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ヴィクトリアン万華鏡  作者: 左京ゆり
1.ハリエットとジェームス ‐1874年夏~1875年夏‐
3/8

ツンデレ準男爵のプロポーズ(後)

 夏の夜は、温かな空気をはらんでいる。二頭立ての箱馬車ブルームが、グリーンパークにほど近い邸宅に停まった。ハリエットは、母親とともに馬車から降りた。ドレスの裾を持ち上げて、泥がはねないように注意する。車寄せには次々と馬車が到着して、招待客がこちらに向かって歩いてくる。彼女もその群れに加わって、玄関を通りぬけた。

 クロークで外套を預けて、ハリエットは大階段に向かった。階段の中央に赤い絨毯が敷かれ、その先には、N伯爵夫人と令嬢が立っていた。夫人と令嬢は、招待客に挨拶して握手を交わしている。ハリエットの姿を認めると、客たちがざわめいた。興味津々といった面立ちで、扇子の陰から視線がのぞいた。彼女を目に留めると、N伯爵夫人はにっこりと笑った。


「ようこそ、ミセス・アシュリー、ミス・アシュリー。わが家にお越しいただくのは、初めてですわね。あなたたちをお招きできて嬉しく思いますわ」

「初めまして、N伯爵夫人。ご招待ありがとうございます」


 N伯爵夫人は握手を求めてきた。差し出された指は二本だった。ハリエットは微笑を浮かべて、五本の指で握り返した。しかめ面は心のなかだけで、けして表情には出さない。

(……この先、ヴィクトリア女王(ハー・マジェスティ)が相手でも、たとえ街角の花売り娘でも、私は絶対に、五本の指で握手をするわ!)


 母親と同様に握手を交わして、令嬢は哀れむような口調で言った。


「ああ、ミス・アシュリー。聞きましたわ。跡継ぎを産めないだなんて……本当にお辛いこと! でもご安心なさって。あたし、お母さまにお願いしたの。どうか素敵なご伴侶を紹介してさしあげてって。今夜は、B侯爵やE子爵がいらっしゃるのよ。御二方とも奥様を亡くされて、それは寂しい思いをなさっているそうよ。あなたがお側にいたら、きっと慰められますわ。あとでご紹介しますわね」

 ハリエットは返事をせずに、微笑みを返した。B侯爵は愛人を何人も囲い、女遊びで有名な中年男性で、E子爵は今年で七十歳を迎えるはずだ。


「あら! サー・ジェームス・ラムゼイとお母上だわ!」


 玄関ホールを見て、令嬢が勝ち誇ったように声を上げた。ジェームスと母親がクロークから出てくるところだった。白金色の髪に、黒の燕尾服がよく映えている。幼なじみの礼装を見るのは、今夜が初めてだった。磁石のように吸い寄せられて、彼から目が離せなかった。青年と母親は優雅な足どりで階段を上がり、N伯爵夫人に礼をした。


「こんばんは。レディ・R・ラムゼイ、サー・ジェームス・ラムゼイ。お待ちしておりましたわ。娘ときたら、あなたとカドリールを踊れると、それは楽しみにしておりますのよ」

 N伯爵夫人は、意味深げに青年を見つめた。その目がにわかに細められる。ジェームスは夫人の視線に気づかずに、首を横に向けていた。夫人はその目線を追いかけた。彼の瞳はハリエットに釘づけにされていた。


「…………美しい」


 結い上げた金髪に真珠を散らし、白い鎖骨にも真珠が輝いている。薄紫色のドレスは襟ぐりが大きく開いて、彼女の豊潤な胸のふくらみを見せている。肘まではめた白い手袋には扇子が握られている。ジェームスはうっとりとした顔つきで、彼女を見つめた。


「……イブニングドレス姿のあなたを見るのは、初めてだ」


 ハリエットはなにも言えず、はにかんだ笑みを返した。怯みそうな心を奮い立たせようと、今夜はできるかぎり美しく装った。波打つような金髪はルーシーの力作だ。どんな悪意を浴びせられても、自分に自信があれば耐えられる。そう思っていた。しかし心の奥では、美しく装った自分を一度ぐらい、彼に見てほしいとも思っていた。熱い視線を注がれながら、ハリエットは頬を染めた。


