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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
昔々、というほど昔ではありませんが、天界にひとりの天使がいました。この天使は、のちに地上で「くーちゃん」と名づけられるのですが、天界には名前をつけるという習慣がありません。なので、しばらくこの子を「幼い天使」とか、「この天使」とか、人間の女の子の見た目をしているので、「彼女」とか呼ぶことにしましょう。
これからみなさんにお話しするのは、この天使にまつわる物語です。
その前にひとまず、天界がどういうところなのか、おおまかに説明しておいたほうがいいでしょう。
人間のみなさんは、天界と聞いて、どんなところを想像しますか? なんとなく、空の上にあるものを思い浮かべるのではないでしょうか。ですがそれは、人間が生み出した一種の偏見です。天界とは本来、人間が観測しえないところにあります。人間どころか、そこらにいる犬や猫やチューリップなんかにも見えません。上を見ても、下を見ても、右にも左にも、どこにもない。この世のどんな生き物も、天界の正確な在り処はわかっていません。
ですが、人間のなかには想像力の豊かな人種(たとえばストーリーテラーとか呼ばれる人たち)があって、百回銃を打てば一回くらい的の真ん中に当たるだろう、と言わんばかりに創作を続けた結果、本来観測しえない天界というものを見出してしまいました。みなさんが想像している天界とは、外観であれ何であれ、昔の人が生み出した架空の場所なのです。
それでは、実際の天界とは、いったいどんな場所なのでしょう——これも百発一中方式で、的のド真ん中とは言わずとも、的の縁には当たっている——天界はおおむね、昔の人が想像したものと似ています。地上との違いはいくつもありますが、大事な三点を挙げましょう。
まず、天界は白く明るい景色がどこまでも続いています。境界はありません。天界にいる誰ひとりとして、「ここからここまでが私の陣地ね!」といった争いをしないからです。足元はどことなく柔らかいので、もしかしたら床材には綿雲を使っているのかもしれません。
次いで、天界には天使が住んでいます。ただ、頭に輪っかがあって、背中に翼が生えているような、そんな見た目はしていません。人型の天使もあれば、馬型の天使もあるし、犬や猫やチューリップや、そんな見た目の天使だっています。彼ら彼女らは、総じて白い衣を着ています——このあたり、うまくできています——周りの景色も真っ白だから、ちゃんと服を着ているかどうかわかるように、彼らの衣はちょっとくすんだ白色をしています。おかげで、「あなた、ちゃんと服を着ているの? まさか胴体が透けているんじゃありませんよね」なんて間抜けな会話をしなくて済みました。
最後に、みなさんお待ちかね、天界を統べているのは、神様です。ですが、神様は姿が見えないし、一名様なのか二名様なのか、そもそもいるのかいないのかもわかりません。なので、天使たちを実質的に統べているのは、天使のおかあさんとも言うべき大天使様でした。人間の創作でたびたび話題にされている「天使の序列」みたいなものも、当たっているような当たっていないような、そんな感じです。大天使様が一番えらくて、それ以外は下っ端、という力関係になっています。
以上が、天界のおおまかな姿です。
さて、冒頭に出てきた幼い天使の話にもどりましょう。
幼い天使は、天界での生活が退屈で仕方ありませんでした。天界には、地上のような時間の流れがありません。朝も昼も夜もなく、天使はお腹も空かないので、時間が流れているのかどうか、さっぱりです。ですがどうやら、この天使は十六時間ほど起きていて、八時間ほど寝る、というのを繰り返しているようでした。
幼い天使は、自分が「神様の導きで天界にやってきた」ということに気づいてからというもの、起きている間はぼうっとして、寝ている間は意識を閉ざし、たまに思い立てば、フワフワと宙を飛んでみたり、指先に小さな雷を作ってみたり……要は、起きていようが寝ていようが、たいしたことはしていませんでした。
