第52話 氷の谷の守護獣
吹き荒れる猛吹雪の中、ギガント・マザーは前面排土板を低く構え、白に染まった岩肌を削りながら突き進んでいた。
車内は快適な温度に保たれているが、防弾ガラス越しに見える景色は完全に死の世界だ。
そして、その白い闇の中から、俺たちの行く手を阻む「壁」が現れた。
『マスター。敵性体の姿を視覚センサーで捉えました。……メインモニターに投影します』
ノイズ混じりの映像が鮮明になり、そこに映し出されたものを見て、俺は息を呑んだ。
身長は優に三メートルを超え、全身が雪のように白い体毛に覆われている。筋骨隆々の太い腕は、丸太のように太い。
それは、巨大な猿の魔物だった。
しかも、一匹ではない。吹雪の向こうに、数十匹の群れが陣形を組んで待ち構えている。
「雪猿の群れか……! ここは奴らの縄張りらしいな」
ヴァネッサが目を細めて言った。彼女はすでに大剣の柄に手をかけている。
「グルオォォォォォッ!!」
先頭に立つ一際大きな雪猿が自らの胸を叩いて威嚇すると、それに呼応して群れ全体が動き出した。
彼らは周囲の雪と氷を巨大な塊に握り固め、それを投石機のような勢いでマザーに向かって投げつけてきた。
ドォォォンッ! ガガンッ!!
大岩のような氷の塊がマザーの装甲に直撃し、砕け散る。
車内が大きく揺れた。
「わふんっ!?」
足元でくつろいでいたシロが、突然の衝撃に驚いて跳ね起きた。
そして、慌てて俺の足と椅子の間に潜り込み、両前足で頭を抱えるようにして縮こまってしまった。
体は立派な銀狼に近づいているのに、中身はまだまだ臆病な子犬だ。俺は苦笑しながら、震える銀色の背中を片手で優しく撫でた。
「大丈夫だ、シロ。こいつの装甲はこんな氷じゃ破られない」
『ええ。痛くも痒くもありませんね。ですが、塗装に傷がつくのは心外です。……除雪作業のついでに、あの毛玉たちも片付けてしまいましょう』
マザーが排土板の出力を上げようとした時、ヴァネッサが立ち上がった。
「待てマザー。車内で揺られているだけじゃ、体が鈍っちまう。……アルド、上部ハッチを開けろ。少し暴れてくる」
「私も行くわ。野蛮な猿どもに、本物の『氷の美しさ』というものを教えてあげる」
シルヴィアも細身の長剣を抜き放ち、冷たい笑みを浮かべた。
「おい、外は猛吹雪だぞ!? まともな視界もないのに……」
「問題ないわ。氷雪は私の領域よ。……開けなさい」
二人の気迫に押され、俺はマザーに上部ハッチの開放を指示した。
プシュウゥゥッ!
ハッチが開いた瞬間、猛烈な冷気が車内に舞い込む。だが、二人の戦士はそんなこと意にも介さず、軽やかにマザーの背中へと跳び出した。
「さあ、おいでなさい!」
シルヴィアが空高く剣を掲げると、彼女を中心に周囲の吹雪がピタリと動きを止めた。
いや、止まったのではない。彼女の魔力が、自然の吹雪を完全に支配下に置いたのだ。
「『白銀の舞』!」
シルヴィアの剣が振るわれると、静止していた雪粒が鋭い刃へと変貌し、猛烈な勢いで雪猿の群れへと襲いかかった。
「ギャウッ!?」
雪猿たちが悲鳴を上げる。彼ら自身の分厚い毛皮すら貫く、絶対零度の吹雪。
足元が瞬時に凍りつき、彼らはその場に縫い付けられた。
「ハハハッ! いい援護だ、お姫様! あとは私が砕く!」
ヴァネッサがマザーの装甲を蹴って跳躍した。
空中から、凍りついた雪猿の群れの中へ落下しながら、巨大大剣を叩きつける。
ドゴォォォォォンッ!!
