第66話 大物流時代の幕開け
ゲート開通から数日が経過したテラ・テルマエの中央研究所は、朝からむせ返るような活気と、これまで嗅いだことのない磯の匂いに包まれていた。
「ぐるるるる……わふっ! わうっ!」
部屋の隅から、くぐもった唸り声と短い吠え声が聞こえてくる。
視線を向けると、巨体をへっぴり腰に縮め、俺の足首の後ろに半分身を隠すような姿勢で、床の一点を見据えているのはシロだ。
ピンと立った三角の耳は後ろにペタンと倒れ、ふさふさの尻尾は股の間にしっかりと巻き込まれている。
シロが威嚇している相手は、南の港町ポルタから届いたばかりの木箱から這い出した、赤黒い甲殻を持つ巨大な海蟹だった。
両手を広げれば五十センチはありそうなその蟹は、二本の太いハサミを高く振り上げ、ブクブクと泡を吹きながら完全に戦闘態勢をとっている。
シロは前足を一歩踏み出して「狩ってやる!」とアピールするものの、蟹が威嚇音と共にハサミをカチカチと打ち鳴らすと、「ひゃうっ」と情けない声を上げて俺のズボンの裾に鼻先を押し付けてきた。
『こいつ、生意気だよ! 怒ってやってよ!』とでも言いたげな、琥珀色の瞳による強烈な上目遣い。野生の頂点に立つはずのシルバーウルフのプライドは、未知の海の生物の前にあっさりと崩れ去ったらしい。
「シロ、手を出さないで正解だ。そいつのハサミに挟まれたら、お前の鼻が二つに割れるぞ」
俺は苦笑しながらしゃがみ込み、シロの銀色の頭を軽く撫でた。柔らかな毛並みの下で、緊張から微かに震えているのが伝わってくる。
俺は作業用の分厚い革手袋をはめ、背後から蟹の甲羅を正確に押さえ込んだ。ハサミの届かない位置を確保し、暴れる八本の脚を素早く麻紐で縛り上げる。
無力化された蟹を別の木箱に戻すと、シロは急に気が大きくなったのか、箱の外から「わんっ!」と一度だけ勝ち誇ったように吠え、それから満足げに俺の膝に顎を乗せてきた。
『マスター。シロちゃんの心拍数が正常値に戻りました。……それにしても、見事な手際ですね。甲殻類の関節構造を完全に把握していなければ、あのように滑らかには拘束できません』
部屋の天井に設置されたスピーカーから、マザーの落ち着いた声が響く。
「昔、王都の地下水路の視察で似たような魔物の相手をしたことがあってな。……さて、向こうからの荷受けは終わった。次はこちらから送り出す番だ。マザー、シスター。出荷の準備はいいか?」
『はいっ! お兄様。ミスリル製品の最終検品、完了しております!』
作業台の上でホバリングしていた小型ドローンのシスターが、元気よく応答した。
彼女の精密加工能力とスキャン機能により、ガムリ親方たちが打ち出したミスリル製の包丁や農具は、寸分の狂いもない最高品質の工業製品として仕上げられている。
「親方、梱包の具合はどうだ?」
「完璧だぜ、アルドの旦那! この緩衝材のおかげで、どんだけ揺らしても刃こぼれ一つしねえ!」
ドワーフのガムリ親方が、自慢げに木箱の蓋を叩いた。彼らの顔は、自分たちの作品が初めて遠くの海を越えるという期待で輝いている。
その隣では、リーリャが率いるエルフの農夫たちが、朝一番で収穫した巨大な葉野菜や根菜類を、次々とマザーの特製保冷コンテナへと積み込んでいた。エーテル水で育てられたこれらの作物は、ただでさえ栄養価が高い上に、マザーとシスターが組み上げた冷却回路によって鮮度を完全に保ったまま転送される。
研究所の奥に鎮座する転移ゲートが、低い駆動音と共に青白い光の渦を形成した。
マザーの巨大なアームが動き出し、テラ・テルマエの特産品が詰められた木箱やコンテナを、次々と光の膜の向こう側へと送り込んでいく。
空間を跳躍し、南の海へと送り出される物資の束。それは、これまで自己完結していたこの街が、世界経済の巨大なうねりの中に本格的に足を踏み入れた瞬間だった。
数時間後。
第一陣の出荷と、向こうでの荷捌きを終えたタイミングで、ゲートの向こうからヒールの音を響かせて一人の女性が姿を現した。
商会マネージャーのララだ。彼女は手にした分厚い革張りの帳簿を胸に抱き、少し乱れた髪もそのままに、上気した顔でこちらへ駆け寄ってきた。
「アルドさん! 凄いわ、凄すぎるわよ!」
彼女の大きな瞳は、純粋な興奮と、計算を終えた商人特有の熱を帯びていた。
「港町ポルタでの第一回競り、完了したわ。結果は私たちの予想を遥かに超えているわよ。テラ・テルマエの野菜は、船乗りたちを通じて隣国の貴族たちに飛ぶように売約されたわ。彼ら、海路の長い旅で新鮮な野菜に飢えていたから、金貨の糸目をつけなかったの!」
ララは息を継ぎ、帳簿のページを勢いよくめくった。
「ミスリルの包丁に至っては、港の魚解体職人たちが奪い合いになったわ。一度使ったら、二度と鉄の包丁には戻れないって。……この数日だけで、商会が過去一年に稼いだ額の三倍の利益が出てる。まさに、大物流時代の幕開けよ!」
