ツンデレ準男爵のプロポーズ(後)
夏の夜は、温かな空気をはらんでいる。二頭立ての箱馬車が、グリーンパークにほど近い邸宅に停まった。ハリエットは、母親とともに馬車から降りた。ドレスの裾を持ち上げて、泥がはねないように注意する。車寄せには次々と馬車が到着して、招待客がこちらに向かって歩いてくる。彼女もその群れに加わって、玄関を通りぬけた。
クロークで外套を預けて、ハリエットは大階段に向かった。階段の中央に赤い絨毯が敷かれ、その先には、N伯爵夫人と令嬢が立っていた。夫人と令嬢は、招待客に挨拶して握手を交わしている。ハリエットの姿を認めると、客たちがざわめいた。興味津々といった面立ちで、扇子の陰から視線がのぞいた。彼女を目に留めると、N伯爵夫人はにっこりと笑った。
「ようこそ、ミセス・アシュリー、ミス・アシュリー。わが家にお越しいただくのは、初めてですわね。あなたたちをお招きできて嬉しく思いますわ」
「初めまして、N伯爵夫人。ご招待ありがとうございます」
N伯爵夫人は握手を求めてきた。差し出された指は二本だった。ハリエットは微笑を浮かべて、五本の指で握り返した。しかめ面は心のなかだけで、けして表情には出さない。
(……この先、ヴィクトリア女王が相手でも、たとえ街角の花売り娘でも、私は絶対に、五本の指で握手をするわ!)
母親と同様に握手を交わして、令嬢は哀れむような口調で言った。
「ああ、ミス・アシュリー。聞きましたわ。跡継ぎを産めないだなんて……本当にお辛いこと! でもご安心なさって。あたし、お母さまにお願いしたの。どうか素敵なご伴侶を紹介してさしあげてって。今夜は、B侯爵やE子爵がいらっしゃるのよ。御二方とも奥様を亡くされて、それは寂しい思いをなさっているそうよ。あなたがお側にいたら、きっと慰められますわ。あとでご紹介しますわね」
ハリエットは返事をせずに、微笑みを返した。B侯爵は愛人を何人も囲い、女遊びで有名な中年男性で、E子爵は今年で七十歳を迎えるはずだ。
「あら! サー・ジェームス・ラムゼイとお母上だわ!」
玄関ホールを見て、令嬢が勝ち誇ったように声を上げた。ジェームスと母親がクロークから出てくるところだった。白金色の髪に、黒の燕尾服がよく映えている。幼なじみの礼装を見るのは、今夜が初めてだった。磁石のように吸い寄せられて、彼から目が離せなかった。青年と母親は優雅な足どりで階段を上がり、N伯爵夫人に礼をした。
「こんばんは。レディ・R・ラムゼイ、サー・ジェームス・ラムゼイ。お待ちしておりましたわ。娘ときたら、あなたとカドリールを踊れると、それは楽しみにしておりますのよ」
N伯爵夫人は、意味深げに青年を見つめた。その目がにわかに細められる。ジェームスは夫人の視線に気づかずに、首を横に向けていた。夫人はその目線を追いかけた。彼の瞳はハリエットに釘づけにされていた。
「…………美しい」
結い上げた金髪に真珠を散らし、白い鎖骨にも真珠が輝いている。薄紫色のドレスは襟ぐりが大きく開いて、彼女の豊潤な胸のふくらみを見せている。肘まではめた白い手袋には扇子が握られている。ジェームスはうっとりとした顔つきで、彼女を見つめた。
「……イブニングドレス姿のあなたを見るのは、初めてだ」
ハリエットはなにも言えず、はにかんだ笑みを返した。怯みそうな心を奮い立たせようと、今夜はできるかぎり美しく装った。波打つような金髪はルーシーの力作だ。どんな悪意を浴びせられても、自分に自信があれば耐えられる。そう思っていた。しかし心の奥では、美しく装った自分を一度ぐらい、彼に見てほしいとも思っていた。熱い視線を注がれながら、ハリエットは頬を染めた。
