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四章

四章 猟師、傷心する


 茹だるような夏の午後。蝉の声が遠く聞こえる中、悩ましげな女の吐息が空気を震わせた。

風鈴の音に重なるように、衣擦れの密やかな音がする。自分の指先に髪を巻きつけていた女が、その顔を少年の耳元に近づけた。

「ねえ、お姉さんと、イイコトしようよ」

「っ」

 息を吹きかけられ、少年は身を捩った。身体中を毛虫が這っていると言わんばかりに青褪めた顔だった。だが、彼は強く抵抗できない。ここは女子の花園、名門私立、音戯女学園。不法侵入者である少年の性別は無論のこと男、立場は弱く、女は歴としたこの学園の教師。それでも、少年は極めて弱い力で迫ってくる女の肩を押した。

 がたり、と、女の足が丸椅子に当たる。

 その音に、微かな頭痛を覚えながら律は目を覚ました。だが、脳は黄砂でぼける町並みのように不明瞭だった。虚ろな目を半分開けたまま、律は暫く物音に耳を傾けていた。すぐ隣には、幼い少女の寝息がある。霞む視界でもはっきり分かる青に、言葉はなくとも安堵した。

 その心の安寧を鈍器で破壊していくように、切迫した少年の声が鼓膜を穿った。重い身体に鞭を打ち、どうにか身を起こす。閉め切られたカーテンを掴んだところで、律は身を強ばらせる。ようやく意識がはっきりしてきた。そこで、繰り広げられている会話の危険度を知る。

「ちょっ、あんたなっ、俺はババアに興味ないって、」

「失礼ね、私まだ若いわ。いいじゃないー。今は授業中だし、生徒は殆ど来ないのよ?」

「嘘つけこの色ババァ何歳サバ読んで……っ、どこ触って――おい、やめろって……!」

「若いイケメン! ハァハァ」

 鼻息荒く、女が未成年男子のシャツの襟元を引っ掴んだ。ハンガーにかけてあった少年の学ランが落ちる。だが、そんなことも気にする余裕が少年にはなく、気にする必要が女にはなかった。グロスで妖しげに光る唇が少年の顔に近づく。それを全力で拒否しようにも、下手に暴れられない少年は女に両手首を掴まれてしまっては、ただ顔を背けることしかできなかった。

「何やってんのぉおおおおおおお!?」

 がっ、と音を立て、律はカーテンを引き裂くように開け放った。眠るキッカに配慮しながら小声で絶叫するという高度な技術を見せる彼女に、少年に迫る養護教諭と、痴女と化した養護教諭に襲われていた少年は一斉に顔を向けた。さすがに、放っておくと何が起こるのか分からないほど幼くはない律は、それ故に顔を真っ赤にして真木白亜を睨む。膨れたフグのようになっている律に、真木は、こてんと首を傾げた。

「何って、健全な性教育?」

「あまりに不健全! 先生仮にも教師でしょ! そういうのよくないと思います私!」

「仮にもって、正式に教師よ……。もぅ、冗談に決まってるでしょ、二人共本気になってー。まだまだ子供ねぇ」

 ベッドから下り、本気でどやしつける律を、真木は片手の甲に肘を立てて、さも不思議そうに見下ろした。開かれた襟元を正しながら、不法侵入少年こと大神刹真は珍しく怯えたような表情で「いやあんたガチだったろ……」と呟いた。そんな彼を、真木は舐めるような目で見つめる。腹を空かせた捕食動物が、必死で獲物の喉笛を食い千切るのを我慢しているようだった。好機を伺っていると言わんばかりにぎらついた瞳は、刹真の心からゆとりというゆとりを奪っていく。その捕食者の目は律も分かっていたようで、「先生!」と、きつい声音が飛んだ。

「もー、りっちゃんも刹くんも本気になりすぎだぞー。先生のジョークじゃなーい」

 ぺろっと舌を出し、両手を組んで顎の下に持ってくる成人済みの女教師に、律と刹真はゲテモノでも見るような目を向けていた。その冷たい空気をものともせず、真木はぶりっ子ポーズを続けた。その後悔や羞恥の念を一切感じさせない開き直りっぷりに、律は思わず感心する。だが、出た溜息は呆れからであった。こんな大人にはならないという誓いでもあった。

「さぁて、じゃあお姉さんはちょっと用事があるので出て行きまーす」

 そう言って、真木は鼻歌混じりに保健室から出て行ってしまう。明らかに不自然だったが、不自然すぎて自然に思えてきた。白衣の背中を見送り、律は、落ちた学ランを拾い上げる刹真に向き直る。彼は、学ランを羽織りながら低い声で言った。

「なんであんなのに魔女の面倒を頼んだのか、俺には理解しかねるよ」

 それは全く以て概ね同意であったが、他に脅迫――否、頼めそうな人間がいなかったのだから仕方がない。刹真が言うことには、どうやら、真木がお昼に出かけている間、キッカはお昼寝をしていた最中だったらしく、あっさりと白雪姫の配下に捕まったらしい。では真木にメルシェン云々魔女なんたらと話したのかと問うと、刹真は否定も肯定もしなかった。どうせ信じられないようなことだとはいえ、それでいいのかと律が声を潜めた矢先、刹真が口を開いた。

「身体の方はいいの、赤ずきんちゃん」

 いきなり転換された話題に、とりあえず、律はきちんと返す。ついでに、壁にかかった時計で時刻を確かめた。二時三〇分。そんなに長い間倒れていたわけではなさそうだ。

「ちょっと怠いけど、大丈夫。大神さん、高校は?」

「こんなことになったらおちおち授業に集中できないよ。猟師さんも、完全に頭ん中真っ赤で頼りにならないしね。魔女の状態も悪そうだし。本当にこの学校は洒落にならないよ、トラブル的な意味で……」

 嫌だ嫌だ、と首を竦めてみせる彼に、思わず律は微笑を零した。その姿が全て、刹真の本音ではないと分かっていた。

「心配してくれてるんだね」

 その言葉に、刹真の表情が一変する。まるでごみくずでも見るような目をしてみせた彼に、それでも律は笑みを消すことはなかった。寧ろ、苦笑の色が濃くなっていく。

「はぁ? 俺が力を取り戻す前に死んでもらっちゃ困るだけだよ」

「――でも、勇士が死んだら、眷属の力はなくなっちゃうんだよね」

 ちりん、と風鈴が涼やかに鳴る。刹真の眼球が僅かに浮いたようだった。手を後ろで組み、妙な気恥かしさから、律は足首を回す。思い出したの、と、前世においても彼女と共にいた少年は息を詰めた。小さく首肯する律は、ちょっとだけね、と眉を下げる。

「ちょっとだけ、思い出したの。今まで前世の自分の姿も、仲間の顔も、はっきりと分からなかったけど、久々にあんな窮地に陥って、魔法を使ったせいかな。メルシェンで戦っていた時のことを思い出したんだ」

 何かを堪えるように、黙って聞いている刹真に、律は続ける。

「肝心の死んだところは全然思い出せないんだけどね。でも、大神さん……ううん、ストレイン、コレット、キール。みんなの名前はちゃんと思い出せた。なんで今まで思い出せなかったのかな。みんな、赤ずきんを守ってくれていた大切な仲間だったのに」