凄まじい衝撃波が広がり、凍結した雪猿たちが氷像のように砕け散った。
彼女の剛腕は、魔物の強靭な肉体ごと、大地をすり鉢状に陥没させるほどの威力を誇っていた。
残った雪猿たちが恐怖に顔を引き攣らせ、逃げ出そうとする。
『逃がしませんよ。道の真ん中を散らかしたまま帰るなんて、許されません』
マザーが加速した。
巨大な排土板が、逃げ惑う雪猿たちを雪ごとすくい上げ、谷底へと容赦なく放り投げていく。
魔法と剣、そして圧倒的な重機の蹂躙。
ものの数分で、三十匹以上いた雪猿の群れは完全に一掃された。
『敵性反応、消失。周辺の安全を確保しました』
「ふぅ、いい運動になったな!」
「毛が散らばって汚いわね。マザー、あとの掃除は任せるわ」
ハッチから戻ってきたヴァネッサとシルヴィアは、息一つ切らしていなかった。
本当に頼もしい女性たちだ。
「お疲れ様。……ほらシロ、もう終わったぞ」
俺が椅子の下を覗き込むと、シロはおずおずと顔を出し、耳をピクピクと動かして周囲の静寂を確認した。
そして、危険が去ったと悟るや否や、スッと立ち上がり、胸を張って「わんわんっ!」と外に向かって吠え始めた。
さっきまで震えて隠れていたくせに、まるで「俺が追い払ってやったんだぞ!」と言わんばかりの堂々とした態度だ。
「お前なぁ……まあ、そういう現金なところも可愛いんだけどな」
俺はシロの頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。シロは「えっへん」とばかりに尻尾を高く上げている。
障害を排除し、俺たちは目的の座標へと到達した。
吹雪もシルヴィアの魔法の余波でいくらか弱まり、視界が確保できるようになっている。
だが、問題が発生していた。
「……マザー。本当にここが目標地点か?」
『はい。座標に誤差はありません。この真下に、強大な未知の魔力波形が存在します』
俺とヘレナは、画面に映し出された風景を見て言葉を失っていた。
そこにあるのは、一面の銀世界。
見渡す限りの雪原と、切り立った氷壁があるだけで、遺跡の入り口らしきものは何一つ見当たらなかったのだ。
「完全に雪と氷に埋もれてしまっているようですわね。……古文書の記述では、この永久の白銀の谷の最深部に、巨大な金属の扉があるはずなのですが」
ヘレナが羊皮紙の束をめくりながら、悔しそうに唇を噛んだ。
『マスター。地中探査を試みていますが、この岩盤と永久凍土の層には魔力を乱反射させる特殊な鉱石が含まれているようです。正確な扉の位置を一点に絞り込むことができません』
「やみくもに掘り返すわけにはいかないな。マザーのドリルで遺跡本体を傷つけたら元も子もない」
俺は腕を組んで考え込んだ。
せっかくここまで来たというのに、入り口が分からないのではどうしようもない。
外に出て探そうにも、この広大な雪原を自力で掘って回るなど不可能に近い。
「わふっ! くぅ~ん!」
その時、俺の足元でシロが激しく鳴き始めた。
俺のズボンの裾をくわえて引っ張り、ハッチの方へと向かおうとしている。
鼻をヒクヒクと動かし、しきりに外の空気を嗅いでいるようだった。
「どうしたシロ? 外に出たいのか?」
「わんっ!」
シロは俺を見上げて、力強く尻尾を振った。
その瞳は、何かを確信しているように輝いている。
魔物であり、自然の中で生きるシルバーウルフの嗅覚は、マザーの機械的な探知網をも凌駕することがある。俺はシロの勘を信じてみることにした。
「マザー、ハッチを開けてくれ。俺とシロで少し外を探ってみる」
『外気温は氷点下を大きく下回っています。防寒着を着用してくださいね』