二人を遮るように、ジェームスの母親は咳払いをした。
「ミス・アシュリー。あなたを許してあげましょう。お身体の不調を隠していたことは、けして褒められませんけどね。だけど、若い方には寛大になりませんとね。ええ、息子を騙していたとは言わないでおきますよ。それに今夜は、N伯爵夫人が素晴らしい殿方たちをご紹介してくださるとか。よいお相手が見つかるといいですね」
親切そうな口ぶりとは裏腹に、目はまったく笑っていなかった。客たちはさざめき合いながら、耳だけは熱心にそばだてている気配がした。準男爵家の若き当主の結婚事情は、退屈な社交界の格好のスキャンダルのようだった。
「さあ、ジェームス。彼女のダンスカードの一曲目に、あなたの名前を書かせてもらいなさい」
母親は息子の腕を取り、N伯爵夫人の令嬢へと向き合わせた。ジェームスはその手を丁重にはずして、ハリエットに向き直った。
「ダンスカードは?」
「……ジェームス、お母上が」
「あなたのダンスカードは?」
「……あるけれど」
ハリエットは長方形のカードを出した。どの曲も、まだ誰の名前も書かれていなかった。カードを奪うように取り上げて、彼はすばやく鉛筆を動かした。戻ってきたカードを見て、ハリエットは目を疑った。
「ジェームス!」
カードは初めから終わりまで、ただひとりの男性の名前で埋められていた。
『ジェームス・ラムゼイ』
ハリエットの母親は困惑した表情で、彼の母親とN伯爵夫人たちは絶句して、ダンスカードをのぞきこんだ。
「……そろそろ一曲目が始まる。行こう」
ハリエットに肘を差し出す息子に、ヒステリックな声が上がった。
「ジェームス! あなたの婚約者は、こちらのご令嬢ですよ!」
「母上。何度も申し上げたように、わたしの婚約者はミス・アシュリーです」
扇子の先を震わせて、母親はハリエットを差した。
「その……その娘は、あなたの子どもを産めないのです!」
「問題ありません」
ジェームスは彼女を見下ろした。氷のような灰色の瞳がきらめいた。長い指先があごに触れた。そのまま顔を上に向けられて、やわらかな感触が唇に重なった。懐かしい甘い息がかかった。
「…………っ‼」
ハリエットは声にならない悲鳴を上げた。招待客たちが大きくざわめいた。
「わたしは彼女を愛していますので」
ハリエットの手をつかみ、ジェームスは舞踏室に入った。
◆
シャンデリアがまばゆく光を投げかけて、壁際で楽団が弦楽器を鳴らしている。部屋は人びとの熱気に満ちていた。鼓動がせわしなく脈打って、ジェームスに聞かれてしまうような気がした。ダンスの列に並んで、ハリエットは彼にお辞儀をした。
「ジェームス」
「すまない。あなたの許可もなく口づけを……」
「そんなことよりジェームス! こんなの正気の沙汰じゃないわ! 主催家のご令嬢を誘わずに、私と踊り続けるだなんて……気は確かなの⁈」
「わたしはあなたと踊りたい」
「ジェームス、聞いたでしょう? 私は……子どもが産めないの。あなたとは結婚できないのよ」
「問題ない」
「大ありだわ! あなたは準男爵家の当主なのよ」
「いずれ、父方の親戚の誰かが継ぐだろう」
「だけど……」
「わたしは、あなたが生きていればいい」
「……え?」
「あなたが生きて、元気で笑っていてくれたら、それだけでいい。もちろん……その……わたしの側にいてくれたら、もっと……嬉しいが」
「…………」
「昔から、あなたはいつも優しくて温かくて、わたしの太陽のようだった。あなたの側にいると、陽だまりのように心地よい。あなたといるだけで……わたしは幸せなのだ」