 最初の眷属、「赤ずきんメロ」の幼馴染だった、少女と見紛う少年だった木こりのキール。のほほんとした穏やかな気性で、常に周囲を和ませていたムードメーカー。二番目の眷属、とある暗殺教団に所属していた過去を持つ猟師、コレット。最後の眷属、行く先々で出会い、共闘した素性不明だった狼のストレイン。

 個性の強い三人は、頼もしく、愉快な仲間たちだった。口も態度も悪いストレインにはしょっちゅうボロクソ言われたし、愛が重い割にさらっと酷いことを言ってくるコレットの毒には凹んだし、親友とまで謳った幼馴染のキールも肝心のところではすっとぼけて助けてくれないし。眷属どころか他の勇士やその眷属にまで馬鹿にされるわ、七人の魔女たちには完全に舐められるわ、街の人たちにも勇士であることを疑われるわ。

 ――指折り数えていた律は、そこで口を閉ざした。閉ざすのが遅かったと猛省するが、上がってしまったテンションで勢いのまま吐き出したものは返ってこない。

「守ってたっていうか、貶してたのが正しくない?」

 一番貶していた本人は、腕を組んで至極真面目な顔をした。律は、さっと視線を逸らす。

「……そういうのは思い出したくない」

「都合のいい脳味噌してるね、赤ずきんちゃんは。……でも、少しは浮かばれるんじゃない、みんな。特に、猟師さんは喜ぶと思うよ」

 ふ、と柔らかい笑みを浮かべ、刹真は顎で保健室の扉を指した。見ると、そこには、ドアに半分身体を隠した運動着姿の狩屋椋子の姿があった。白い半袖の裾を掴み、気まずそうに視線を落としている彼女は、しかし、顔色を悪くしながらもちらちらと律に視線を飛ばしていた。

その様子に、刹真は律の肩を軽く叩き、開いた窓に足をかけた。

「俺がいると色々面倒そうだし、とりあえず消えることにするよ」

「ちょっ、」

 律が止める間もなく、彼は保健室を随分とアグレッシブな方法で抜け出ていった。強い風が吹き込み、腕で目を覆う。次の瞬間には、茶髪の男子高校生の姿は消えていた。

 確かに、何やら「狼さん」と「猟師さん」の関係はよくないようだし、ここはいなくなってもらった方が話はしやすいか。キッカがいることには気がついているのか、ちらりとベッドの方へ視線を這わせた椋子の目を逸らすように、律は慌てて彼女の名前を呼んだ。

「狩屋さん」

 びく、と肩を震わせて、椋子が律に向き直る。保健室の敷居を恐る恐る跨いだ彼女は、指先を忙しなく動かしていた。所在なさげに視線を床に這わせている彼女の姿に、思わず律は口元を隠した。自分を睨み続けていた後輩の姿はどこにもない。緊張と、ある種の恐怖で動揺しているただの少女の姿が、そこにはあった。

 思えば、きっとこの子は自分に気付いてほしかっただけなのかもしれない。そして、気付いてあげられなかった自分は、なんと愚かだろう。律が真面目な表情を取り戻した矢先、椋子が前髪が反動で浮き上がるほど勢いよく顔を上げた。

「すみませんでした……っ、赤ずきんさんに、銃を向けて」

 言うなり、彼女は土下座でもするかのような様相で頭を下げる。慌てたのは律で、ベッドの前を過ぎて椋子に駆け寄る。

「えっ。あの、いいよ、頭なんか下げないで」

 早口に告げると、涼子はそっと視線を上げた。律が自分の前に立っていること、謝罪などいらないと言ってくれたことに喜ぶよりも、彼女は思わず恨めしげな声を出してしまった。自身の前に、ベッドを隠すように立っている律の姿が、己の目から幼い魔女を隠すためのように見えてしまったからだ。意図せずとも、椋子の目つきが鋭くなる。

「やっぱり、そこの魔女のことは守るんですか」

 椋子の誤解に、律は気がつかなかった。だが、仲間の記憶を思い出してからは、椋子が魔女を庇うことに憤る理由も痛いほどよく分かっていた。前世において、猟師、コレット・ハウンドが暗殺教団などという非道な組織に身を置くことになったのも、全て七人の魔女による暴虐が原因であった。多くの人々にとって魔女が憎い対象であったように、それはコレットも例外ではなかった。自分が主として慕った人間が、よりにもよってその七人の魔女の一人を守ることなど、我慢できるわけがない。

「うん……。ごめんね、裏切るような真似を、」

 責められても文句はない。そもそも、自分は大事な仲間のことすらろくに憶えていなかったような薄情な勇士なのだ。伏し目がちに謝ると、椋子が姿勢を正した。背筋を真っ直ぐ立てた彼女は、瞳に熱を孕む。

「裏切る? あなたは何も裏切ってなんかいません! 裏切ったのは、」

 裏切ったのは。

 そこまで言って、椋子は悔しそうに唇を噛んだ。熱が篭った目は、複雑な色を滲ませていた。その大気の揺らぎを内包したような瞳に、律は不安げに声をかける。だが、涼子は「なんでもないです」と素っ気なく返すのみだった。そして、追及を避けるように自ら質問を投げてくる。揺らぎを意図的に消した彼女の両目には感情らしい感情は見えなかった。

「もう、戦う気はないんですか、赤ずきんさんは」

 ちりん、と風鈴がまた鳴る。涼やかな風が吹き込んできた。その風が髪をゆっくりと攫う。律は、ふるりと首を振った。

「もし『戦わなくちゃいけない』って思う魔女が出てきたら戦うよ。役に立たないかもだけど」

「そうやって、あなたはいつも……」

 馬鹿な人だと言わんばかりに、椋子はくしゃりと顔を歪めた。

 そう思われても仕方のないことをしている。勇士にとって七人の魔女は絶対的な敵だった、勇士に限らず、メルシェンにおいて、彼女たちは象徴的な悪そのものだった。自分勝手な理由で、ある魔女は守り、別の魔女とは戦うことを厭わないなど、聞かされている側からすればうんざりするような都合だろう。

 しかし、そういう甘い考えを持つ勇士らしからぬ勇士こそが、赤ずきんだった。

 前世から変わらぬ、敵対心のないものならば立場上敵であっても戦わないというそのスタイルに、椋子は複雑な心境を隠せなかった。だが、それを全て吐露することも憚られ、彼女は首を振る。いくら魔女と一緒にいるのをやめろ、そいつは敵だと諭したところで、「赤ずきん」の考えは変わらないと悟り、ならせめてと、椋子は律の手を握った。

「わたしがあなたの手足になります、あなたのために戦います、あなたを誰にも傷つけさせなんかしません。わたしだけが、あなたの正当で唯一の眷属です、あなたが命じればなんでもします、あなたのために生きる覚悟は前世からあります。あんな狼野郎を信じないでわたしだけを信じて下さい、あの男は危険です、絶対に裏があります」

「狩屋さ、」

「コレットです、狩屋椋子なんて偽りの名前です。わたしは、この世界であなたと巡り合ったその瞬間から赤ずきんの眷属、『猟師のコレット・ハウンド』なんです」

「でも、」

「わたしは、あなたを二度と傷つけさせません……! 赤ずきんさん、あなたを守れるのはわたしだけなんです」

「待って、待ってよ狩屋さん」

 語気が強く、より感情に流されていく度に、握ってくる手にこもった力も増す。どんどん顔を近づけてくる椋子に制止の声をかけ、律はそっと手を握り返す。びくりと、椋子の肩が震えた。子供をあやすような口調で、彼女は続ける。

