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六章

六章 赤ずきん、幻俗する


 狩屋椋子が、コレット・ハウンドという名前を思い出したのは、中学入学直後だった。

 小学校でも有名な優秀児童であった彼女は、両親の意向で名門たる音戯女学園の門戸を開いた。自ら進んで入学したかったわけではない、だが、名の知れた名門校に入学することで両親が喜ぶのなら、そうしたいと思った。児童養護施設出身であった椋子を引き取り、優しく育ててくれた義理の親――彼らのためにできることなら、なんでもしたかった。

 そして、入学してすぐ。上級生との対面式の席で、椋子は一人の少女と出会った。きっと向こうには、出会ったなんて感覚はないだろう。だが、椋子にとってはただ偶然出会ったというにはあまりに衝撃的で、全身の皮膚を剥がされていくような壮絶な痛みがあった。その人に会った瞬間、彼女は全てを思い出した。前世の記憶、その始まりと悲壮な結末を。

 二年生の列の一番左に座っていた、一人の上級生。びりびりと脳幹が痺れて、気を一瞬でも抜けば、涙がぼろぼろ出てきそうだった。なんの変哲もないその姿は、溢れ返ってきた記憶の中の大事な人とは何もかもが違っていた。主として慕った少女は、温かみのある明るい茶色の髪をしていた。とはいえ、周囲にあまりに人目を惹く人物がいすぎたせいで、彼女自身はそれほど目立つ容姿ではなかった。その通称名ともなった赤い頭巾がなければ、一度街ではぐれてしまうと見つけるのは容易ではなかった。

 だが、椋子には――コレットには、赤い頭巾がなくとも、更に地味な容姿になっていようと関係なかった。外見ではなかった。魂が彼女を欲していた。溢れ返る記憶の中、守ることのできなかったたった一人の主を欲していた。もう二度と死なせないと。このためだけに自分はまた生を受け、そして何かに導かれるようにこの人に再会したのだと、椋子はそう直感した。

 赤羽律――赤ずきんメロ。

 この世界で生を受けるよりも前から、大切だった人。

 記憶を取り戻してから椋子が思ったことは、なぜ今まで、メルシェンでの記憶を思い出せなかったのか、という悔しさだった。幸いにして、赤ずきんは「赤羽律」として平穏無事に生きてはいたが、戦いに巻き込まれていたらと思うとぞっとした。臓腑が溶けていくようだった。守らなくちゃいけない、わたしが守らないと。その、永年に亘って身体にしみ込んでいた決意が、それまで「狩屋椋子」として生きていた彼女の全てを変えた。

 そして、彼女は知った。

 赤羽律が赤ずきんであると知っている人間が他にもいることを。

 密かに彼女のことを見守り続ける中で、椋子は絶対に許すことのできない人間を見つけた。赤ずきんが死ぬ原因となった、裏切者の狼。大神刹真という少年として転生していた彼を殺そうと思った。律に会ったその日から、椋子は、どうすれば魔法が使えて、どうすれば前世の姿を取り戻せるのか――ということも悟っていた。眷属が勇士の加護の影響を受けて魔法に類似した力を得ていたように、きっと今生でも、「赤ずきん」たる律の近くにいれば力を取り戻せると。早く大神刹真を殺さねばならないと、椋子は進んで律の傍にいるようになった。だが、年が違えばなかなか時を共有する機会はない。しかも、律は、全く椋子の正体に気付く素振りを見せない。彼女が自分以外の「誰か」と話をする、笑い合う、そんなことが我慢ならなくなっていった。

 それでも、律を見守り続けることはやめなかった。大神刹真がずっと、自分が記憶を取り戻すより遥か以前から律を影ながら守り続けていたと察してからは尚更、やめられなかった。憎かった。裏切者にすら遅れを取った。その現実に、彼女はショックを受けた。そして、やはり自分の正体に気がついてくれない律に、より強い渇望を覚えた。それは生きることへの執着のようだった。

 なぜ自分がこんなに焦がれているのに、気付いてくれないの。

 それでも絶対に守り続けてみせる。

 気付いてくれなくても。

 この先、自分を見てくれなくても。 

 ――そう思っていた、いや、思い込んでいた。

 震える拳を無理に開けば、爪が己の皮膚を抉った痕がはっきりと残っていた。滲む血が黒く見える。眷属どころか、人間ですらなくなってしまったのか。視界が霞んだ。だが、涙を流すことなどできなかった。そんな資格すら、自分にはない。足は神経を失ったかのように、動かない。座り込んだ彼女の横に、人影が立った。

