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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
暑さや寒さ、痛みも感じないとなれば、とうぜん、疲れだって感じません。
ですが、くーちゃんは疲れていました。胸の奥がずんと重く、どういうわけか息切れもして、走り続けられなかったのです。
ぐうぜん立ち止まったのが、大きな橋の上でした。橋の入り口には『新庭神橋』と銘打たれています。町中を見る余裕もありませんでしたから、まるで、ゲストハウスの和室からここまで瞬間移動したような気分でした。
見上げる空は、真っ青でした。空の青色が日差しにも混じっているようで、白く雪化粧された町並みが、青く輝いて見えます。うっとりするような景色と対称的に、くーちゃんの心は沈む一方です。
くーちゃんは欄干にもたれて、橋の下を見つめました。ゲストハウスの二階から見えていた川が流れています。川面はやはり透明で、浅く、砂利と小石でいっぱいの川底がのぞいています。天界の湖も透明ですが、底が見えたことはありませんでした。
実際、あの湖に底なんてあるのでしょうか。
くーちゃんは湖に落とされて、いつまでも沈んでいくような感覚がして、気づけば地上にいました。もしかしたら、いままさに湖の底にいるのかもしれません。人間の住んでいる地上は、あの湖の底にあって、水面に見えていた地上の景色は、ただ湖の底が映っていただけなのかも……
ふいに、さっきの男の子の泣き声が蘇り、たまらず耳をふさぎます。
ゲストハウスは、目を凝らさないと見えないくらい遠くにあります。
なのになぜ、あの泣き声が耳から離れてくれないのでしょう。
なぜ、あの男の子のおかあさんや、おとうさんの表情が忘れられないのでしょう。
なぜ、祖父江さんの困った顔まで思い出してしまうのでしょう。
くーちゃんの答えは変わりません——この世で一番愚かなのは人間だ——人間が泣こうがわめこうが、くーちゃんの知ったことではありません。そんなどうでもいい存在のくせに、あたしの心を、これほどに締めつけ、苦しめてくる……うっとうしいこと、この上ない。
しかし、くーちゃんにもわかっていることはあります。一番愚かなのは人間、その答えでは不正解なのです。一刻も早く地上から離れたくて、くーちゃんは小さな頭を働かせます。一番愚かなのは、人間じゃないってこと? それとも、やっぱり人間が一番愚かなんだけど、具体的にどう愚かなのかまで説明しないといけないのかな……? 考えれば考えるほど、ゲストハウスの一件から思考が離れていきますが、今度は頭が重くなってきました。知恵熱で頭が重くなるなんて、天界にいたころには考えられなかったことです。
頭を冷やしたくて、くーちゃんは欄干にしがみつき、額を乗せます。ひんやりともしません。はじめて、天使の身体を恨めしく思いました。
さて、どうしましょう……あんなことがあった後で、ゲストハウスに帰ろうとは思えません。祖父江さんと顔を合わせるのが恐ろしくてたまらない。それならゲストハウスに帰らなくていいのか、というと、それもまた難しい。でも、人間がはびこる地上を放浪するなんて、論外です。しかし帰れば、また人間の後始末を手伝わされる羽目になり……
そんなふうに、帰ろうか、帰るまいか、うだうだ悩んでいたときです。
うつむいていたくーちゃんの足元に、小さな影が差しました。
顔を上げると、男の子がいました。小学校の帰りでしょうか、黒いランドセルを背負っています。銀縁の大きな眼鏡をかけていて、その奥にある両目は、心配そうにまばたいています。
男の子が言います。
「だいじょうぶ?」
「……なにが?」
「顔、真っ青だから」
「青いのはあんたの服でしょ」
男の子は青色のベストを着ています。
「ううん、キミの顔、青い」
欄干の色でもついたのかしら、と、くーちゃんは額を触ります。言葉回しを知らないくーちゃんでした。
「あたしをからかうなんて、いい度胸してるじゃない」
「ぜんぜん、そんなことないんだけど」
男の子は困ったような顔をします。久しぶりに、人間の困った顔を見て、くーちゃんはほっとしました。人間にいたずらをするときのような楽しさはないけれど、なんだか、毒気を抜かれたような気持ちになります。
「冗談よ」
と言うと、男の子もほっとしたような顔をしました。
「そういえば、ちゃんと星山に行けた?」
「どこ?」
「ゲストハウス。このまえ、道、困ってたでしょ」
そこでやっと、この男の子が誰なのか、思い出します——地上に落とされた初日、暗い夜道で出会った——あの男の子です。
くーちゃんは目いっぱい強がって、
「別に困ってない。ちゃんと、ひとりで、ゲストハウスまで行けたから」
ふんぞり返るくーちゃんを見て、男の子は「よかった」と頬をほころばせました。
……なぜでしょう。くーちゃんは相変わらず、人間を愚かだと思ってはいますが、この男の子に対して、悪い印象を感じません。ちょっとだけ考えて、やっぱりあたしを敬っているからかしら、と、なんとなく当たりをつけました。貢物(マフラーと手袋)もくれたわけだし。
「ぼく、セナ」
男の子は自分の胸に手を当て、
「銀竜セナ、って言います。銀竜って、珍しい苗字でしょ」
「珍しいの?」
「え、どうなんだろ、自己紹介するたびに、珍しいって言われるから、そうなんだと思ってたけど、違うのかな」
「あたしが知るわけないじゃない」
だよね、と男の子はおどけるように笑います。