「確かに私は赤ずきんだけど、でも、同時に赤羽律なの。あなたもそうでしょ、猟師さんだけど狩屋椋子としても生きてきたんでしょ。私のことを憶えていてくれたことは嬉しいよ、でも、だからって今のあなたを犠牲にする必要はないんだよ」

 たとえ前世の記憶を引き継いでいたとしても、ここはメルシェンではないし、律も最初から「赤ずきん」として生きていたわけではない。同じように、椋子も「猟師」である以前に狩屋椋子という名前を持った一人の少女だ。この世界で生きてきた自分の存在を否定するようなことを、彼女には言ってほしくなかった。

 前世において、猟師さんこと、コレット・ハウンドがいかに自分を守ってくれていたのかを思い出した今となっては、尚更だった。魔女の脅威がこの世界にもある以上、今生でも勇士と眷属という繋がりは嫌でも絶てない。だが、戦いのない日常生活においては、狩屋椋子として平穏に暮らしてほしかった。

 それを伝えようと、再度律が口を開いた刹那、手が振りほどかれた。空気を裂く金切り声が、保健室中に響いた。

「なんで、なんでそんなこと言うんですか赤ずきんさんッ! わたしは、わたしには、あなたしかないないのに――!」

 よろめくように、椋子は一歩、二歩と律から離れていく。それに反比例するように、音もなく彼女の周囲に黒い霧が滲み出した。屋上で見たものと同じだ。律の全身に緊張が走り、それは彼女自身だけではなく周囲にも伝播していく。少しでも身じろげば、油断すれば、薄い皮膚など簡単に裂けて鮮血が噴き出そうな張り詰めた空気が辺りを支配する。その正体が、律にはもう分かっていた。

 すっかり忘れていた感覚。強大な力を有した存在に相対したとき特有の緊張感。

「狩屋さん……その魔力は、」

 俯いていた椋子が視線を僅かに上げる。目が合った。ぞっとする。静脈血のような黒ずんだ赤が両眼を染めていた。黒い霧が律に向かって矢のように飛んでくる。律が身を庇う動作をするよりも早く、不可視の障壁がその矢を阻んだ。

 はっとして振り返る。カーテンの裾を握って、ベッドの上で膝立ちしたキッカが、苦しげに呻いていた。障壁に阻まれた霧の矢が静かに消えていく。それを視認するなり、律はキッカの元に走り寄った。キッカの身を案じる律の言葉は聞こえていないかのように、幼い魔女は紅玉のように煌く目を細め、椋子の周囲で膨れ上がる黒を睨みつける。その眼光に喰らいつく蛇の如く、再び黒い霧が飛んできた。またも空間で不自然に停止した黒い蛇を鼓舞するように、呪うように、椋子が喉を枯らす。

「魔女のくせに! なぜお前如きがその人の傍にいる!」

 蛇を模した霧が巨大化する。羽虫の群れが四散するように、室内に霧が広がった。殺意めいたその濃い魔力に、律は思い出していた。前世においての因縁を。

「お姉さん、その人……魔女になりかけてるよ」

 とぎれとぎれにキッカが掠れた声で言う。息を切らすその様は屋上と相も変わらず苦しげで、一体何がそこまでこの魔女を追い詰めているのか、律には皆目見当がつかない。セーラー服の裾を掴んだキッカは、弱った身体を奮い立たせるように椋子を睨めつけていた。

 魔女なんて。

 そう否定したかった。だが、できなかった。律の脳裏に過ぎっていた前世の記憶が、その否定を拒絶していた。身を裂かんばかりの殺気、押しつぶそうとする魔力。かつて相対した七人の魔女を想起させるようなその魔力を眼前に、律は思わず口を噤む。見つめる先の椋子になんと声をかけていいのか、どう対応すればいいのか、分からなかった。

 早くフォローしなくてはいけないのに。そう焦るが、言葉は出ない。そんな律を見限るかのように、唐突に黒い霧が消えた。赤黒く染まっていた瞳がゆっくりと伏せられる。悲しいことを忘れるように、嫌なものから目を逸らすように。

 障壁を作り出す必要がなくなったキッカは、一瞬だけ表情を和らげたが、直後、膝を折ってしまった。それを慌てて支える律に、汚いものでも見るような目を向けた椋子は、髪を揺らして踵を返した。

「待って、狩屋さん!」

 叫ぶが、返ってくるのは足音だけ。

 キッカを布団に横たえ、律は追いかけようと身を捩る。だが、走り出そうとした刹那、キッカが服の裾を引っ張った。

「駄目だよ、お姉さん……! 今あの人は、」

 それは律の身を案じた、幼い魔女のせめてもの制止だった。弱い力で引き止められ、律はキッカを振り返る。

「ううん、ごめんね、行かなくちゃ」

「お姉さ、」

 するりと、キッカの手が離れてしまう。横たえられた身を起こし、少女は遠のく背中を追いかけようとした。だが、体内で暴れ回るような熱と、のしかかってくる気怠さがそれを許さない。

 誰か、あの人を。

 呟いた声は、風鈴の音にかき消された。

 

  ◆○◆○◆


 音戯学園高等部の屋上は、園芸部の活動の賜物だった。だが、色とりどりの花々が咲き誇り、様々な形を模した植木が整然と並ぶのには目もくれず、二人の美男美女が屋上の隅で向かい合っていた。ガラス張りの屋上に、自然の風は吹かない。人工的な涼風が静かに室内の温度を管理している。冷房の真下にいる白野林檎は、敢えて日向にいる学ラン姿の少年に告げた。

「赤ずきんの拾い物癖は治っておらぬようじゃの。嘆かわしいことじゃ、そうは思わんか」

 その言葉に、刹真はわざとらしく肩を竦める。

「そうだね。あの人の馬鹿さは、裏切られても殺されても治らないみたいだ」

 ほんと、馬鹿は死んでも治らないって、よく言うよね。

 そう付け加える刹真は、言葉の割に赤ずきんを嘲笑しているようではなかった。寧ろ、己を蔑むように痛々しい笑みを浮かべる。その様に、林檎は美しい相貌を僅かに歪めた。

「――ストレイン。前々から言っていることじゃが、妾はお主を信用することはない。それでも訊いておくが、此度の聖戦、どちらの側につくのかはっきり申せ」

「今更信用されようとも思ってないよ。俺は赤ずきんちゃんのために戦う、それだけだ」

「償いのつもりか? 難儀よのう、狼よ。それとも、幸いだったか? あの娘が真実を知らずに生きていることは。妾もお主も、生まれた時から前世の記憶に縛られ続けた者同士――妾、ちょっとはお主に同情していたんじゃぞ。赤ずきんを死なせたがために、お主が、何も知らないあの娘を影ながら見守り続けていたことを。報われもしないのに、慕い続けていたことを」

 底意地の悪い笑みを見せる林檎に、刹真は舌打ちした。そして、事実をしらばっくれるように、彼は嫌味を口にする。

「同情するくらいなら、お前にかけられたこの呪いを解いてほしいもんだな、毒林檎」

 学ランの襟をわざとらしく引っ張り、刹真は林檎を睨んだ。対して、鼻を鳴らす美少女は、見下げるような仕種で腕を組む。

「毒林檎とはなんじゃい、この腐れ狼。保険をむざむざ外すわけなかろう。どうしても解いてほしければ妾を倒してみぃ。そうじゃ、幻俗はできるようになったのか?」

 にやにやと、どうしようもない悪人のような顔をしてみせる林檎の言葉には応えず、刹真はガラス越しに音戯学園中等部の校舎を見た。学食で繋がっている中等部と高等部は、距離的にも非常に近い。

