過ごした。
逃げようとしても無理だった。そう考えただけで、自分の意思で身体が動かなくなるのである。
別棟に隔離され、やがて体裁のために十三の歳に貴族院の寮へと移された。家から出られたことに、心から喜んだ。ひょっとすると、これで自由になれるのかもしれないと。
——……しかし、オルキスの行動はよりひどく、より不自由なものへと変わっていった。
選民思想の塊のような発言に、落第スレスレの座学。試験の前日、金で教師を買収しようとした時は、なんとか自分に薬を盛って試験をすっぽかしてそれを防いだ。丸一日気絶していたせいで、試験をサボった落ち込ぼれと周りから冷たい目で見られ、おまけに自室に置いていたはずの薬が発見され、良からぬことに使おうとしていたはずだと、謹慎を言い渡された。
勉強もしていた。魔術も人知れず練習してきた。それなのに、いざ試験となると勝手に身体が動き、最悪の結果を出すのだ。そしてそれらは全てユーライト伯爵にも伝えられ、オルキスはますます孤立していった。
自身についての疑問の答えが出たのは、貴族院に入学して一年が経った頃だ。
オルキスと同じ学年だった王太子レイバン・アークベルと、新入生セシル・リハイラント子爵令息が学舎の中庭の木漏れ日の下で睦まじく寄り添っている姿を見た瞬間、雷に打たれたように理解した。
自分は、『物語』のために用意されていた舞台装置だったのだ、と。
浮かんだ言葉の意味は、わからない。ただ、それだけが感覚として全身に行き渡った。
オルキスは、後ろへと流れていく王都の街並みを眺めながら、今はまだ見えない雪山がある方角へと目を向けた。
おそらくこれから死ぬまで過ごすことになるだろう『灰刃の砦』は、その雪山の麓に存在している。
形ばかりの辺境伯の地位を与えられたゼノ・ルクスダインの居城だ。
自分は、王太子と子爵令息を引き立てるための悪役であり、十八の歳に必ず灰刃の砦に送られる。
それまでは、どれだけ足掻いてもレールの上を進まされる。
そんな状況でオルキスが選択できたのは、灰刃の砦で暮らす際に必要な知識を身につけておく。
それだけだった。
馬車の内部は、木を敷いただけで椅子も何もない小さな箱の形をしていた。囚人を輸送するためのそれは、あらかじめ用意されていたかのようなタイミングで王宮の馬車寄せに現れた。
公然の秘密ではあったが、貴族院を卒業した王太子が初めて公の場でセシル・リハイラントをパートナーとしてエスコートする披露会だった。
——そこでオルキスは、断罪された。身に覚えのない罪によって。
「……僕はリハイラント子爵令息を好きでもなんでもないし、王太子殿下に嫉妬したりもしてない。……言えた……やっと言えた、この言葉」
長年喉の奥で燻っていた言葉がスルリと落ちて、オルキスは思わず小さな呻き声を上げた。溢れそうになる涙を、必死で抑える。
誰にも言えず、誰にもわかってもらえず。
十八年生きてきた。
オルキスの言葉に傷付けられた者たちも大勢いた。謝罪の機会さえ、なかった。身体が勝手に暴力を振るおうとした時は、失敗するように仕向けて耐え切った。そんなオルキスを見て周りの者たちは、『身勝手で愚かなオルキスが自滅した』と嗤った。
過去を思い出しながら、オルキスは鼻を啜った。
「前を向け、オルキス。やっと自由になれたんだ。もしルクスダイン辺境伯が僕を受け入れて下さったら、一生懸命働こう……!」
パシッと頬を叩いて、顔を上げる。馬車は整備された街道から轍が残る農道に入ったらしく、ガタガタと大きく揺れていた。
王宮から連れ出されたのは午後を少し過ぎた辺りだった。
だが窓の向こうに見える空は、すでに赤く染まり始めていた。
