その4
ローズオイルを浮かべた浴槽に浸かりながら、玲香は今日のことを頭の中で反芻していた。
さすがに今日は疲れたなあ。本格的な部外者への初プレゼンだというのに、あんな綱渡りな状況で、準備も何もあったもんじゃなかったし…。
でも、賢児さまってすごい。頭の回転がものすごく速いのは、ちょっと話をしただけでもわかることだけど、元々備えている知識が半端じゃない。それって、急な社長交代もあって、かなり努力されてきたという表れでもあるんだろうか。
とにかく賢児さまと話をしているとワクワクする。いろんなことが勉強できる気がして。自分の未来のワクワクを先取りしている気分になる。
今日は成り行きで「玲香」って呼ばれて、恋人役までしちゃった。賢児さま、ノリがよくて、何か本当にドキドキしたなあ…。
手をマッサージしたときに賢児さまが気持ちよさそうにしてくれると、うれしかったし、私まですごく気持ちよくなった。普通はけっこうこっちが疲れちゃったりするんだけど、逆にチャージされるような不思議な感覚。あんなの初めてだったなあ。
あれが、青柳先生の言っていた“つながる感じ”なんだろうか。
青柳先生というのは、玲香がハンドリフレクソロジーを習いに通っていた先生で、玲香と同期の生徒と出会ってから2ヶ月で結婚してしまった女性のことだ。
彼女の結婚パーティーのとき、結婚の決め手は何だったのかと玲香が聞いたところ、彼女は「彼の手が気持ちよかったから」と答えた。その時は今ひとつ彼女の答えにピンと来なかったのだが、彼女の講座で学んだ後に、いろんな人に施術してみて、その意味がわかるような気がした。
男性にハンドリフレをしたのは賢児が初めてだったが、会社の女の子何人もに施術してみたことがある。大体は、施術後に疲れてしまうというか、エネルギーが吸い取られるような感じになる。
だが、賢児の場合、様子が違っていた。触れ合っている手から、エネルギーが循環して、循環しながら浄化されているような、理由はわからないが、とにかく気持ちがいいのだ。このまま、ずっと触れていたい。そう思わせる手だった。
あの、うれしいなと思う感覚って、気持ちいいなと思う感覚って、ランチ返上で急なドタバタを乗り切ったご褒美なのかな、もしかして。…やっぱり私は運がいいのかな。平日は、たぶん誰よりも賢児さまの傍にいる時間が長いはず。家族や…恋人よりも、きっと。
恋人…いるよね、当然。頭がよくて、ハンサムで、背が高くて、やさしくて、ちょっと可愛くて、若くして社長で、お父様は大臣、もちろんお金持ち。女の子が夢見る王子様だものね、まさしく。お見合いだって、久我様に限らず、きっといろんな話が来ちゃうんだろうなあ。私もそんな話に乗っかれるような、お嬢様だったらよかった……なんて。
…あーあ、まずいな、私。このままじゃ、まずい。進子ちゃんのこと言えないや。人間て、どうして無駄だとわかっていても、無駄な何かに時間や心を費やしてしまうんだろう。そんなヒマがあったら、賢児さまのサポートがきちんとできるように勉強しなくちゃいけないのに。
玲香は、ばしゃばしゃと顔をこすると、浴槽にぶくぶくと沈み、しばらくお湯の中で目を閉じていた。
* * *
「じゃあ、それ、僕が賢ちゃんに届けるよ。かあさま、早く事務所に行って」
「ありがとう、龍。助かるわ。じゃあ、このチケットお願いね」
賢児の義姉である西園寺周子は、小学2年生の息子の龍に手を合わせると、チケットが入った封筒を渡した。
周子、いや、西園寺家にとって大切な客が賢児のところに訪れるということだったので、彼女が喜びそうなコンサートチケットを、八方手を尽くしてやっと入手していた。
本来なら、周子自身が会社に出向き、挨拶がてら、チケットを渡したいところだったが、義父から急な打ち合わせの連絡が届いた。義父というのは外務大臣の西園寺保だ。困惑する周子に龍が助け舟を出した。
「うん、行ってきます。賢ちゃんの部屋でしばらく遊んでないしさ」
「さゆもいく!」元気に手を挙げたのは龍の妹、3歳の紗由だった。「賢ちゃんにのぼってくる!」
「紗由。賢ちゃんは、お庭のおもちゃじゃないのよ」
「おにわのおもちゃは、しゃべらないよ」にこにこして頷く紗由。
「そういうふうに区別してるんだね。…かあさま。僕、今ちょっとだけ、賢ちゃんがかわいそうになった」
「まあねえ、背が高いから肩車なんかをしてもらうと楽しいんでしょうけど…」苦笑いする周子。
「じゃあ、紗由も龍といっしょに賢ちゃんのところに行ってきてね。高岡さんによくお願いしておくから。車の中でいい子にしてるのよ」周子は二人の頭をなでた。
* * *
「龍、サンキュー。お疲れ様。新しいゲーム機も入ったから、遊んでっていいぞ」