「殺せ、ストレイン……。これ以上、あの人の名前を汚したくない」

 気配で分かっていた。顔を上げずとも、隣に立つのが誰かくらい分かる。

「眷属が魔女堕ちなんて、笑い話にもならない。もう、わたしには生きる価値がない」

 本物の魔女、イーナの高笑いが聞こえた。白雪姫と戦闘中らしいが、その緊迫感を悟る心の気力すら、椋子にはなかった。

「何度も自分を殺そうとした相手ですよ、オオカミさん。殺してくださいよ」

 前世の――最も楽しかった時。それは、皮肉にも、赤ずきんの眷属として、隣に立つ後の裏切者や、マイペースすぎる赤ずきんの幼馴染、そして敬愛して止まない赤ずきん本人と旅をしていた時だった。幾度も危険を乗り越え、時に衝突し合い、それでも、楽しかったと、はっきり断言できる宝物のような記憶。その当時と同じ口調で、猟師のコレット・ハウンドとして、椋子は嘆願する。

 だが、返答はノーだった。

「俺を殺すんだろ、俺に殺されてどうするの猟師さん。それに、俺にそんな権利なんかないよ」

 そう言って、刹真はちらりと視線を背後に投げる。その気配に、椋子は目を丸くする。

「決めるのは、赤ずきんちゃんだ」

 言い捨てるなり、刹真は駆け出した。氷と炎がぶつかり合う、魔女との決戦に介入すべく。

 「赤ずきん」と顔など合わせられない。動かなかった足が、唐突に軽くなった。逃げ出そうとしたその瞬間、後ろから肩を掴まれた。心臓が軋む。

「椋子ちゃん……」

 名前を呼ばれて、椋子はきつく唇を噛んだ。離してください。情けなく震える声で懸命に拒絶の意を示しても、全く説得力などなかった。自分でも分かるほど、か細く出た声に、椋子は目を伏せる。言葉の反して、律は更に身を寄せてきた。泣きつくように、椋子の背に彼女の額が当たる。

「死ぬなんて言わないで。私、あなたに謝り足りないんだから」

 あの世界で出会った椋子に想いは告げた。そしての口から本音を聞いた。全てがイーナの幻影ではない。あの世界を構築したのが魔女であっても、あそこにいた椋子が完全に偽者だとは、律には思えなかった。魔女の目論見が、あの「もう一人の椋子」を律が拒絶し、その精神を弱らせることにあったのなら、一度は魔女の策略を破綻させたのだ。次も必ず倒してみせる。そんな意気込みを見せるように、律は椋子の正面に回り込んだ。

「ずっと守ろうとしてくれてありがとう。それに気付かなくてごめんね。私は前世から逃げていたのかもしれない。でも、私決めたよ。あなたがずっと私を助けてくれていたように、今度はあなたを助けるために、戦うよ」

「赤ずきんさん……わたし、わたしは、あなたのご友人を――」

「確かに、それは許せない。でも、結局、そのことも私の責任なの」

「でも、わたしには、もう赤ずきんさんの眷属を名乗る資格がありません。魔女堕ちしてしまったんですよ……これ以上、あなたの傍にいる権利がないんです」

 黒い血が滲む手を隠すように、椋子が手を丸める。だが、その手を逆に包み込むように握り締め、律は首を振った。

「眷属だから一緒にいるの? 違うよ。あなたの『本心』は、そんなこと言わなかった。それとも、私の勘違いだったかな。椋子ちゃん――猟師さん。私たち、勇士と眷属の関係でしか一緒にいちゃいけないのかな……?」

 白雪姫の怒声がした。強風が背後から吹いてくる。氷を溶かし尽くす強力な熱が、激しい音を立てて辺りを湿らせていた。溶けた水を巻き上げる風が、水滴を撒き散らす。

「ずっと私に手を伸ばし続けてくれて、ありがとう。だから、今度は私がその手を取るね」

 包んだ手を持ち上げ、律は涙の浮かぶ目を必死で細める。爆裂音が背後で轟く中、二人の少女の周囲だけは静謐さで満ちていた。ずっとこのままでいられればよかった。もっと早くに伸ばされていたこの手に気付いていればよかった。浮かぶ涙に、椋子が俯く。流れ出ることはなかった律の涙を代わりに背負うように、椋子の手元に滴が落ちた。いくつもいくつも落ちていく。ぐ、と爪先に力を込め、律は立ち上がった。

「ねえ。どっちが本物とか、どう生きるべきとか、そんなの関係ないよ。どっちも自分だよ。『狩屋椋子』も『コレット・ハウンド』も、あなただよ」

 ただ握っていただけの手に、やんわりと圧力が加わる。弱々しくとも、繋いだ律の手を、椋子は返事の代わりと言わんばかりに握り返した。赤黒い世界に彼女の涙が落ちる度、メッキが剥がれていくように、世界の色が変わっていく気がした。

「ちゃんと返してもらわないと、椋子ちゃんを」

 静かな口調に灯るのは、闘志の色。椋子の手をゆっくりと離し、律は深く息を吸う。不意に、指先を握られた。はっとして椋子を見る。だが、掴んでいたのは、彼女ではなかった。椋子がぽかんと口を開ける。彼女と律の間に、青い髪をした子供が割り込んでいた。無理に肩が上気するのを抑え込んでいるせいで、表情は芳しくない。だが、そんなことは苦にもならないと言わんばかりに、幼い魔女は律の指先を強く強く握り締めた。