王都を出て、満ちていた月が細く欠けるほどの日数が過ぎた。
窓からの景色が農地から草原に。そして草花でさえもまばらな土と岩だらけの世界へと変わっていく。
荒涼地、ルクスダイン。
聳える雪山の頂に、魔王の居城があったとされる場所だ。
窓から見ていると、不意に景色が大きく傾いた。小さな箱の中で強く身体を打ちつける。馬くらいは乗れるが、元々運動は得意でない。身体をさすっていると外からかけられていた鍵が開き、御者に腕を掴まれ「出ろ」と引き摺り出された。
冷たく刺すような風が、髪を舞い上げる。空気は乾燥していた。
馬車の周囲には、御者以外に馬に乗った兵士が三人いる。その中の一人が「馬車の中で糞便にまみれて弱ってる予定じゃなかったのか?」と隣の兵士に声をかけた。
「知るか。とりあえず死んでなきゃ、それでいい」
答えた兵士が、オルキスを冷たく眺めてから馬首を返した。
「戻るぞ。ここに長くいたら、俺たちまで魔獣の餌だ。オルキス・ユーライトは辺境に届けた。……砦へ辿り着く前に死ぬだろうがな」
兵士たちを乗せた馬が来た道を戻り始める。それを見た御者も慌てて馬車で後を追った。
四つの影が、足場の悪い道の向こうに消えていく。
それを見送ることなく、オルキスは、まずは自身の姿を上から下まで眺めた。
連行された時と同じ、煌びやかな礼服だ。ただしカフスは、安物の石でできている。靴も履き古され、先が擦れた革靴。しかし汚れてはいなかった。
道中食事は日に一度、馬車の窓から投げ込まれるだけ。辺境に近づくに連れて冷え込んでいく夜にも、毛布一枚さえ与えられない。普通なら、悲惨な状態になっていてもおかしくはない。だがオルキスの表情に憔悴は見られず、服も汚れていない。身体は痩せてはいたが、これは元々だった。
「……まずは歩きやすい靴と服に着替えないと」
運動は得意ではないものの、座学は好きだった。その中でも彼が得意としたのが、錬金術だ。魔力を消費する魔法は、王太子やセシル子爵令息といった魔力量が多い者が有利だが、錬金術は等価の原則とそれに至る構築式さえ間違っていなければ成功する。もっとも、この国は魔力が多い者が優遇されるため、錬金術は落ちこぼれの逃げ道だと下に見られていた。
「……構築、『革靴を革のブーツ』へ。『服を簡素なシャツとズボン』へ」
口に出して言う必要はないが、その方がイメージしやすいためオルキスはできるだけ言葉にするようにしている。
唱えると、長針と短針がついた時計のような陣が、靴と衣類を包み込んだ。
同じ素材を別の形に変えることは、比較的容易だ。
礼服がカジュアルなシャツとズボンに変わり、革靴が膝丈のブーツへと変化した。とりあえずこれで、走ることくらいはできるだろう。長く走れるかは、体力の問題にはなるが。
改めて、オルキスは視界に映る雪山を眺めた。
ヒムマルナ、と呼ばれる雪の白と雲の黒が入り混じる峻嶺。
灰刃の砦は、あの山の麓にある。一年を通して極寒に閉ざされている、厳しい環境だ。
まだかなり先だというのに、冷気がここまで降りてきているのか、立っているだけで身体が芯まで冷えていく。
とにかく歩き出さなければならない。だがその前に、と懐から小さく折り畳まれた布を取り出した。
開くと中には、黒く長い髪の束が一つ入っている。
「錬金用に保存してた僕の髪束も、これで最後か。まさか食事が一日一回パンを一欠片なんて思ってなかったからなぁ。……構築、『僕の髪を水筒と水』へ」
唱えると再び時計模様の陣が現れ、髪の束が消えると同時に、羊の胃袋でできた水筒が出てきた。中には水が半分ほど入っている。
「水は、これだけか……。やっぱり才能ないんだろうな」
服を錬金する前に残しておいたクラヴァットを腰紐代わりにして、水筒をくくりつける。
