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五章

五章 魔女、本気出す


 朝、律が目を覚ました時には、既にキッカが起きていた。迷惑かけてごめんなさい、と開口一番に謝る子供は、あまり万全とは言えないものの、昨日よりは大分調子はよさそうだった。だが、食欲はまるでないらしく、朝食も水以外口にすることはなかった。両親は早々と仕事へ行ってしまったので、下手に追及されなくてよかったと律は密かに安堵していた。

 昨夜のうちに洗濯されていた刹真のワイシャツや下着は、丁寧に畳んでソファに置かれていた。平然と着替え出す刹真に最早突っ込む気力も起きず、律は黙々とパンを食べる。一通り用意を済ませ、じゃあ学校にと家を出た。さすがに具合の悪いキッカを歩き回らせるのは心が痛んだが、置き去りにしてくるわけにもいかない。今日は俺が一日面倒を見る、と刹真が言い出したのは、いつも交差点で信号待ちをしている時だった。

「え、……そんなこと言って、キッカちゃんのこと始末する気じゃ、」

 律の言葉に、キッカが怯えたように赤い目を潤ませ、律に抱きつく。非難の目で見る女子中学生の頭を引っ叩き、刹真は冷淡な口調で返した。

「人の好意は受け取っておくべきだと思うよ、俺はね」

「問答無用で叩くのはどうかと思うよ、私はね」

 頭頂部を手で押さえ、律は涙目で訴えた。

 女学園への道すがら二人の言い合いは続いていたが、校門が見えてきたところで、不意に刹真が口を噤んだ。律もまた、校門の前に立つ一人の少女に気がつき、言葉を殺す。長い三つ編みを風に揺らした狩屋椋子が、律たち三人を無感情に見つめていたのだ。思い切って声をかけようとしたところで、彼女は踵を返し、校舎へ駆けて行ってしまった。

 ぎゅ、と掌に爪を立てる。一瞬で気負った彼女のその仕草に、刹真は不敵な笑みを浮かべ、とん、と背中を押した。驚いたように目を丸くし、律は刹真を見上げる。

「そんなに気負わなくていいよ。今更緊張したって後悔したって遅い。これからできる最良のことに全力を尽くせばいい」

「これからできる、最良のこと……」

「きちんとイーナの出方を見極めて、猟師さんを――って、」

 刹真が言い終わらないうちに、律は駆け出していた。慌てて刹真が追いかける。だが、校門の影から屈強なガードマンが二人出てくるなり、彼の両肩を掴んだ。国籍どこですか、元の職業なんですか、と問いかけたくなるような浅黒い肌にサングラス、シャツの上からでも分かる筋骨隆々とした肉体を持った警備員たちは、無言で刹真を見下ろしていた。その脇を、パーカーのフードを目深に被った子供が駆け抜けていく。

「ちょ、待て、お前は俺と、」

 必死でもがくが、泥沼のように、足掻けば足掻くだけどつぼにはまっていくようだった。

 明らかに部外者である子供の入校は許すくせにと愚痴りながら、刹真は校門の外へと締め出される。無言の圧力を発したまま校門を守護する二人のガードマンを横目に、彼は一旦、その場から引き上げることにした。

 だが、その直後、解放されていた門扉は背の高い鉄柵が閉じ、校門の向こうは、無音に包まれた。まるで全てがまやかしだったと言わんばかりに、人も音も消える。その光景に刹真が目を剥いた刹那、きぃ、という車のブレーキ音が鼓膜に焼き付いた。


 ◆○◆○◆


 校舎が近づいた瞬間、ぐにゃりと臓腑が歪んだような感じがあった。へその上の部分に手を這わせ、律は眉根を寄せる。だが、椋子を追う方が先決だと歩みは止めなかった。その後を追うキッカが叫ぶが、子供の声は律には全く聞こえていなかった。何かに気が取られて聞き逃していたわけでも、意図的に無視していたわけでもない。本当に、キッカの声は律には聞こえていなかったのだ。不自然な人波が出来上がり、二人の間を裂いていく。人間障壁に阻まれたキッカは、見えなくなってしまった律に不安を募らせた。

 キッカが追いかけようとしていることなど露知らず、律は校舎内に入った。椋子のクラスである二年二組に走る。息を切らしながら教室の入り口に立つ上級生を、二年二組の生徒はおろか、廊下を行く二年生たちは冷ややかな目で見送っていた。その酷薄で、尚且つ刺々しい視線に一瞬怯むも、律は椋子の所在を尋ねた。生徒たちは一様に顔を見合わせ、そして、一言も返事をすることはなかった。

 雑多な足音すら消え、奇妙な静寂だけが落ちる。視線だけが、律に集中していた。無数の人形に見られているような恐怖感が背筋を這い上がってくる。一歩たじろいだところで、背中に軽い衝撃が走った。はっとして振り向くと、巴恵と視線がぶつかる。

「巴恵ちゃ、」

「どいてくれませんか」

 どこまでも冷たい声で、目で、後輩は告げる。知らない人間にでも向けるような顔をして、巴恵は律を押しのけた。力なく立ち尽くしていた彼女は、押されて壁際に背中をつける。どういうことだ。ぐるぐると脳内が回り出す。呆けている律を、通り過ぎる生徒たちは異物を蔑視するが如く避けて行った。チャイムが鳴る。ホームルームの予鈴だ。だが、歩き出せず、律は暫く呆然としていた。そこに、教師が通りかかる。

「何してるの赤羽さん。油を売る前に早く教室に戻りなさい。時間が分からないの?」

 いつになく冷めた顔つきで、真木白亜が律を見下ろした。普段の明るさなど屑籠に丸めて捨ててしまったと言わんばかりの酷薄な瞳の色に、律は更に動揺する。みんな何かおかしい。だが、外見は何も変わらない。心臓が嫌な痛みを訴える中、律は追いやられるように教室に向かった。静かな教室のドアを開けるのに抵抗を覚えながらも、逸る心臓を鎮めるように引き戸に手をかけた。

担任が教壇に立っていた。きつい視線が幾重にもなって律の身体を刺していく。

「あと一分でホームルーム開始です。時間にルーズなのは頂けないですね、赤羽さん」

「すみません……」

 厳しい口調の担任に、律は反射的に謝罪する。くすくすと、小さな笑いが辺りに広がった。それは温かいものではなかった。居心地の悪さが腹の底から溢れてくる。こんなことを感じたことは、この学校に入学してから過去一度もなかった。俯きながら席に着く。いつもなら一番に苦笑して声をかけてくれるはずの隣人は、一瞬たりと律を見ることはなかった。円香ちゃん、と声をかけようとして、律は口を引き結ぶ。そうでもしなければ今にも大きな声が溢れ出そうだった。