そんな生活を五十年ほど繰り返し、いい加減このぐーたら生活にも飽きた頃。
幼い天使は、とびきりの退屈しのぎを思いつきました。
天界には『地上とつながる湖』があります。地中海の五〇倍ほどの広さで、その湖面に顔を突き出せば、地上の様子を見ることができます。無機質な白い景色がどこまでも続くなか、この湖だけが、透明なガラスのように区切られています。
この湖は、その昔、大天使様が地上を観察するためにありました。湖面に指を突っ込めば、ヒマラヤ山脈から五大湖まで、あっという間に視点を移すことができます。もちろん、大天使様だけでなく、他の天使たちも湖を使うことができます。一億二千年くらい前までは、大天使様といくらかの天使たちが、神様に代わって、動物を進化させたり絶滅させたり、地上に様々なことをやらかしていたそうです。最近では、天使たちの補助がなくてもそれなりに自然が回るようになり、天界の住人たちも、地上の生き物に何らかの罰を与えるのが面倒になっていました。それ以来、この湖はただ地上を見るだけの、寂れた観光地のようになっていました。
幼い天使は、この湖に目をつけました。
彼女が思いついた退屈しのぎとは、人間にいたずらをすることだったのです。
天使には不思議な力があります——宙に浮いたり小さな雷を作ったり——神様や大天使様に比べればちっぽけですが、人知を超えた力なことに違いはありません(しかも、天界にはあちこちにパワフルな気配が漂っています。パワフルな気配とは、読んで字のごとく、パワフルな気配です。科学では測りえない、ミステリアスで、ビューティフルで、パワフルな気配が、天界を満たしています。その気配こそ、天使が力を使うのに必要な原動力でした)。
幼い天使は、湖のそばに屈んで、地上を見下ろします——見下ろすというのは、湖面を見下ろしているのであって、天界が地上より上にあるわけではありません——しかし、この天使には、地上を見下ろしているように思えました。
少し、彼女の一日を見てみましょう。
彼女は湖面に両手を突っ込んで、手当たり次第に、湖面に映る景色を変えていきます。いま、地上の片隅で、スーツ姿の男が歩いているのを見つけました。スーツ姿の男はかんかんに照る日差しにうんざりした様子で、ハンカチを片手に、汗を拭いています。幼い天使は心からの善意で、男の頭上に、小さな雨雲を作ってあげました。とつぜん雨が降り出して、男はまばたきます——男の視点では、頭上には青い空しか広がっていません——男はスーツケースを傘がわりにして、近くのコンビニに走ります。幼い天使はくつくつと喉を鳴らして、男の頭上に雨雲を移動させました。男がぎょっと頭上を見上げます。それもそのはず、コンビニのなかにいるのに、いつまでも身体が濡れ続けていたからです。男は雨を払うようにスーツを振ったり、コンビニをあちこち移動したり、それがむしろ雨ごいの儀式にでもなっているのかと思うほど、男には雨が降り続けます。いよいよ男は怖くなり、わけもわからないまま、コンビニを飛び出していきました。
幼い天使はけらけらと笑います。人間を困らせ、慌てふためく姿を見るのが、この上なく楽しかったのです。
それから三十年ほど、彼女は八時間を睡眠に当て、十六時間を退屈しのぎに当てました。
あるときは、大雨の日に遊びに出かけた子どもの頭上に、小さな雷を落としました。
またあるときは、橋を渡っている女性の首につむじ風を起こして、きれいなアクセサリーを川に落としてみせました。
湖面に手を突っ込み、水鳥さながら、ちょうどいいエサがないか、地上のあちこちを見て回ります——どこぞの講堂に立っている教師からかつらをはぎ取ったり、街行く老婆の片足をどぶにひっかけたり——退屈することはありません。地上には何十億という人間があふれているのです。やんちゃな男の子がアリの行列を踏みつけて遊んでいるのを、誰が止められるでしょう。それはきっと、おかあさんしかいないのではないでしょうか。
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