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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
湖の中はなんと真っ暗でした。それもそのはず、幼い天使はあまりの恐怖に、両目を固くつむっていたのです。少しでも目を開ければ、透明な液体の向こうに天界の白さが見えるのですが、そんな余裕、どこにもありません。どこまでも透明で、どこまでも真っ暗な液体の底にめがけて、幼い天使は沈んでいきます。
最初こそ、彼女は湖から這い上がろうともがいていました。天使は人間のように酸素を必要としませんから、息苦しくはありません。ですが、どんなにあがいても、両手は空気を掻いているようで、湖の水は彼女の指の隙間からすり抜けてしまいます。どんどん辺りが暗くなります。もはや、天界の景色は拝むべくもありません。
どこまで落ちるんだろう、と思った直後、ふいに全身が軽くなりました。と同時に、背中には、天界にはない硬い感触が広がっています。
幼い天使は、ゆっくりと両目を開き、がくぜんとしました。
辺り一面、夜の暗がりに包まれていました。
天界の白さはどこにもありません。
はらはらと舞う雪が、彼女の視界で唯一、白く光っています。
「ここ、どこ……?」
天使は立ち上がり、こわごわと辺りを見回します。石畳みの通りがあり、古い街灯が等間隔に立っています。石畳に降り積もった雪は、ほとんどが通りの端に押し固められていますが、後から後から雪が降るため、賽の河原のような虚しさがあります。道の左右には、押し固められた雪のほか、白壁の家屋が建ち並んでいます。どの家にも格子窓と障子があり、玄関口には暖簾がかかっています。夜遅いせいか、明かりのある家もあれば、ない家もありました。
ふと、空から白く輝く用紙が落ちてきました。幼い天使はすがるように手を伸ばします。綿雲の用紙には、大天使様のきれいな字で、こう書いてありました。
『忠告。地上には、天界の気配がない。みだりに天使の力を使うでないぞ』
……それだけ?
たったそれだけしか書いていないの?
幼い天使は、短い文章を何度も読み返します。そのうち、ひゅーっと夜風が吹きました。綿雲の用紙は、幼い天使の手の中で散り散りになり、暗い夜空に消えました。
幼い天使は、生まれてはじめて——そう、天界に召されて八十年も過ぎたいまになって——恐怖と絶望を覚えました。身体が震えます(どういう原理か、天使は暑さ寒さを感じません)。恐怖と絶望が身体を震わせてくるのも、はじめての経験でした。
なんとか頭を働かせます。
どうすれば天界に帰れるのか。
なんということはありません。
大天使様の問いに答えれば、すぐにでも天界に帰れます。
天使は叫びました。
「人間です! 人間が、世界で一番、愚かな生き物です!」
ブー!
頭の奥に不正解の音が響きました。あまりの大きさに視界が揺れ、たまらず頭を抱えます。大天使様にも、おちゃめなところがあるようです。そんな心遣いを知ってか知らずか、幼い天使はちゃんと腹を立てました。
「……そうだ!」
天界の湖は地上とつながっていました。それなら、地上から天界につながる道もあるはずです。
幼い天使は胸の前で手を組み、念じました。
「光よ、お願い、あたしを天界につながる道に案内して」
すると、目の前に光の球が浮かび上がりました。幼い天使は胸を撫でおろします。天使の力が使えた。それに、光の球を追えば、天界につながる道まで行けるはず……しかし、光の球はいっこうに動こうとせず、天使の眼前をふわふわと漂うばかりです。
天使はしびれを切らして、さらなる命令をしようと口を開きかけた、そのとき——
ガシャーン!
