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  作者: 琥月銀箭
3/6

 日曜日の昼頃、俺は厳神社に立ち寄っていた。

 厳神社は、市内の南の方に鎮座している。湖と面している。

 鳥居を潜ると、そこから長く続く石の参道があり、両脇を小川が流れている。それぞれの小川は湖へと向かっている。

 参道を進んでいくと、やがて社務所が見え、俺はそこにふらっと寄った。

 御守りや御神水が売られている。品定めを少しして、社務所の中に視線を移した。水池の姿が社務所内にあった。

「よ、元気にやってるか?」

「暇だ。参拝客なんて、お前が今日初めてだよ」

 水池は退屈そうに、肘を立て首に乗せていた。本当に退屈そうだ。

「あがっていいか?」

「あぁ、別に構わんぞ。裏の勝手口から来い」

 水池に言われるように、裏口に回ると、そこには半開きの扉があった。そこからあがりこみ、水池の許へと向かう。

 水池は袴姿だ。つまるところ、(おかんなぎ)姿だ。白衣に水色の袴姿は、実に似合っている。ただ、顔が仏頂面なのが、玉に瑕である。俺は隣に座り、境内を見つつ水池に話しかけた。

「バイトの巫女でも雇わないのか?」

「うちの母親が、どこぞの知らぬ巫女を雇うと思うか?」

 水池の母親の事を考えると、雇う気もないだろう。

「ここの境内は、俺が切り盛りしてるもんだぜ……、全く。一人や二人くらい雇いたいもんだぜ……」

 水池は何とも気だるそうに言う。その様子を見る限り、俺は微苦笑して返事をする事しか出来なかった。

「家にいる女中は?」

「あぁ、そっちはそっちで忙しいんだよ。結局、ここは俺一人だ」

 水池が愚痴を零している時に、ふと参拝客がやってきた。二人の老夫婦が、こちらに向かって挨拶をして、参道を進んでいく。水池はさっきまでの仏頂面はどこかへとすっ飛ばして、笑顔になって返事をした。

「お前って現金な奴だな」

「これも商売だ。仕方ないだろ」

 そう言ってまた仏頂面に戻るのだった。


 「それで今日はどうしたんだよ」と、切り出して水池は腰をあげた。踵を返して、奥へと姿を消した。台所に行ったのだろう。ペットボトル入りの御茶とコップ二つを持ってくると、また同じ場所に腰を落ち着かせた。

 ペットボトルの口を開けて、二つのコップに注ぐ。そして、一つを俺に渡した。

「一昨日の夜の事さ」

「あぁ、その事ね。んで何かあったかって事か?」

 水池は御茶を啜った。俺も、口に流し込む。自宅で飲んでいる御茶と同じ処が作っている御茶な故に、美味しさは同じだった。

「これといって何も無かったよ。デマかもしれないから、ちょっと様子見だ」

 「そうか」と俺は頷き、境内に目を向けた。

「念の為、今夜神社本庁に呼ばれてるんだ。そこで、訊いてみるんだが、どう返事が来るか」

「デマ……、なのかな……。だが、水池。俺には気掛かりな事が一つあってよ」

 語句を濁らせながら言うと、水池は俺にきつい視線を向けた。眉間に皺を寄せるその表情は、金剛力士像に似ていた。俺は水池に視線を向ける。

「一昨日の晩、水池と別れて、街を出歩いてたんだがよ、そこまでは良かったんだ。雨が途中で降り始めたじゃん」

 水池は無言で頷いた。

「雨宿りがてら、忌み山に寄ったら、迷子らしき子と出会ってな」

「迷子?」

 水池は小首を傾げた。忌み山で人と出会う、ましてや迷子がいるなんて事はまずない。あの山には、名前の通り、この市内で住んでいる誰もが忌避して近寄らない山なのだ。そこで人がいるという事はまずありえない事なのだ。

「俺と同じ年頃の女子で」

 そう言って、体格やら身長やらを俺は手探りで教えた。水池は終始「ふーん」と感嘆な言葉だけを口にした。

「忌み山に。それはちょっと気掛かりだな……」

 水池の眉間に一層深く皺が寄って出来た。コップに入っていた御茶を一挙に飲み干し、御茶を注ぐ。そして、また一杯飲んでから、「別に、その子に、こうなんだ。変なもんとかついてないよな」と、ちぐはぐに俺に訊ねた。

