壱
壱
コケコッコー、と外で目覚ましが鳴いている。俺はその鳴き語を耳にして、閉じていた瞼が、自然と開いていく。
俺は思わず眠ってしまっていたらしい。しかも、そのまま座ったまま。昨晩はずっと看視していたせいだろう。今日は学校が休みだから、よかったものの、これが、平日だったら寝坊遅刻確実だ。
俺は寝惚けた双眸を擦りながら、部屋を見渡す。いつもと変わらない家具が、そこらに均等に散らばっている。布団が敷かれ、その上には申し訳なさそうに、昨晩担ぎ込んだあの子が、座っていた。布団の上に座して、直向きに俯いている。前髪が彼女の表情を隠していた。
「お、おはよう」
彼女は淡い水色の長襦袢を着ていた。昨晩、女中が着せた衣服だ。あのまま、襤褸衣を着ているなんて、可哀想だった俺の配慮だった。
恐る恐る声をかけると、彼女はゆっくりと面持ちをあげた。そして、俺を一瞥すると、深々と面を下げた。
「お腹減ってる? 今すぐ用意するけど」
訊ねておいて、相手の答えを訊く前に俺は腰をあげていた。彼女は「えっ、あ、あの……」と、か細い声をあげて、俺を止めようとする。だが、俺には聞こえていなかった。俺が声よりも、弱々しい視線を先に気付いていた。
「何?」
小首を傾げると、彼女は真似するかのように小首を傾げた。前髪がちょこん、と肩に崩れ落ちていった。
「い、いえ……」
彼女は俺から視線を外すと、和卓の上に並べられた和菓子に視線を定めた。そして、お腹を擦る。表情を曇らせた。空腹に耐えている様子にしか、俺には見えなかった。
「今、朝ご飯持ってくるから、ちょっと待ってて」
俺は部屋を駈け出した。廊下を駆け抜け、擦れ違う女中の目を驚かせているのさえも気にせず、台所に向かう。
台所では朝ご飯を真っ先に作っているところだった。割烹着姿の女中が、「おはようございます、瀬介さん」と、半ば驚きの表情を隠せずに朝の挨拶をした。
「おはよう。ちょっとさ、今すぐにでも俺ともう一人分の朝餉作れる?」
無茶なお願い事だった。女中も「二人分ですか?」と、小首を傾げながらも半ば「昨晩、担ぎ込んだ子の分ですよね。いいですよ」と、了承してくれた。よろしく、と言わんばかりに満面の笑みを浮かべると、「俺の部屋に持ってきてね」と言い残して台所を後にした。
自室に戻ってきた。襖を開けると、早速彼女が煎餅に食らいついている刹那を、俺は目撃した。
彼女は俺が突然現れて、仰天し、あわてて煎餅を戻そうとする。
「こ、これは、その……」
言葉に詰まりながら、弁明しようと必死になっている。平然を見繕うにも時既に遅い。
「ん? あぁ、別にいいよ。摘み食いしたい程腹減ってるんだったら、存分に食べていいよ。後で、御飯もちゃんと出すから、食い過ぎには注意ね」
彼女はちょこん、と小さく頷いた。そして、煎餅をまた食べ始める。バリボリと、何枚も何枚も、口の中へと頬張っていくのだった。
隅で寝ていた毬の耳がピクピク動いている。部屋中に煎餅の咀嚼音が響いていたが、毬はそれでもお構いなしに寝ていた。いつもなら、激怒するのだけれど。
彼女が和卓の上にある和菓子を全て食べてしまった頃、女中が二人分の食事を持って部屋にやって来た。
「失礼します。瀬介さん、お食事をお持ちしました」
「ありがとう」
和卓の上に広げられる俺と彼女の食事。彼女は目の前に広げられていく朝飯を目の当たりにし、俺に心配そうな視線を送った。「食べていいの?」と視線が訴えかけてくる。煎餅を何枚も食べたというのに、彼女の腹は鳴っていた。それも、俺や女中に聞こえるくらいの大きな音だった。
彼女は腹を抱え、恥ずかしそうに頬を染める。女中は「お腹空いてらしたんですね」と、口許を袖で隠しながら微笑んだ。俺も、自然と顔が綻んでしまった。彼女は更に一層頬を赤く染めた。
「瀬介さん。この子は、瀬介さんの御友達ですか?」
女中が俺に訊ねた。
「いや。友達、というか、昨晩にちょっと夜出歩いてたら、忌み山でこの子が倒れてて」