 残してきた赤ずきんと猟師のことを思い出しながら、刹真は冷たい声音で言う。

「ところで、猟師さんのことだが」

 その一言で、林檎は姿勢を正した。緩んでいた表情筋を締め、腕を組み替える。

「危ういな、実に危うい」

 刹真が見つめる先に視線を伸ばし、彼女はくぐもった声を出した。

「あの気配――あの魔力。魔女に近づいていると言っても過言ではない」

「あの人は眷属の中でも魔力の使い方が上手だった人だ。しかも、今の精神状態だと魔女墜ちしてもおかしくない」

「魔女墜ちか。嫌な言葉よ。シンデレラの奴を思い出すわ」

 苦々しく言い捨てる林檎に、刹真は視線を落とした。

 魔女も元は人間だ。魔力を稀な確立で持っていただけの人間だった。だが、魔力を持っていたがために魔法に傾倒し、人間として生きることをやめ、悪事を為すようになった。勇士も似たような存在だ。選ばれて、加護を受けて、力を手に入れた。中には、魔女の誘惑に抗えず、勇士として選ばれたにも拘らず魔女の側について勇士と戦う勇士や、その眷属も存在した。彼らは「魔女墜ち」と呼ばれ、疎まれた。当然だ、勇士など名ばかりの裏切り者なのだから。魔女と手を組み、魔女の力を得る、「魔女」の眷属といっても過言ではない存在なのだから。刹真が黙り込んだところで、林檎が手すりに指先を絡めた。

「猟師が魔女墜ちするのはこちらとしても困る。殺すにしても楽ではないし、あれほどの戦力が欠けるのは痛手じゃ。何か手はないのか、ストレイン」

 試すような目で見てくる林檎を一瞥し、刹真は面倒くさそうに返す。 

「ストレインって呼ぶな毒林檎。今頃、赤ずきんちゃんに思い出してもらってウハウハしてる頃だろ、猟師さんは根っからの赤ずきんちゃん馬鹿だから」

「類は友を呼ぶというやつじゃな」

「誰が類なんだ殺すぞ」

「やれるものならやってみるがよいぞ。この白雪姫、狼風情に負けはせん」

「黙れショタコン、山に帰れ雪女」

「なんじゃとこのロリコン。お主こそ牧場に帰って羊でも食ってろ」

「ロリコンじゃねえよブス」

「妾美しいしー。お主こそ鏡を見たらどうじゃ? 見せてやろうか?」

「心がブスなんだよ、ドブみたいな中身しやがって」

 大人っぽい外見をした二人による子供っぽいやり取りが暫く続き、口論が実戦に移行しかけた時、刹真の動きがぴたりと止まった。同じく、林檎も口を半開きにして横目に中等部の校舎を睨む。姫様、と、いつの間にか現れていた七人の男子小学生が林檎を呼んだ。

 多少離れていても分かる、濃密な魔力の出現。

 林檎が厳しく目を細めた。

「猟師か」

「赤ずきんちゃんめ、しくったなあいつ」

 刹真が毒づいた直後、林檎が踵を返した。


  ◆○◆○◆

 

 椋子が運動着姿だったことから、律はまず、体育館へ向かった。あのまま授業に戻るとは考えられなかったが、無闇に捜すよりはいいだろうと踏んだのだ。だが、体育館はもぬけの殻だった。ならばと、校庭へ向かう。上履きだろうがお構いなしに砂利道を走っていると、爪先が何かにぶつかった。

「べぶしっ」

 奇声を発しながらすっ転んだ。足下を留守にしていた己を呪いながら身を起こすと、人影が寄ってきた。

「大丈夫? ――って、赤羽先輩」

 差し伸べられた手に、反射的に触れてから、律はその人影が知り合いであったことに目を丸くした。短い髪に赤いヘアピンをした女の子が律を見下ろしていた。円谷巴恵。円香の妹であり、陸上部の後輩だった少女だ。円香が「妹が椋子と同じクラス」だと話していたのを思い出し、律は擦り剥けた膝のことなど構いもせずに立ち上がって、巴恵の肩を掴んだ。

「先輩、どうしたんですか、授業は、」

 丸い瞳を大袈裟に見開いた巴恵の言葉は無視し、律は性急な口調で尋ねた。

「巴恵ちゃん、狩屋さん、狩屋椋子さん知らない?」

「えぇっ、狩屋さんですか? そう言えば姿見てないような……」

「ここに戻ってない?」

「あ、はい……私は見てないですね」

 言ってから、巴恵は周囲の同級生たちにも「見てないよね?」と尋ねる。彼女たちも揃って頷いた。やはり戻っていないのか。ぎゅ、と拳を握る。

「それより、膝から血が出てますよ。大丈夫ですか?」

「あー。大丈夫大丈夫」

 巴恵の心配も、まるで空気のように流してしまう。だが、律がそのまま立ち去るのを、巴恵は許さなかった。「保健委員がこんな怪我晒してたら駄目ですよ」と苦笑しながら、彼女は律を水場まで引っ張っていく。擦り剥けた膝を見下ろして、律は眉を寄せた。どろりとした粘着質の血が、土がつき、ざらついた傷口に滲んでいる。裂けた皮膚は一箇所ではなかった。細かい傷跡に、血と砂が混ざった汚れが付着している。

 冷水で洗い流すと、ぴりりとした痛みが走った。あらかた汚れを落としたあとで、巴恵がハーフパンツのポケットからハンカチを取り出す。それを濡らし、彼女は、まだ血の滲む律の膝に宛てがった。丁度、授業終了を知らせるチャイムが鳴り響く。

「さすがに絆創膏はないので、保健室行ってくださいね、先輩」

 そう言って、血を拭き取った巴恵が立ち上がった瞬間、律と彼女の間に何かが走った。最初は何が起こったか誰にも分からなかった。だが、間を置かずに悲鳴が上がる。渇いた炸裂音がまた響いた。銃声だ、なんて間抜けなことは誰も言わない。巴恵が身を屈めた。周囲にいた少女たちが散り散りになっていく。地面に刺さった銃痕は、蒸発するように消えていった。

 銃弾の弾道を逆算し、律は、校舎二階の空いた窓を睨んだ。学園は冷暖房完備で、窓を開け放つのは掃除の時間以外は許されていない。既に人影はなかったが、二階に椋子がいたのは間違いない。先輩、と巴恵が呼ぶが、聞こえなかったふりをして、律は走り出した。

 二階に向かう昇降口前の階段を駆け昇ろうとしたところで、廊下の角を生徒の一団が曲がってくる。あ、と声を出したのは、律だけではなかった。リコーダーと教科書を抱えた少女たちに、減速せざるを得ない。音楽の授業から帰ってきたらしいクラスメイトの先頭には、先ほど校庭で手を差し伸べてくれた後輩と似た面立ちの少女がいた。

「律ちゃん。具合悪いって聞いてたけど、大丈夫?」

「円香ちゃん……」

 椋子の捜索を急ぎたいが、クラスメイトたちから不自然に離れることもできず、まるで流れに乗る魚のように、律は授業帰りの一団に混ざった。具合は大丈夫、とへらへら笑って返すが、気が気ではなかった。また椋子が発泡してきたら? 誰かに当たってしまったら? ――彼女がわざと外していることなど、分かりきったことだった。撃ちわけをすることくらい、彼女にとっては朝飯前なのだ。