「変なもん?」

「何だっていい。何か無かったか?」

「いや、なかったと思うよ」

 いや、それ以前に俺は倖の事とかまだ全然知らない。身体にあれこれがあったとか、そういった事は全くの無知である。訊ねられても困る。

「両親は?」

「いない」

「気掛かりだな」

 水池は腕組をして、俺を見据える。「今後、寄ってその子と会ってもいいか?」と、訊いた。「別に構わないけど」と頷いた。コップに入っていた御茶を、俺は飲み干した。

「というかさ、家で預かってるのか?」

「ん、まぁ。行く宛てもないらしいからさ、一応まだわからないけど、住み込み女中って扱いで家にいるけど」

「そうか。じゃあ、今後失礼するよ」

 水池はペットボトルを手に取ると、俺のコップに御茶を注いだ。

「お前も、お節介な奴だよな」

 水池は俺を見ながら、悪魔のようにニヤリと笑う。何かを企んでいるような笑みだった。

「お、お前も言うか……」

「俺もって事は、他の誰かも言ったのか? あぁ、だいたい予想はついた。あの妖怪猫だろ」

「よう、わかってる事で」

「別に考えるまでもねーよ。お前ん家でよく絡んでるのって、猫くらいしかいないからな」

 猫くらいしか相手がいない、と訊くと、何だか俺が寂しい奴ではないかと思われる。だが、実際に相手は毬くらいしかいない。あの家族は皆他人との干渉を拒む者が多い。それぞれ皆が個人な世界に属し、他人の世界には入って来ようとしない。おまけに、変な制度布いているせいもある。

「そんなにお節介かな……」

「十分お節介だと思うぜ、病的なまでにな。見ず知らずの者を、女中にまでして家に置いておくなんてよ。下心でもあるのか?」

 俺は思わず御茶を吹きそうになって、思い留まった。喉に流し込み、「な、なわけないだろ!」と、罵声を浴びせた。水池はケラケラ笑いながら「だってよ、普通はしねぇぜ。言っちゃ悪いけど、得体の知れない子だ。何されるかわからねーぞ」と言った。

「だ、大丈夫だよ、彼女は」

「本当かよ」

 どこからその自信が出てくるのか、自分自身わからなかった。言っておきながら、俺は首を傾げた。全く、後の祭りである。

 水池は呆れながら、「まぁいいけどさ。お前の良心が決めた事だし、俺がどうこう言える立場でもないし」と、境内へと目を向けた。参拝客が参道を歩いている。水池は一礼すると、参拝客も一礼した。ちゃんと仕事はちゃんとするようだ。

「物分かりがいいようで、何よりだよ」

「物分かりがいいんじゃねぇ。ただ単純に考えれば、誰だってわかるわ。お前が、どうしようもない、救いようのないお節介野郎で」

 何だか随分と貶されているような、馬鹿にされているようで、でも、自分を実に的を射ている。この複雑な思いを、俺はどこにぶつければいいのだろう。

 御茶を喉に流し込んで、俺は自分自身を落ち着かせた。

「さて」と言わんばかりに、水池は腰をあげた。そして、奥へと引き下がっていく。俺はその様を見据えていると、やがて水池は将棋盤を抱えて戻ってきた。俺の目の前に、大きな本格派の将棋盤を置くと、駒をその上に散ばせた。

「折角だ。一局やってかね?」

「将棋か。また面白いもん持ってきたな。こないだの格闘ゲームの敗戦の恨み、これで晴らさせてもらうぜ、水池」

「あぁいいぜ。返り討ちにしてやる」

 お互いに並べて、そして一局始めるのだった。


 「王手」と言わんばかりに、敵の駒が陣営を襲ってきた。俺は苦笑しながら、頭を抱える。()が悪い。飛車、角行など、主要を悉く奪われた俺にとって、王手は何とも厳しいものだった。持ち駒もあまりなく、完全に詰んでいる。これで何度目だろうか「降参だ、まったくよぉ」と、水池に白旗を上げるのは。

 水池はガハハと笑いながら、俺の王将を奪っていくのだった。

「残念だったな。あと惜しいところまで行ったのによ」

「嘘つけ。ちょっと手抜きしただろ」

 水池は将棋を片付けながら「さぁ、それはどうかな」と、まるで勝者の風格を醸し出す。全く、人が悪い。

「五勝やって、全部負けるなんて、お前もとことん勝運ないよな」

「違うよ。お前の勝運が強過ぎるんだよ」

「どっちにしろ同じだ」

 俺が「ちぇ」と舌打ちをすると、水池が「まあまあ」と宥めた。

「楽しい対局だったぜ。さぁて、神社もそろそろ店仕舞いだ。俺は出かけちまうんだが、どうするお前」

「帰るよ。どうせ、母親から受けた頼み事なんて、一切の手掛かりなしだ。動きようがないから、大人しくしてるよ。お前は神社本庁か」

 「あぁ」と頷いて、俺に背を向けると、ここから去って行った。そして、個室に姿を消した。着替えるのだろう。あのままでは、出向く事は出来ない。神社本庁に行くのだから、それなりの正装ではないといけない。ましてや、厳神社の者な故に、身構えは十分にする必要があった。