俺は分厚い毛皮の外套を羽織り、シロを抱き上げて外へと出た。
刺すような冷気が顔を叩く。
俺はシロを雪原にそっと降ろした。シロにとって、これは初めて体験する本格的な深い雪だ。
ズボッ。
「きゅぅ!?」
降り立った瞬間、シロの短い足は柔らかな新雪に埋まり、胸のあたりまですっぽりと雪の中に沈んでしまった。
驚いたシロは、ピョン、ピョンと兎のように跳ねて進もうとする。
そのたびに雪が舞い上がり、銀色の毛並みに白い雪が降り積もっていく。
あまりの愛らしさに、後ろで見守っていたヘレナとシルヴィアから「きゃあ、可愛い……!」という黄色い声援が上がった。
シロは雪に足を取られながらも、鼻を地面すれすれまで近づけ、一心不乱に匂いを嗅ぎながら進んでいく。
あっちへウロウロ、こっちへウロウロ。
そして、そびえ立つ巨大な氷壁の一角で、ピタリと足を止めた。
「どうしたシロ、そこか?」
「わふぅっ!」
シロは俺を振り返り、一度大きく鳴いた後、猛烈な勢いで前足を動かして雪を掘り始めた。
ザッ、ザッ、ザッ!
雪煙が後ろへ勢いよく飛んでいく。
夢中になって掘るものだから、シロの顔面は真っ白な雪まみれになり、鼻の頭や眉間に雪がくっついて、まるで白い髭を生やした老人のようになっている。
「くしゅんっ!」
鼻に雪が入ったのか、可愛らしいくしゃみをした。
だが、シロは掘るのをやめない。
数分ほど掘り進めたところで、シロの前足が「カチンッ」という硬い音を鳴らした。
「……何かあったか?」
俺が近づいて雪を払いのけると、そこには氷や岩ではない、人工的な金属の表面が露出していた。
淡く青みがかった、マザーの装甲にも似た未知の合金。
そして、その表面には微かに魔力の残り香が漂っていた。シロは、雪の下から漏れ出すこの微小な魔力の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
「でかしたぞ、シロ! お手柄だ!」
俺が抱き上げて褒めちぎると、シロは雪まみれの顔で「えっへん」と胸を張り、得意げに尻尾を振った。
ブルブルッと体を振るって雪を落とす仕草も、たまらなく愛くるしい。
「マザー! 入り口の端を見つけた! ここを中心に、遺跡を傷つけないように雪と氷を排除してくれ!」
『了解しました。マスターとシロちゃんは下がっていてください。……細心の注意を払った除雪作業、開始します』
マザーが慎重に近づき、排土板とアームを器用に使って、金属の表面を覆う雪と氷を削り取っていく。
巨大な重機でありながら、その手つきは美術品の修復を行う職人のように繊細だった。
数十分の作業の末。
ついに、氷壁の中に埋もれていた「それ」が全貌を現した。
「おおお……!」
俺たちは感嘆の声を漏らした。
高さ十メートル、幅二十メートルにも及ぶ、巨大な金属の二枚扉だ。
扉の表面には、俺の拠点で見つけた遺跡と同じ、幾何学模様の魔導回路がびっしりと刻み込まれている。
しかし、意匠はどこか異なっていた。より直線的で、冷たさを感じさせる無機質な装飾だ。
「間違いありませんわ……! 古代文明の第二の施設! それも、これほど完全に原型を留めているなんて……!」
ヘレナが興奮に震えながら、扉に刻まれた古代文字を指でなぞる。
彼女の瞳は、新たなる叡智の扉を前にして、狂気にも似た知的好奇心で燃え上がっていた。
「俺たちがここに来たのは正解だったようだな。……さあ、開けてみるか」
俺はシロを抱き直した。
この冷たい扉の奥で、何が眠っているのか。
新たなる古代の遺産か、それともマザーのような新しい相棒か。
期待と微かな緊張を胸に、俺は自身の魔力を束ね、巨大な扉へと手を伸ばした。