「キッカちゃん……?」

「ずっと隠していたことがあります。わたしには、魔力を食べること以外にもう一つ、特別な力があるんです。でも、今のわたしは魔力の制御が上手くできません。失敗すればお姉さんもわたしも、無事では済みません。それでも、成功すれば、お姉さんにわたしの持つ魔力を譲渡することができます」

 その言葉に、椋子が身を乗り出した。

「ならわたしがっ、」

「駄目です」

 彼女の言葉を封殺し、キッカはひたすら律を見つめていた。

「猟師さん、あなたはわたしのことを、心の底から信頼できますか」

 椋子に話しかけながらも、目だけは律に向いている。それは……と口篭った椋子に、キッカはふるふると首を振った。

「わたしに全てを託してもいいと思えないなら、これはできないんです。本人の中に少しでも不安や迷い、敵意があれば、わたしが送った魔力は弾かれます。失敗すれば先程も言いましたが、無事では済まないんです。――お姉さん、律さん。わたしを、信じてくれますか。心の底から、信じることができますか」

 綺麗だ、と思った。途方もなく綺麗だと、律は、赤い瞳を真っ直ぐ見据えながら思った。真紅の両目は、何よりも透き通っている、純度の高い慈愛の塊に見えた。言葉はいらないとばかりに、無言で律は頷く。その横顔に、椋子は胸が焦がれるような痛みを覚えた。辛さでもない、嫉妬の心でもない。それは、どこまで果てしない懐かしさだった。

 普段は何をしても駄目だった。真面目だけど単純で流されやすい。いじられてばかりで頼りない。勇士の中では最弱、魔女の中でも有名な雑魚。魔物にまで馬鹿にされたし、街の人にも「この人勇士なんです」と言っても信じてもらえない有様。

 それでも、彼女が何かを決めた時の瞳の輝きを見れば、眷属の誰も――勇士の誰も、文句を言う人間はいなかった。凛として澄み渡った意志が、周りの者全てを惹きつける。その目を貫いて、目の前の少女はかつて死んだ。

 だが、椋子は止めなかった。律が笑いかけてきたから。大丈夫だと。あの時とは、前世とは違う。はっきりと、大丈夫だと断言した。

「お願いします、赤ずきんさん……わたしを、助けて下さい」

 肩を震わせ、椋子が大地に爪を立てる。もちろん、と一言端的に返し、律はキッカと共にイーナを睨みつけた。銀髪の魔女が業火の中に立ち、その赤い目を細める。矛で刹真と白雪姫の両名と相対する彼女は、まだまだ余力があるらしかった。幻俗している白雪姫もそれは同じのようだったが、未だ身体だけは普通の人間である刹真はそうもいかない。

 矛の切っ先が頬を抉る。飛び散る鮮血に気を取られることもなく、彼は押し固めた風の塊を手に集め、イーナの腹を殴りつけるように拳を振るった。一瞬、苦悶の表情を浮かべた魔女は、すぐさま矛を振るい返した。切っ先部分が氷の刃を受け止め、持ち手が刹真の身体を弾き飛ばす。そのまま律の近くにあった噴水前の銅像に身をぶつけた彼は、激しく咳き込んで喀血した。

「大神さん!」

 放っておくこともできず、思わず走り寄る。キッカは静かに立ち尽くしたまま、自身の中で乱れる魔力の流れを操ろうとしているようだった。手についた血をワイシャツで拭い、刹真は舌打ちを漏らす。

「やっぱ幻俗しないと駄目か……。正直、したくないんだけど」

「幻俗できるの……?」

 よろよろと立ち上がる刹真に、律は半信半疑で問いかける。「半分だけね」と、彼が口元に付着した血をぐいと手の甲で拭ったその瞬間、白雪姫と交戦中であったにも拘らず、イーナの赤い目がぎらりと光った。殺意で塗り潰された視線が律を射抜く。

 刹真の苦悶の呻きが鼓膜を叩いた。視界の端を赤い血が飛ぶ。三つ又の矛が、椋子を刺し殺したように、刹真の心臓を突き刺していた。倒れこむ刹真を、何度も何度も、矛が突き刺す。ぐちゃぐちゃと、肉と血が混ざり合う音が粘ついた合唱を奏でた。

 逃げろ、と、泥を口に流し込まれたかのようなくぐもった声で、刹真が言った。その必死に捻り出した声を掻き消すように、絶叫が響く。火に纏わりつかれた椋子が、石階段から転げ落ちてきた。暴れ回る彼女を嘲笑うように、炎の揺らめきは激しさを増していく。のたうち回る椋子の爛れた顔の中に、血走った目が見えた。鼻を腐らせるような焦げ臭さが、血の臭いと混ざり合って感覚をおかしくさせていく。

 呆然と立ち尽くす律は、繰り広げられる惨劇に目を瞑ることもできず、ただ見ているしかできなかった。肉が裂け、血と一緒にいたずらに掻き回されている音がする。ぐちゃぐちゃと、粘着質な音を奏でるそれは、既に挽肉と化していた。のたうち回る火だるまも、その抵抗はあっと言う間にやんでしまった。不気味に静寂を取り返し、助けを仰ぐように伸ばされた指先は、最早その形を失いつつあった。