 個室から出てきた水池は、完璧な和服姿だった。水神を祀る一家とあって、濃い蒼色を基調とした和服だった。その姿は、見惚れてしまう程に、様になっている。

「ん? どうしたんだよ」

 いつもとは違う水池の様相に、俺は終始酔い痴れていたのだろうか。水池の声が届くまで、視線はハッキリと水池を捉えていた。

「えっ、あ? なんだよ」

 我にかえった俺は、何とも間抜けな声をあげて返事をした。

「お前大丈夫か?」

「あぁ」

 やはり間抜けな返事しか出来ない。そんな自分が、何だか愚かしくて心の中で檄を飛ばしていた。


 水池と共に社務所を出た。外は既に夕闇が空を覆っている。橙の雲が、辺りを漂っていた。ちょっとばかし雲行きが怪しい。今宵も雨かもしれない。

 下駄の音と共に境内を歩き、鳥居を過ぎたあたりで俺と水池はそれぞれ別れた。

「またな、水池」

「あぁ、お前もな」

 それぞれ、いつものように別れを済ませる。こうして、お互いに手を振り合いながら、背を向けて歩き出すのは、これで何度目だろうか。数え切れない程やってきたのに、何だか新鮮な気分だった。


 ◆◆◆


 自宅へ帰る途中、とあるスーパーマーケットに寄った。何か飲料水でも買っていこうかと思いきったからだ。

 夕方時とあって、スーパーマーケットは混んでいた。おまけに、特売なんてものまでやっている。

 野菜が五割引です。魚介類が五割引です。

 何割引という言葉が、アナウンスと共に店内中に流れている。買い物にやって来た奥様方はそれに釣られるかのように、店内中を右往左往していた。俺はその荒波に揉まれながら、欲しかった飲料水を手に取ると、レジへと向かう。

 出口付近で、踵を返してもう一度右往左往するその様を見てみた。

 ちょっとした戦争というべきだろう。

 戦争を傍から見ていても仕方ない。俺は踵を戻すと、出口を出ようとしたその時だった。視線を振り向かせる寸前、俺はその波の中に、ある者を見つけていた。

 戦争に繰り出す若き戦士。荒波にも負けじと、必死に頑張っている様。俺は視線を戻して、その者を捜していた。

 倖だった。

 倖が、あの戦争の中で買い物かごを武器として、戦場に突っ込んでいる。流石に、周りが(つわもの)ばかりで、なかなか行く先に向かえないようだ。俺はやれやれ、と顔を綻ばせながら、倖の許へと向かった。


 戦争を終えて、俺と倖の二人は黄昏に染まった歩道の上を歩いていた。隣の車道には車が行き交っている。俺が先を歩き、倖が後についてくる。共々、買い物袋二つずつ持っている。俺の方は米袋五キロが二つと、なかなかの強敵だ。倖は俺の後ろをトボトボとついてくるだけだった。

「よかったな、俺が偶然居てさ」

 女中姿の倖に一声かけた。倖は軽く会釈をするだけで、俺と目線を合わせる事はなかった。ずっと俯いてばかりで、俺も少々声が掛け辛い。苦笑して、前に向き直る事しか出来なかった。

 しかし、とんでもない量だ……。倖に、十キロの米袋を持たせるのは、流石に無茶があった。

「他の女中は?」

 倖が首を振る。向こうは向こうで忙しいらしく、倖くらいしか手が空いてなかったようで、一人で帰ってこれるか、心配だったらしい。

 率直に言おう。無茶苦茶だ。

「あ、あのありがとうございます」

 倖が何か言ったのだろう。俺は微かに訊き取ったのだけれど、ちょうど車が横を通って行ったので、エンジンの駆動音で掻き消されてしまった。俺は視線だけを向けると、「いや、何でもないです」と、そっぽを向いた。

