ツンデレ準男爵のプロポーズ(前)
「ねえ、ジェームス。あなたって、物覚えの悪いほうだったかしら?」
「いや、ミス・アシュリー。わたしは一度覚えたことは忘れない」
「……だったら、私、昨日確かに、お断りしたと思うのだけど?」
「昨日は昨日で、今日は今日だ。ミス・アシュリー、わたしと結婚してくれ」
「だめよ」
ハリエットは両手を腰にあて、幼なじみの青年をにっこりと見上げた。
ハリエットは十七歳、ジェームスよりひとつ年上である。上流階級のアシュリー家は、ロンドンの高級住宅街・メイフェアに館を構えている。彼女は一家の長女であった。他にも、年の近い弟のアンソニー、ひとまわり離れた弟のヘンリーと妹のアンがいる。幼なじみのジェームスは、アンソニーの友人だ。彼と弟は、寄宿予備学校で出会い、今はふたりともイートン校に在籍している。
◆
昔から休暇になると、ロンドンの館や郊外のお屋敷には、弟のアンソニーの友人たちが訪ねてきた。ジェームスも、そんな友人たちのひとりだった。わんぱくな少年たちが、朝から広大な敷地を駆けまわるなか、ジェームスは遅く起きてきて、ひとりで本を読んでいた。ときおり、彼に気づいたアンソニーが、少年たちの群れから抜けだして、ベンチに近寄って声をかけた。ジェームスは二言三言、言葉を交わして、また手元の本に視線を落とした。そんなジェームスの様子が気になり、十三歳のハリエットはある日、弟に尋ねてみたことがある。
「アンソニー、ジェームスはお屋敷にきても本ばかり読んでいるけれど、仲間はずれにされてはいないの? あの子、気まずい思いをしていないかしら?」
「姉さま、まさか! ジェームスは外であそぶより、本を読むほうが好きなんだ。でもひとりだと退屈だから、僕らの声が聞けるようにベンチに座ってるんだよ。僕らがバカ騒ぎしてるのを、眺めてるのが楽しいんだって」
「そうなの? それならいいけれど……」
ハリエットは弟たち(当時、妹のアンはまだ生まれていなかった)から慕われていて、自分は面倒見がいいほうだという自覚もあった。彼女はいつのまにか、自分の弟のひとりのように、ジェームスを目で追うようになっていた。
◆
「ジェームス、お腹は空いていない?」
「ミス・アシュリー、大丈夫です」
「ふふっ、台所からチョコレートを貰ってきたの。一緒に食べない?」
「……いただきます」
チョコレートを頬張ると、ジェームスはほんの少し唇を上げた。あ、喜んでる、とハリエットは嬉しくなった。
「ジェームス、今日はとりわけ冷えるわよ。このひざ掛けを使うといいわ」
「……ありがとう、ミス・アシュリー」
白い息を吐きながら、ジェームスはぺこり、と頭を下げた。鼻の先が赤くなっている。ハリエットは自分もベンチに腰かけて、彼の頬に手をあてた。
「まあ、冷たい。こんな雪がちらつく日は、暖かい図書室で読めばいいのに」
ジェームスはなぜか石のように固まって、ぎこちなく答えた。
「ここなら……あいつらの姿も見えるので……」
視線の先には、雪を投げ合うアンソニーたちがいた。アンソニーと数人の少年たちが、二人に気づいて手を振った。ハリエットは笑みを浮かべて、ジェームスは無表情のまま手を振り返した。とん・とん・とん、とリズムが聞こえ、目を向けると、ジェームスが指先で本の表紙を叩いていた。飛び交う雪玉に合わせて、とん・とん・とん、と音が鳴る。その横顔をよく見れば、目がきらきらと輝いていることに気づいた。ああ、楽しんでるんだわ、この子、とハリエットは愛しい気持ちになった。
◆
それは今から二年前、晩秋のできごとだった。ロンドンから、南西におよそ百マイルはなれた屋敷にも、冬の足音が聞こえていた。ハリエットは居間の暖炉の前で、ソファに腰かけていた。手元の刺繍の針は、あまり進んでいない。あくびをして、窓の外を眺めた。楡の木には黄金色の葉がざわめいて、その隙間から灰色の空がのぞいていた。この風が続けば、あと数日もすれば、葉はすべて地面に落ちてしまうかもしれない。ざくざくと、落ち葉を踏みしだくような音がした。ハリエットは窓に映った人影を見ると、小さく声を上げた。慌ててソファから立ち上がり、窓辺に駆けていった。
「ジェームス!」
窓ガラスの向こう側で、学校にいるはずの少年が蒼白な顔で立ちすくんでいた。
部屋のなかに招き入れようとすると、ジェームスは首を横に振った。
「馬車を待たせているんです。ちょっと立ち寄っただけで……」
ジェームスは、黒いコートに黒いタイ、黒い帽子とズボンと靴を身につけていた。ハリエットは眉をひそめた。
「どなたかに、ご不幸があったの?」
「……父が亡くなりました」
「……ジェームス」