 魔女が笑う声がする。嬉しそうに、楽しそうに笑う声がする。

 湧き上がってくる強烈な吐き気。だが、それを押さえ込み、律は激昂した。

「私の眷属は、こんなに弱くない!」

 刹真をいたずらに切り刻む魔女の幻影を睨みつけた。赤い目が怯えたように見開かれる。まるでメッキが剥がれていくように、世界が変わっていった。お姉さん! そう叫ぶ少女の喉を枯らす声を聞いてからは、その変化は加速した。声のした方へ手を伸ばす。小さな温かい手が、己の手首を掴んだ。引き戻すように、力強く。

 熱くも寒くもなかった。身体の中に光が入り込んでいる――そんな不可思議な表現しか、律にはできなかった。だが、違和感も不快感もなかった。青い髪の少女と目が合う。しんじて。そう口が動いた。しんじる。だから律も、そう返した。

 目まぐるしく、脳味噌が萎縮と拡張を繰り返すようだった。前世と思わしき記憶が、超高速でスライドショーのように駆け巡る。ちらつく赤に、脳内で手を伸ばす。掴み取ったら、もう二度と後戻りはできない。それでも、掴めるのは、今しかない。

 ――白雪姫が、椋子が、「今生での自分」を否定していたように、きっと、自分は「前世の自分」を心の奥では拒絶していたのだ。

 注ぎ込まれた光を全て外に放つように、律はキッカの手を離した。

 赤いエプロンドレスが揺れる。白いエプロン部分には、細かく刺繍がしてあった。赤い頭巾の下の髪は太陽に透かしたような茶髪だ。手に馴染む木の籠は、屋上で無我夢中のまま使用したものと寸部と違わぬものだった。これがどういうものなのか、どう使うのか、誰に訊かずとも分かった。睫毛を二、三度震えさせ、律――否、赤ずきんメロは悠然と一歩を踏み出した。

「赤ずきんちゃん、」

 刹真が、硬直した喉を解きほぐすような掠れた声を出した。彼を顧み、彼女は微笑む。

「あやつ……」

 イーナから一旦離れ、白雪姫が驚いたと言わんばかりに目を見開いた。それも一瞬のことで、彼女は俯きながらも笑顔を見せる。望んでいた玩具を手に入れた子供のような、そんな無邪気な笑みだった。それを悟られまいと、白雪姫は気丈に剣を振るう。三つ又の矛と氷の剣が激しく交錯した。

 憎しみに顔を歪め、イーナは吐き捨てる。

「ちっ……幻俗するなんて。でもあんなザコ、今更どうとも思わないわ!」

「確かにあやつは勇士一の雑魚じゃが、究極の起死回生が可能であることを忘れたか?」

 ぎり、と歯噛みし、イーナは白雪姫が剣を構え直したその一瞬の隙をついて炎の壁を作り出す。そして、狙いを赤ずきんに定めた。刹真が主の前に躍り出たのを見るやいなや、イーナはまたもや直前で狙いを変えた。無防備になっていた椋子の首を掴み上げる。そして、ほぼ同時にキッカの周囲で炎が巻き上がった。

 叫ぶ赤ずきんを嘲笑うように、二人の人質を得た魔女は締め上げる手と炎の威力を強める。「さあ、どっちを取るのよ、赤ずきん!」

 魔女の叫びに呼応するように、赤黒い世界のあちこちが歪み出す。草木は枯れていき、綺麗に舗装されていた地面にはひびが入った。

 苦しむ椋子の声が、幻想の中で焼き尽くされていった影と重なった。反対側では、青い髪の子供の姿が火の海に沈もうとしている。だが、赤ずきんの中に迷いなどなかった。焦りもなかった。最初から、答え方は一つしかないのだ。赤茶色の目が見開かれた。

「そんなの、どっちもに決まってるよ!」

 イーナの表情に怒りが満ちる。

 誰も、制止の声をかける間がなかった。赤ずきんの手が、何が起こるか分からない、運試しの籠を振るう。

 音もなかった。感覚すらなかった。

 一瞬で、魔女イーナと勇士赤ずきん、そして幼い魔女キッカの居場所が入れ替わった。赤ずきんと椋子が隣り合っているのを、魔女は呆けた顔と呆けた頭で、意味が分からないとでも言いたげに見つめていた。彼女の周りにあるのは揺らめく激しい炎だけだ。青い髪の少女は、噴水の前にあった銅像の正面に立ち尽くしていた。

 これがもし、イーナの「姉たち」であったならば、咄嗟のことでも多少なりと反応はできたかもしれない。それでも、七人の魔女の中で二番目に若く、勇士たちとの実戦経験も上の姉たちに比べれば少なかった彼女は、圧倒的に経験不足だった。故に、敗北を認めるしかなかった。