 道路を歩く二人は、決して足早ではなかった。倖は和装というのにまだ慣れていないのだろう。履物も。何もかも。だから、たどたどしく遅かった。だが、別に仕方ない、と俺は合わせて歩いた。そうしているうちに、やがて辺りは真っ暗になってしまい、時間帯はもう七時半を過ぎている頃だろう。

 大通りを抜け、住宅街に俺達は入っていた。閑静とした住宅街は、どこの家にも、明かりが灯っていて、夕食を作っている頃だろう。

「大丈夫?」

 時々振り返って倖を一瞥するのは、何度目だろうか。倖は酷く疲弊していた。

 家はここからなら、ちょっと駆け足で向かえば着いてしまう程のところにある。買い物袋だけでも全部受け持って、先に帰らそうか。いや、そうした方がいいかもしれない。全く、俺って奴は本当にお節介野郎だ……。

「ほら、貸せよ」

 倖に近寄る。倖は驚き――ただ、微動だにするくらいに――、一瞬戸惑った。

「先に帰って休んでろよ」

「で、でも……」

 倖は申し訳なさそうに、俺とあまり視線を合わそうとしない。苦心しているのが、愛くるしく思えてしまった。

「別にいいよ、俺の事は」

 馬鹿馬鹿しいぜ、俺って本当に。

 「御免なさい」と、一礼すると倖は袋を俺に預けて先に帰っていった。俺はその後ろ姿を見据えながら、「本当に俺って馬鹿だよな」と戯言を呟いた。

 さてと、と気合を入れて立ちあがる。流石に、米袋に加えて調味料や牛乳のパックなどが数本入っているから、これはこれでなかなかの重みである……。

 だが、後の祭りだ。言ってしまったんだから、自分自身で何とかしなければ。こんな時であろうと、俺は自分のお節介を恨むような事はしなかった。

 寂寥とした住宅街は、車の音さえしない。空に堂々と輝く月が眩しいくらいだ。そらくらいしか、この場において目を楽しませてくれるものがなかった。

 等間隔に並ぶ電灯はところどころで、電球が役目を終えて、電灯としての存在意義を果たしていない。お陰で、夜道は一層暗くなっていた。倖を先に帰らすのは不味かった、と思いつつやはり後の祭りだった。

 買い物袋を引き下げて、道を進んでいる時だ。点滅する電灯の下は、まるでそこだけがコマ送りになったかのように。点滅する電灯によってそこだけが、光景が映し出され消えていく。ストロボのような感覚だ。

 何の変哲もないその明かりの下。何度見ても、そこに何もなかった。たが、刹那、俺は何かを見た気がした。

 それは一瞬の出来事だったから、よく覚えられない。でも、俺は確かに何かを見ていた。

 白き嗤う仮面をつけた一人の者。闇夜に溶け込むような黒き服装。だが、次の瞬間には消え、そしてまた現れた。

 仮面をつけたその者は、鋭い鋭利な物を持っていた、ような気がする。長き刀のようなものが。

 そして、また消えた。

 俺は自分の目がどうにかなってしまったのではないかと、疑って目を擦った。疲れているのだろうか。さっきから結構な時間を歩いてきている。それも米袋持ちながらだったし。やはり疲れているんだな、と思ったその時だった。

 閑静な住宅街に悲鳴があがった。倖の声だった。

 俺は袋を置き、そして駈け出していた。声のする方向へ。急いで、無我夢中に。悲鳴はただ事ではなかったのだ。まるで通り魔に突如襲われたかのような、本当の心からの悲鳴。

 等間隔に並ぶ電灯の下を幾つも潜る。そして、俺は倖を見つけた。

 電灯の下に腰を抜かす倖。その首許に突き付けられる刀。仮面の者が、今にも倖の首を掻っ切ってしまいそうだった。一触触発の状況下。

「倖!」

 俺は大声で名を叫んだ。倖と仮面の者が、俺を見据える。倖は怯えた表情で、俺に助けを求めていた。

 仮面の者は、倖の首許から刀を離すと、こちらに向き直り、そして構えて、襲ってきた。標的が突如変更になったらしい。

 血が騒ぐ。自らの腕を向上する。

 俺は振り翳してきた刀を素手で掴んでいた。そして、そのまま圧し折った。

「鬼……!」

 仮面の者が声を漏らした。仮面の者が驚くのも無理はない。俺の腕は今では人間の腕ではなかった。鬼のように強靭な腕に変化(へんげ)していた。この世とは思えないような異様な腕。筋肉が今にも皮膚を破って露わになってしまいそうな程に張っていた。人間の時よりも数倍に膨れ上がった腕は、片腕だけではない。両腕だ。故に、刀など簡単に圧し折ってしまえるのだ。だが、だからといって、素手で触ったからには、流石に手を切ってしまったが、問題はないだろう。