「あら、そうでしたんですか、忌み山で」
彼女はこくりと小さく頷いた。
「御怪我はありませんか?」
女中は彼女に訊いた。彼女は首を振って答えた。
「迷子なのかしら。御両親は?」
女中が立て続けに彼女に質問をぶつけていく。彼女はだんだんと続けざまにやってくる質問に手一杯になってしまい、答え辛くなっていた。
「ま、まあ。それはおいおい」
俺は苦笑しながら、女中を引き留める。女中は「し、失礼しました」と、面を下げて部屋をそそくさと後にした。
女中が部屋を出ていくと、この場は一挙に静かになってしまった。
「頂きます」
俺は手をついていつも通りの常套文句を口にする。そして、箸を手に朝餉に食べ始めた。彼女も、億劫になりながらも「頂きます」と、言葉を口にして、箸を手に取り、少しずつゆっくりと食べ始めた。
「あ、あの。昨晩はありがとうございました……」
彼女は箸を止め、一礼した。
「見ず知らずの私を、こんなにも」
「いや、いって事さ。あんな状況見せられちゃ、居ても立ってもいられなかったからね。それより、こっちこそ、勝手にこっちまで連れて来ちゃったけど、両親とか心配してない?」
彼女の表情が翳り、俯いた。そしてか細く、「母と父は、殺されました」と呟いた。
「えっ、あ、ご、ごめん」
何が彼女にあったのか、俺にはまだわからないけど、でも兎に角謝っておかないといけないと思った。突然、そんな話しになるとは思ってもいなかったのだ。
「いえ、いいんです。過去の事ですから。あっ、お気になさらないでください」
彼女は精一杯に笑って俺を見据えた。俺にはその笑顔が痛く見えた。笑みという仮面を被った悲哀な表情が。
「家、もないの?」
「えぇ、何もかもない、文字通り一文無しです」
「なんだにゃ。お見合いでもやってるのかにゃ?」
背中越しに聞こえる毬の声。ちょっと小突いてやりたい気分だったが、それより俺は彼女に終始乱心していた。
「御飯や着る物までどうもすいません。御飯御馳走になりましたら、出ていきますから」
「行く宛てはあるの?」
彼女はそう訊かれ、俺から視線を外した。どうやら無いらしい。おまけに一文無しときた。
「あ、あります……。行く宛てなら……」
そう言っておきながら、語句を濁すように彼女は言った。俺からも目を背け、表情を窺わせないように。
「そっか。じゃあ、ここでお別れかな」
俺は腰をあげた。背伸びをして、気持ちを落ち着かせる。そして、上から彼女を一瞥した。彼女は「えっ?」と拍子抜けした様子で、「ん? どうしたの?」と、声をかけた。ちょっと悪戯っぽく。別に彼女に意地悪をしたいわけじゃない。これはこれで、彼女の決めた事だから、引き留める理由もない。
「でもさ、行き場がなかったらおいで。俺が何とかしてやるから」
彼女は何も言わず、一礼をした。そして、腰をあげた。さらり、と彼女の髪が垂れた。何の結いもしない彼女の髪は、川の流れのように澄んでいた。俺はその髪に見惚れてしまいそうだった。いや、そうだったかもしれない。頭を振って、その邪念を振り払う。毬はそんな俺を見て、何が面白いのか猫らしい笑みを浮かべていた。
二人で玄関へと向かう。彼女は、俺があげたここで数少ない洋服だ。男物だけど、黒基調の別に彼女が着てもおかしくない洋服だ。サイズは少しばかし大きいけど、別に着る事が出来ないわけでもなかった。
俺と彼女は別れ際、「ありがとうございました……」と、一礼した。静かな声だった。
「うん、じゃあ、またね」と、質素な別れをする。彼女はまた一礼して、戸を開けて、出て行った。
彼女が出て行って、その後すぐだった。毬が俺の足許に座っていた。足首に顔を擦り寄せている。
「何だよ、擽ったいじゃないか」
「にゃ〜に。ちょっと首許掻いてるだけにゃ。それより、いいのか。彼女、お前のドストライクじゃないのか?」