「お前の負けだ」

 喉元に刃が突きつけられた。背後を取られたことにも気付かなかった己の愚鈍さを恥じながら、イーナは唇を噛み締め、炎を収束させる。黒い鋼鉄の刃を見たのは、久しぶりだった。その姿を見ることも。

 茶色の髪がさわりと揺れる。琥珀を透かしたような色合いの瞳は、冷酷な色に染まっていた。その目つきすら懐かしく、魔女は自嘲する。足下が凍りついていった。白雪姫が念押しをしているらしい。結構なことだと、イーナは抵抗もせず、その場に座り込む。氷の壁が、二人を覆い隠した。

 刹真――赤ずきんの眷属、ストレインは、切っ先は魔女に向けたまま、冷え切った声で言う。「いくつか質問がある、答えろイーナ」

「……なによ」

「お前のその裏ワザ。一体どういう理屈なんだ」

「簡単よ。魔女堕ちさせた段階で、その人間は言わばワタシの眷属。魔女の眷属でもあったあんたなら分かるでしょ、ワタシたちの眷属になったら、どれだけ魔力の底が深まるか。眷属にすれば、精神を取り込むだけで十分な魔力を得られたのよ。猟師の精神を支配して同化することはできなかったけど、魔力さえ頂ければよかったわ。この世界でも、高密度の魔力を取り込めば実体化紛いのことができるんじゃないかって、そう思った。あんたらの『幻俗』だって、要するに魔力を使ってメルシェンの姿を再現してるわけだし。でも、魔女堕ちができるのは元々魔力の素養がある奴だけ。だから猟師を狙ってたのよ……。一番は、この世界でシンデレラを見つけることだったんだけど、お姉さまがシンデレラには手を出すなって煩いから」

 その言葉に、ストレインは、やはりと内心呟く。シンデレラもこちらの世界に転生しているらしい。魔女墜ちした勇士ですら転生しているとなれば、勇士も眷属も、ほぼ全員こちら側の世界で生きている可能性が高いだろう。その思考を気取られないよう、彼は軽口を叩いた。

「相変わらず下っ端扱いなんだな、お前」

「馴れ馴れしく語らないでくれる? 不愉快だわ」

 ぷい、と顔を子供のように背けるイーナに、ストレインは表情を変えない。

「もう一つ。キッカの正体はなんだ」

「そんなのこっちが訊きたいくらいよ」

 本音だったらしく、イーナが唇を悔しそうに突き出した。何も知らないのかと見下されることには抵抗があったらしい。特にリアクションはせず、三番目の質問をした。

「じゃあ、お前の本当の目的はなんだったんだ。まさか、たった一人で、ただ俺たちに喧嘩を売りに来たわけじゃないんだろう?

「敵情視察――とだけ答えておくわ」

 銀髪赤目の魔女は、ぎらぎらした目でストレインを睨み上げた。収束した炎が全て、彼女の瞳の中に封じ込められたかのようだ。憎悪に煌く双眸に映り込む己の姿を一瞥した。

「そうか。ならもう用はない」

 冷淡に告げ、ストレインは手にしていた長剣を引いた。そして、ゆっくりと剣を振り上げる。その一連の動作にも、イーナは動じない。ただ、静かな憎悪だけが瞳の中で燃え上がっていた。これが最後の怨嗟とばかりに、美しい魔女はストレインを真っ直ぐ見つめる。ほんの僅かだけ、哀愁が滲んだのを、眷属もまた気がついていた。だが、剣を握る手に迷いはなかった。

「今度はそっちにつくのね、ストレイン」

 魔女が目を伏せた。凍結していく音が耳に煩い。

「……残念ながら、前回もこっち側だったよ。心はな」

 目を開いたまま、ストレインが黒剣を振るう。魔女の白く細い首を斬り裂いた刃は、黒い血に塗れることはなかった。血の代わりに噴き出て行くのは、黒い霧。細かな粒子は砂塵の如く辺りへ飛び散り、そして蒸発するように消えていく。切断した箇所から消失していくイーナの死体を、彼は無表情に見下ろしていた。やがて残ったのは、一冊の学生証だった。なんでこんなものが、と拾い上げ、中身を確認する。

 それを目にして、ストレインは、殺せなかったかと呟いた。静かに氷も消えていき、赤黒い世界が壊れていく。魔女の脅威が去ったことを意味していた。戦いは終わったのだ。

「奴は」

 銀髪を靡かせ、白雪姫が目を細めた。その隣に立つ赤ずきんに学生証を投げ、ストレインは首を振る。わたわたしながらも、赤ずきんは学生証をキャッチした。

「死んではいない。所詮は精神体みたいだったみたいだし。でも、有意義な情報もある。こちらとしては嬉しくもなんともないけど、奴らにとって、俺たちの『幻俗』と同等の力を得る方法は二つある。一つは人間との同化を経ての実体化、もう一つが今回みたいなケース。イーナは猟師さんの精神を取り込んで魔力を得ていた。高密度の魔力を手に入れることで、実体化相応の現象を引き起こしていたらしい」