「とにかく、陽が沈む前に砦を目指そう。受け入れてもらえるかはわからないけど、頼めば一晩くらいは寝床を貸してもらえるかもしれない」
魔王の残党と言われる魔獣が徘徊する、ルクスダインの地。崩壊した魔王城がある雪山は、上半分が分厚い雲に覆われていて何も見えない。だが目には見えない圧のようなものが、オルキスの足をすくませていた。慌てて帰っていった兵士たちの気持ちもよくわかる。
けれど、その山の麓が目的地なのだ。
ざり、と音がして錬金術で作られたブーツが小石を踏む。
オルキスは、最初の一歩を踏み出した。
——ゼノ・ルクスダイン。
元冒険者だった男は、当時の王により騎士として抜擢され、勇者と聖女とともに魔王討伐へと向かった。
長い戦いの果てに彼らはついに魔王を倒し、世界に平和をもたらした。
もう、四十年も前の話である。
——そしてそこで、歴史上最も卑劣な裏切りがあった。
魔王が討伐され崩壊していく城の中。騎士は勇者を騙し討ちして置き去りにし、聖女だけを連れて脱出したのだ。
国民はそれを、聖女に横恋慕していた騎士の醜い嫉妬によるものだとして、怒りを向けた。誰もが騎士の処刑を望んでいた。
だがそこで聖女が声を上げた。
魔王は倒されたとは言え、辺境の地には多くの魔獣が生き延びていた。魔王との戦いで疲弊していた国に、それらと戦う余力はない。
そこで、魔王が支配していた地をルクスダインと名付け、騎士に恩赦を与える代わりにその地を生涯封じるように命じてほしいと、頼み込んだ。
傷心の中で、裏切った騎士さえも救おうとする聖女の慈愛に王は胸を打たれ、望みを叶えることにした。
以降、騎士は辺境伯としてルクスダインに封じられ、一度も他の地へ出てはいない。
文献や吟遊詩人の歌の中では、騎士は聖女に横恋慕した挙句勇者を陥れた悪役として描かれ、ルクスダインの地で後悔し、魔獣に怯えながら暮らす老人となったと言われている。
「……でも、僕には彼が悪役だなんて思えない」
ひたすら荒地を踏みしめながら、オルキスはぽつりと呟いた。
灰刃の砦に送られると知ってから、できるだけ多くの情報を集めてきた。とりわけ、ゼノ・ルクスダインについては国中の誰よりも知っている自信がある。
魔王軍の三将軍を一人で討ち、勇者と聖女をサポートした。もし魔王を倒す方法が勇者の剣以外にあったとしたら、おそらく彼が魔王を倒していたのではないだろうか。ゆえにその力を知っていた当時の王は、ゼノ・ルクスダインを処刑できなかった。危険な辺境を見張らせるために。
だからこそ、彼は語られているような『勇者を見捨てた悪役』ではない。それほどの力を持っていれば、あっさり国を捨てて自由に生きることもできただろうから。
「何か事情があったのかもしれない。……僕のように」
彼について調べるうちに、オルキスはそう考えるようになっていた。
気温は低いが、乾いた空気が身体から水分を奪っていく。
数時間も歩くと、水筒もすっかり空になってしまっていた。空高くに、子どもの身長ほどの鳥の群れが見える。王都ではまず見たことのない大きさだ。ただの鳥ではないのかもしれない。
彼らは獲物が弱って立ち止まるのを待っている様子だった。さすがに夜になればいなくなるだろうが、そうすれば今度は地上にいる獣が姿を現すだろう。むしろまだ遭遇していないだけ幸運と言えた。
オルキスは戦う術を持たない。貴族院にも騎士志望の者たちに向けて剣術の講義はあったが、彼の手はそれを選ぶことを許さなかった。できるのは、等価で生み出す錬金術だけだ。
足場の悪い荒地を休みなく歩き続けた結果、ブーツの中の足は血豆だらけになっていた。一歩進むごとに、ずくりずくりと脈打つように痛む。だが立ち止まることはできなかった。一度でも足が止まれば、鳥たちが急降下してくるに違いない。