俺は驚いてひょんに飛び退いた。それは比喩ではなく、本当に飛び退いたのだ。お陰で、玄関から転げ落ちてしまった。尻餅をついていると、毬が俺にひょいっと乗っかる。腹の上に座った毬は、足許にいた頃よりも、ずいぶんと風格があった。妖気の混じる鋭い視線が、俺の眼球を貫く。
「な、何を言うんだお前は」
「にゃにゃにゃ。やはりにゃ。おまいさんは、あの子の事が好きなんだろう? ん? 包み隠さず言った方が身の為じゃぞ」
「そ、そんなわけないだろ」
俺は腹から毬を落として、腰を上げた。尻の塵を払い、部屋に戻ろうとする。
「愚直の癖に、こういう時だけは意地を張るんだにゃ、おまいさんは」
何も言えず、俺は押し黙ってしまった。今にも毬を蹴飛ばしたい気分だった。こう、何だろう。よくわからない。この気持ち……。俺は……。
「お、お前には関係ない事だろ! 黙っててくれないか!」
俺は大声を張って言った。そして、次の瞬間、呆気に取られる声が耳に聞こえてきた。
「瀬介さん? 私に用ですか?」
目の前には女中が突っ立っていた。突然吹っかけられた言葉に、女中はきょとんとしている。俺は「えっ!? あっ、いや何でもないですよ」と、手と首を振りながら、毬を捜した。
あの野郎、ここから逃げ出しやがった。後であったら懲らしめてやる。
「そ、そうですか。なら、ちょっと失礼ですけど、退いてくださらない?」
「えっ?」
思わず、自分がまだ玄関にいた事に、二度知る事になった。お陰で玄関を我が領地として占領しているかのようになっている。女中は買い物にでも出かけるようで、手提げ袋を持っていた。俺は慌てながら、退いて女中を見送ると、早速家中を駆け回って毬を捜す。だが、いない。あいつ、どこに行きやがった。
親父や兄貴の部屋、台所、縁側、数々の部屋。これだけ捜してもいない。流石に、家自体が大きいから、捜すにも一苦労だ。ちょっとそこらの事では見つけられなかった。そして、俺はやっと見つけた。母親の部屋で、囲炉裏で御茶を沸かす母親の膝の上。何とも気持ち良さそうに寝てやがる。
「あら。瀬介どうしたの? 御茶でも飲みに来たのかしら?」
母親は弾んだ声で言った。
「御免母さん。今はそれどこじゃなくて、毬を」
寄こせ、と言ってしまいそうだったが、そこは押し黙った。
「毬を? あぁ、今気持ち良さそうに寝てるから、起こしちゃ悪いじゃない。このままにしてあげて、私達は御茶を楽しみましょう。京都の福寿園から送られてきた高級な茶葉で作った御茶なの。瀬介もどう?」
「福寿園から!?」
御茶に滅法目がない俺。それは家族と女中全員が知っている常識だ。数々ある御茶の中で、俺は京都にある福寿園の御茶が大好きだった。一日には必ず、ここの御茶を飲まないと始まらない体質で、ほぼ毎日飲んでいると言っても過言ではない。俺の御茶人生はこのメーカーなしでは語れないのだ。
そこのメーカーから送られてきた茶葉なら、外れではないだろう。俺は思わず胸が馳せた。
畜生、毬の奴。母さんという絶対安置に逃げやがった。まあいい。いつまでも母さんの膝の上にいれるわけでもない。いずれは、俺がお前を捕えてやる。
囲炉裏にかけられた薬缶の口から、蒸気が吹いている。母さんが取ろうとしたので、俺が慌てて代わりに取った。やはり、当然の事ながら熱かった。急須に御湯と茶葉を入れ、それぞれの茶碗に流し込む。そして、お互いに一杯口にした。
芳醇に香る匂いと味。舌の上で茶葉から出た絶妙な味が訊いている。これといって渋いというわけではなく、仄かな渋みと甘さ。これ程にまで美味しい御茶は、ないだろう。
「うん、美味い……」
感無量に尽きる。
美味し過ぎて、何杯も俺は茶碗に御茶を注いでいた。いつしか薬缶に御湯はなくなってしまい、これを機に俺は腰をあげた。
「母さん、ありがとう。俺ちょっと用事あるから」
そして、母親の膝元を見た。毬の奴はいなくなっていた。してやられた。俺が茶に舌鼓を打っている間にどこかに逃げやがった。
「あら、そうなの? なら仕方ないわね」
と、俺をそっと見送る母親を背にして、部屋を出た。
毬! 何処に行ったー!