 二人を遮るように、ジェームスの母親は咳払いをした。


「ミス・アシュリー。あなたを許してあげましょう。お身体の不調を隠していたことは、けして褒められませんけどね。だけど、若い方には寛大になりませんとね。ええ、息子を騙していたとは言わないでおきますよ。それに今夜は、N伯爵夫人が素晴らしい殿方たちをご紹介してくださるとか。よいお相手が見つかるといいですね」

 親切そうな口ぶりとは裏腹に、目はまったく笑っていなかった。客たちはさざめき合いながら、耳だけは熱心にそばだてている気配がした。準男爵家の若き当主の結婚事情は、退屈な社交界の格好のスキャンダルのようだった。


「さあ、ジェームス。彼女のダンスカードの一曲目に、あなたの名前を書かせてもらいなさい」


 母親は息子の腕を取り、N伯爵夫人の令嬢へと向き合わせた。ジェームスはその手を丁重にはずして、ハリエットに向き直った。


「ダンスカードは?」

「……ジェームス、お母上が」

「あなたのダンスカードは?」

「……あるけれど」


 ハリエットは長方形のカードを出した。どの曲も、まだ誰の名前も書かれていなかった。カードを奪うように取り上げて、彼はすばやく鉛筆を動かした。戻ってきたカードを見て、ハリエットは目を疑った。


「ジェームス!」


 カードは初めから終わりまで、ただひとりの男性の名前で埋められていた。

『ジェームス・ラムゼイ』

 ハリエットの母親は困惑した表情で、彼の母親とN伯爵夫人たちは絶句して、ダンスカードをのぞきこんだ。

「……そろそろ一曲目が始まる。行こう」


 ハリエットに肘を差し出す息子に、ヒステリックな声が上がった。


「ジェームス! あなたの婚約者は、こちらのご令嬢ですよ!」

「母上。何度も申し上げたように、わたしの婚約者はミス・アシュリーです」

 扇子の先を震わせて、母親はハリエットを差した。

「その……その娘は、あなたの子どもを産めないのです!」

「問題ありません」


 ジェームスは彼女を見下ろした。氷のような灰色の瞳がきらめいた。長い指先があごに触れた。そのまま顔を上に向けられて、やわらかな感触が唇に重なった。懐かしい甘い息がかかった。

「…………っ‼」

 ハリエットは声にならない悲鳴を上げた。招待客たちが大きくざわめいた。

「わたしは彼女を愛していますので」

 ハリエットの手をつかみ、ジェームスは舞踏室に入った。



 シャンデリアがまばゆく光を投げかけて、壁際で楽団が弦楽器を鳴らしている。部屋は人びとの熱気に満ちていた。鼓動がせわしなく脈打って、ジェームスに聞かれてしまうような気がした。ダンスの列に並んで、ハリエットは彼にお辞儀をした。