 起立の声がかかる。半テンポ遅れて立ち上がりながら、律はいないはずの人の後ろ姿を凝視した。ポニーテールを揺らす少女、示堂桜。青いカチューシャをしている少女、眞峰柚希。自分のせいで――巻き込まれたせいで、眠りについているはずの親友たち。無事だったのか、と喜ぶ気持ちが半分。一体どうして、と怪しむ気持ちが半分。一通りホームルームが終わってから、クラスの面々は移動教室を始める。桜と柚希が肩を寄せ合って出て行くのを、律は慌てて止めた。「桜、柚希!」

 桜の制服の裾を掴んだところで、二人が顔を向けてくる。

「入院してるって……私、謝らなくちゃいけないって思って、」

 言っているうちに、目頭が熱くなった。だが、相手から反応はない。それどころか、掴んでいた手は乱暴に叩き落とされた。痛みが遅れてやってくる。

「意味不明なんですけど。何言ってるの、赤羽さん」

「……は?」

 払われた手と桜の顔を交互に見つめ、律は唇を半開きにしたまま言葉の意味を理解しかねていた。桜はそんな風に自分を呼ばない。赤羽さん、なんて。

 柚希、と、縋るように手を伸ばす。だが、その震える指先が柚希に達する前に、怯えたような顔をして友は身を引いた。ドアに肩をぶつけた柚希が、口元を押さえた。伸ばした手がまたもや叩き落とされる。柚希を隠すように前に立った桜が、きつく律を睨みつけた。

「どういうつもり? 気持ち悪いんだけど」

「どういうって……そんな、私は、」

「あたしたちを裏切っておいて今更なんなの?」

 裏切った。その言葉がやけに大きく聞こえた。目尻から、溜まっていた涙が一筋垂れる。それを拭うこともせず、律はただ、仇敵を見るような目をしている桜を見つめていた。敵意しかない彼女の目に映る己の姿は、打ち震える死にかけの動物のようだった。

「あたしたちはあんたを絶対に許さない。ずっと一緒にいたのに、あんたは裏切った。嘘をついた。ずっと一緒だよって、約束したのに……」

 行こう、と一言だけ柚希に告げ、桜が彼女の手を引いて教室から出て行く。そのあとを、律はすぐさま追いかけた。待って! そう叫んで、桜の手を取る。だが、今度は後ろ手に捻られた。不自然な方向へ曲げられた痛みが即座に走り、律は目元を歪める。掴まれた手首はそのまま桜の真横まで身体ごと引っ張られ、痛みから逃げるべく反射的に体勢を変えた律は、足下を崩す。音を立てて座り込んだ律の手首を、ごみを払いのけるかのような手つきで離すなり、桜は律を壁際に閉じ込める。長い足が鈍い音を立てて壁を蹴りつけた。顔の真横にある木の壁を踏みつけられた律は、悄然とした表情で桜を見上げる。廊下を進む生徒は誰一人として、その光景を止めることはなかった。冷たい視線だけが律を苛む。救いはない。

 いよいよ確信めいた異常性が際立ってきた。ここは自分の知る学校ではない。周りにいる人々は偽者だ。そんな思いが警鐘のように脳内で暴れ回っていた。だが、もし本当なら、現実なら。裏切った、と反芻すると同時に、桜が足をどかす。

「知らないふりしてれば済むと思ってんの? あたしたちだけが悪いの? ねえ、約束したのに、最初に破ったのはあんただよ?」

 何よりも鋭い声音が律を裂く。違う、と、意味も分からないまま首を振った。違う、ちがう。首を振り続ける律に、はっ、と呼吸だけで少女が嘲笑った。怯えたような顔のまま、色の白い肌に蒼さすら滲ませる柚希が強張った口角を曲げている。

「違わないよ。忘れちゃってたんでしょ、全部。あなたは結局、そういう人間なんだよ。そんな程度の人間でしかないんだよ。都合のいいところばかりを拾って集めて、今を大事にしたいなんて詭弁でしょ。本当は忘れてしまったことを思い出すのが怖いんだよね? だって……」

 窓から射し込んでいた陽光が途絶えていく。陽だまりは消えた。一面が濃淡のない平坦な世界に変わっていく。耳を塞いでも、目を閉じても、律を追い詰める声も息遣いも視線も、何も消えはしなかった。

「やめて……違うの」

 聞きたくない。聞きたくないから、蓋をしたい。

違う違う違う違う。

我を失ったように否定の言葉を繰り返す律の周囲に、ゆらゆらと人影が集まってくる。増えていく笑い声、視線、気配。掴まれていた手首が痛む。

たすけて。

乾いた涙の跡が痛い。掠れる否定の言葉に混じった懇願の一言は震えていた。とん、と肩を叩かれる。温かみのあるその手に、縋るような思いで律は目を開けた。

「あんたは見捨てたのよ」

「ひっ、」

 鼻と鼻がくっつきそうな距離にある桜の顔が、瞬く間に溶けていく。薄ら笑いを浮かべていた目も、意地悪く三日月を描いていた口も、不自然に持ち上がっていた頬も、全てが洗い流されるように消えていく。顔からあるべきパーツが消失したのは、桜だけではなかった。周囲に群がる何十人という生徒たちの顔が、一斉に溶け出す。

 ひゅうひゅう息だけが零れる律は顔を背けるが、それを許さないとばかりに辺りから手が伸び、彼女の首と顎を掴んだ。ぎちぎちと締め上げられる喉が痛い。生理的な涙が静かに落ちた。

「ほら、全部思い出した? 思い出してよ。あんたが何をしたのか何をするべきなのか、誰が裏切ったのか誰を裏切るべきなのか、ほら、ねえ、思い出してよ……思い出せよ!」

「ぅぐっ……!」

 顎を掴まれ、首を絞められたまま激しく揺さぶられる。後頭部が壁に当たった。本能が抵抗する。無意識の内に、ロープと化した手を離そうともがいていた。ちかちかと視界に光が走る。光の濃淡を失った世界は、色までも失いかけていた。

 思い出せ。そう罵る声は、まるで泣いているようにも聞こえた。

「わたし、は……」

 息が止まる。飛沫が散った。光が強くなる。視界が嫌な輝きに塗り潰された。手の温度すら分からなくなっていく。

「やめて!」

 悲鳴が響いた。締め上げていた手が離れていく。津波の前に、波が急激に引いていくように。不気味なほど静かな様相で、律に群がっていた人影が散っていった。酸素を取り込もうと呻く律が、霞む視界の端に捉えたのは一人の少女だった。黒い三つ編みが頬に当たる。日が差し込んだ。ゆっくりと、陰影ができていく。