□□□
家を出る。何も後腐れないように。そして、何も思いを残さぬように。でも、一つだけ残してしまったかもしれない。
――行き場がなかったら、おいで。
その一言だけが、私にとっては気掛かりだった。何で、こんな身の上もわからない私をそこまで介護してくれるのだろうか、と思っていたのだ。
今の私にとって、他人という者は最も信じる事が出来ない分類の一つだ。あいつのせいで、私はこんなにも苦しい思いをした。あいつはきっと今頃では笑っている頃だろう。他人が信じられないのは、そいつのせいだった。他人は信じられない。信じられるのは、自分だけだ。
街を出歩く。誰もが誰も、信じられなかった。結局、皆自分の事しか考えていないのだ。他人など、どうでもいいのだ。
恐くなって、私は駈け出した。他人という存在が恐い。独りになりたい。走り続けて、やがて路地裏を見つけると、そこへ駆け込んだ。幸いな事に、路地裏には誰もいなかった。太陽の光も入ってこれないこの一つの空間は、私の心に似ている。暗くて狭い場所。誰もいない孤独な空間。私には丁度いい場所だ。
奥まで進んで、端につくと、壁に凭れて座った。周りは絶壁のようにビルが建っている。廃墟だろうか。人がいる様子は一切なかった。
蹲って、私は目を瞑った。このまま逃げてしまおう、何もかもから。
ここにやってきてから、数時間が経った。昨晩のように、雨が今夜も降った。昨晩よりも、強い雨が夜空から襲ってくる。寒い。寒くて、冷たくて。身体も心も、全ては冷え切っていく。ここは雨宿りも出来ない場所だった。折角貰った服は、雨をたっぷりと含んで、重くて、冷たい。容赦なく私から体温を奪っていく。
身体を猫のように丸めても、駄目だった。やはり、冷えていくばかり。
立ち上がる。このままじゃ、身が持たない。ずっしりとした足取りで、私は街へと繰り出した。
行く宛てなんてもの、最初から一つもない。希望も同じだ。
私は堪らなく悲しくなって、双眸には涙が溜まっていた。どうしようもない程に悲しくて、そのまま死んでみたい気分だ。この悲しみから解放されたかった。でも、私にはそんな勇気などない。
だから、時の流れに身を任すしかなかった。川を流れる落ち葉のように、ただ無我に街中を歩き続けるのだった。
◇◇◇
今宵は天気が悪い。縁側で俺は茶を飲みながら、そして毬の頬っぺたを抓りながら、日本庭園に滴る雨を見据えていた。
彼女は大丈夫だろうか。そんな打ち拉がれた思いに駆られていた。
はぁ、と溜息をついた。
「痛いにゃ!」
毬が顔を振って、俺の指先を離した。「全く。もっと動物を労わるにゃ」と、俺に激怒を飛ばした。そして、毬も外を見ていた。
「こりゃ、死ぬな」
俺は思わず毬を小突いた。毬は声は出さないが、代わりに猫パンチを返してきた。それも、若干爪立てて。
「そんな事言うな。不謹慎だぞ」
「にゃんだ? そんなに彼女の事が心配なのかにゃ?」
「あ、当たり前だろ……」
言葉には出来ないけど、彼女の事がかなり気掛かりになっていた。今にも、家を飛び出して彼女を捜しに行きたい気分でもあった。
「それにしても強いにゃ」
嵐のような雨が降ってきた。縁側にいるだけでも、雨を被ってしまいそうな程だ。風がやけに強い。傘なしで外を歩いていると、あっという間に雨に打たれて風邪をひいてしまうだろう。
「やっぱり、捜しに行こうかな……」
「止めとけ。どうせ、ここに戻ってもいいように、言葉はかけてあるんだろ。その気があれば、来るだろ」
「おまいさんは、お節介過ぎるんだよ。あんな娘如き、他人にゃんだから、放っておけばいいのにゃ」と毬は最後にきつく言った。
雨が酷くなってきたので、俺と毬は部屋に戻る事にした。その時だった。廊下を歩いていると、女中が俺を見つけるなり、「瀬介さん。瀬介さんに御客さん、です……」と、だじろぐように言った。