「ジェームス」

「すまない。あなたの許可もなく口づけを……」

「そんなことよりジェームス! こんなの正気の沙汰じゃないわ! 主催家のご令嬢を誘わずに、私と踊り続けるだなんて……気は確かなの⁈」

「わたしはあなたと踊りたい」

「ジェームス、聞いたでしょう? 私は……子どもが産めないの。あなたとは結婚できないのよ」

「問題ない」

「大ありだわ! あなたは準男爵家の当主なのよ」

「いずれ、父方の親戚の誰かが継ぐだろう」

「だけど……」

「わたしは、あなたが生きていればいい」

「……え?」

「あなたが生きて、元気で笑っていてくれたら、それだけでいい。もちろん……その……わたしの側にいてくれたら、もっと……嬉しいが」

「…………」

「昔から、あなたはいつも優しくて温かくて、わたしの太陽のようだった。あなたの側にいると、陽だまりのように心地よい。あなたといるだけで……わたしは幸せなのだ」

「…………」

「昨年の夏、あなたと口づけができて……とても嬉しかった。あなたに求婚できる口実ができたと思ったのだ……情けないな、わたしは」

「…………」

「あなたにはいつも、こんな姿ばかり見せてしまう」

「……恰好いいわよ、ジェームス」

「え?」

「あなたの燕尾服姿を初めて見たわ。恰好よくて見とれてしまったわ」

「…………そうか」

「それに……嬉しかったわ、あの場から連れ出してくれて」

「ああ」

「キスは…………びっくりしたけれど」

「すまない」

「でも……嬉しかったわ」


 ジェームスは驚いたように顔を上げた。音楽に合わせて、彼の手を離れては戻りながら、ハリエットは再び目の前に立った。


「あなたが好きよ、ジェームス」

「……………………」

「わたし、あなたのことが好きよ。ジェームス」

 ハリエットの手を握ったまま、彼はうつむいて黙りこんだ。

「……ジェームス?」

 不安な目でのぞきこむ彼女に、ジェームスは睫毛をしばたたかせた。

「好きな女性に、好きと言われるのは……こんなに嬉しいものなのか」

 目尻にしわを寄せて、顔をくしゃくしゃにして、彼女の前でジェームスが笑っていた。彼もこんなふうに笑うのだと、ハリエットは初めて知った。雪あそびを眺める少年と同じ目をして、彼は耳元でささやいた。


「愛している、ハリエット」


 その夜、最後のコティヨンまで、二人はすべての曲を踊りきった。


 

◆後日談◆


 夏の終わり、アシュリー家の応接間で、青年はソファに腰かけていた。彼の婚約者の侍女が、ちらちらと廊下を見ながら、ためらいがちに口を開いた。


「サー・ジェームス。あたくし、心配なんですわ。N伯爵家の舞踏会から、ひと月半が過ぎましたけれど……その……どこぞの不埒な紳士が、ハリエット様に戯れの恋を仕掛けたりはしないでしょうか……お子を宿さないからと……ああ、胸糞悪いですこと。それに、カルテを盗んだ犯人もまだ見つかっておりませんし……」

「心配ない」


 青年は紅茶をひと口飲んで、こめかみを指先で叩いた。扉の前に立つ侍女に、灰色の目が細められる。窓から生温い風が吹きこんで、カーテンが舞い上がった。


「ハリエットに触れた男は、わたしに喉をかき切られる……社交界ではそんな噂が流れているらしい。カルテを盗んだ客間メイドは、二度とロンドンの地を踏むことはないだろう。犯人は……N伯爵令嬢で、夫人も共犯だった。彼らはいま米国にいる。数年間は戻らないだろう。彼女は…………手痛い失恋をしたそうだ」

「サー・ジェームス、あなたにですか?」

「いや……わたしではない。あのあと、彼女はある紳士と恋に落ちたそうだ。彼女は結婚を考えていたが、紳士は『性格の不一致』とやらで彼女を振ったらしい」

「まあ……たったひと月半の間で……一体どなたが」

「…………アシュリーだ」

「アンソニー様が⁈ そんな……お姉さまの恋敵とご交際だなんて!」

「…………恋敵だからだろう」

「…………もしかして」

「…………ああ」

「…………まさか……あなたの噂も、客間メイドも?」

「…………とぼけてはいたが、おそらく」

「ハリエット様は、そのことは……」

「知らぬ。伝える必要はない」

「そうですわね。ご令嬢も、二度も失恋なさってお気の毒ですこと…………だけど、いい気味ですわ!」


 ジェームスは口元を引き結んで、窓を眺めた。通りで馬車の車輪が鳴っている。侍女が廊下をのぞいて、ああ、ハリエット様が戻られましたわ、と告げた。ジェームスは扉を見つめて、こぼれそうな笑みを浮かべた。

■長編小説:第一章・8話(ジェームス)、第三章・2話(ハリエット)より登場■

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