彼の両手に触れると、氷のように冷えきっていた。その手をつかんで、ハリエットは自分の両手に包みこんだ。自分の熱で、凍えた手が温まってほしいと思った。
「イートンに戻る途中だったのですが……なんだか……無性に……あなたの顔が見たくなって……すみません。お約束もないのに」
「いいのよ! 約束なんて」
「…………夏の休暇で帰ったとき、次はクリスマスだなって…………あれが最後の会話になるなんて……思ってもみなくて……」
噛みしめた唇が紫色になっていた。なぶるように風が吹き、ジェームスはびくりと肩を震わせた。まだ背の高さは、二人とも同じぐらいだった。ハリエットは、線の細い少年の身体を抱きしめた。少年は身動きもせず、彼女の両腕のなかで固まっていた。硬質な鋼のような少年の髪を、なでるように梳いた。やがて少年は身体を震わせて、動物のような声を漏らした。風が吹き荒れるなかで、小さな嗚咽をハリエットだけが聞いていた。
ジェームスは息を整えて、目元をぬぐった。
「すみません……情けない姿を。これからは、わたしが母上と屋敷を守っていかねばならないのに…………なんだか自分が、ひとりきりになってしまったようで」
「まあ、そんなことないわ。あなたはまだ十四歳よ。お母上やご親戚を頼りにしてもいいし、アンソニーや他のお友だちだっているでしょう」
ジェームスは寂しそうに笑った。
「母上は……とても悲しんでいて、わたしに構う余裕がないのです。アシュリーたちや従兄のサイクスも心配してくれていますが、自分の情けない姿は見せたくありません。ああ、でもあなたには見せてしまったな……」
「いいのよ! ご家族が亡くなったのだから、悲しいのは当然なのよ」
両頬に手をあてて、彼の潤んだ目をのぞきこんだ。ジェームスは不思議と嬉しそうな顔をした。
「わたしは…………アシュリーがうらやましい」
「なんですって?」
「この屋敷は温かい。アシュリー家の人びとは、ほがらかで明るい。この屋敷にいると……ひとりでいても、ひとりじゃないと感じる。それにあなたは優しくて、こんなわたしを気にかけてくれる。わたしも姉妹や兄弟がほしかった。アシュリーがあなたの家族で……本当にうらやましい」
「じゃあ私たち、家族になりましょう!」
「……え?」
「私があなたの家族になるわ!」
「えっ?」
ジェームスは顔を真っ赤にして、彼女から一歩はなれた。
ハリエットは真剣な顔で、一歩足を踏みだした。
『あの……結婚は……嬉しいですが、せめてわたしが卒業してから……』
『私を姉だと思って、いつでも頼りにしてちょうだい!』
二人の声が重なって、お互いに相手の顔を凝視した。
ジェームスは片手で顔をおおって、ハリエットは頬が熱くなるのを感じた。
「……すみません、わたしの早とちりでした」
「……ああごめんなさい、私、紛らわしいことを……ああでも、あなたが嫌ってわけじゃなくてね……あっ、ジェームス!」
少年はくるりと踵を返して、庭の向こうに走り去った。ハリエットは両手に顔をうずめた。心臓の音が騒がしく、いつまでもジェームスの顔が消えなかった。
その年も、翌年になっても、ジェームスは屋敷を訪れなかった。弟の友人たちのなかにジェームスの姿が見えないと、彼女はほっと胸をなで下ろした。そして次の瞬間には、胸が空っぽになるような気持ちがした。彼の父親の死から、一年と半年余りが過ぎた。
◆
そして今、ハリエットは十七歳になり、庭の木のうえでため息を吐いていた。夏の午後で、太陽は彼女の頭上にあった。楢の葉が重なって、まぶしい光を遮ってくれている。ざざざとゆれる葉音を聞くと、自然と心が安らかになっていく。彼女は目の端をぬぐった。
『ご懐妊は、難しいかもしれません』
月経が始まってから、痛みがあまりにも酷くて寝こむようになった。先週、母親の主治医に診てもらったとき、医師から申し訳なさそうに告げられた。ハリエットは少年の顔を思い浮かべていた。弟のことがうらやましいと言った少年。家族をほしがっていた少年。
「嬉しいなんて、きっと社交辞令だし……もう一年以上会ってないし……とっくに私のことなんて、忘れてると思うけれど……」
ぶつぶつと独り言ちて、ハリエットは首を振った。ジェームスとの結婚なんて、本気で考えていたわけではない。それなのに、公園や通りで家族連れを見かけると、いつしか彼女は、そこにジェームスと自分の影を重ねるようになっていた。
「でも……だめね。わたしは彼に家族をあげられない」
そう声に出すと、また目に涙が溢れてきた。木登りなんて、子どものとき以来だった。誰にも泣き顔を見せたくなくて、この一週間、侍女の目を盗んでは木に登っていた。遠くに人影が見えた。ハリエットは頬を叩いて、目をこすった。侍女のルーシーが自分を連れ戻しに来たのだろう。
(だめだめ。しっかりしなきゃ!)