「先輩、先輩! 大丈夫ですか、赤羽先輩!」

 激しく咳き込む律の背を、少女の手が摩る。硬い指先が震えていた。

「……っ、狩屋さん……?」

 浮かぶ涙を擦り、鮮明になった視界にはっきり映る「狩屋椋子」は、その名を呼ばれて頷いた。鋭い目つきではなく、どこまでも慈愛に満ちた表情だった。

 ちがう。

瞬間的に言葉が零れた。だが、椋子には聞こえなかったのか、彼女は律に手を差し伸べて立たせる。竦む足に、椋子が律の身体を支えた。陽だまりに足を突っ込む。

「先輩、ここは危ないです。一緒に行きましょう」

 どこへ、と問いかける前に、律は頷いた。行かなくてはいけないのだ、自分は。

――きちんと見てあげないといけないのだ、目の前の女の子を。

踏み出した一歩はどこまでもたどたどしかった。だが、律の目には確たる思いが滲んでいた。


  ◆〇◆〇◆


 弱体化した己の身体を恨む。魔力の燃費がよくなった、なんて喜んでいる場合ではなかった。許容量以上の魔力はまだ体内で毒になり続けている。幾分か消化したとはいえ、まだ万全の状態ではない。それでも、防御魔法は使える。単純な障壁とはいえ、集中力さえ切らさなければ持続性は高い。守る程度ならできる。そう思って追いかけたのだが、肝心の律はいなくなってしまった。校舎に入ろうにも、入り口がない。一周ぐるっと回っても、あるのは壁ばかりだった。窓もないので、侵入手段がない。

使いたいと思って発動するのは身を守る防御魔法だけ。

破壊目的の魔法も使えなかったわけではない。だが、この世界でどうすれば使えるのか分からない。使いたいと思っても、発動しないのだ。魔力の許容量オーバーが原因だろうが、無意識化で力をセーブしているということは、無理に使えば身体が危険だというサインなのだろう。だが、どうなってもいいから、律の元に行きたかった。この学校はおかしい。入る前はなんとも思わなかったが、明らかに異常な臭いがした。

撒き散らされている魔力。生気のない人々。侵入不可能になった校舎。

キッカには、この学園に張り巡らされた結界が誰のものであるか分かっていた。自分と一番年が近かった、七人の魔女の一人――『嫉妬』のイーナ・クナッレ。先日眠っていた間に何があったのか、律も刹真も教えてはくれなかった。だが、彼女の気配がするということは、律が暗くなったのも、刹真がぴりぴりしていたのも、全てイーナが関係しているのだろう。

どうなってもいい。

そう強く念じながら、キッカは、校舎を睨みつけた。壁を壊せるような魔法――そんな漠然としたイメージを働かせる。メルシェンでは、そう念じるだけで大抵の魔法が使えた。空も飛べたし、お菓子も作り放題だったし、炎も氷も水も土も雷も、自由に操れた。そして、その分だけ魔力を欲した。魔法を使わなくても、生きるためには魔力が必要だった。

 自分はおかしい。その自覚はあった。

魔力を食べなければ生きていけない体質もそうだし、念じただけで魔法が使えてしまうその万能性もまた、異常だった。いくら魔力があって魔法の素養があったとしても、なんの修練もなしに使えるわけがないのだ。魔力の使い方も、引き出し方も、教わらずに最初から――物心ついたその瞬間から「解って」いた。魔法書も呪文も、補助的なものは何一つ必要とせず、本当に、願えばなんでも魔法によって実現できた。他の七人の魔女たちですら気味悪がった。

なのに。

なのに――。

律は、敵である自分を傷つけようともせず、守ると言った。気味悪がることもなく、一緒にいてくれた。魔力もくれた。そして、笑いかけてくれた。優しく優しく、頭を撫でてくれた。母と慕ったとある魔女が姿を見せなくなり、姉と敬した魔女たちに明確な嫌悪をぶつけられるようになってから、久しく向けられたことのない目で見てくれた。――否、初めて、と言っても過言ではないかもしれない。

母と慕った魔女は、キッカの特殊な体質と強力な魔力だけしか見ていなかった。優しくしてくれたのも全部、利用目的があったからだ。律は、何一つメリットはないのに、自分のために尽くそうとしてくれた。キッカには、それが何よりも嬉しかった。追放された先の、何も知らない世界で――敵しかいない世界で、彼女に出会えたことは何にも代えられないことに思えた。

だから。

強く校舎を壊す想像をする。その時、キッカを囲むように炎が走った。弾け飛んだ火の塊が子供を襲う。それは直前で弾き返された。ちっ、という舌打ちが辺りに響く。声のした方に向き直り、キッカは赤い目を緊張から細めた。

「イーナお姉さま……」

 炎が収束するように、銀髪赤目の少女の元へ戻っていく。彼女の掌の上で、一つ揺らめく炎と化したそれを握り潰し、七人の魔女、イーナ・クナッレは美しい容貌を歪めた。

「びっくりしたわ、キッカ。やっぱりあんたは変ね、人間の身体を間借りせずに実体化してるなんて。でも、白雪姫の魔力を食べて消化不良みたいだけど、大丈夫なのかしらぁ?」

 挑発めいた言葉に、キッカは応じない。

「なに無視してんのよ、キッカのくせに。赤ずきんに拾われてよかったわねぇ? 偉大なる七人の魔女の端くれが、まさか勇士なんかに守られてるなんてお笑いだわぁー。守ってもらってよかったわねぇ、赤ずきんは最弱だけど、ストレインはそりゃあもう強いし」

「……あのお姉さんは、弱くないです」

きゅ、と丸い指先を包み込む。小さな反論に、イーナは眉間に皺を刻んだ。

「はぁ? ただのザコじゃないあんなの。猟師もワタシのものだし。ストレインは確かに強いから厄介だけど、眷属なしなら赤ずきんなんて、」

その言葉に、キッカは顔を上げた。

「猟師さんに、あの人に何をしたんですか、お姉さま……!」

 猟師絡みで律が気を落とすようなことがあったのなら、それに関わっているイーナに問い質さないわけにはいかなかった。初めて見せるような「妹」の焦りの表情に、「姉」は面白いものを見たと言わんばかりに笑みを浮かべていく。

「嫉妬に駆られた猟師コレットは魔女に堕ちた! あの子の身体は私のもの。今は狩屋椋子の精神を完璧に殺すために、仕込みの最中よ。あんたに邪魔はさせないわぁ、キッカ!」

 手で顔を隠したイーナの身体が火に塗れる。そして、一瞬。キッカは息を詰めた。炎を纏わりつかせていた姉の姿は、自分を殺すことを第一にしていた「赤ずきん」の眷属である「猟師」に変わっていたからだ。

浮かび上がる猟銃に、思わず逃げたくなる。最初に刻み込まれた恐怖が足を重くした。だが、と、幼い魔女は踏み留まる。その姿に、猟師となった魔女、イーナは口笛を吹いた。

「言っとくけどねぇ、キッカ。ワタシ、あんたのこと殺しにかかるわよ、本気で」

 びりびりと肌が痺れる。殺気混じりの強い魔力が辺りを制圧していた。

「赤ずきんに与する輩なんて、消えちゃえばいいのよ、みーんな」

赤く染まった目が、嗤っていた。


 ◆〇◆〇◆


 やはりこうなったか。そう呟く林檎と顔を見合わせ、刹真は閉め切られた鉄柵の向こうを睨んだ。一見して、何事もない桜並木と、その奥にある綺麗な校舎があるだけだ。だが、鉄柵に触れることができない。まるで大規模なホログラムに手を伸ばしているかのような虚無感があった。あるはずのものが、ない。なくなっている。

