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ヴィクトリアン万華鏡  作者: 左京ゆり
1.ハリエットとジェームス ‐1874年夏~1875年夏‐
2/8

ツンデレ準男爵のプロポーズ(中)

「姉さま、噂になっているよ」

 アンソニーは笑いながらそう言った。あの夏の日から、八カ月が過ぎていた。イースター休暇で戻ってきた弟は、級友から聞いたという『社交界の噂』を教えてくれた。

「ジェームスの母上が、N伯爵家のご令嬢との婚約を進めていたらしい。晩餐会でそれとなく仄めかされたそうだけど、あいつ、なんて答えたと思う? わたしにはすでに結婚を申しこんでいる方がいるので、他の女性は考えられません、ってさ! 姉さま、ずいぶん愛されているね。いいかげん、承諾してやればいいのに」

「本当なの? アンソニー、ああ……もう、ジェームスったら」


 こめかみを押さえて、ハリエットは目を閉じた。

 あの夏の日、こぼれそうな花束を受け取って、ハリエットはこう答えた。


「だめよ、ジェームス。あなたとは結婚できません」

 ジェームスは悲しそうな顔をした。

「やはり……わたしのことが嫌いなのか?」

「まさか! 嫌いじゃないって、何度も言っているでしょう!」

「それならば……他に思う男性がいるのか?」

「いないわよ……そんなひと」

「……分かった。今日は帰る」


 あっさりと背を向けた彼に、ハリエットは安堵と不満を感じた。そんな自分に呆れて、ふるふると首を振った。心配そうに見つめる侍女のルーシーに、笑顔を返した。

 しかし、次の日も、ジェームスはやってきた。

 昨日と同じ会話がくり返された。


「……しかしわたしは、あなたの初めてを奪った。その責任を取る」

「はっ……はっ……初めて⁈ ああっ、違うの、ルーシー‼ キスだけなのっ‼」

 お父上を呼んでまいります、と叫ぶルーシーを、服をつかんで引きとめた。ルーシーは疑わしそうにジェームスを睨みつけた。

「あたくしのお嬢さまの純潔を、奪ってはいませんこと?」

「奪ってはいない…………まだ」

「まっ……まだとは……どういうことですのっ‼」


 こぶしを震わせるルーシーを尻目に、また明日くる、とジェームスは頭を下げた。自分の侍女から抗議の目でにらまれても、ハリエットは頬の熱がひかなかった。

 翌日も、その翌日も、社交期の間、ジェームスは毎日やってきた。夏が終わり、領地の屋敷に移ったあとは、毎週手紙が送られてきた。母親はハリエットの気持ちを尊重してくれた。


「もちろん、あなたが言うように、奥様を亡くされた方と結婚して、そのご子息の母親になるという道もあるわよ。だけどねえ……サー・ジェームス・ラムゼイは、あなたのことを本気で思っているようだし……せめて事情を説明して、ふたりで話し合ってみたら?」

「だめよ、お母さま。彼は準男爵だもの、跡継ぎが必要だわ」


 そう言いながら、ハリエットは彼からの手紙をすべて、赤いリボンをかけて箱のなかに入れていた。その箱を見るだけで、自然と頬がゆるんだ。断りの手紙を書き続けながらも、ジェームスからの求婚は、彼女の日常の一部になっていた。

 春が訪れ、ロンドンの館に移動した。学校から戻ってきた弟に『社交界の噂』を聞いて、ハリエットはついに決意を固めた。不妊の診断を受けてからは、社交界を遠ざけていた。しかし今夜、ハリエットは演奏会にやってきた。



 きらびやかな大広間には、イブニングドレスや、黒の燕尾服を着た招待客がひしめいている。ハリエットもそんな景色のひとつになった。金髪を結い上げて、長手袋に琥珀色のドレスを身につけた姉を、アンソニーは称賛の目で見つめた。


「姉さまはきれいなんだから、こうして、もっといろんな催しに出席すべきだよ」

「お世辞はいいから、教えてちょうだい、アンソニー。N伯爵家のご令嬢は、どなたなの?」


 アンソニーの友人は令嬢の従兄で、写真を見せてくれたことがあるという。この家庭招待会に彼女も訪れると聞き、お目付け役と称して弟を連れてきた。アンソニーは小声でささやいた。

「あのひとだよ。小柄で淡いピンクのドレスを着た……ほら、扇子を広げている」

 ハリエットは令嬢をちらりと見た。螺旋階段の黒い手すりにもたれて、連れの少女と話をしている。自分より少し年下のようで、可愛らしい雰囲気の少女だった。彼女がジェームスの隣にいる姿を想像してみる。ふっと笑みをこぼした。


(可愛らしいひと…………彼にお似合いだわ)


 ハリエットは決意を固めていた。

 今度こそ、ジェームスの求婚を断ろうと。


 もちろん、これまでにも数えきれないほど断ってきたが、それでも、完全に彼を拒否することはできなかった。だけど。今夜、ご令嬢がどんな方か確かめたら、ジェームスの求婚をきっぱりと断ろう。ハリエットはそう決意した。胸が張り裂けそうに痛んでいても、彼の未来のためなら、痛みに耐えなければならない。



 令嬢のまわりには客が途切れず、ハリエットは話しかける機会をうかがっていた。弟は知り合いに声をかけられて、気づけば姿を消していた。応接間からは楽団の音色が流れている。数カ月ぶりに社交の場を訪れて、ハリエットはひとに酔ってしまった。少し休もうと、バルコニーに向かった。夜風にあたり人心地ついていると、背後から話し声が聞こえてくる。バルコニーの片隅に身を寄せると、隣から、ジェームス、という言葉が飛びこんできた。とっさに息をつめて、ハリエットは話し声に耳をすませた。