 仮面の者は、刀の柄から手を離して、咄嗟に俺と距離を取る。武器を取られた事が、痛手だったのだろう。舌打ちを漏らして、民家の屋根の上へと飛び跳ねた。とんでもない跳躍力である。そのまま、忍者の如く、闇夜を走り去っていくのだった。

 血が治まる。腕は戻っていた。

 俺は苦笑いしながら、倖に近寄った。

「あっ、えっと……」

 なんて声をかければよかったのかわからなかった。異端のような腕を見せてしまった事に、俺の心はたじろいでいた。普通は、こんな腕人前では見せない。いや、見せる事など言語道断だった。それを倖に見られてしまった。今更どう足掻いても変わらぬ事実だ。

「あ、ありがとうございます……」

 物分かりがいいのか、それともただ単に気にしないように努力しているのか、倖はさっきの俺の異様な腕の事を訊く事はなかった。差し伸べた手にだって、そっと手を添える。

 俺は倖を起こした。倖は尻の塵を叩き落とすと、俺に一礼した。

 俺は顔を綻ばせた。と途端に、俺は周囲の目を感じていた。

 倖が悲鳴を上げたから、夕食を囲んでいた人達が自宅の窓から顔を出して、俺達を見据えていた。誰もが怪しい視線を送ってきている。俺は心の中で「違う! ちょっと待ってくれ。俺じゃない」と必死の弁明を述べていた。やがて、家の女中までもが騒ぎを訊きつけてやって来た。事態は収拾の一途を辿り始めた。


 家に帰り、俺は早速自室に向かった。正直な話疲れてしまった。買い物に付き合い、おまけに変な野郎とも出会って、軽く鬼化しちゃったしな……。座敷の上に寝転び、天井を無意識に仰いでいた。

「瀬介さん、御食事が出来ましたよ……」

 割烹着姿の倖が、二人分の食事と一匹分の食事を持って、部屋に入ってきた。俺が床に寝転ぶ姿を見て、倖は小首を傾げた。語句が段々と弱々しくなっていく。

「あぁ、御免。そこに置いといてくれ……」

 起き上る気力さえも今はない。倖には悪いけど、先に食べてもらう事にした。

 倖は毬を手招きで寄せた。毬は傍らに座って、自分用に用意された食事に口付けた。倖も、箸を手に食事を食べ始めた。

 俺は、(いず)れは起き上ろう、と胸に誓っておきながら、そのまま眠ってしまって事に、朝になるまで気付く事はなかった。


 □□□


 瀬介さんは眠ってしまった。本当に疲れてしまったようで、私は押入れから布団を取り出すと、敷いて瀬介さんをそこに寝かせた。

 枕元に腰かける。そして、無邪気な瀬介さんの表情を見据えた。そっと顔を撫でてやるのも、憚れる程にその表情は楽しそうだった。毬が私の膝の上に乗って、私と一緒に瀬介さんの寝顔を見ていた。

 毬の首許を擽ってやりながら、私はふと思っていた。

 何故、この人は私をあの時救ったのだろうか、と。

 買い物の帰り道、私は襲われた。あれは、悪夢のような出来事だ。刀が首許に突きつけられる。このままでは殺される。背筋が一瞬にして凍った。戦慄という物を覚えた。私は何も出来なかった。絶望が頭を過った瞬間に、「倖!」と私の名前を叫ぶ声が耳に届いた。それはまだ訊き慣れぬ声なのだけれど、安心出来るその一声に、私は振り向いていた。

 でも、どうせ、助からないだろう。私の目の前にいる刀を持った不気味な奴は、刀を持っている。どう足掻いても瀬介さんは刀に怖気づいて助けに来てくれない。そうやって、半ば諦めかけていた。

 瀬介さんは、足を止めてここから逃げ出すだろう。どうせ、私は赤の他人なのだから、別に私が殺されても、別にどうでもいい事なのだ。侍女だろうが、それでも。

 だが、私の思い描いていたように、現実は物事が進まなかった。

 瀬介さんの両腕は不気味な形をしていた。刀を持った不気味な奴は、瀬介さんに敵意を変えた。素早い足捌きで、瀬介さんに向かって刀を振り下ろした。刀は瀬介さんの身体を二つに分断するだろう。そう思われた。でも、分断されず、強靭な、人間の手には思えない手で、いとも簡単に刀を圧し折ってしまった。刀を折られ、不気味な奴は尻尾を巻いて、脱兎の如く逃げるのだった。