「やーんもー、寝坊しちゃったぁ。また怒られちゃうよぉ」

 能天気な女の声が響く。薄手のカーディガンにスカート姿の女がぱたぱたと足音を立てて駆けてきた。真木白亜、この学園の養護教諭。ところどころ寝癖のついた髪を靡かせながら、彼女は閉まりきった鉄柵の横についた監視カメラに向かって教員証を見せた。だが、反応は一向にない。彼女の挙動にはまるで無関心であった林檎は、腕を組んで舌打ちする。

「イーナめ……結界とは小癪な。既に実体化同等の力を得ているな」

 凍てつく目で、まやかしとなっている学園を睨みつける彼女に、刹真が頷いた。

「完全に実体化できるならこんな真似せずとも直接的な方法を取るだろうからな。まだ猟師さんと同化しちゃいないだろうが、イーナのことだ。あの人の精神を支配して肉体を乗っ取っているんだろう。元々魔力の素養もある猟師さんの身体はうってつけだろうさ」

 同化にはある程度時間が必要だ。同化すればその人間の心身を媒介に、魔女たちはメルシェンと同等の姿と力を手に入れる。幻俗に近い。だが、弱り切った人間の心を更に甚振り、支配下に置くことで肉体の主導権を手に入れることもできる。魔女本来の力は行使できないとはいえ、眷属たる猟師の肉体と魔力を使えば十分な戦力にもなるだろう。

 精神か、と小さく吐き、林檎は刹真を一瞥した。

「この結界、人の精神に及ぶものだと推測するが、どうじゃ?」

「さて、そういうのは、あそこのババアに訊いたらどうだ?」

 そう言って、刹真は投げやりに親指で背後の女性を差した。ぴょこぴょこと子供のように跳ね、監視カメラに向かって手を振っている真木は、「困ったなぁ」と、さして困ってもいなさそうな声を出した。それから、刹真たちを見返る。

「ババアじゃないわ、失礼しちゃう。――まあ、当たりよ、白野さん」

 先ほどまでの行為から一転、馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに林檎は監視カメラに背を向けた。

「学園全体に結界張られてる。しかも、内部からの反応がないところを見ると、中の人間たちの精神も支配下にあると考えていいわ。あたしたちみたいな特殊な例を除けば、外部からこの学園を認識することは不可能。そこに何かある、でも何があるのか誰も気に留めない、そんな感じ。内部の人間たちも、都合のいいように操られてることでしょうね」

 すらすらと述べる真木は、到底、変態発言や教師らしからぬ言動で律に白い目で見られていた保健室の主と同一人物とは思えなかった。面白くなさそうに刹真が顔を背ける。

 真木白亜。彼女もまた、前世の――メルシェンの記憶を持つ一人だった。ただし、その立場は勇士でも眷属でもない。絶対的な味方であるとはいえ、そのかつての肩書きは、刹真たちが敵対すべき「魔女」だった。林檎が組んでいた腕を離す。

「……なるほどの。マギア・シロ、か」

 名を呼ばれ、真木はくすぐったそうに目を細める。「やあね、今は真木白亜よ」

はっきり訂正してみせた真木に、刹真が言葉を投げかけた。

「で、解除できそう――じゃないな。いや、意図的にしてないのか」

 どれだけふざけた態度が目に余る変態であっても、その実力は前世と全く変わらないということを、刹真は知っていた。彼女が幻俗し、「マギア・シロ」となれば、結界の一つや二つ、すぐさま解除できるだろうと。だが、先ほどから感情のこもっていない「困ったなぁ」をわざとらしく連発していた様から、解除する気がないのは明らかだった。

「またそうやって傍観者か。赤ずきんちゃんの身に危険が迫ってるかもしれないんだぞ」

 詰る刹真に、真木は薄く笑う。

「今回はメロちゃんに危害が加えられるとは思えないもの。相手は猟師ちゃんよ? それに、これを機にあの子が力と記憶を取り戻してくれたら万々歳じゃない」

 その笑みは、純真故に、狂気が見え隠れするものだった。絶対的な味方であることに間違いはない。目の前の女が赤ずきんを決して裏切らないということを、刹真も林檎もよく理解していた。だが、それと同時に、彼女が赤ずきんを「育てる」という点に異常な執着を持っていることも知っていた。

 唾を吐くように刹真は告げる。

「とんだ教育ババァだな……呆れたもんだね」

「てへぺろ☆」

「死ね」

 舌を出してコツンと頭を叩いてみせる真木に、刹真と林檎の両名は声を揃えて罵倒した。こういうところでは気が合うのは、お互いの口の悪さの賜物だろう。咳払いをし、林檎が顔を背けた。

「まあよい、こういうのにはうってつけの奴がおろう。できれば連絡などしたくないんじゃが」

 苦りを直接口に含んだような顔をする林檎に、眷属たちがささっと寄ってきてピカピカ輝く装飾過多のスマートホンを差し出した。それを颯爽と受け取り、彼女は電話帳を開いた。間もなく、がやがやしたBGMと共に相手が出る。

「妾じゃ」

『はあ? 妾? 知りませーん』

「毒盛るぞ髪女。白雪姫じゃ、名乗らせるな面倒くさい死ね」

『うわ物騒ー。はいはい、椿ちゃんですよ、ご用件はなんですか毒ブス女』

「お前ェ……まじで氷漬けにすんぞ」

 独特の口調すら消え失せ、スマートホンを握る手に力を込めすぎて骨が浮き上がっている林檎を横目に、刹真が手を伸ばした。「貸せ、話にならない」と唸る彼の言い分は、全く以って正しかった。スマートホンを奪い取るなり、刹真は声音を変える。より真剣味を増した声だった。ちっ、と林檎が大きく舌打ちする。

「椿、俺だ」

『せっちゃん? あららー、どうしたの、なんで腐れ林檎と一緒にいるの、仲直りしたの』

「黙れ。気付いてはいると思うが、魔女が本格的にこっちに影響を及ぼし始めた。しかも、赤ずきんちゃんと猟師さんが厄介なことになってる。今すぐ音戯女学園まで来い」

『にゃー……。それはお気の毒に。お線香は上げにいくね』

「ふざけんなすぐ来い、じゃねえとお前の彼氏の冠王子だかOGビーフだかいう男殺すぞ」

『王子に手ぇ出したらてめぇの股間捻り潰す』

「……椿、これはお前にしかできないことなんだ。頼む、力を貸してくれ」

 よくそんな思ってもいないことがぺらぺらと口から飛び出るもんじゃな、と、真横で林檎が囁く。無視に徹し、刹真は相手の反応を待った。暫しの沈黙の後、仕方ないなぁ、という言葉が返ってきた。