 魔力は感じない。だが、嫌なくらい張り詰めた心の琴線が、律の表情を硬くしていく。へらりと笑う度に、肌を刺すような緊張感が増していく。笑っていていいわけがない。捜さないといけない。この場を離れなくてはいけない。そう思っているのに、クラスメイトたちに背を向けることができなかった。

 三階に着き、教室まで進む過程で、不意に円香が「律ちゃん」と呼び止めてきた。びくりと、全身が震える。過敏な反応を見せた律に、円香は僅かに首を傾げたが、追及してくることはなかった。自らの肩に指先を置き、ごみついてるよ、と微笑む円香は、全くの善意で律を呼び止めたらしい。己の臆病さに辟易しながら、律は示された肩を払う。だが、どうやら少々背中側の方にあるらしく、視認できない。

「葉っぱなんかつけて、どこにいたの?」

 くすりと笑いながら、円香が手を伸ばしてきた。外にいた時にでもつけてきてしまったのだろうか。ちょっと、と律が濁した時、円香の手が肩に触れた。瞬間、律は円香の手首を掴み、しゃがみ込む。きゃっ、という友人の小さな悲鳴が響いた刹那、鼓膜を直接切り裂くような音が辺りを震わせた。ガラスが弾け飛ぶ。光に反射し、きらきら輝きながら飛び散るガラス片はやたら美しく見えた。

 廊下にいた生徒たちが一斉に割れたガラスに目を剥き、教室にいた生徒たちがなんだなんだと顔を見せる。一瞬感じた嫌な気配に、あと少し反応が遅れていたらと、律は顔を蒼くした。狙われたのは自分ではなく、呆然としている目の前の友人だった。もしあのまま突っ立っていたら、きっと彼女のこめかみには穴が空いていたことだろう。

 猟師の銃も銃弾も、魔法によって具現化されたものだが、威力は本物のそれに寸部と変わらないものだ。当たれば血が出る、当たり所が悪ければ死ぬ。笑えないよ、と一人呟き、律は立ち上がった。律ちゃん、と円香が怯えたようにスカートの端を掴む。だが、律は動じなかった。律たちの教室がある南校舎とは反対側にある北校舎――その屋上に、人影があった。

「狩屋さん……」

 割れた窓ガラス越しに、彼女は眼光を鋭くした。

 それに呼応するように、人影が失せる。失せる、というよりは、黒い霧に呑み込まれて消えた、と表現する方が正しいかもしれない。事態は完全に悪化している。北校舎に急ごうと思ったところで、ぱたぱたと足音を立てながら白衣をはためかす女性が走ってきた。保健の教科書を抱えた養護教諭――真木白亜は、割れたガラスを踏む。

「なに、どうしたのりっちゃん、これ」

 銃声を聞き、窓ガラスが吹っ飛んだのを間近に見ていた生徒たちは、身を寄せ合って怯えていた。なんと説明すればいいのかもたつく律を横目に、真木は近くにあったロッカーから箒とちりとりを引っ張り出し、ガラス片の掃除を始める。そして、「はいはいみんな教室戻ってね、授業始まるよ」と、何事もなかったかのように告げた。

「真木先生、」

「あー、いいよいいよ、これは先生が処理しておくから」

「ありがとうございます……」

 いつになくまともな真木の応答と対応に、律は拍子抜けした。一旦教室に入って、すぐに出よう。そう算段をつけ、しゃがみこんだままの円香と共に教室に入った刹那、

「ええい、静まれ、静まらんか愚民ども!」

 真木の一声はあったとはいえ、奇妙な熱気と恐怖による騒音が混ざり合った廊下に、氷のような声が走った。その声に、律はぎょっとして教室から飛び出る。群れていた生徒たちと押し退けて、恐ろしい美人がつかつかと足音を立てて迫ってきていた。その後ろには、例の男子小学生たちもいた。飛び出た律を見るなり、白野林檎は歩調を速め、律の腕を掴んで引っ張った。

「来い、来るのじゃ、赤羽律」

「ちょ、白野先輩……!?」

 再び好奇の視線に晒される律。そんな目を気にする風もなく、林檎はぐんぐんと律を引き連れて歩んだ。向けられる生徒たちの視線を散らすように、背後では真木が手を叩き、生徒たちに教室へ戻るよう、再び大声を出していた。

 校舎から離れた裏庭に連れてこられたところで、再び銃声が律たちを襲った。掴まれていた腕を律が振り払ったところで、ふんと鼻を鳴らした林檎が指を鳴らす。空中で冷凍された銃弾が、ぽとりと地面に転がった。

「むぅ。やはり、妾も万全ではないか。魔女に食われた魔力が戻っとらんようじゃの」

 凍った銃弾を踏みつけ、林檎は顎を撫でた。そんな彼女に、一人の少年が声をかける。

「姫様、猟師の動向を探りましょうか」

「いや、構わん。どうせ奴の目的は赤ずきんじゃ、この娘と一緒にいれば嫌でも猟師の動向など知れる」

 己の眷属に首を振り、林檎は粘ついた視線を律に向けた。がり、と音がして、彼女の足下にあった氷が砕ける。既に、銃弾は消えていた。

「白野先輩、どういうことですか、これ」

 砕けた氷を見下ろし、律は林檎に尋ねた。真摯に訪ねてくる律に林檎は深々溜息をつく。

「罪な奴じゃの、赤ずきん。猟師は魔女墜ちしかけておる、お主のせいでな」

「魔女墜ち……?」

 ずきりと、こめかみが痛んだ。刺々しい声が鼓膜を叩く。

「その言い方はどうなんだ、毒林檎。お前がしつこく自分の配下になるよう言ったことも影響してるんじゃないか? 『わたしの勇士は赤ずきんさんだけ』って余計思わせたから」

「大神、さん」

 さわりと、周囲の木々が音を立てて揺れた。振り返った先には、茶髪に学ラン姿の少年が立っていた。刹真と目が合った瞬間、律は思わず目を逸らす。その挙動を不審に思いつつも、彼は反応することはなく、律を隠すように林檎の前に立った。

「人のせいにするでないぞ、ストレイン。妾悪くないもーん」

「死ね。……赤ずきんちゃん、保健室で何があった」

 林檎を睨みながら、冷淡な声音で刹真は問いかける。俯いたまま、律は静かに返した。

「狩屋さんが――猟師さんが、私のために生きるって言うから、そんなのやめて自分のために生きていいんだよって言ったつもりなんだけど、怒らせちゃったみたいで」

 もっとはっきり言えば、誤解など生まなかったのかもしれない。そう内心呟く律に、刹真と林檎は顔を見合わせ、やれやれと肩を竦めた。

「なるどね。自分の存在意義を否定されたと思ったわけか」

「存在意義の否定なんて、」

「君はそんなことしたとは思わなかっただろうね。でも、猟師さんにとって、赤ずきんちゃんのために戦うってことは重要な意味があったんだよ、生きていく上でね。それを当の本人から否定されちゃったら、自棄にもなるよ」

 そんな、と顔を上げた律に、刹真はゆっくり首を振る。事実だ、と、真っ直ぐ肯定するように。その直後、渇いた発砲音が轟いた。律たちの周囲を、すぐさま氷の壁が覆う。銃声が一通り消えたところで氷の防壁は消えた。