「そうよ。お母さまは、サー・ジェームス・ラムゼイとの婚約を進めるつもりよ」

「でも彼、ミス・アシュリーに求婚してるって、噂になってるわよ」

「あんなひと! 爵位もない家の娘だそうじゃない。それにずっと断られ続けているって聞いたわ。きっとサー・ジェームス・ラムゼイも、手に入らないから欲しがっているだけなのよ。この話は、彼のお母上も乗り気なのよ。準男爵家と伯爵家なんて格が違うけれど、お母上は物の分かった方だし。ほら、お母上のご生家は公爵家でしょう。それに、サー・ジェームス・ラムゼイも外見は悪くないわ」

「この前の晩餐会で会ったのでしょう?」

「ええ。中身はつまらないひとよ。あたしが話しかけても、ああ、とか、いや、とかしか言わないし。暗くて退屈なひと。だけどあたしと並ぶと絵になるし、あの若さで準男爵の称号があるのはいいわね。お父上が亡くなられたおかげで、もう家を継いでいるんだもの」


 二人の会話は、そこで途切れた。その場に割って入った、ハリエットのせいだった。


「こんばんは。素晴らしい夜ね。そう思いませんこと?」

「あら……こんばんは。ええと、どなただったかしら?」

「はじめまして。ハリエット・アシュリーと申しますわ。可愛いお嬢さまがた」

 そう告げると、ハリエットは満面の笑みを浮かべた。

 二人の令嬢は、ぴくりと頬をひきつらせた。

「あら、そう……はじめまして」

「夜風にあたっていたら、ついお話が耳に入ってしまったの。悪気はないのよ。許してくださるわよね。だけど、ひとつだけ、訂正しておきたくて」

「まあ……なにかしら」

「サー・ジェームス・ラムゼイが求婚を断られ続けているだなんて、ただの噂よ。だって……私、彼の求婚を受けるつもりなの」

 月明りを浴びながら、ハリエットは高らかにそう告げた。



「姉さま、噂になっているよ」

 アンソニーは楽しそうにそう言った。ハリエットは居間で、クッションを抱えてうめいた。

「…………ばかなことを言ったわ」

 あの夜、令嬢の会話に耐えきれず、口が勝手に動いてしまった。その翌日には、ジェームスが目を輝かせてやってきた。あなたが卒業したらね、と先延ばしにするのが、ハリエットには精一杯だった。



 イースター休暇が終わり、アンソニーは学校に戻った。深緑の葉がゆれる庭の木陰で、ハリエットはベンチに腰かけていた。頭上でうねうねと曲がる枝を、迷路のように目でなぞる。

 彼と初めてのキスをして、もうすぐ一年になる。繊細でやせた少年の面影は薄くなり、再会した彼は、堂々とした準男爵家の当主となっていた。木々が枝を伸ばすように、ジェームスはしなやかに身体を伸ばし、少年から若い男性へと変貌した。自分の唇を指先でなぞり、ハリエットは息を漏らした。


「だめなのに。ちゃんと……断らなくちゃ」


 いずれジェームスに、不妊のことを打ち明けなければ。そうすれば、彼も結婚をあきらめる気になるだろう。そう思うと、心地よい初夏の昼下がりだというのに、ずっしりと心が重たくなった。小道の向こうから、ルーシーが小走りでやってくる。ハリエットは首を傾げた。

「ハリエット様! 主治医のR医師がお見えです!」



「本当に、申し訳ありません」


 R医師は眉間に深いしわを刻み、頭を下げた。動かないままの初老の医師に、ハリエットは手を伸ばした。


「いいのよ、R医師。頭を上げてちょうだい。つまり……わたしが不妊だと……社交界に広まっているのね?」

 ハリエットに肩を触れられて、R医師は身体を震わせた。

「本当に……申し訳ないことを……今朝、ある館に往診に出かけたら、あなたのことを聞かれたのです……もちろんなにも伝えておりませんが……診療所に戻って確かめてみると……鍵をかけたはずの引き出しから、あなたのカルテだけが消えていて……先週、客間メイドが急に退職したのですが……もしかしたら……」

「もしかしたら……彼女が盗んだのかもしれないわね」

「しかしどうして……」

「…………心あたりは、あるわ」

「ハリエット様⁈」

 口元に指をあてて、ハリエットは頭をめぐらせた。


(N伯爵家のご令嬢か、ジェームスのお母上か、それとも、その両方かしら……)


「……息子の結婚相手に健康上の問題があれば、諦めさせる理由になるもの」

 絨毯を見つめるハリエットに、R医師は声を絞りだした。

「必ず……必ず、わたしが治療法を見つけますから」

「いいの。あなたのせいじゃないわ。誰かの……悪意のせいよ」

 震える指先を握りこんで、ハリエットは笑顔を作った。



 二週間後、ハリエットは一通の招待状を受け取った。舞踏会への誘いだった。差出人は、N伯爵夫人。穴があくほどカードを見つめる娘に、母親は首を振った。

「無理に行くことはないわ。断ってもいいのよ」

「いいえ……いいえ! もちろん、行くわ」

 ハリエットはドレスの裾を握りしめた。宣戦布告か、勝利の宣言か。そのどちらを受けるとしても、尻尾を巻いて逃げるのはまっぴらだった。

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