木の根元から、足音と低い声が聞こえてきた。耳になじんだその声に、ハリエットは思わず身を乗りだした。そして、滑った。
「きゃあ!」
「うわあ!」
頭上から降ってくるハリエットを、声の主は、両手を伸ばして受け止めた。体勢を崩してよろめいて、彼女を抱えたまま地面に倒れこんだ。
ハリエットは目を丸くした。
ジェームスも目が点になっていた。
(ああ、男のひとの唇って、やわらかいのね)
ハリエットはぼんやりと、そんなことを思った。青年の吐息は甘かった。キャンディーを舐めていたのかしら、と彼女は思った。そして恐る恐る顔を上げて、鼻先がふれあう距離のジェームスを眺めた。
「……怪我はないか?」
「……ええ、ないわ」
「……よければ……わたしの上から、退いてもらえないだろうか」
「……っ!」
ようやく頭が働き始めて、ハリエットは跳ねるように上体を起こした。あろうことか、彼女はジェームスを押し倒していた。ジェームスはゆっくりと起き上がり、泥のついた背中をはたいた。それからじっと彼女を見つめた。
ハリエットも彼を見つめていた。久しぶりに会ったジェームスは、以前とはまるで違っていた。背は見上げるほどに伸びて、肩幅も筋肉がついていた。頬は少年らしい丸みがなくなり、唇はふっくらと赤みがあった。
(唇は……ふっくらと…………)
「きゃああああああ!」
「なっ⁈ なんだ、どうした、ミス・アシュリー⁈」
「私……私……いま……キスを…………あなたと!」
「あ、ああ……」
ハリエットは顔が熱すぎて、きっと夏の太陽のせいだわ、と思った。もちろん、そうでないことは知っていた。彼女は両手で顔を隠した。もう一生、このまま顔を上げたくなかった。
「…………すまない」
「……え?」
指を少し開いて目をのぞかせると、ジェームスがまぶたを伏せていた。
「そんなに……わたしのことが嫌だとは知らずに……事故とはいえ、申し訳ない」
ハリエットは目を見開いた。慌てて彼の手をにぎった。
「嫌じゃないわ! あなたのこと、嫌だと思ったことなんて一度もないわ!」
「しかし……泣くほど嫌だったのだろう? 目が赤くなっている」
「これは……とにかく違うの! あなたのことは絶対に、嫌いじゃないわ」
「しかし……あんなに叫んで」
「違うの! 驚いただけ! その…………初めてだったから」
言いながら、ハリエットは両手に顔をうずめた。
(恥ずかしい……もう本当に恥ずかしいわ……今すぐここから立ち去りたい)
手のひらにジェームスの視線を感じながら、ハリエットは夏の庭でひとり悶えていた。
翌日の午後、ハリエットは居間でお茶を飲んでいた。刺繍も読書も手につかず、ただぼんやりとカップを眺めていると、ルーシーが部屋に入ってきた。
「ハリエット様。サー・ジェームス・ラムゼイがお見えになられましてよ」
「えっ⁈」
「なにやら、ずいぶん大きな花束を抱えていらっしゃいますけれど」
「ええっ⁈」
「あら、お越しになられましたわ」
ルーシーは扉の外に頭を下げて、その脇に青年があらわれた。
ジェームスが部屋に足を踏み入れると、濃厚な花の香りが広がった。両腕に溢れんばかりの花束は、十代の青年には荷が重そうだった。ハリエットが目の前に立つと、ほっとしたように、花束を押しつけた。そして、ひと息にこう告げた。
「ミス・アシュリー。わたしと結婚してくれ」