 私にはわからない。その気持ちが。


 他人を信じられない私には、特にその気持ちには敏感になっていた。


 私は今一度、瀬介さんの寝顔を見据えた。何故か、私の顔は軽く綻んでいた。


 ◇◇◇


 身体が揺さぶられている、そんな感じがした。船に波がぶち当たり、左右に触れる様に似ているような気がする。そうして、俺の身体は少しずつ醒覚していく。意識が頭から手足と足先まで届くまで、結構時間がかかったような気がする。即席ラーメンが出来る程の時間は要しただろう、たぶん。

 瞼を開ける。朝の太陽の光が、部屋中に充満していた。襖は開けられ、目前の庭園が視界に入る。身体を起こし、背伸びをした。ついでに欠伸も。

 鼻に微かな匂いを感じて、俺は和卓に目を移した。朝餉が用意されている。美味しそうな朝餉に、眠気が段々と食欲に変わっていた。

「おはようございます、瀬介さん」

 朝の清々しさに似た透き通った声が、俺の耳の鼓膜を揺らがせる。俺は振り返った。割烹着姿の倖が、朝日の光を取り込もうと襖を開けていた。俺と目線が違うと、一礼する倖。絹のように細い髪の毛が前に垂れた。俺はその様相の耽美さに陶酔していた。

 頭を振って、眠気を飛ばす。そして、わけのわからない気も共々。

 座を直した。胡坐をかいた俺は朝餉を食べ始めた。毬が近寄ってくる。俺の胡坐の上に乗って丸まった。視線だけをこちらに向ける。下から見上げてくる毬の視線に、些か飯が食い難い。背中がむず痒い感覚に似ている。爪を立てて掻きたいけど、掻けないこの苛立ち。俺は毬を胡坐から引き摺り下ろした。

「なんにゃ、折角の特等席だというのに、おまいさんは」

 毬は不貞腐れて、俺に愚痴をぶつけて去っていった。そして、向かいに座った毬に近寄った。倖は毬の首許を擽りながら、朝御飯を与えていた。

 俺は朝餉を再び食べ始めた。

 御飯に手をつける。ホカホカに炊きあげられた朝御飯は、見るからに美味しそうだった。朝日の光に照らされ、その白い米粒は、眩いまでの光を放っていた。箸で取って、口許に運ぶ。モチモチっとした感触に早速襲われた。噛み応えのあるこの触感。今まで食べていた御飯よりも、数倍美味しいかもしれない。

「美味い!」

 そう美味を述べる感嘆を、俺は思わず口にしていた。倖は突然の俺の感嘆に驚いて、「ど、どうしたんです?」と怪訝そうに俺を見た。次の瞬間、俺は「あっ、いや、何でもない」と、思わず口走ってしまった事に、思わずたじろいだ。だが、ハッキリ言っておこう。この感嘆は嘘っぱちではない事を。

「倖が朝飯作ってくれたのか?」

「……。そ、そうです。さ、昨晩の御礼です。他の女中さんと一緒に作ったものですけど」

 倖は俺から視線を外すと、毬に移した。そして、そっと答える。

「本当に美味しいよ」

 俺の箸が止まる事はなかった。どんどんと食べてしまう。焼け鮭や味噌汁、御新香まで朝餉として用意されたもの全てが。

「そ、そう言って頂けると嬉しいです」

 倖は相変わらず俺と目を合わせようしなかった。こちらに視線を窺わせたくない。そんな気がする。ふと、倖はまだ箸を手に取っていなかった。「倖は食べないの?」と訊くと、「い、いえ。食べますよ。ただ」と語句を濁らせる。

「瀬介さんが先に食べてください。私など気にせずに」

 そう言われても、俺はどうも倖の事が気になっていた。目の前に朝餉を用意しておきながら、しかし食べないなんて、飯が冷めて不味くなってしまう。そんなの本末転倒だ。それに、朝餉なんだから、一緒に食べた方が美味しいというものだろう。

「倖も食べろよ。俺だけ食べてるのって、気に食わないし」

 「えっ、でも」と倖は何かを言おうとした。だが、俺は「待った。このまま拮抗状態だし、腹決めてちゃっちゃと食べちゃえよ」と、言った。倖は「じゃ、じゃあ」と箸を手に取ると、ゆっくりと自分で作った朝餉を食べ始めた。凄くゆっくりと、亀のように。