『でも王子に手ぇ出したら……』

「お前が仕事をしてくれるなら何もしない。あんなドMの変態と言えども、一応縁もあるしな」

『……ちっと時間かかるよ、そっちまで行くのにぃー』

「大丈夫、俺は信じてるよ。椿なら一〇分で来てくれるって」

『無茶言うな』

 ぶちっ、と乱暴に電話が切られた。つーつーとしか言わなくなったスマートホンを放ると、従者たちがすぐさまキャッチする。幻影と化した学園に振り向き、刹真は制服のポケットに手を突っ込んだ。容赦ない太陽の輝きに当てられているにも拘わらず、冷たい身体に今更ながら自嘲した。どれだけ身体が冷えていても、冷や汗は出るのだなと。

 忘れてしまった熱の奥にある焦燥感。少年は苛立たしげに小石を踏みつけた。


  ◆〇◆〇◆


 赤羽先輩、赤羽先輩。

無邪気な声で自分を呼ぶ椋子に、律は何も言わずについていった。おいしいクレープ屋さんがあるんです、あそこのアイスはおいしいんです。あのパン屋さんは水曜日がお得ですよ。律の手を引きながら、椋子はくるくる表情を変えた。指差す方向は二転三転し、商店街を通り抜ける。雑音はあるのに、道行く人々は絵に描いたような棒人間ばかりだった。そんな異常性には目もくれず、椋子はただただ、無邪気に笑い続けていた。律の手を取り、幸せそうだった。嫌なことなど、汚いものなど、何一つ知らないと言われてもおかしくないような純真な笑顔を、ひたすら律に向けていた。笑いかけられる度、話しかけられる度、律の心臓にびりびりした痛みが走った。

目の前のこの少女は、律の知る「狩屋椋子」ではない。「猟師」でもない。

全く別の何か。違う存在。

 だが、完全に別物と言い切るには抵抗がある。精巧なツクリモノというよりは、同じ姿形をしながら別の人格を宿したような、そんな存在。本当の狩屋椋子は――猟師は、どこにいるのだろう。クレープを食べ終えた「椋子」は、ぼおっとしている律にぴたりと身を寄せて顔を覗き込んだ。

「先輩、アイス、溶けちゃいますよ」

 そう言って、彼女はコーンに垂れたバニラアイスを指先で掬って舐めた。その様を、律は眠ってしまいそうな目で見つめる。「おいしい?」と尋ねると、椋子はにこりと笑った。おいしいですよ、と頷く彼女に、律は静かに笑みを湛えた。律には、何一つ、味など分からなかった。いくつか食べ歩きをしたが、どれも味は一切なく、食べた気にもならなかった。この世界はまやかしなのだと、食べる度に思った。そして、隣で嬉しそうにする椋子を目の当たりにする度に、言い出せなくなった。――こんな世界は、間違っていると。

けれど、言わなくてはいけない。そのために、この子についてきたのだから。

「ねえ、満足?」

「え?」

 溶けていくアイスを見下ろし、律は呟く。その問いかけの言葉に、椋子の眼は丸くなった。彼女を真っ直ぐ見つめ、律は続ける。その言葉の一つ一つに重みをかけるように、ゆっくりと、はっきりと、尋ねた。へらへら笑っていた自分は、面倒事を避けていただけなのかもしれない。衝突を、口論を、ただ嫌がっていただけだったのだろう。だから言葉はいつだって軽かったのだ。だが、それでいいわけがない。言葉は重い。

口にする側も、言われる側も。言葉は、おもい。おもいあいだ。

コーンがみしりと音を立てた。割れたらしい。気にしなかった。

「狩屋さん……ううん、猟師さん。本当に満足?」

「何、言ってるんですか、赤羽先輩」

 怯えたように、椋子が後ずさる。教室で逃げた柚希のような、悲壮に塗れた表情だった。ああ、と、律は納得する。この子は叫んでいた。責めていたのだ。ずっとずっと、律のことを。べちゃりと音がした。溶けたアイスがアスファルトの上に落ちる。広がる白と割れたコーンを踏みつけた。全てまやかしだ。

けれど、目の前のこの女の子は、まやかしの中にいる本物だ。

正面から、律は椋子を抱き締めた。さらさらした髪が逃げないように、強く抱き締めた。

「ごめんね、猟師さん。気付いてあげられなくて、ごめんね」

「……っ!」

 律の細腕に包まれた少女の身体が大きく跳ねる。続け様に、律は言葉を紡いだ。

「本当に、私だけが、赤ずきんだけがいればいいの? 二人しかいないこの世界がいいの?」

「そ……んなの、当たり前、」

「ごめんね、猟師さん。私は寂しいよ、この世界は」

 きっとここは、狩屋椋子が望んだ世界だ。そして、彼女が望んでいたのは赤羽律という人間だった。赤ずきんという、勇士だった。

「わたしは……わたしは、」

 震える肩を掴む。涙ぐむ椋子に、律は必死で笑顔を作った。ともすれば、今にも世界が透明な液体で滲んでしまいそうだった。どうして自分だけ、しっかり記憶を引き継げなかったのか。どうして、最初から椋子が猟師であると気付くことができなかったのか。恨み言は全部、己に返ってくる。

 そもそも、自分はきちんと思い出そうとしたのだろうか。近くに眷属や他の勇士がいるかもしれないと、自分から捜そうとしただろうか。

答えは全て否だった。何一つ、自分から動こうとはしなかった。この世界で生きている以上、前世のことなど関係ないと全く思っていなかったと言えば嘘になる。赤ずきんであったことなど、然して重要視していなかったのだ。今を「赤羽律」として生きているからと理由づけして。それは、前世からの一種の逃避であった。憶えていないから、思い出せないから。そんな理由で匙を投げてしまった、確かにあったもう一つの命。それは、疑いようもなく己のもので、偽りようのない同じ「自分」の一生。

その命に、一生に、全てを懸けていた者のことなど考えもしなかった。「知らなかった」の言葉だけで、見過ごしていた。――こんなに、涙を滲ませて自分のことを慕ってくれていた人がいたのに。

流れる涙を指先で拭ってやる。椋子の涙は、温かかった。

この少女は偽者だ。けれど、同時に本物だった。

「わたしはっ、あなたと、赤羽先輩と、『狩屋椋子』として、ただ一緒にいたかった……!」

 白い肌に赤みが差していく。ぼろりぼろりと伝う大粒の涙に、律は表情を緩めた。

 赤羽律が「赤ずきん」だから求めていた。別に、それだけでも構わなかった。だが、そうではないと言う。思えば、この世界で、椋子は「赤ずきんさん」とは一度も呼ばなかった。先輩と、赤羽先輩と、そう無邪気に手を引いていた。ありがとう。椋子の耳元で呟き、律は彼女の手を握った。こんな私にありがとう、と伝えるために、強く強く握った。

ぴきり、と、どこかで何かにひびが入るような音がする。景観が徐々に崩れつつあった。

「一緒に帰ろう、“椋子ちゃん”」

 頷くと、椋子の肩が一際大きく跳ねた。

彼女は自らを否定し続けていたに違いない。白野林檎が、自らの名前に意味などないと断じたように。「猟師」でいること以外、存在意義を見出せなくなっていたに、違いないのだ。だが、少しでも、彼女の中に「狩屋椋子」を認める想いがあったことを、律は嬉しく思った。そして、もっと早くに彼女の心の闇を知ることができていたのならと悔いた。