「なるほど……。やはり精神に魔力があるのか。そうなると、この世界における魔力の源は魂の記憶そのものと言っても過言ではないな。それでも、七人の魔女の実力がこの程度なわけもあるまい」

「ああ。イーナが蛇を喚ばなかったところを見ると、ちゃんと実体化しないと力の制限はあるようだな。けど、魔女はこの世界で、自力では魔力の生成も使用こともできない。どんな形でも他者の力を利用するしかない。それは確かだ」

「あの、今はそういう話やめようよ……」

 二人の会話に全くついていけなかった赤ずきんは、おっかなびっくり声をかける。空はすっかり青さを取り戻し、太陽は燦々と頭上で輝いている。草木も元の色を取り戻し、割れていた地面はそんなあとなどないように綺麗に舗装されたままだ。

「学園のことなら心配いらぬぞ。元より全員がイーナの精神魔法にかかっておった。妾たちのどんちゃん騒ぎも、学園の者たちは気づいておらぬ。まだ夢の中なのではないか? 仮に目覚めている者がいたとしても、妾の優秀な眷属たちが工作をする。大丈夫じゃ」

 ぐ、と親指を立ててドヤっと笑う白雪姫の、あまりのギャップに不安は倍増する。だが、彼女がそこまで言うのならばと、赤ずきんは押し黙った。そもそも言いたかったことはそうではないのだが、一方的に話されたせいで、そもそも自分は何を伝えたかったのだろうと思案する羽目になる。忘れてしまうような瑣末なことだったのだ、と流そうとしたところで、彼女は、ストレインと目が合った。

 黒いマフラーで口元を隠す彼の頭部には、ぴょこぴょこと動く耳があった。思わず、それを凝視してしまう。黒いもふもふした三角系の耳は、猫よりも大きく尖っていた。なんと言ったらいいか分からない赤ずきんは無言で視線を逸らす。その態度に、ストレインがぴくりと目元を痙攣させた。

「赤ずきんよ、耳だけではないぞ、こやつ尻尾もあるぞ!」

 戦いのあととは思えないほど浮かれた声を上げ、白雪姫がストレインの背後に回り込んだ。はあ、と彼は大きく溜息をつく。そして、手にしていた長剣を指で弾いた。見る見るうちにただの短刀に変わっていくそれを懐に収めるその仕草に、ずきり、と赤ずきんのこめかみが痛みを発した。

「だから嫌だったんだよ、この姿になるの」

「そうは言うが、前世においてもお主はこの姿で行動していたではないか。何を今更。それとも何か、今になってこのような可愛らしい姿をネタにされることを気にし出したのか」

 いつになく上機嫌に見える白雪姫が、ストレインの黒い耳に手を伸ばす。その手を叩き落とし、彼は舌打ちした。乱れたマフラーをかけ直す。そして、赤ずきんと再び目が合った。その瞬間、鳥肌が立った。恐怖ではない。喜びでもない。

 かなしいのか。

 不意に思い至り、赤ずきんは顔をしかめる。なぜだろう。向かい合っていられず、赤ずきんは視線を落とした。ぎゅ、と手にした学生証を握り締める。俯いていると、ぽん、と頭に手が載せられた。冷たい手だった。はっと見上げると、ストレインの姿ではなく、大神刹真となっていた少年が無表情に赤ずきんを見ていた。そして、彼はゆっくりと告げる。

「よくやったね、赤ずきんちゃん」

 その言葉に、ふわりと、心臓が持ち上がるような奇妙な浮遊感を味わった。気が抜けたせいか、赤ずきんの幻俗が解けていく。赤羽律の姿に戻った彼女に、刹真は首を竦めた。

「やれやれ、これから幻俗や戦い方について学んでいかないと駄目だね」

「自分だってまともに幻俗できんくせによく言うわ」

「黙ってろ毒林檎。……その学生証、猟師さんのみたいだ。返してきなよ」

 林檎の揚げ足取りをぴしゃりと封殺し、刹真は律の持つ学生証を指先で弾いた。

 視線が交錯した瞬間に覚えた悲しみの感情はなんだったのか解明できないまま、律は学生証に視線を落とす。音戯学園の校章であるヤドリギが描かれた、黒革の手帳は見慣れたものだった。椋子は座り込んだまま茫然と空を見上げていた。

「椋子ちゃん」

 声をかけると、彼女は緩慢な動作で立ち上がった。

「勝ったんですね。……すみません、わたしは、役に立てなかったどころか、あなたを危険に晒した」

 律を直視できないのか、視線を下げて椋子は言った。 片腕に爪を立てる彼女の手を取り、律は首を振る。そして、椋子の手に学生証を握らせた。

「私ね、前世で旅に出たばかりの頃、浮かれてたんだ。取り立てて何かができるわけでもなかったのに、たった一通の手紙をもらった瞬間に勇士だよ? 選ばれた人間だなんて調子乗ってた。でも猟師さんと出会う前に、ある町で一人の女の子に会ってね、私はその子を助けることができなかった」