 俺は倖を視界の外に追いやり、テレビに目をむけた。電源を入れると、徐に画面にニュース番組が流れ始めた。

 ニュースはいつも通り、どこぞの街で事件が起きましたよ、と報道している。これといって変わりはなかった。肘をつきながら、俺はニュースに見入っていた。ただ、する事もなく、登校時間までまだ余裕がある。自堕落に朝を過ごすのは、久々だった。

「事件って、なかなか減らないよな。どんなに警察が動いても、どんな手を尽くしても、結局は起きる」

 まあ、人間がいる以上、そういった些細な厄介事は出てくるのは必然的なものであり、避けられないものでもある。衣類があるからこそ、埃があるのと同義だ。逆に、厄介事のない更地のような世界があったら、それはそれで逆に恐ろしい。起伏のある世界だからこそ、楽しいというものだ。

 でも、そういった事件は、自分の中では何処となく許せるものではなかった。事件が起こる。そうすると、被害者と加害者というものは生まれてしまうものだ。俺はとことん被害者という者に対して、心を砕く人間だった。どんな事であれ、感傷してしまう。感傷主義者なのかもしれない、俺は。他人に「お節介」と言われる由縁だろう。

 テレビから目を離すと、倖は朝餉の殆どを食していた。後は味噌汁を飲んでしまえば終わりだった。

 倖は味噌汁も食し、片付けを始める。自分の食器と俺の食器。手元にあった御盆に載せて、一旦この場から引き下がった。そして、すぐに戻ってきて、さっきの席に腰を落ち着かせた。

「瀬介さん」

「ん?」

 倖に呼ばれ、俺は視線を向けた。倖は真剣な面持ちで、「こないだの夜の事で」と、話を切り出した。俺は「あぁ、あの事かな」と、思わず声をあげて微苦笑した。

 刀を持った奴と戦った夜の事だろう。そして、俺が鬼と化した夜でもある。

「あの夜は、ありがとうございました」

 倖は頭を垂れた。これで何度目だろうか。こうして、何か事ある毎に礼をされるのは。

「いや、いいよ。倖が、まぁよくわからない奴だけどさ、襲われてたんだ。助けないわけがないだろ」

 倖は「スイマセン」と、深々と礼をする。俺は頭を掻きながら「別にそれ程って事でもないよ。謝礼されても困るよ」と、どうしても面を上げてほしかった。

 倖は頭をあげた。

「あと、瀬川さん。もう一つ訊きたい事があるんですけど……」

 小首を傾げる倖は、語句を濁らすようにして言った。まるで俺に御願をするかのように。


「腕の事。そうじゃない?」


 倖は虚を突かれたかのように、表情を仰天させて、顔を伏せた。どうやら図星らしい。まあ、だいたい予想はついていた。俺の素性を知らないで、あの腕を見せられたら、誰だって訊きたくはなる。人間離れした腕を持つこの俺に。

「そ、そうです……。瀬介さんの両腕は」

 倖は顔を少し上げて俺を見据えた。俺の微苦笑は苦笑に変わっていた。

「まあ、普通の腕ではない事は確かだよね」

 刀を素手で掴んで圧し折る。そんな事、常人に出来る筈はない。故に、俺は常人ではない。腕だって。

「そ、その。その腕って」

「鬼の腕さ」

 単刀直入に言うとそうだ。何の脚色もせず、ただ一言で伝えられる。倖は小首を傾げた。俺は頭を掻きながら、「まあ、わからないと思うけどさ、遠川家って、異能一家。能力持った一家って考えればいいよ」と補足する。

「能力?」

「そう。遠川家の能力は鬼。半分人間でね、残り半分が鬼なんだ」

 遠川家は、古来より退魔家として名を馳せていた。鬼という異系の血を浴びて、人間の限界の範疇を超える力を手に入れた。時折、人間ではないモノと戦う俺達にとって、人間の力では限界があるのだ。しかし、今となっては随分と治まったものだ。前線を退いている、と言ってもいいだろう。今では人並みの生活を送って、ある意味隠居生活中である。

