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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
ひととおり町を案内してもらっている間に、庭神町はすっかり夕暮れに染まっていました。地上の景色は日ごと、時間ごとに、さまざまな色に移り変わります。白一辺倒の天界にはない光景です。
町中では、昼間営業していた店が閉まっていく一方、居酒屋や料理店など、夜営業の店が開店準備を始めています。ナルちゃんは居酒屋の店主を見つけ、また行くよ、とか、この間はありがとう、とか、気前よく挨拶を交わしています。いつかくーちゃんも、ナルちゃんのように、人間と挨拶を交わす日が来るのでしょうか。くーちゃんには想像もできません。
石畳の通りまで帰ってきます。
通りの入り口には、広い駐車場が設けてあり、そこに、見覚えのある男の子が立っていました。
セナです。
学校帰りのようで、ランドセルを背負っています。
セナはくーちゃんを見つけると、目線があっちこっちと落ち着きなく、しかしやがて、観念したように小さく手を振りました。
「こ、こんにちは」
「なにしてんの、こんなところで?」
「えっと、いまちょうど、眼科に行ってきて……」
セナは眼下の駐車場にいました。
「くーちゃんこそ、なにしてるの?」
「こいつに町を案内してもらってたところ」
「こいつってなにさ」
ナルちゃんはセナの前にしゃがみ、
「あなた、銀竜料理店の息子さんでしょ。わたし、よくご飯食べに行くんだ」
「えっと、おねえさんは?」
「ナルちゃんです。ゲストハウスに住んでるおねえさん」
おねえさん、をやけに強調して言います。
ナルちゃんはセナのようす——さっきからくーちゃんをちらちらと見ています——そのようすを見るや、心底楽しそうな笑顔を浮かべて、くーちゃんの肩をつかみ、セナの前に突き出します。
「じゃ、わたし、先に帰るから」
「なんで?」
「ここまで来たら、帰り道くらいわかるでしょ」
ナルちゃんがささやきます。
「少しくらい、人間と仲良くする努力、してみたら? 地上で暮らしていくならね」
ナルちゃんは(なぜか)セナに手を振って、さっさと行ってしまいました。
くーちゃんとセナは、ひとまず、眼科の入り口近くにあるベンチに腰掛けました。
「それ、使ってくれてるんだ」
セナはおずおずと、くーちゃんの首のマフラーを見ました。
「別に、使いたくて使ってるんじゃない」
ナルちゃんに無理やりつけられたのです。
「まあでも、助かったわ。このジャケットだけだと、もうちょっと寒かったかも」
「寒いの?」
セナが首をかしげます。彼はくーちゃんが天使で、暑さ寒さを感じないと知っています。
くーちゃんは「そんなところ」とはぐらかします。
それから、セナは学校でのことを話しました。今日は授業でなにをしたとか、給食でなにが出たとか……先日の一件以来、ダイチが優しくなったことも話しました。ダイチが、くーちゃんに「よろしく」と言っていた、とも。
「よろしくって、どういうこと?」
「えっと……よろしくは、よろしくだよ」
「さっぱりなんだけど」
「仲良くしたい、ってこと、かな」
くーちゃんは「うええ」と舌を出します。ただでさえ人間が愚かで仕方ないのに、その愚かさの筆頭のようないじめっ子と、誰が仲良くできるでしょう。
しかし、セナがいじめられていないのは、良いことです。ナルちゃんのアドバイスがあったから、というわけではありませんが、自分を尊敬する人間にはできるだけ優しくしよう、と、くーちゃんは決めました。
くーちゃんはちらっと、ガラス窓越しに、眼科を見ました。待合の席がたくさんあり、眼科にかかっている人間たちが、所狭しと座っています。
「眼、悪いの?」
「うん」
セナは銀縁の眼鏡をなでつつ、
「眼鏡がなかったら、ほとんど見えない。プールの中で目を開けてるみたいに、視界がぼやけてる。お医者さんが、もう良くならない、って言ってた」
セナにはまったく、暗い調子はありません。明日の天気の話でもするみたいに、すでに決まった事実を淡々と話します。
くーちゃんは言います。
「別にいいんじゃない? 多少視界がぼやけてるくらいが、ちょうどいいと思う」
ナルちゃんに案内された道を順々に思い返します——石畳の通りは、風情があっても、人通りは少なく、どの店も客入れを意識しているようすがありません。旧庭神橋のある河川敷には、ポイ捨てされたゴミがいくつも見つかりました。旧家の屋敷をお化け屋敷に仕立てて、人間が人間を怖がらせて、やる側もやられる側も楽しもうとしています——こんなちっぽけな田舎町でさえ、人間の矛盾や汚さが垣間見える。それらがはっきり見えてしまうくらいなら、視力が衰えて、見えなくてもいいものが見えなくなったほうが、ずっと気楽に生きられる。くーちゃんは心からそう思いました。
セナには、くーちゃんの真意がわかりません。ですが、少なくとも、彼女の言葉を悪く受け取ってはいませんでした。セナは、くーちゃんの言葉を理解するだけの時間をあけて、
「そうかも」
と微笑みます。
「なんだか、くーちゃんと話すと、元気になる」
「そう?」
「うん。この間も、ぼくのこと、助けてくれたし。くーちゃんみたいに、思ったこと、なんでも話せるようになれたらいいな、って思うし」
セナは照れくさそうにうつむきます。
くーちゃんは鼻高々です。褒められたり敬われたりするのは、やっぱりいい気分です。もっと威厳を見せようとふんぞり返りますが、出鼻をくじくように、マフラーの隙間から冬の風がやってきて、たまらずくしゃみをしてしまいます。
「帰ろっか」
セナが立ち上がります。
「ねえ、今度、ゲストハウスに遊びに行ってもいい?」
「あそこ、遊べるものとかないけど」
「遊ぶ、というか、その……くーちゃんと話しに行っても、いい?」
悪い気はしません。
「かまわないわ」
セナは真っすぐ、うれしそうにうなずきました。
くーちゃんはセナと並んで、石畳の通りを歩きました。セナのように、天使を敬う人間ばかりであふれているなら、地上で暮らすのも悪くない……そんなことを考えながら。
眼科の駐車場の向かい……その陰から、ひょこっと、小さな影が出てきます。
その影——大舟ソラ——は、通りを行くふたつの背中を、じっと見つめています。
セナが、見知らぬ女の子と歩いている。
大舟ソラの耳に、セナの声が聞こえます。
「天使に会ったんだ」
胸の奥がむずむずします。
あの子が、セナを守ったの? でも、あの子には、天使の輪っかも翼もない。まさか、ただの女の子を、セナは「天使」と言ったの? そんなふうに女の子を言い表すくらい、セナは、あの子のことが気に入ってるの?
夜の暗さが近づいて、街灯がぽつぽつ灯ります。通りは明るく、しかし家々の物陰は、夕方よりずっと暗い闇に侵されています。ソラの心も、どんどん、闇の中に溶けていくようで……
ソラは思います。
女の子が男の子に勝つなんて、おかしい……あの子、きっと、まともじゃない。
ソラはこっそり物陰を出て、街灯を伝うように歩きます。
天使の女の子は、小さな尾行に気づかぬまま、ゲストハウスに帰りました。
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