水もなく、鳥に狙われ、足の傷は深くなっていく。
不運は、それだけに終わらなかった。
足元から微かな振動を感じて、オルキスは歩きながら周辺を見回した。変わらず、岩と土だけの光景。けれども空気が震えているように感じられた。
地鳴りのような音が近付いてくる。
ほとんど反射的に、痛む足を動かして前方へと走った。
すぐ近くの地面が爆発したように、下から土が噴き上がる。強い衝撃が風となってオルキスの背を突き飛ばした。足が浮き、そのまま吹き飛ばされる。倒れた身体に、高く舞った石が礫となって降り注いだ。
「……ッ!」
拳ほどの大きさの石が当たり、強い痛みを感じた。こめかみに濡れた感触。茶色い土に赤い滴が落ちて、染みを作る。
オルキスは霞む視界の中で、顔を上げた。
巨大なトカゲだ。長い舌を出し入れしながら、オルキスを見下ろしていた。鋭い歯が並んだ口が、ゆっくりと開けられていく。
「……やっと……自由になれたのに」
自分の意思ではなかった。暴力を振るうことは阻止できた。けれども使用人や貴族院の生徒たちへ酷い言葉を吐いてきたのは事実だ。これはその罰なのだろうか。
諦めたくはなかったが、逃げることはまず不可能だ。
絶望と恐怖に、世界が色褪せていく。襲いかかってくる巨体に、目を閉じる。
頬を刺す風が、ぴたりと止んだ。
身体が浮き上がると同時に、すぐ側で何かが倒れる音がした。喰われたにしては痛みがなく、死んだにしては身体が重い。
恐る恐る瞼を上げる。
——青銀色の、瞳が見えた。
短く整えられた白い髪。皺が刻まれた、鋭利な印象を持つ顔。すっきりとした顎のラインから繋がる首は太く、肩から上腕にかけての僧帽筋が高く盛り上がっている。オルキスの腕に当たっているのは、銀色の胸当てだ。
その老騎士は、オルキスをまるで小さな荷物のように軽々と抱え、もう一方の手で鉄の塊のような剣を振るうと、倒れていた巨大なトカゲの頭を真っ二つに叩き割った。
「……すごい……」
呆然と呟き、オルキスは自身の腰に回されている、銀の鉄甲が装備された腕を見た。
丸太だ。丸太のような腕とは、まさにこのことだ。
「あ、ありがとうございます」
とにかく先に礼を言った。あと数秒でも遅れていたら、トカゲの胃の中だった。彼は命の恩人だ。
頭を下げると、老騎士が雪に埋もれる透き通った氷のような目をオルキスへと向けた。感情の読めない、静かな眼差しだった。
「……ゼノ・ルクスダイン辺境伯閣下でいらっしゃいますか?」
ほとんど確信はあったが、一応聞いてみる。すると老騎士は少しの間何かを考えてから、口を開いた。
「——……オルキスきゅんか?」
「……は?」
「ん?オルキスきゅんじゃないのか?」
「い、いえ…、僕はオルキスですが」
きゅん、ってなんだとか。その顔で二回も「オルキスきゅん」と呼ぶなとか色々思いはしたが、困っているように見えたため、慌てて頷く。
オルキスの肯定を確認して、目の前の老騎士が顔に似合わぬ子どものような笑顔でにぱっと笑った。
「おぉ!そうか、そうか!いや〜良かった、間に合った〜!」
目尻を下げて、ニコニコしている。
……なんか、想像と違うな。
そう思った瞬間、オルキスは自身の身体からは力が抜けていくのがわかった。
安心した、という感覚が一番近いだろう。
長い間馬車に閉じ込められ、その後歩き続け、そして九死に一生を得た。
「辺境伯閣下……すみません、気絶します……」
なんとかそれだけ告げて、オルキスは意識を失った。
次回第二話は8月5日17時更新です。
全8話予定で、1日1話更新します。