「キッカちゃんは……!」

 校舎の方を振り向くや否や、律は駆け出した。が、それを刹真が止める。

「待った。赤ずきんちゃんは一緒にいてもらうよ」

「でも、キッカちゃんが、」

「彼女を目の前にして、そんなこと言っていられるのかな?」

 刹真が苦い笑みを口元に湛えた。正面を向き直り、律は表情を消す。

 風が吹いた。つばの広い帽子が揺れ、肩まである髪が靡いた。コートがはためき、ゆっくりと、「猟師」が顔を上げる。憎しみの色に染まった彼女の赤黒い瞳が、律たち三人を映し出した。黒い霧が、彼女の足下が滲み出る。調子はずれの口笛を吹き、林檎が指の骨を鳴らした。

 美しい黒髪は銀色に染まっていき、数時間前に見たばかりのドレスを纏う「白雪姫」となった林檎に、刹真がおどけた様子で声をかける。

「おい毒林檎、無理しない方がいいんじゃないか?」

「少なくとも、まともに幻俗もできぬお主よりよほど強いわ、ど腐れ狼」

 低い声で白雪姫が返すや否や、刹真が律を背後に隠す。瞬間、猟師のぎらつく目が見開かれた。足が竦むのを必至で堪えながら、律は顎を引く。怒号とも絶叫ともつかぬ声が響いた。

「その人に、近づくなぁあああああああ!」

 猟師の叫びに呼応するように、黒い霧が蠢く。黒い霧は瞬く間に数多の銃器へと姿を変え、その銃口を一点に集約する。大量の銃口に恐怖することもなく、毅然とした態度で刹真と白雪姫は猟師に対峙した。

 大量の銃器が一斉に火を噴く。刹真が一歩前に踏み込み、ご、と地鳴りのような音がした。何かに押しつぶされるように、銃弾が不自然にその軌道を下げ、刹真たちの手前で地面に突き刺さる。足下を吹き抜けていく強風に、律は震える膝を掬われた。へたり込む律など目もくれず、白雪姫が空間を手刀で切った。幾つもの氷の短剣が猟師に向かって猛スピードで迫る。

 だが、その氷の刃は、音を立てて溶けた。強力な熱気に、白雪姫も刹真も眉を吊り上げた。猟師の魔法は重機の具現化に関するものだけだと、彼らは知っていた。それ故に、熱の魔法が使用されたように氷が溶けたことを訝しんだのだ。だが、その答えはすぐに明かされた。

 鈴の音が転がるような可愛らしい声が響いた。可愛らしいが――決して気の置けそうにない鋭さも感じさせる、そんな声だった。

「あー最っ高。超ウケるんですけどー」

 その声に驚いたのは、白雪姫たちだけではなかった。猟師の身体から噴き出ていた黒い霧が、人の形を成していく。その様子に、猟師が声を詰まらせた。

 黒い霧は、見る見るうちに形を作り、色を帯びていく。そして、白雪姫の透けるような銀髪とはまた違う、鈍い銀色を輝かせた少女が現れた。耳より高い位置で髪を二つの結わえた可愛い顔立ちの少女は、感度を確かめるように鮮やかな赤をした目を二、三度瞬かせる。その瞳の色は、保健室で眠っているであろう幼い魔女と全く同じだった。

 黒いゴシックドレスに身を包んだ少女に、誰もが息を呑む。猟師までもが、絶句していた。その様に満足したと言わんばかりに、少女はにやりと厭らしい笑みを浮かべてみせる。

「お久しぶりねぇ、白雪姫。それに……ストレイン」

 刹真を見つめた瞬間、彼女の作り笑いは消え失せた。だが、それも一瞬のことで、すぐに人を小馬鹿にしたような笑みを見せる。かつての名前を呼ばれた刹真は、どこか苦しげに表情を硬くした。

「イーナ……」

「――七人の魔女、『嫉妬』のイーナ・クナッレか。下賤の者が妾の名を呼ぶでないぞ」

 白雪姫がそう吐き捨てるなり、魔女――イーナは、指を鳴らした。すると、彼女の指先からエンジ色の蛇が生まれる。炎を纏った蛇は、うねりながら白雪姫に迫った。だが、彼女が行動を起こすまでもなく、控えていた少年たちが一斉に手をかざす。巨大な鏡が浮かび上がり、炎の蛇を呑み込んだ。ゆっくりと消えていく鏡を、どこか恍惚じみた目で見送りながら、イーナは手を叩く。

「そこのクソガキ共も相変わらずで嬉しいわぁ、白雪姫ちゃあん」

「黙れ」

 ぴしゃりと言葉を叩き落とし、白雪姫はありったけの殺意を込めるようにイーナを睨む。

「なんでわたしの身体から……!」

 悲鳴じみた声が重なる。膝を地面についている猟師を見下ろし、イーナは美しく笑った。整いすぎて恐怖すら覚える笑みだった。ぴたりと椋子に身を寄せた魔女は、白く細い指先で、彼女の頬から顎にかけてのシャープなラインをなぞる。目を見開き、猟師が暴れた。

「離れろっ!」

「やーねぇ、ワタシ、ずうっとあなたの中にいたじゃない。あなたの願いを叶えてあげてきたじゃない」

 くすくすと笑うイーナに、猟師の顔色は急落していく。粗悪なロボットのようなぎこちない動作で律の方に顔を向けた彼女は、うわ言のように呟き出した。

「やめろ……やめろ、やめろ」

 恐怖そのものに心臓を噛まれているようだった。狂乱の色を増していく椋子の姿に、イーナは薄い唇を愉悦に歪ませる。

「あなたの大事な大事な『赤ずきん』に近づく人間を眠らせてあげたじゃない」

「やめろ……言うな」

「大事な『赤ずきん』には自分だけいればいいって、そう思っていたから」

「やめろ――やめて、やめて、言わないで」

 猟師が頭を抱えた。へたり込んでいた律は、地面に爪を立てる。

 イーナが、逃がさないと言わんばかりに椋子の耳元に顔を近づけた。

「ぜぇーんぶ気に食わなかったわよねぇ? 赤ずきんに話しかける奴、笑いかけられている奴、遊んでいる奴、近づく奴、一緒にいる奴、みーんな気に食わなかったのよねぇ? でも肝心の赤ずきんは、なーんにも憶えてない、分かってくれない!」

「やめてぇっ……!」

「嫌よ、やめなーい。あなたの願い通り、あなたが不快に思っていた人間を撃ってやったのは誰? 赤ずきんと親しくしていた奴らを眠らせてあげたのは誰? ワタシよ、このイーナよ!」

「やめて!」

 声だけで全てを裂くように、猟師の悲鳴が木霊した。

「二人のこと……?」

 静寂が帰ってきてから、少女の弱々しい疑問が辺りを湿らす。刹真の背後から、律がたどたどしい足取りで歩み出た。彼女の脳裏には、中学入学からずっと親しくしていた二人の親友の顔が浮かんでいた。不自然な欠席、怪我の噂、教師からの問いかけ。ぐるぐると、二人の姿が脳内で掻き回されていく。