空が割れていく。辺りに、景観だったモノがガラス片となって散らばった。薄墨の闇が周囲に落ちていく。世界は終わる。文字通り、そんな光景だった。だが、不安はなかった。恐怖もなかった。静かな心持で、律は椋子の手を引く。声がした。自分の名前を呼ぶ、仲間の声が。薄墨の闇の中に、花火のように咲く光が見えた。明滅を繰り返すその輝きの中から、名前を呼ぶ声は聞こえてくる。あそこが出口だ。直感が告げていた。

「椋子ちゃん」

 光を間近に、振り返った矢先。

椋子の口から、鮮血が飛び出た。

 胸を突き抜ける三つ又の矛が、粘ついた血でその先端を汚す。引き抜かれた矛は、次に腹を貫いた。醜い音がした。皮膚が裂け、肉が裂け、服が裂ける。矛が抜かれた反動で、椋子は血を零しながら後ろに倒れていった。それを支えることもできなかった。彼女の背後には、凶悪な笑みを浮かべた銀髪赤目の美しい少女がいたからだ。

「精神もズタボロにして、心身ともに頂くつもりだったけど、この際、肉体の主導権さえあればいいわ。まさか精神体まで懐柔しちゃうなんてね、驚かせてくれるじゃないの、赤ずきんメロ。でも、この子の心をあんたにあげるわけにはいかないわぁ」

 硬直する律を嘲笑うように、イーナはぱちりと指を鳴らした。彼女が抱き止めていた「椋子」の身体が青白い炎に包まれる。叫ぶ間もなく、その炎は掌ほどの大きさに収縮し、イーナの手中に収まった。

「なに、を……」

 喉が委縮して、うまく声がでない。ふ、と、イーナは口角を吊り上げた。

「何って、こうするのよぉ?」

 言うなり、彼女は掌大の青白い灯火を口に運んだ。そして、ゼリーでも吸い込むかのような様相で炎を呑み込む。一瞬、くぐもった声を出したものの、イーナは余裕綽々とした態度は崩さないまま、律を一瞥した。

「見せてあげるわ、赤ずきん。これがあんたの業よ。あんたが奪った分だけ、ワタシがぜーんぶぜんぶ、奪ってあげるわ」

 背を向けている光の輝度が増す。恒星に接近されているかのような錯覚があった。イーナが意地悪く微笑む。見る見るうちに、彼女の姿は猟師のものへと変わっていった。

「世界は終わるわ、赤ずきん」

 猟師の声で、顔で、魔女が宣言する。輝きは絶頂に達し、全てを光が呑み込んだ。

「赤ずきんちゃん!」

 が、と肩を掴まれる。

気付くと、そこは昇降口の前だった。広場の前の階段に突っ立っていた律は、数秒の間を置いてから、ようやく我に返る。振り向けば、焦燥感に塗れた表情をしている刹真と、深刻そうに顔を顰めている林檎の姿があった。

「猟師さんが……!」

 息をするのと同時に言葉を吐く。刹真の学ランを掴んだところで、彼は頷いた。

「最終決戦、いっとく?」

 余裕ぶった言葉に反して、苦笑いを浮かべる刹真と共に、律は正面を向く。広場の噴水を挟んで丁度向かい側、桜並木を背後に、一人の少女が立っていた。つばの広い帽子にコート、そして、その肩には猟銃。

猟師、コレット・ハウンド。その身体を得た魔女、イーナが、不敵な笑みを浮かべ、赤い目をぎらつかせながら律たちを見つめていた。

「毒林檎、調子はどうだ?」

 律を背後にやりながら、刹真は前に踏み出す。それに続いて、林檎も歩み出した。

「ふん。幻俗もまともにできぬ狼よりはすこぶるいいな。間違いなく」

「そーですか。俺に後れを取らないよう頑張ってくださいね、お姫様」

 ああ、この二人は殺す気なのだ。彼女を――猟師を。

分かっていても、止める言葉がかけられなかった。幻俗し、透明感のある銀髪を靡かせ、氷の刃を片手に走り出す白雪姫と、風を纏って猟師の背後を取る刹真。最早、戦いに口を挟める状況ではなかった。役に立たない自分の存在を責めるように、律は唇の端を噛む。

 結局、何一つ守れないのか。

そう己を恥じた時、彼女は、守る対象であった一人の子供の姿がどこにもないことに気がついた。学園外にいるのだろうか。だが、あの薄墨の世界に生じた光からは、キッカの声もした。自分を必死で呼ぶ、あの子供の声がした。

律がどうするべきか、何をするべきか悩んでいると、刹真が噴水に叩きつけられるのが目に入った。慌てて彼の元に走る。猟師とぶつかり合う白雪姫もまた、善戦とは言い難い状況だった。氷の刃が弾け飛び、猟師の周囲に浮かぶ無数の銃器が彼女を襲う。彼女の眷属たちはどこにいるのだろうと思わず捜したところで、びしょ濡れになった刹真が噴水から飛び出た。

「大神さん、顔色が……」

 滴る水を拭いもせず、猟師に向かって行こうとする刹真の手を、思わず握り締めた。指先から凍るのではないかというほど冷たい指先に、思わず眉根が寄る。その手を振り払い、刹真は水を吸って重くなった学ランを脱ぎ捨てた。顔色は蒼く、今にも倒れそうなのではいかというほどだ。目立った外傷はないが、体調が良さそうではないのは一目瞭然だった。

「ちょっと寒いだけだから。別に気にすることじゃない」

「寒い、って」

 噴水に落ちたのだ、ずぶ濡れになったせいで一時的に体温が低下したのは分かる。だが、今は七月、夏だ。日中の温度は平気で三〇度前後になる。今、日に当たっている律も、若干暑いと感じているのに、顔色が悪くなるほど「寒い」と、果たして感じるものなのだろうか。

「毒林檎の傍は冷えるんだよ……。それより、君はキッカを――あのガキを見つけて、逃げろ」

 有無を言わさず、刹真は律に背を向けた。一切の言葉を拒絶するように、そのまま戦闘に戻っていく。やはりキッカはいるのだと、刹真の言葉通り、幼い魔女を捜すべくその場を後にしようとして、律は足を止めた。

目下の敵は目の前にいる。悲しいことに、辛いことに。

猟師の身体を――赤ずきんの眷属の肉体を手に入れた魔女が、目前にいるのだ。

救わねばならない相手が目の前にいるのに、「勇士」の自分が離脱していいのか? キッカを守るという思いに変わりはない。だが、ここで逃げたところで、キッカを守ることに繋がるのか? 一時は凌げるかもしれない。でも、ここで逃げて、この先もずっとずっと、逃げ続けるというのか。