賢児の言葉に、龍がうれしそうに答える。
「届け物くらい、いつでも来るよ」
「くるよ」隣の紗由も答える。
「いい子だなあ、紗由」賢児が紗由を抱き上げて頬ずりする。
「きゃああ」紗由が声を上げながら、賢児の顔をぺちぺちと叩く。
「イタタ…。もう、乱暴だなあ、お前は」
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
「あ、西川先生。ありがとうございます。すみません、先生にこんなこと…」恐縮する賢児。お茶を持ってきたのが産業医の西川だったからだ。
「いえ、今、総務がバタバタしてるみたいで。ちょうど通りかかったので、ちょっとお手伝いを」
紗由は、お盆の上のお菓子を見つけると、賢児の腕から降り、お菓子目掛けて走っていった。
「紗由。食べ過ぎるなよ」
「いただきます!…おいちい!」賢児の言葉とは裏腹に、すでに口の周りをクリームだらけにしている紗由。
「紗由ちゃん、ジュースもありますよ。どうぞ」
「ありがとう!」
クッキーサンドの横にあったナプキンで口を拭くと、すぐにコップのストローに口をつける紗由。コップはふたにストローがささる形のものになっている。
「なるほど…これだとこぼさなくて助かります」
賢児が西川に頭を下げると、西川もおじぎをして部屋を出て行った。
「龍、ほら、あれ、限定バージョンだぞ。20台のうちの1台だ」
「わあ、すごいや! 雑誌で見たよ、これ」龍が興奮して眺め回す。
「ただ、遊ぶ前に、ご挨拶な」
「わかってる」仕方ないなというように首をすくめる龍。
その時、賢児から呼ばれた大垣が現れた。
「龍くん、紗由ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」声を揃えて挨拶する龍と紗由。
「紗由、にいさまと俺は、ちょっとお客様に挨拶してくるから、哲ちゃんと遊んでてな」
「紗由ちゃん、遊んでえ」
大垣が紗由に顔を近づけると、紗由はクッキーサンドを握ったまま、賢児の机のほうに駆け出した。
「あそんであげないもん!」
「紗由ちゃん、待ってよー」わざとゆっくり追いかける大垣。
「こら、紗由。お菓子持って走るな。哲ちゃん、じゃあよろしくな」
龍をうながし、賢児が応接室へ向かった。
* * *
「突然おじゃましてごめんなさいね、賢児さん。まあ、この子がウワサの龍くんね。何て可愛いのかしら。赤ちゃんの頃に、お見かけしたきりだから…」
龍を一目見るなり、糸山洋子はうれしそうに声を上げた。
「初めまして、西園寺龍です。いつも叔父がお世話になっています」龍が深く頭を下げる。
「ご挨拶もご立派だわ。私は麻美さんの古くからの友人で糸山洋子と言います。よろしくね」洋子は人のよさそうな笑顔で龍に微笑みかけた。
「賢児さん、本当にお久しぶり。お母様のご葬儀以来だから、もう4年近くになるかしら」
「そうですね。あの後、洋子おば様は海外に行ってしまわれたから、随分経ちましたね」
賢児の母、麻美とは女子大時代からの親友であった洋子は、麻美が急逝してしばらく経ってから、写真家である夫の仕事の関係で渡米したのだが、再び、彼の仕事の都合で日本に戻ってきたところだった。有名なファッションデザイナーでもある彼女は、政財界に知己も多く、保の選挙の際には海外からも様々な形で尽力していた。
「保先生には、もうお目にかかって来たのよ。相変わらずダンディで素敵だったわ」
「恐れ入ります。父もおば様に会えて喜んでいたでしょうね。昔からおば様のファンだったから」にっこり微笑む賢児。
「賢児さんてば、そんなことをさらっと言えるようになったのね。まるで政治家みたいだわ」楽しそうに笑う洋子。
「はは。ご勘弁ください」
「ねえ、龍くん。あなたは保先生の跡を継いで政治家になられるの?」洋子は興味津々といった様子で龍の顔を覗き込んだ。
「おば様で、ちょうど20人目です」
「え?」
「僕が祖父の家に来てから、そう聞いた大人の数です」淡々と答える龍。「なりたいですと答えると、皆喜んでくれるので、そう答えるようにしています。…あ、言っちゃった。他の人には内緒にしてくださいね」
「あら。じゃあ、本当は違うの?」自分だけに本当の気持ちを教えてくれたのかと思った洋子は、少し嬉しそうな顔になった。
「政治家というのは、祖父のように皆から好かれないと、なれないんでしょう? 僕は無理かもしれません」少し甘えるように言って、下を向く龍。
「大丈夫よ。龍くんなら、皆が好きになるわ。おば様も、もう大好きになってしまったもの。龍くんが立候補するときは、おば様が全力で応援してよ」洋子が龍の手をしっかり握って頷く。
「ありがとう」満面の笑みで答える龍に、洋子は心なしか頬を紅潮させた。
