あと一回
布団を整えようとして、私は端を持ち上げた。
ベッドのシーツにはさっきまでしていた行為の乱れがそのまま残っている。
枕に顔を埋めると、雪乃のシャンプーの甘い残り香が鼻腔をくすぐった。
さっき、私は確かに雪乃と肌を重ねたのだ。
布団を直したところで、私の目の前で青い光が爆発した。
「初々しいプレイだったイルカ!」
「わあっ!? ……って、見てたの!?」
突如として天井の角から降ってきたイルカイルを、私はベッドの上のクッションを掴んで力任せに投げつけた。
クッションはホログラムをすり抜け、壁に当たって力なく床に落ちる。
イルカイルは私の行動を無視して、空中で尾ビレをパタパタと動かした。
「これでラブエナジーは満タンになったよね!?」
「ジャーンイルカ!」
イルカイルがヒレを振ると、空中に光るガラス瓶が投影された。
瓶を満たす液体のラインは、最上部の手前でぴたりと止まっている。
「ラブエナジーは五分の四。後もう一息イルカね」
「えっちしたら終わりって言ったじゃん!!」
「十八禁ゲームって、えっちシーンは一つだけじゃなイルカ! まあ、物によるけど、二~三シーン、多い時は四~六回とかあるイルカね」
「そういうゲームの仕様みたいに言うな!!」
雪乃は本気だった。
あれをイベント数みたいに数えるな。
そう怒鳴りたかったのに、私は次の言葉を飲み込んだ。
だって私自身が、瓶の目盛りを確認している。
「……ってことは、私これから雪乃と何回も……」
私は両手で頭を抱え、ベッドシーツへと突っ伏した。
昨夜の雪乃の熱、あの切ない声や、見たこともない表情がまぶたの裏にフラッシュバックする。
いやいやいや。
私は別に、雪乃とそういうことをしたかったわけじゃない。
なのに、なんでこんなに意識してるの。
「まあでも、この溜まり方を見る限り、後一回えっちすれば満タンになる計算イルカ」
「本当に!?」
「本当イルカ! というわけで、がんばイルカ!」
「ねえ、イルカイル。瓶が満タンになって、私が元の世界に帰ったら……雪乃は、どうなるの?」
「…………」
「ちょっと、なんで黙るの」
「それは、今は言えなイルカ。とにかく、あと一回イルカ!」
イルカイルはそう言い残し、光の粒子となって霧散した。
そして部屋に、再び秒針の音だけが戻ってきた。
「あと一回……」
私はベッドの上に仰向けに寝転がり、白い天井を見つめた。
雪乃の様子が、どうしても脳裏から離れてくれない。
私を求めて必死に伸ばされた両手、熱を帯びた唇、速度を増す呼吸、そして私を見つめていた潤んだ瞳。
雪乃に対する私の気持ちは、一体どこに向かっているのだろう。
帰るためだと割り切ろうとしていたはずなのに、境界線が完全にぼやけて、心臓の鼓動が変なリズムを刻んでいる。
しかし、後一回、あの行為をこなせば、私は元の世界へ帰れるのだ。
両親がいて、友達がいて、オタク語りばかりするバカな兄ちゃんがいる、あの日常へと。
帰る。ようやく、帰れる。
けれど、それは雪乃との決別を連れてくる。
この瓶が満タンになった瞬間、私はこの世界から消え、雪乃の隣からいなくなるのだ。
雪乃はまた、一人になってしまうのだろうか。
ここはゲームの世界だ。
データで作られた仮想の登場人物に、どれだけ感情移入したところで何になるというのか。
そう自分自身に言い聞かせ、冷めた理屈で考えを押し込めようとする。
だが、私の腕の中で泣いた雪乃の声が、理屈を押し返してくる。
私の名前を呼んだ声も、私に縋ってきた腕の力も、シーツの乱れと一緒に部屋に残っていた。
私は布団を整えるのをやめ、ぐしゃぐしゃのベッドにもう一度倒れ込んだ。
その時、枕元でスマホが震えた。
画面に、雪乃の名前が浮かんでいる。
メッセージは、たった一行だった。
『明日、私を見てニヤニヤしたら殺すからな』
さっきまであんなに近くにいたのに、文字にすると、いつもの雪乃に戻っていた。
恋人になったはずなのに、送られてくるのは「好き」でも「会いたい」でもなくて、殺害予告だ。
でも、わざわざこれを送ってくるのは、明日まともに顔を合わせる自信がないからだ。
その不器用な照れ隠しが、今はただ、愛おしかった。
最初は、ちゃんと返そうとした。
「私も会いたい」とか、「今日、嫌じゃなかった」とか。
打ちかけては、全部消した。
これ以上本当のことを伝えても、私はどうせ、いなくなる。
結局送ったのは、いつもの軽口だけだった。
『善処します』
既読はすぐについた。
でも、返事はなかなか来ない。
しばらくして、ようやく一言だけ届く。
『おやすみ』
いつもの「うるさい」も「低能」もない、たった一言の「おやすみ」。
恋人になっても、私たちはまだ、こんなに不器用だ。
私はスマホを胸の上に伏せて、天井をしばらく見ていた。