「…………」
「昨年の夏、あなたと口づけができて……とても嬉しかった。あなたに求婚できる口実ができたと思ったのだ……情けないな、わたしは」
「…………」
「あなたにはいつも、こんな姿ばかり見せてしまう」
「……恰好いいわよ、ジェームス」
「え?」
「あなたの燕尾服姿を初めて見たわ。恰好よくて見とれてしまったわ」
「…………そうか」
「それに……嬉しかったわ、あの場から連れ出してくれて」
「ああ」
「キスは…………びっくりしたけれど」
「すまない」
「でも……嬉しかったわ」
ジェームスは驚いたように顔を上げた。音楽に合わせて、彼の手を離れては戻りながら、ハリエットは再び目の前に立った。
「あなたが好きよ、ジェームス」
「……………………」
「わたし、あなたのことが好きよ。ジェームス」
ハリエットの手を握ったまま、彼はうつむいて黙りこんだ。
「……ジェームス?」
不安な目でのぞきこむ彼女に、ジェームスは睫毛をしばたたかせた。
「好きな女性に、好きと言われるのは……こんなに嬉しいものなのか」
目尻にしわを寄せて、顔をくしゃくしゃにして、彼女の前でジェームスが笑っていた。彼もこんなふうに笑うのだと、ハリエットは初めて知った。雪あそびを眺める少年と同じ目をして、彼は耳元でささやいた。
「愛している、ハリエット」
その夜、最後のコティヨンまで、二人はすべての曲を踊りきった。
◆後日談◆
夏の終わり、アシュリー家の応接間で、青年はソファに腰かけていた。彼の婚約者の侍女が、ちらちらと廊下を見ながら、ためらいがちに口を開いた。
「サー・ジェームス。あたくし、心配なんですわ。N伯爵家の舞踏会から、ひと月半が過ぎましたけれど……その……どこぞの不埒な紳士が、ハリエット様に戯れの恋を仕掛けたりはしないでしょうか……お子を宿さないからと……ああ、胸糞悪いですこと。それに、カルテを盗んだ犯人もまだ見つかっておりませんし……」
「心配ない」
青年は紅茶をひと口飲んで、こめかみを指先で叩いた。扉の前に立つ侍女に、灰色の目が細められる。窓から生温い風が吹きこんで、カーテンが舞い上がった。
「ハリエットに触れた男は、わたしに喉をかき切られる……社交界ではそんな噂が流れているらしい。カルテを盗んだ客間メイドは、二度とロンドンの地を踏むことはないだろう。犯人は……N伯爵令嬢で、夫人も共犯だった。彼らはいま米国にいる。数年間は戻らないだろう。彼女は…………手痛い失恋をしたそうだ」
「サー・ジェームス、あなたにですか?」
「いや……わたしではない。あのあと、彼女はある紳士と恋に落ちたそうだ。彼女は結婚を考えていたが、紳士は『性格の不一致』とやらで彼女を振ったらしい」
「まあ……たったひと月半の間で……一体どなたが」
「…………アシュリーだ」
「アンソニー様が⁈ そんな……お姉さまの恋敵とご交際だなんて!」
「…………恋敵だからだろう」
「…………もしかして」
「…………ああ」
「…………まさか……あなたの噂も、客間メイドも?」
「…………とぼけてはいたが、おそらく」
「ハリエット様は、そのことは……」
「知らぬ。伝える必要はない」
「そうですわね。ご令嬢も、二度も失恋なさってお気の毒ですこと…………だけど、いい気味ですわ!」
ジェームスは口元を引き結んで、窓を眺めた。通りで馬車の車輪が鳴っている。侍女が廊下をのぞいて、ああ、ハリエット様が戻られましたわ、と告げた。ジェームスは扉を見つめて、こぼれそうな笑みを浮かべた。
■長編小説:第一章・8話(ジェームス)、第三章・2話(ハリエット)より登場■