 ゆっくりと、猟師の赤黒い瞳が見開かれていった。怒りでも憎悪でもない。それは、絶望の色に染まりきっていた。

 その瞳に満足するように、銀髪赤目の魔女が猟師を背後から抱き締める。律をからかうような目で見ながら、魔女は唇を動かした。

「そうよ赤ずきんメロ。あんたがいつまでもこの子の苦しみに気付いてくれないから、この子はあんたの大事な友達を撃ったのよ、ワタシの力を得てね」

 律の肩が落ちた。嘘、と小さな声が落ちる。その声をかき消すように、猟師が怒鳴った。

「黙れッ!」

 自らを抱きしめている魔女を猟師が押しやった矢先、具現化されていた数多の銃口がイーナに向く。幾重にも連なる銃声の大合唱が耳を焼いた。だが、銃弾は魔女の肉体を傷つけることはなかった。ふふふ、と意地悪く笑っているイーナは、目元に弧を描いた。

「ただの精神体か――。なるほど、猟師の精神に寄生しているわけじゃな、蛆虫め」

 全ての弾を透過したイーナに、白雪姫が汚物を同時に吐くような勢いで言う。結えられた髪の毛先を指先に巻きつけながら、魔女は笑った。

「大当たりぃ。この子とは相性良かったわぁ。すごいのよ、赤ずきん。あんたに見せてあげたいくらい! あんたの周辺に向けられるこの子の嫉妬、あんた自身への愛憎!」

「ちがっ――」

 指を差され、猟師が動揺したように律を見やった。交錯する視線。だが、先に目を逸らしてしまったのは律だった。その明確な拒絶の態度に、がくんと、猟師の足が折れる。

 それを見計らったように、イーナが猟師に再び擦り寄った。甘えるような仕種でぴたりと猟師に身を寄せる魔女は、彼女の頭を優しく撫でた。反応一つ示さない猟師に、イーナは、口調こそ悲しげだが、その表情は狂った愉悦に塗れていた。

「ああっ、可哀想な猟師さん。大好きな主には見放され、仲間には刃を向けられ。いいのよ、ワタシはあなたの味方になってあげる、ねえ、コレットちゃん」

 ぼろりと、猟師の手の甲に雫が落ちる。

「狩屋さん、」

 躊躇いがちに、だがはっきりとした声音で、律は猟師に呼びかけた。だが、猟師は何一つ反応をよこさない。聞こえていないようだった。代わりにと言わんばかりに顔を上げた銀髪の魔女は、不敵に微笑んだ。

「赤ずきん、あなた、酷い女ね。――ねぇ、白雪姫、ストレイン。そうでしょ?」

 喉を鳴らして、イーナが猟師の肩を抱く。待て、と厳しい声で白雪姫が制止をかけると同時に、銃器が黒い霧に変わっていく。それはあっと言う間に二人を包み込み、あとには何も残らなかった。

 湿っぽい裏庭の草地に立ち尽くし、律は弛緩していた指先を丸め込んだ。

「全部、私のせい……」

 呆然と呟く律の肩に、刹真が手を置く。冷たい手が、律を正気に戻した。

「あのチビ魔女のところに戻ろう、赤ずきんちゃん」


  ◆○◆○◆


 保健室には、足を組んで書類を片付けている真木と、眠っているキッカの二人しかいなかった。授業に出る気にもならなかった律は、そのまま保健室で放課後が来るのを待った。荷物は全て、林檎の従者たる小学生たちがどういうわけか届けてくれた。高等部の変態美人と、男子高校生がいる中等部の保健室は、大分混沌とした空間になっている。だが、真木は気にしたようでもなく、鼻歌混じりに仕事をしていた。

 キッカの目が覚めることはない。ベッドの脇の椅子に、落ち着かないまま座っていた律は不安そうな顔を隠しもせず、子供を見下ろした。規則正しい呼吸に、苦しみはなさそうだ。だが、こんこんと眠り続けるキッカのことが心配でたまらなかった。魔女と共に姿を消してしまった椋子の姿がちらついて離れない。眼下の少女も同じように消えてしまう気がした。

 自分は間違っている。魔女と一緒にいるべきじゃなかった。あの時、刹真を止めるべきではなかった。

 ――殺さなければいけなかったのだ。

 眠っている子供の首を手折ることなど簡単そうで、口を押さえつけることも容易そうで。道端の草を踏みつけるように、引っこ抜くように、すぐにでも命を奪えてしまえそうだった。この子供を、魔女を殺したら、全ては元通りになるのだろうか。椋子は、帰ってくるのだろうか。暗い考えが脳を覆い出す。だが、律は唇を噛んで、一瞬でも抱いた考えを抹殺した。

 責任は誰にも取らせられない。取ることができるのは自分だけだ。自分の判断が、決意がこの事態を招いたのならば、自分でどうにかするしかない。組んでいた手の甲に爪を立てる。白くなる肌を睨みつけた。

 真木が教室を出て行くのを横目に、律は小さく息を漏らす。

「毒林檎の魔力を食べて、君を助けたんだってね、この魔女」

 刹真の声がして、顔を上げた。横に立った刹真が、意識のないキッカを冷めた目で見下ろしていた。

「腹立たしいことだけど、『白雪姫』の魔力は並じゃない。幻俗を解くくらい大量の魔力を食べたなら、キャパオーバーでもおかしくない」

「キャパオーバー……」

 律が反芻すると、かちゃ、とカップが音を立てた。優雅に紅茶を飲んでいた林檎が「そうじゃ」と頷く。

「妾ほどの力を持った者の魔力じゃ。弱体化しているそこの魔女には毒にも近い。赤ずきん、腹がいっぱいにも拘らず、飲めや食えやと食事を詰め込まされたら、お主どうなる?」

 言われて、律は暫し押し黙った。その例え話が実際にあったような気がしてならなかったのだ。無論、前世においての話である。刹真をちらりと見上げると、彼はわざとらしく視線を泳がせていた。

「……吐きますよね多分……」

 ぼそっと返すと、林檎は紅茶を男子小学生に注がせる。紅茶の香りを楽しむように鼻を近づけてから、彼女は続けた。

「そもそも、妾たちには『魔力を食う』というものが如何様なものなのか分からん。分からんが、許容量以上のものを摂取すればどうなるのか、ということくらいは分かる。じゃが、魔力は食物と違って形があるわけではない。溜まった魔力は魔法で発散するしかないが、その様子じゃと、それも難しそうじゃな」

「どういうことですか」

「どうって、つまりじゃな。膨大な力を御することができんのじゃ、その魔女には。余分な魔力を使って魔法を暴発させても危険じゃし。無理に魔力を抑え込んでいるから調子が悪くなっているわけよな。……というか、そこの魔女はあまりにイレギュラーすぎじゃ」

 カップを置き、苛立たしげに林檎は足を組む。頬杖をつく彼女は、一人思考に耽るように視線を落とした。黙ってしまった林檎に代わって、刹真が説明を引き継いだ。空いている隣のベッドに腰かけた少年の方に向き直り、律は静かに耳を傾けた。

 メルシェンとこの世界はなんらかの形で繋がっている。推測しかできないが、恐らくは人の「精神」と呼ばれるもので。精神は、いっそ「魂」と言い換えてもいいだろう。メルシェンにおいて死した者全てがこの世界で生まれ変わりを果たしているとは断言できないが、少なくとも数多の勇士やその眷属たちは、この世界でもう一度生を受けている。

 この世界を魔女たちは狙っているが、魔女はこの世界で直接、その力を振るうことはできない。過去数回、別の七人の魔女と相対したことがあるが、奴らはこの世界の人間の精神に棲みつき、半端な力しか使えなかった。人間の心に付け込んで、その人間の心を糧に力を使う魔女たちとその眷属は、人間と同化することで初めて肉体を手に入れる。それが実体化。