目の前に巨大な雷が落ちて、天使は尻もちをつきました。大天使様の雷です。あんなのに打たれたらひとたまりもありません。雷に打たれた光の球は、焼け焦げた砂のようになって、さらさらと消えてしまいました。あとに残ったのは、地上を満たす暗闇と、地上に舞う粉雪だけ……
幼い天使の引きつった頬に涙が伝います。はやく天界に帰りたい。でも、ずるはできない。大天使様に言われたとおり、「この世で最も愚かなものはなにか」その答えを見つけなければいけません。
ですが、どうすればいいでしょう。大天使様の言葉を思い出します——ゲストハウス星山——そこに大天使様の友がいるはずです。しかし、いたずらのためだけに地上を見ていた天使が、はたして地上の歩き方まで知っているでしょうか。
天使は途方に暮れて、身体をくの字に折り曲げて、うずくまってしまいました。
そのとき、ふと、何やらやわらかい布がかぶせられました。
天使が顔を上げると、すぐそばに、大きな眼鏡をかけた男の子がいました。暖かそうなジャケット、ジャージのズボン、をはいています。両手にはもこもこの手袋をしています。
「だいじょうぶ?」
まさか人間に同情されてる?
幼い天使はあわてて目元をぬぐい、「だいじょうぶに決まってる」と強がります。
男の子は心配そうにまばたいて、
「一月なのに、そんな半そで着て……寒くないの?」
「寒くない。あたし、天使だし」
「天使?」
男の子が首をかしげます。
幼い天使は、なんとか人間より優位に立とうと、頭を働かせます。
「そう、あたし、天使なの。人間なんかよりずっとえらくて、ずっとすごいんだから。あなた、どうせ、あたしを可哀そうだと思ったんでしょ。人間なんかがあたしを同情するなんて、いったい何様のつもり……」
と、そこで、幼い天使はさきほど頭に乗せられた布に気づいて、手に取りました。大きなマフラーでした。天使には物の価値がわかりませんでしたが、なんとなく上等そうだなと思いました。
「それ、あげる」
男の子が言います。
「寒くなくても、それ、あげる」
「いいわよ、いらない」
「ううん、あげる」
男の子もなかなか強情です。
「ぼくが持ってるより、他の子が持ってる方が、そのマフラーもうれしいと思う」
それからこれも、と、男の子は手袋を外して、幼い天使に渡しました。
天使がまばたきます。
「あんた、物の声が聞こえるの?」
人間にそんなことができるなんて、聞いたことがありません。
男の子が言います。
「ううん、聞こえない」
「じゃあなんで、マフラーがうれしい、なんて思うの」
「さあ、なんとなく」
幼い天使はあきれて、ため息をつきます。聞こえないものを聞こえると思うなんて、やっぱり人間は変だ。
ですが、この男の子はどうやら、幼い天使を敬っているようです。悪い気はしませんでした。なるほど、ここまで人間と会話したあたしへの貢物、ということね。幼い天使が意気揚々と、マフラーと手袋を小脇に抱えます。
男の子は(どうして使わないんだろう)と、不思議そうな顔をしましたが、マフラーと手袋の使い方を教えるような真似はしませんでした。
「ところで、キミ、だれ? このへんで、見たことないけど」
「だから、あたしは天使なんだって」
「どこから来たの?」
「天界」
「てんかい?」
そんな地名知らない、という顔をしています。
「間ごときに観測できる場所じゃない。それよりあたし、行きたいところがあるんだけど」
「どこ?」
「ゲストハウス星山ってところ」
「ああ、それなら——」
男の子は、道の先を指さして、行き先を教えてくれました。ほとんど道なりに行けば、たどり着けるようです。
幼い天使は、さっさと男の子のもとを離れました。いくらか歩いて、そういえば、さっきの人間がどこから現れたのか、わかっていないことに気がつきました。
幼い天使は後ろに振り向きますが、すでに男の子の姿はありませんでした。自分の足跡の他に、彼の足跡が、白い雪の上に残っています。近くに家があったようで、見送ることもなく、家に入ってしまったのでしょう。
幼い天使は向き直り、夜の暗がりに震えつつ、白壁の通りを歩きました。
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