足が止まった。硬質な音がした。振り向くと、折れた氷の刃が吹っ飛んできていた。猟師の肉体の魔力を使い、魔女の魔法を繰り出しているイーナは、銃器と炎を上手く使い分けながら刹真と白雪姫相手に善戦しているようだった。二人のどちらかが距離を取れば銃器で、間合いを詰められれば炎で。その動きに無駄はない。

 林檎の放った氷柱の刃が、僅かにその起動を不自然な動きで変えた。刹真が風で押し上げたらしい。浮いた氷柱の刃は、猟師の頬を傷つけた。皮膚が裂け、黒い血が伝っていく。猟師は狂気的な笑みを浮かべていた。その姿に、律は心臓が握り潰されたような激痛を覚えた。

「私は赤ずきんメロ……最後の勇士、三人の眷属の、主」

 静かに、彼女は自分へ言い聞かせた。

思えば今生で、こうやって口に出して、自分が「赤ずきん」であると認め、眷属たちの「主」であったと宣言したことはなかった。だが、口に出すと、そのフレーズは妙にすとんと、胸に落ちてきた。はまらなかったピースがその姿を整形したかのように、ぴたりと当てはまる。

 折れた氷の刃先を手に持った。凍てつく刀身に、肌が切れていくようだった。だが、それを決して離すことなく、律は歩み出す。痛みと狂気が渦巻く戦乱の最中へと。それを横目に、刹真が怒鳴り散らした。

「馬鹿、来るな!」

「無理」

「ふざけてる場合じゃ……くそっ」

 銃声が鳴り響き、炎の熱が辺りを漂う。律に攻撃がいかないよう、刹真が動いたところで、猟師の口が裂けた。にたりと笑い出す彼女は、空中に浮いていた銃器の一つを律に向ける。刹真がその間に割り込み、白雪姫が氷の防壁を生み出した瞬間、律が叫んだ。

「イーナ。猟師さんを返して」

 凛とした、どこまでも澄んだ声音だった。

その声と言葉、態度に、刹真は思わず、律を凝視する。氷の壁にいくつも銃弾がめり込み、やがてそれは、炎に溶かされていく。一瞬の静寂が世界を包んだ。律が纏う空気の変化を感じ取った白雪姫も攻撃の手をやめ、猟師が猟銃を肩に担いで鼻を鳴らす。それは、優勢であったが故の驕りであり、何かが違うという魔女なりの検分のためでもあった。

 姿に変化は何もない。前世の姿を取り戻しているわけでも、魔法を使う様子でもない。だが、明らかに異なる空気が、場の緊張を高めた。握っている氷の刃のせいでもあったし、そのせいで滴る血のせいでもあった。

「そんな折れたもので何ができ、」

 イーナが嘲笑うのを、途中でやめる。

律が、その刃を自らの首筋に宛がったのだ。ぷつり、と、尖った氷の刃の先が皮膚を刺した。染み出る血が、透明の刃を伝う。薄くなった血が、ゆっくりと垂れていった。刹真も、白雪姫も、イーナも、全員が言葉を失う。

 確かな痛みだけが、律の目を覚ましていた。

「猟師さんは私の眷属。私が死ねば、猟師さんは加護の力を使えなくなる。そうなると、あなたは猟師さんの身体で魔法が使えない」

 ぐ、と、更に深く、刃を首筋に刺し込んだ。さすがの痛みに、顔が歪む。だが、決して抜くことはしなかった。更に濃い血液が溢れ出す。

「赤ずきんちゃん、何を、」

 刹真が律の暴挙を止めようと手を伸ばした。だが、それを白雪姫が止める。

「そやつの言う通りじゃ、手を出すなストレイン」

「ふざけんな、そんなの!」

 がなる刹真を垣間見、律は、イーナを真っ直ぐ見つめた。赤い瞳が困惑で揺れる。それを、律は見逃さなかった。魔女は、猟師と「同化」することはできていないのだ。肉体の主導権を奪い、精神を吸収したとはいえ、心の方の猟師が同化することを頑なに拒絶している。だから、まだ肉体を操るだけに留まるしかない。律は、そう踏んでいた。そして、その読みはあながち外れでもなさそうだった。

「返して、私たちの猟師さんを……椋子ちゃんを」

 淡々と告げる律に、イーナの顔が歪む。狂気というよりは、純粋な焦りから。

「ば、バッカじゃないのあんた! 勇士がたった一人の眷属のために、なんでそんなこと、」

「眷属としてじゃない。友達だから、私はその子を助けたいの」

 赤ずきんとしても、赤羽律としても。

猟師は――狩屋椋子は、友達だから。

その、強い思いに呼応するように、突然、猟師の幻俗が解けた。はっと、刹真が振り返る。そこには、顔のあちこちに傷跡を残しているキッカが立っていた。指を咥えた幼い魔女は、そのまま苦しげにへたり込む。

「お前、まさか……」

 刹真の声に、律も振り返った。滲む血が、冷たくなって地面に落ちる。

「キッカぁ……あんた、やっぱりきっちり殺しとくべきだったかしらぁ……!?」

 完全とは言わずとも、予想外に早く結界が外部から破られ、適当に痛めつけてキッカを放置したことを、イーナは口汚く罵って後悔した。そもそも、予想外なことばかりだった。結界で学園全体に自身の精神魔法をかけ、あとは猟師の心を完全に掌握するだけだったのに。なのに、赤ずきんが椋子と和解するなど、計算外だった。あわよくば赤ずきんも潰す気だったのだが。

 幻俗が解け、単なる人間の姿になった椋子の肉体に、イーナは歯噛みする。あの身体で尚も魔力を吸収した愚妹を嘲る余裕はなさそうだ。律の手に握られた刃は、一向に彼女の首元から外されることはなかった。滴る血に臆することもなく、雑魚だと見下していた勇士は、毅然とした姿で立っている。

このまま律が死ねば、猟師は眷属としての力を失う。そうなれば、身体を借りている意味も消える。同化も果たしていないのだ、唯一の力の源とも言えるこの肉体を失えば、見えかけていた勝機も露となる。

残った魔力を練り上げて、銃を具現化しようとしたところで、氷の刃が牽制の如く足下に突き刺さった。炎を発するだけの余力はない。足下に生えた氷の剣山を忌々しげに睨み付け、イーナは激昂した。

「ワタシが……七人の魔女の一人である、このイーナが……その程度の脅しに屈して堪るかッ!」

 叫ぶイーナに、白雪姫が目を細めた。

「諦めろ、お主に勝ち目はない。恥じることではないぞ、最強たる妾と戦ったこと、寧ろ光栄に思うがよい、イーナ・クナッレ」

ぎらりと、赤い目が白雪姫を捉えた。そのまま眼中に吸い込んで殺してやると訴えるような、強烈な殺意のこもった視線だった。それをさらりと受け流し、白雪姫が氷の剣を持ち直す。