「それで、キミは? キミの名前は、なんていうの」
反射的に、天使に名前はない、と言いかけて、いまの自分には名前があると思い出します。心から認めた名前ではありませんが、
「くーちゃん」
と、不承不承、名乗ります。
「くー、が名前?」
「さあ、あたしがつけた名前じゃないから、わからない」
「じゃあ、くーちゃん、って呼んでも、呼び捨てにならない?」
「好きに呼べば」
「じゃあ、くーちゃん」
男の子はしっかり名前を覚えるように、口の中で「くーちゃん」と唱えていました。そのようすも、くーちゃんのことを考えてくれているようで、うれしくあります。
「くーちゃん、その格好、ほんとに寒くないの?」
セナはくーちゃんの身体に目を向けます。人間からすれば、天使の着ている服は、白いシルクのワンピースのようでした。冬場なのに半そでのワンピース姿で、そのうえ裸足です。
セナが言います。
「この前あげたマフラーと手袋、使っていいのに」
「天使は人間と違うの。人間みたいに、寒くて死にそうだから、シャツの上からアンダーシャツを着て、ワイシャツとセーターとジャケットを同時に羽織って、首にマフラー、両手に手袋をつける、なんて間抜けなことはしないの」
「天使だから?」
「そう、天使だから」
くーちゃんの言うとおり、セナから見ても、くーちゃんが冬の寒さに震えているようすはありませんでした。「天使って、ほんとうにいるんだ」と、セナは納得したようにうなずきます。
「天使とか悪魔とか、そういうの、お話のなかにしかいないと思ってた」
「悪魔はいないわ。でも天使はいる」
「じゃあ竜は?」
「それも人間の空想。悪魔はいないし、竜もいないけど、天使はいるの。本物の天使って、人間が妄想したのとは、ぜんぜん違う」
セナはくーちゃんの頭や背中をまじまじと見つめます。天使の輪っかや白い翼は、どこにも見つかりません。
「ふつうの女の子にしか見えない」
「見た目で判断するなって、教えてもらってないの?」
「ううん、おかあさんにも、先生にも、教えてもらってる。今度から、女の子を見たら、もしかしたら天使かもって、思うことにする」
くーちゃんは満足そうにうなずきます。どうやら、素直な人間のことは、そう嫌いでもないようです。あたしの隣で話すくらいは許してあげましょう、と、くーちゃんは寛大な心を持つことにしました。
それからくーちゃんは、ちょっとだけ宙に浮いて見せたり、その場でくるくる回ってみせたり、およそ人間には出来ない業をいくらかやって見せました。そのたびにセナが驚きます。それもまた、くーちゃんには楽しくありました。
ひとしきりセナをからかって満足するころ、ぐうっと、セナのお腹が鳴りました。人間はお腹がすく生き物です。セナは、お腹の音を聞かれて、恥ずかしそうにうつむきます。心なしか、驚きと興奮で赤らんでいた頬から、急速に色が抜けていったように、くーちゃんは見えました。
「帰らないの?」
自分のことは棚に上げ、たずねます。
「もしかして、これから学校? 人間の学校って、朝早くにやるものだと思ってたけど」
セナはうつむいて、
「今日は……四時間目で、授業、終わって」
「じゃあ帰りなさいよ」
セナは動きません。
「帰りたくないの?」
「帰りたい」
「だったら、帰りなさい」
「帰りたいけど……いまは、その、帰れなくて」
わけがわかりません。くーちゃんの思う人間の愚かさには、こういうところもあります——やりたいことがあるのにやらない、やりたいことがあるのにやれない——人間はたしかに、天使と比べればずいぶん不自由な体をしています。ですが、意思まで不自由に縛られているわけではありません。やろうと思えばやれるのに、それをしない理由が、くーちゃんにはわかりませんでした。
そこにきてやっと、くーちゃんはセナをじっくり観察しました。
黒い髪の下には、銀縁の大きな眼鏡と、つらそうに細められた両目があります。
青色のベストはもこもこと温かそうですが、冬の風が吹き抜ける橋の上にあって、そのベストだけでは心もとない。
ネイビーカラーの長ズボンは、生地が薄いのか、少し風が吹いただけで片側に生地が寄ってしまいます。
ズボンの裾からは、真っ白なソックスがむき出しになっていて……
くーちゃんは首をかしげます。
「あんた、靴、履いてないの?」
湖から見てきた人間も、ゲストハウスにやってきた人間も、みんな、外を出歩くのに靴を履いていました。天界と違って、地上はあちこちに砂利や小石が散らばっています。くーちゃんはこの橋まで夢中で走ってきたので気づきませんでしたが、石畳みの通りには解けずに残った雪があり、橋の上も同じです。
くーちゃんは天使です。
が、セナは人間です。ソックスだけで道を歩けば、雪解け水がソックスに染み、砂利や小石が足の裏に食い込んでしまいます。セナはたしか、初めて会ったとき、彼は赤いスニーカーを履いていたはずです。あのスニーカーはどこにいってしまったのでしょう。
セナは、それこそ聞いてほしくなかったことだったらしく、唇をきゅっと結んでしまいました——話そう、やっぱりやめておこう——心が揺れるのに合わせて、細い唇が開いたり、また閉じたりを繰り返しています。
くーちゃんは、まどろっこしくなって、「さっさと話しなさい」と水を向けようとした、そのときです。
橋の北側——町中とは反対の方から、「あー!」という声が響きました。
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