 都合よく忘れていた一つの過去。こちらにどこか怯えた足取りでやって来る青い髪の子供の姿を視界の端に捉え、律は目を伏せた。

 痛い記憶だった。

 浮ついていた自分を大地に叩きつけるために仕組まれた事件だったのではないかと思えるほど。キッカに敵意は最初からなかった。銃で命を狙われていたというのに、律はおろか、猟師への敵対心すら。だから律はあの子供を助けた。そして、もう一つは眠っていた記憶が拒否したのだ。見捨てる、という行為を。前世において、自分が――赤ずきんメロが助けられなかった子供を、律はあの幼い魔女に重ねていたのだ。

「女の子は死んじゃって、私に向かってオオカミさんが言ったんだよ。君に人を助ける覚悟があるの、って。きっと、その時、ようやく勇士としての旅に出たんだよ、私は」

「……そんなことが、あったんですね」

 椋子は複雑そうな顔をした。色々な感情がせめぎ合っているようだ。

「役に立つとか、立たないとか、関係ないよ椋子ちゃん。もう二度と、助けられなかったなんて思いはしたくないの。だから、これは私の我儘だったんだよ」

「赤ずきんさん、」

「すぐには無理だろうけど、椋子ちゃん。前世と現世の折り合いをつけて生きることは、そんなに難しくないかもしれないよ。白野先輩は、白野林檎なんて人間はいないって言ってたけど、やっぱりそれは寂しいことだと思うの。私は赤ずきんだけど、同時にただの赤羽律で、あなたは猟師さんだけどただの狩屋椋子でもあるんだよ。私はあなたの本心と会ったけど、勇士だから眷属だからって、やっぱりそういう縛りはいらないと思う。自由に生きて、なんて、散々自由にしてた私が言うのも嫌味っぽいけどね……」

 林檎や刹真には聞こえない声量で、律は苦笑する。暫く彼女を見つめていた椋子は、俯いてからぎゅう、と生徒手帳を握り締めた。記憶を取り戻す直前に配布されたそれは、前世など何も知らなかったただの「狩屋椋子」の存在証明でもあった。

「ありがとうございます、……赤羽、先輩」

 涙を堪えるように唇を噛む椋子を、律はどこか嬉しそうな目で見ていた。

 椋子が落ち着くのを待っていると、不意に声がかけられた。青い髪の少女が、少し距離を取って律たちを見つめている。声をかけてきたのは、その横に立っていた刹真だった。

「で、この子供はどうするの」

 ちょいちょい、と指を差す刹真に、律は一つ頷く。

「もちろん、私が守るよ」

 その言葉に、刹真と椋子が同時に溜息をついた。え、椋子ちゃんまでそんなリアクションなんて酷い、と頬を膨らませる律はしかし、取り乱すことはなく、すぐにひどく穏やかな表情を浮かべた。

「……魔女とはやっぱり戦わないといけないって思うんだけどね。でも、キッカちゃんは、」

「特別ですー、ってか。なに悟り開いた教祖様みたいな微笑浮かべてんの。甘っちょろいだけじゃ神様は降りてこないよ、民衆はついていくけどね。今すぐ祀ってあげようか? ただし血祭りだけどね」

「嫌だよなんでそんなに物騒なの! ……まあ、甘いのは分かってるけどね。キッカちゃんだけ特別扱いなんて、そんなの許されないって。でも、やっぱり私は、敵意のない相手をどうこうっていうのは、したくないよ」

 その言葉に、キッカの赤い目が揺れる。

 やれやれ、と首を振るや否や、刹真は傍観に徹していた林檎に声をかけた。

「というわけだ。我らが勇士、赤ずきんちゃんがそう言うわけだから、今後はお前がこの魔女に手を出しても全力で止めさせてもらうよ、林檎。ねえ、猟師さん」

「……あなたの言うことは聞きません。でも、赤羽先輩が守りたいものは、守ってみせます」

「あははは……あー、うん、ありがとね」

 自由にしていい、と言ったそばからこれか、とは、思いはしたが口に出すことはなかった。理由はどうあれ、キッカのことを二人が守ってくれるというのなら心強い。こういうところでは頼りっぱなしだな、と自らの弱さに情けなくなりながらも、律は林檎に毅然とした視線を向けた。髪飾りをつけ直し、彼女は鼻を鳴らす。

「別によいわ。その小娘が邪魔をせん限りはな。ただし、妾にとって魔女は全て敵、そのことだけは憶えておくがよい。あと、魔女墜ちした猟師と、裏切りも――あー、そこの腐れ外道のクソ狼。お主らのことも信じてなんてやらんからなっ!」

 子供のように舌を出し、林檎はぷいと顔を背けた。なんで拗ねているんだろうかこの人は、と律は胡乱な目を向ける。だが、とやかく言うとまた機嫌を損ねそうなのでやめた。刹真といい林檎といい、大人びているのに時たま行動がとても幼稚になるのはどういう理屈なのだろうか。不思議でならない。