「眷属としての力を失い、ただの人間に宿ったままみすぼらしい最期を遂げるか、猟師の身体を解放した上でメルシェンに引き返すか。好きな方を選べ、卑しい魔女よ」

 どこまでも青く澄んだ瞳が赤い目の殺意を呑み込む。氷に映る彼女の表情は果てしなく冷たく、全てを凍土に沈める女神のようだった。それを物語るように、酷薄な口が囁く。

「――ま、逃げたところで、いつか必ず殺すがの」

 その言葉は、誰が聞いても本気だと捉える、冷然とした決意が滲んでいた。

イーナは、ぎりぎりと奥歯を噛み、傷つけた口内に滲んだ血を吐き出す。憎悪に塗れた鮮血の目は見開かれ、足下の氷を踏み砕いた。その態度に、やはりこのまま殺すしかないと白雪姫が視線を流す。そして、律が目を瞑って刃で喉を掻っ切ろうとしたその瞬間、刹真がその手を止めた。駄目だ! そう少年が叫んだ瞬間、それを見ていた猟師――否、イーナの顔から感情が消え去る。魔女は悔しそうに、憎らしそうに唇の端を噛んだ。

「やめたわ」

「なんじゃと……?」

 あっけらかんと言い捨て、両手を上げたイーナの姿に、斬りかかろうとしていた白雪姫は動きを止める。それをつまらなそうに一瞥し、魔女は唇を尖らせた。

「甘いのねー、どいつもこいつも。仲間とか友達とかお笑い種だわ、そんなもののために命を捨てようとしたり、攻撃をやめたり。ばっかねえ、みーんな馬鹿よ。……こんな身体、いらないわ。赤ずきんのものなんて、やっぱり何もいらない、ワタシは、ワタシだけのものがほしいのよ」

 そう言うイーナは、どこか悲しげな目で刹真を見つめた。その視線に、少年は表情を変えない。依然として険しい顔つきのまま魔女と向き合っていた。その手には、律の血がついている。自分の居場所を示すように、べったりと、その赤い液体は彼の手を汚していた。

「なによ。所詮、ワタシはいらないってわけね。ワタシより、そんな子を取るってことね」

 ぼそぼそと、イーナは呟く。刹真は何一つ応えることはなかった。彼女の恨みがましい目を見ても、一言として、発することはなかった。切れた唇の端から、黒い血が伝う。それを指先で拭い、イーナは俯いた。

「返すわよ、こんな身体。それでいいんでしょ」

淡々とした声音で魔女が告げる。

律の手から、氷の刃が滑り落ちた。その音に足を崩されたかのように、椋子の身体が崩れていく。椋子ちゃん、と叫んで律が駆け出した瞬間、地面に膝をついた少女の口が、にたりと裂けた。

「なーんてね」

 魔女が嗤う。臓腑を引っくり返されるような不快感が律を襲った。思わず足を止める。

辺りが赤黒く変色していく。草も木も、空も大地も、建物も噴水も、全てが汚いペンキをぶちまけられたかのように染まっていく。そして、椋子の身体から黒い霧が噴出した。

「本当に馬鹿ねぇ。白雪姫もストレインも、平和ボケしすぎなんじゃないのぉ? だらっだらとお喋りしている間に猟師を殺したなら、ワタシも殺せたのにね」

 鈍い銀髪が靡く。その背後にいた椋子が、悲鳴じみた声を上げた。白雪姫も、刹真も、律も、キッカも、椋子ですら、何が起こっているのか理解できず、ただただ茫然と、その様を見つめていた。赤黒い世界の中で、魔女は高らかに嗤い出す。

「眷属の精神に宿るなんてリスキーな真似した意味、ちょっとは考えたらぁ? 単純に、猟師が嫉妬塗れでワタシと相性良かっただけ、なわけないじゃないの」

 ご、と激しい音を立てて、魔女の周囲に炎が巻き起こる。密度の高い橙色に、白雪姫が舌打ちした。炎はイーナの手に収束していく。そして、三つ又の矛が天を衝いた。矛を器用に回すイーナを一瞥し、白雪姫は突然、自らの掌に氷の剣を突き刺した。一瞬だけ虚を突かれたような顔をした魔女は、しかし、すぐに楽しそうに目を細める。

「元より、猟師の肉体を手に入れ、実体化する気はなかったと……はぁ、小賢しいの。確かに、妾もボケておったようじゃ。最初から猟師を殺しておけば、こんな手間はなかった」

 赤黒い空間に、氷の花が咲いていく。凍りついていく世界に焦ることもなく、イーナは目を見開いた。熱と冷気がぶつかり合い、激しい水蒸気が沸き起こる。その曇りの中で、魔女と勇士が衝突した。

 水蒸気が衝撃で辺りに霧散する。その煽りを受けながら、律は刹真を仰いだ。

「大神さん、これ、どういう……」

「魔女がその力をこの世界で振るうために必要なのは、ちゃんとした肉体だ。そして肉体を手に入れるためには、精神は邪魔になる。だから魔女は人の精神に巣食うけど、……くそ、あの野郎……ずっと時間稼ぎしてただけか」

 蒼白い顔で、刹真は唸った。体調がどうのこうのと言っている場合ではない。

実体化もせずに、魔女同等の力を振るうイーナの姿。それを横目に、彼は気付かなかった己の間抜けさに歯噛みした。魔女がこの世界で力を振るうには、人間の心身を犠牲にした上での実体化が必要だと経験から知っていた。だが、その前もった知識が仇になるとは思わなかった。今までのケースは「普通の人間」が相手だった。だが、今回は違う。魔力を先天的に有した「眷属の生まれ変わり」の精神に魔女は潜んだ。本人の言動からしても、故意的に狙っていた可能性が高い。肉体を得ずとも、魔女の力を覚醒させる方法を知っていたから。

 端的に説明すると、律もまた、眉間に皺を寄せた。

「猟師さんの魔力を狙っていて、その魔力で実体化紛いのことをしたってこと? でも、他人の魔力は普通は引き出せないし、吸収できないって……。しかも、キッカちゃんは猟師さんの幻俗を解くくらい、魔力を、」

 言いながら、律はキッカを見やった。苦しそうに上下する肩を振るい、子供はよろめきながらも立ち上がる。

「そんなに、あの時のお姉さまから魔力を食べることはできなかった……量が少なかったんです。きっともう、あの姿でいる限界時間に近付いていた。それは、お姉さまが少しずつ、猟師さんの精神を取り込んで魔力を自分のものにしていたから」

「どうして実体化までいかなかったのかは分からないけど、とにかく我が物にした魔力で暴れてるってことだろ。あいつにはもっと色々、訊かなくちゃいけないことがあるね。俺たちより、裏ワザをたくさん知ってそうだ」

 揶揄するような口調で刹真が吐き捨てた。

 矛と剣がぶつかり合う音がする。晴れた視界で、二人の美しい少女たちが火花を散らす様はどことなく幻想的で、そして狂気じみていた。その様を、ぎりぎり戦火に巻き込まれない位置で、悄然と見つめている椋子の後ろ姿は、何よりも悲壮感に包まれていた。



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