「別に鬼だからって、倖を襲ったりはしないから、安心して。俺はそんな下種な男でもないし」

「す、スイマセン。何かいけないような事を訊ねてしまって……」

 倖は視線を俺から背けた。申し訳なくて、こちらを窺えない。

「倖……、別にそんな。俺は大丈夫だから」

 それに、あんな姿を見てしまうと、誰だって訊きたくなってしまうだろう。

 俺は居所が悪いと言わんばかりに腰を上げると、押入れから制服を取り出した。倖は俺を一瞥すると、そそくさと腰をあげて、部屋を出て行った。

 はぁ、と溜息をして着替えを始めた。


 ◇◇◇


 校舎という名の監獄の一室で、俺は机に座って黒板を見ていた。看守が、黒板に何やら文字を書き込んでは野次を飛ばしている。「いいか、皆! これテストに出るぞ。絶対に覚えておけよ」と。だが、あの看守の言葉の真意は半信半疑だ。言っておきながら、別の用語をテストに入れ込む、酷いやり方だ。ちょっとしたギャンブル性を孕んだその言葉に、俺は今回「出ない」方に賭けた。だから、手元にあるノートには、書き込んでいない。それも、授業が始まってから一つも書き込んでいない。

 今日一日、あまりいい気分ではなかった。水池は今朝戻ってくる事はなかった。だから、欠席である。無論、あと一週間かもうちょっとくらいは経たないと、帰ってこないだろう。

 空きになっている水池の席。いつもなら、あそこに同じ境遇の友がいるのだけれど、いないとなるとどことなく寂しかった。

 昼休みになり、俺は屋上へと足を進める。誰もいない屋上。当たり前だ。日差しが直接やってくるこの場所に、人が好んで来る場所ではない。学校の敷地内でも、ここが一番日照りがよく、更に太陽が一番近い。暑い。今日ばかりは昼寝も出来そうにない。おまけに、屋上にずっといる事も出来ないだろう。

 遠くの方では、入道雲が漂っていた。大きな軍艦のような雲が、空と言う海をその大きな図体で圧倒している。

 時期は雨の多かった梅雨を抜け、夏になっていた。

 流石にここにいると、熱中症になり兼ねない。教室に戻って涼む事にした俺は、屋上にやってきて、すぐに踵を返して、来た道を戻り始めた。

 教室に戻ってくると、周りはやけに騒がしかった。誰もが、俺と同じ事を考えていたようだ。

 自分の席に座って、教室の窓から外に視線を投げかける。特に、屋上で見た空模様と校舎の俯瞰風景が変わったくらいで、面白みも何にもなかった。俺は視線を戻して、机に寝もうとする。

「遠川! 遠川! おい、ビックニュースだ!」

 ドタドタと言葉を並べて、ある友人が俺の席にやってきた。目の前の空いていた椅子に座り、寝ていた俺を起こした。

 ビックニュース……、どうせ碌でもない話なんだろう、と俺は半ば訊く耳を持たずに、友人の話に耳を傾けた。

「どうしたんだよ、お前にとってのビックニュースって。どうでもいい話だったらしょうちしねーぞ」

「なに言ってんだ。お前知らないのか? 地元での野蛮騒ぎ」

 俺は小首を傾げた。友人は「本当かよ」と、俺を怪訝そうに見る。物凄く心配され、挙句の果てには「頭大丈夫か?」と言われる始末。どうやら、市内では騒然とする騒ぎらしくて、俺はそれについて何にも知らなかった。

「仮面を被った刀野郎の事だよ。本当に知らないのか?」

 仮面を被った刀野郎。そう言われると、俺には心当たりがある。それが妙に厭だった。嫌悪したくなる程に。「で?」と、俺は友人の言葉を促した。

「何か捜してるらしいぜ。人捜しなのかな」

「刀持って、落し物捜してるとは思わんぞ」

 「それもそうだよな」と、ニシシと友人は笑った。

「どうやらそいつめっちゃ頭おかしくらしくてよ、警察で注意呼び掛けてるらしいぜ。まあ、刀持って誰か捜してちゃ、暴力団の一人とかに見間違われてるんじゃね?」

 またもや、友人はニシシと笑みを浮かべた。俺はあまり気の乗る話ではなかった。傍から見れば、仏頂面かもしれない。

 刀を持った仮面野郎か。どうせ、倖の事でも捜してると思うんだけどよ。こないだの夜の事を考えれば、直結してその事が頭に浮かぶ。

 厄介な事に手を出したかもしれない、そう思った。だが、もう時既に遅し。もう挽回の余地はないし、挽回する気にもなれない。

 しかし、何故倖を捜すのだろうか。

 もしや……、と思って俺は思考を辞めた。まだ自分の中で定まっていない事が多い。憶測に身を任せられなかったのだ。

 黒線。ただ、頭にその言葉だけが、岩のようにずっしりと構えていた。

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