毬は足許でニヤリと笑っている。そして、女中の足許に擦り寄った。そして、女中に抱えられた。毬はただ視線だけで「行ってこい」と、何かを悟ったように言う。俺は女中に「ありがとう」と、踵を返して玄関へと向かった。
玄関では案の定、彼女が待っていた。雨でずぶ濡れになった彼女。今朝見た川のように澄んだ髪は、今になってぐしゃぐしゃに濡れていた。先からポタポタと垂れている。
「い、今タオル持ってくるから、待ってて」
俺はすぐさま脱衣所に向かって、タオルを持って戻った。
彼女にタオルを渡した。彼女は身体を拭いて、そしてそのまま俺に連れられて、風呂場へと向かった。
俺は部屋で待っていた。座椅子に座り、和菓子と御茶で口を満たしている時、、着物を纏った彼女がやってきた。
「大丈夫?」
そう声をかけると、彼女は「えぇ」と、か細い声で言った。俺の膝の上で寝ていた毬が、彼女を一瞥した。
座椅子に座り、俺に一礼をした。
「また、御厄介になります……。宜しいでしょうか?」
物静かな口調で言う。俺は「別に構わないよ」と、返事をすると、彼女は面をあげ、俺を一瞥してから――無感情であり、鉄のような視線が俺を見据える――、また一礼した。
「二度、失礼申し上げますが、私をここに置いてくださらないでしょうか……」
それは突然の申し出だった。彼女曰く、結局どこにも行く宛てはなかった。路頭に迷い、雨に打たれ、一人寂しかったらしい。俺のあの言葉が唯一の綱だった。彼女は、自分をここにおいてほしい、と俺に頭を下げた。無論、ちゃんと恩は返す、という。
「おまいさんの、専属女中にでもすればいいんじゃないか?」
「な、何言ってんだよ、お前は」
そう言って、毬を拳で小突いた。ふと、彼女が小首を傾げている様子が目に入った。
彼女には毬の声は届いていない。毬と喋れるのは、俺が鬼血を持っているからなしえる事で、普通の人間には毬の声は聞こえない。俺は思わず口許を隠しながら、微苦笑した。
「い、いや、何でもないから」
変人だとは正直思われたくなかった。いや、もしかしたら、思われたかもしれない。
毬は膝の上から、和卓の上に登る。そして、彼女をじっと凝視した。それは一瞬の出来事で、すぐさま表情を崩した。欠伸をして、和卓から降りるついでに、和菓子を一つ摘まんで、部屋の隅に重ねておいてある座布団の上に移動する。和菓子を手許に置いておきながら、毬は丸まって眠り始めた。
「あ、あの。私変な事言ったでしょうか?」
まるで、自分に野次が飛んできたのではないかと心配したようで、彼女の表情が強張った。「いや、そんなつもりはないんだ」と、必死に弁明する。流石に、「あの猫さがー」とも言い難い。
「だ、駄目でしたら、出ていきますから……」
彼女は今にも腰をあげてしまいそうな勢いだった。俺はそれを必死に止める。今外に出ても、また雨にやられるだけである。
いや、それ以外に、俺はもっと重大な思いにやられていた。
彼女は、俺が思う程に、その容姿に惹かれていた。つまるところ、一目惚れだろう。
「こ、ここにいるっていうなら、侍女なんてどうだろう?」
「侍女ですか? え、えぇ。構いません。それでここに置いていただけるのなら……、幸いです」
彼女はまた一礼をした。
俺は頭を掻きながら、気恥ずかしそうにそっぽを向いた。視線の先には、毬が眠っていた。だが、顔だけは眠ってはいなかった。ニヤリと笑っている。
「素直に言えばいいんだ。ここにいてくれって」
小さな声で言う。別に、彼女に聞こえるわけではないのに。こちらも、恥ずかしいので、視線を元に戻した。
すると、彼女は面をあげて、こちらを確りとした視線で見据えていた。表情は相変わらず変わっていなかった。
「小日向 倖といいます」
「と、遠川 瀬介。よ、よろしく」
俺はぎこちなさそうに、後頭部を掻きながら挨拶を終えた。