彼女の報告を聞き、部屋の隅で待機していたエルフの農夫たちや、ドワーフの職人たちから地鳴りのような歓声が上がった。自分たちの丹精込めた仕事が、外の世界で正当に評価され、求められているのだ。ガムリ親方などは感極まって涙ぐんでいる。
だが、俺はすぐに喜びに同調することはせず、視線をララの手元から彼女の顔へと移した。
「よくやったな、ララ。お前の交渉術の賜物だ」
「ふふっ、当然よ。これでも大陸一の……」
「だが、利益が出たからといって浮かれるのはまだ早い」
俺の静かな声に、ララがピタリと動きを止めた。歓声を上げていた職人たちも、俺の言葉に耳を傾ける。
「急激な物資の流入は、現地のインフラに負荷をかける。ポルタの港は長年寂れていたんだ。いきなり大量の荷を捌けば、必ずどこかに歪みが出る。……荷揚げをする人足たちの労働時間はどうなっている?」
俺の問いかけに、ララの瞳がわずかに見開かれた。
「えっ……それは、組合長さんがうまくシフトを組んで……」
「倉庫の冷却機能は足りているか? 船の運航スケジュールに無理が生じていないか?」
畳み掛けるような俺の言葉に、ララは帳簿を抱きしめたまま黙り込んだ。
莫大な数字の羅列に隠れがちな「現場の人間」と「システムの耐久性」。商会の上層部が往々にして無視するそれらの要素を、俺は現場叩き上げの技術者として、そして領主として見落とすわけにはいかなかった。
「……ええ。その通りね」
ララは深く息を吐き出した。先ほどの熱狂がスッと引き、代わりに洗練された商人としての理知的な光が彼女の顔に戻る。
「実は、荷役の手配が追いつかなくて、組合長さんが徹夜続きになっているの。倉庫の冷却も、魔導具の出力が不安定になり始めているわ。アルドさんに言われなかったら、私、目先の利益に目が眩んで、システム全体をパンクさせるところだった」
「無茶な稼働は必ず事故を起こす。長く、安定して取引を続けることが、最終的には最大の利益になるんだ」
俺は作業台から一枚の羊皮紙を取り出し、彼女に差し出した。
「マザーと設計した、新型の保冷コンテナと、港の荷揚げ用クレーンの設計図だ。これを使えば、人足たちの肉体的な負担は半分以下に減り、鮮度の保持時間も倍に伸びる。利益の一部を、ポルタの港の設備投資に回してくれ」
ララは設計図を受け取り、その精緻な構造に息を呑んだ。そして、真っ直ぐに俺の目を見つめ返した。
「……アルドさん。あなたって人は、本当に……」
彼女は何かを言いかけて口をつぐみ、フッと柔らかく微笑んだ。
「分かったわ。すぐに手配する。港町の復興も含めて、完璧な物流網を築いてみせるわ。私たちの『テラ・テルマエ』の未来のために」
力強く頷く彼女の顔には、もう単なる金儲けの野心だけでなく、一つの巨大な事業を背負うパートナーとしての確かな覚悟が宿っていた。
その日の夜。
テラ・テルマエの広場は、これまでになく豪勢な宴の席となっていた。
港町から届いた新鮮な白身魚の香草焼き、巨大なエビの塩茹で、そして貝の旨味がたっぷりと溶け出した濃厚なスープ。内陸では決して口にできない海の幸が、長机の上に所狭しと並べられている。
「美味しい……! この『エビ』という生き物、見た目は虫のようで驚きましたが、身が甘くて弾力がありますわ!」
リーリャがエビの殻と格闘しながら、顔を輝かせている。エルフたちにとって、初めて口にする海の味覚は新鮮な驚きだったようだ。
「いただきますわ」
ギルド支部長のソフィアが、上品な手つきで白身魚を口に運び、目を細めた。彼女の横には、高く積まれた法整備と税制関連の書類の束がある。
「アルドさん。ララさんが持ち込んだ莫大な富のおかげで、私たちの領地は完全に一つの『国家』としての経済基盤を確立しました。この資金があれば、防壁のさらなる強化も、医療機関の拡充も思いのままです」
「ああ。みんなの労働環境を良くするために使ってくれ。俺はただ、美味い飯が食えて、温かい風呂に入れればそれで十分だ」
俺が麦酒の入った杯を傾けると、ソフィアは「欲のない領主様ですこと」と小さく笑い、自分の杯を掲げてきた。軽く打ち合わせ、喉を潤す。冷たい麦酒が、潮の香りのする料理とよく合った。
ふと足元を見ると、昼間は蟹に怯えていたシロが、今度は俺が綺麗に殻を剥いた蟹の身を、尻尾を千切れんばかりに振りながら夢中で平らげていた。
昼間の威勢はどこへやら、今はただの食欲の塊だ。
その丸い背中を撫でながら、俺は夜空を見上げた。
死の荒野と呼ばれたこの地に、今は人々の笑い声が溢れ、海を越えた繋がりが生まれている。
職人たちの槌音、笑い声、そして静かに稼働するマザーの駆動音。
動き出した大物流の波は、テラ・テルマエという奇跡の都市を、さらなる高みへと押し上げようとしていた。
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