「僕、紗由のこと呼んでくるね」席を立ち、社長室へ向かう龍。
「あら。紗由ちゃんもいらしてたの?」
「ええ。遊んでたので、そのままにしてきたんです。少々お転婆ですけれど、大目に見てくださいね」
そう言って微笑みながらも、賢児の頭の中は龍の振る舞いの見事さに驚いていた。
“あいつ、将来は親父以上のマダムキラーになるな。女心をつかむのに無駄がなくて、うらやましい限りだ。交渉事にも無駄がないしな…”
フッと笑う賢児を、洋子が不思議そうにながめる。
「どうかなさったの?」
「いえ。何でもありません。…おば様と再会できてよかったなと思って」
賢児はとびきりの笑顔で微笑んだ。
* * *
「ところでさあ、何で社長は高橋のこと呼び捨てなの? そういう関係? 進子ちゃんがあの二人怪しいって、うるうるしてたぞ」身を乗り出すようにして、塩谷が加奈子に尋ねる。
「ああ、それ。段階があるのよ。とりあえず、2杯目乾杯!」
「再び、お疲れ!」
「もしかして、本当はそれが聞きたくて呼んだの? 電話やメールでいいじゃない。明日だって玲ちゃんちで集まるのに」
加奈子が刺身に箸をつけながら言うと、塩谷は少しムッとしたように答えた。
「会いたいから誘ったんだよ。悪いか?」
加奈子は塩谷をじっと見つめると、二番目の問いには答えずに、最初の問いに答えた。
「開発室は半分が高橋さんだから、会議の時の呼び分けとして、玲ちゃんは“玲香さん”になってたんだけど、この前、トラブルっていうか、とにかく5秒刻みの忙しさになっちゃったらしくて、しかも作業中に、“産学”“三枚目”“三点”“算出”とかね、玲ちゃんに“さん”を付けてると、“さん、さん”てなって、ほら、社長、若干舌足らずでしょ。
言いづらそうにしてたんで、玲ちゃんが「呼び捨てにしてください!」ってことで、現在に至ってるみたい。さん付けに戻さない理由は、存じません。それと、昨日の時点では、まだそういう関係ではない模様」
「そうだったんだ…。でもさ、昨日、大型モニタを運ぶの手伝って社長室入ったんだけど、何かこう、部屋が妙に清潔感あふれて、ちょっとカワイイ感じになってるんだよな。アロマオイルの香りなんか漂っててさあ。高橋もエプロン姿で現れてさ、それで社長が「玲香!」とか呼んでるの見ると、「新婚家庭かよ!」って突っ込み入れたくもなるぜ」
「エプロンの下、ちゃんと服着てた?」
加奈子が色っぽい視線を向けて言うと、塩谷はビールを半分噴出しそうになって、慌てておしぼりで口の周りを拭いた。
「それなのに、社長はまだ玲ちゃんのこと、夕飯にも誘ってないみたいなのよね。彼女にかまかけても否定するばかりだし…」肘をついて、考え込む加奈子。
「飯も食ってないの? 何それ。ほら、オリエンテーリングの時にさ、中山さんが社長のタイプを聞いたって言っただろ。あの答えが、今にして思えば、まさしく高橋なんだよ」
「何かあるのかしら、理由が…」
「よし! じゃあ、俺達が協力して、あの二人を何とかしよう。そのためには頻繁に集まって、情報交換が必要だな。…会場はおまえんちがいい。会社からも近いし。うん」
うなずきながら勝手にひとりごちる塩谷に、加奈子が呆れたように言う。
「二人を何とかって、私達、社長と個人的に話ができるわけじゃないのに、どうする気よ」
「エプロンの下の服を脱がせよう」
「頭だいじょうぶ?」
加奈子は苦々しい表情で塩谷を見た。
「彼女は今、時間的に一番長く社長と一緒だろ。親しくはなったけど、何となくずるずる親しいままっていうことだって、あり得るよ…経験的には」難しい顔で下を向く塩谷。
「で、そこでだ。彼女に刺激を与えて積極的にさせればいいと思う」
「刺激?」
「そう。…つまり、何ていうか、仲のいい友達が彼氏とラブラブだったりすると、私もがんばろーってなるだろ、普通」
「うん…まあね」
「だからだ。まずは俺達が、羨ましがられるようなカップルになって、見せ付けまくってだな、エプロンの下に服を着ている場合じゃないと自覚させればいい。例えばその…俺たちが結婚するとか言ったら、いい刺激になると思わないか」
加奈子はジョッキを口に運びながら、塩屋の目を見た。
「ふーん。玲ちゃんのために付き合うんだ、私達」
「ち、違うよ。…お前と付き合いたいだけだよ!…ついでに高橋もって思って」
そう言った後、加奈子が自分を見つめ続けて何も言わないので、塩谷はどうしていいのかわからず、しばらくの間、ただ手元のおしぼりを握り締めていた。
「あ、あのさ…」
「じゃあ二次会は、うちで作戦会議にしようか…」加奈子は小声でそう言って微笑んだ。
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