 スカートの裾を引っ張られ、律は視線を下にやる。キッカが澄んだ赤色の目で、真っ直ぐ律を見つめていた。

「もう身体はいいの?」

「律さんが魔力を使ってくれたから……」

 キッカに目線を合わせるように膝を折る。そこで、律は、もっと早くに気づくべきだった一つの重大な事実を思い出した。声が硬くなる。

「あのさ、キッカちゃん。私は、他の七人の魔女とは戦うよ、きっと」

 その言葉に、他の面々も思い至ったらしい。

 他の七人の魔女――それは、キッカの姉たちのことを指す。いくら己を追放した存在だとは言え、複雑なのではないか。それを律は案じたのだ。お姉様たちと、と、一瞬だけ眉を潜めたキッカは、しかし、ゆるゆると首を振った。

「わたし、お姉様たちに悪いことをしてほしくない。わたしが生まれる前からお姉様たちは悪いことをいっぱいしていたみたいだけど、わたしに優しくしてくれた時期もあったし……。もし止められるなら、わたしも止めたい、です」

 その瞳には、はっきりとした決意の炎が揺らいでいた。

 殺すつもりだけどいいのか、と、刹真が冷めた声音で言う。その言葉にも、キッカは僅かな逡巡こそ見せたものの、最後には強い意志のこもった顔つきで頷いた。


 そのやり取りを、桜並木の木陰に身を置いた林檎が冷ややかな目で見つめていた。耳元に当てたスマートホンに向かって、彼女は告げる。

「魔女が魔女を止める、か。勇士が魔女を匿ったり、魔女が勇士を助けたり、まったくよく分からん構図じゃ。妾には理解できん世界ぞ」

 ざ、と風が吹いた。葉桜が音を立てる。掌に一枚、葉が落ちてきた。

『いや、あたしにも分かんないんだけど、なにそれ』

「逃げたお主に言ったところで無駄話か。それにしても、本当に結界だけいじったらすぐに帰ったの、お主。びびりか」

『笑うなブス林檎。仕方ないでしょ、あたし今日定期テストだったんだから。わざわざ抜けて行ってやたんだから感謝しろ感謝』

「定期テスト……。ラプンツェル、お主もそのような現世のものに追われているのか、嘆かわしい。妾たちは勇士、かような試験など必要ないのじゃぞ」

 ぐしゃ、と葉を握りつぶす。折れたそれをぱっと放った林檎は、心底憐れんでいるような顔をした。電話越しの旧友は「そんなんだからあんた成績悪いのよ……」と小言を漏らす。

「妾、馬鹿ではないぞ。これでも赤点は数学だけになった」

『威張るな、そんなことじゃ威張れん。……で、メロの記憶は戻ったんだっけ?』

 声の調子を変え、「ラプンツェル」は尋ねる。和やかに談笑している赤ずきん一団を一瞥し、林檎はいや、と首を振った。

「肝心の部分は恐らく戻ってない。ストレインが自分を裏切ったとは知らないじゃろうな。猟師は全部思い出しているようじゃが、赤ずきんがあの調子では……」

『おけ、察した、みなまで言うな。んじゃ、メロの記憶を取り戻させればいいわけ? あー、あんな嫌なことを思い出させるなんて……ゾクゾクきちゃうわ』

「黙れ変態。当面はよい。ストレインに首輪もかけてあるし、今のままなら手綱は妾が握っていられる。今、赤ずきんと奴の関係が険悪になっても戦闘に支障を来す。ストレインが魔女と敵対する道を選んだ以上、利用しない手はないじゃろ。駒は多い方がいい」

 どこまで冷たい眼差しが、日だまりに包まれた四人を捉えて離さない。蜘蛛の巣に絡ませるかの如く。おお怖っ。くすくすとおどけてみせるラプンツェルの声が、夏の木漏れ日に溶けていく。その声に、しばらく間を置いてから、林檎が言葉を返した。

「ラプンツェル。ただの『人』として生きるのは、簡単か?」

 どこか寂しそうな目をして、林檎は尋ねる。

 電話越しの相手には決して見えないだろう、という確固たる油断から浮かんでしまったその色を、しかし、相手は察したらしい。最初こそ、からかったように笑っていたものの、ラプンツェルは至って真面目な声音で返答した。

『あんた難しく考えすぎなんじゃない? 最初から前世の記憶持ってたせっちゃんやあんたは、そりゃ確かに複雑だろうけどさ。でも、前世と全く同じ容姿で生まれてきたわけでも、同じ環境で育ったわけでもあるまいし、もっと気楽にすれば? 毎日毎時間、魔女と戦ってるわけでもないし。テスト勉強もちょっとはした方がいいと思うよぉ、お嬢様』

「だから、妾は勇士じゃ、必要ないのじゃ、そんなん」

 落とした葉っぱを踏みつける。刹真に引っぱたかれたらしい律の叫びが鼓膜を打った。思わず視線をそちらに向ける。

『混ざりたいなら混ざればー? 妾もぉ、とか言って』

「電話越しに相手を氷漬けにする方法なないもんかの、ラプンツェル」

 不愉快そうに林檎は顔を顰めた。だが、彼女の視線はずっと赤ずきんたちに向いていた。


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