「――にも拘らず、そこの魔女は初めから実体化していた。しかも、魔力を食うなんてとんでもないチート技を持っている。人の精神を宿にしなかったせいなのか、別の要因なのか、弱体化はしているようだけど、十分な脅威だよ」

 キッカに目をやった刹真は、大袈裟に溜息をついた。子供の寝顔を横見して、律は口を開く。

「……猟師さんも、あの魔女に同化されちゃうかもしれないって、そういうことだよね」

 自分で言って、胸が締めつけられるようだった。刹真は手を組み、無言で頷く。風鈴の音が冷たく室内を吹き抜けた。

「一度魔女墜ちしたら、元に戻すのは難しい。だけど、非情なことを言えばチャンスでもある。魔女がこの世界において単なる精神体である以上、どんな攻撃も向こうには通らない。でも、もしイーナが猟師さんの肉体と同化して実体化するなら、こちらの世界でイーナを殺せる」

「そんなっ、それじゃあ猟師さんも一緒に死んじゃうよ!」

「……もう一つ、魔女は殺せないけどメルシェンに追い返す方法はある。けど、それには、猟師さん自身が魔女と決別しないといけない。あの様子で、魔女の甘言から逃れられると思うのかい、赤ずきんちゃんは」

 ふ、と、皮肉めいた笑みを浮かべる刹真を、律は思わず睨みつけた。その強い目に、刹真は意表を突かれたように目を瞬かせる。だが、唇を震わせたものの、律から言葉は発せられなかった。こうなったのも全て自己責任だという、その罪の意識が言葉を失わせていた。そんな律の心中を察したように、刹真もまた、何も言わなかった。

「姫様、帰りの準備が整いました」

 保健室のドアがノックされ、林檎の小さな従者たちが顔を見せる。物思いに耽っていた彼女は一つ頷き、「分かった」とだけ返事をした。そして、律と刹真、眠るキッカをそれぞれ一瞥する。

「送って行ってやる。赤ずきん、ついてこい。ストレイン、お主は人目を避けて学園の外に出るのじゃぞ。男が我が校にいたなど、洒落にならん。分かったな」

 端的にそう告げて、林檎は保健室を出て行く。毒林檎が、と、小さく毒づく刹真は、静かな動作でキッカを抱き上げた。口調とは裏腹な態度に、律は二人を交互に見つめた。

「仕方ないからこのガキは俺が連れて行くよ。早くあの女について行ったら?」

「大神さん……」

「どうせすぐ会えるよ。そんなに不安そうな顔されても困るんだけど」

 ぶっきらぼうに律の背中を押した刹真は、素知らぬ顔で律の横を過ぎていく。そして、またもや窓ガラスを飛び越えて外に行ってしまった。茫然と見つめていると、林檎の怒鳴り声が廊下から聞こえてきた。自分を急かすその声に、律は裏返った声で返事をしながら保健室をあとにした。

 中等部と高等部は昇降口が当然違うのだが、そんなことはお構いもせず、林檎は小さな従者に差し出されたローファーに足を通す。下校していく生徒たちは、揃ってぽかんとその様子を目にしていた。校門を出るまでは林檎と距離を置きたかった律だったが、その願いはかくも虚しく一瞬で消え去る。ずんずん進んでいた林檎が、唐突に歩調を緩めたのだ。隣に来た彼女は、「お主の友人のことじゃが」と小さな声で言った。

「妾の優秀な眷属たちの調べじゃと、昨日の下校時、何者かに襲われて意識不明、だそうじゃ。目撃者の話だと、銃声がして、次の瞬間には二人が倒れていたと。だが、出血もなく傷跡もない。警察は動いていないが、二人とも入院中らしいな。意識はなくて――そうじゃな、今のあの幼い魔女と似たような状況か」

 桜並木を潜り抜ける。蝉の絶叫が鼓膜を裂いていくが、律は林檎の言葉を一つも聞き漏らすことはなかった。校門の前に、一台のリムジンが停車している。道行く生徒たちは、いつもの光景だと気にしていないようだった。

「猟師の仕業で間違いないじゃろう。気になるのは、外傷が何一つないのに意識がない、ということじゃが――」

「二人の体内に魔女の魔力が、ってことですか」

 目を細めて尋ねると、林檎は口角を上げた。吐き気を催すような、邪悪な笑みだった。

「魔女を倒さねば、お主の友人は一生寝たきりかもしれんな、赤ずきんよ」

 その言葉に、律は剣呑とした目つきで林檎を見上げた。相変わらずですね、と口にしかけ、顔を背ける。前世の記憶を全て引き継いでいるのならば、それはもう、「白雪姫」そのものなのだ。断片的な記憶しか持たず、赤ずきんとしての自覚も白雪姫に比べれば薄い己に、相変わらずですね、などという嫌味を吐く資格はない。第一、「相変わらず性格は変わっていない」という感想はあるのに、律の中には白雪姫に関する記憶が殆どなかった。感情と記憶の齟齬に酔いながら、リムジンに乗り込むよう命じられる。対面に座した林檎の脇は、七人の小学生が固めていた。ぬいぐるみ代わりのようだった。

「そう睨むな。こうなった以上、つまらん潰し合いはせん。お主が前世の因縁を知った上でストレインと手を組むのなら、妾も最早かける言葉などない。あの魔女についても然りじゃ。殺すには惜しい素材のようでもあるしの」

 音もなく、滑らかに発車するリムジンに、律は緊張した面差しで林檎を見つめた。まるで試すような表情と物言いの彼女は、硬い律の視線を面白そうに受けている。

「――あなたは『白野林檎』ですか、それとも『白雪姫』ですか」

 その小さな問いかけに、林檎は指先を顎に添える。ほぉ、と、彼女は意地悪く微笑んだ。

「不動(ふどう)、大神刹真を見かけたら停れ。……で、その質問の意図はなんじゃ」

 運転手に言いつけ、林檎は身を乗り出す。律は、スカートの上で組んだ手に力を込めた。静かに車が減速していく。冷房が、熱くなっていた肌を冷ましていった。

「記憶が全てなのか、知りたいんです。今生きている私は、前世の記憶を断片的にしか持たない私は、それでも『赤ずきん』と呼べるんでしょうか。逆に、前世の記憶を全て持っていたら、白野先輩は『白野林檎』ではなく、『白雪姫』でしかないんでしょうか」

 車が止まる。運転手が、後部座席のドアを開けるべくシートベルトを外した。一瞬の動作だった。だが、その一瞬がやたらと永く感じた。唇を細長い指先でなぞり、林檎は愚問だと言いたげに肩を竦める。

「全ての記憶を最初から持っているということはな、途切れたその記憶の続きを代行するしかないということじゃ。妾は、死ぬ前も死んだ後も『白雪姫』でしかない。白野林檎という存在は、名前のみしか存在し得ない幻ぞ。『白雪姫』たる妾から見れば、断片的な記憶しか持ってなくともお主は『赤ずきん』で、それ以外になんとも表現できん」

 つまり、「赤羽律」という人間は、林檎の認識の中では存在しない。遠回しに「赤羽律」として生きていた少女を否定し、今生の己の名前すら切り捨てた林檎に、律は少しだけ、切なくなった。その切なさが何から生まれているものなのかは、分からなかった。

 運転手が後部座席のドアを恭しい態度で開ける。律は、左側に身を寄せた。

「刹真坊ちゃん、お久しぶりでございます。お元気そうで何よりです」

 白ひげをたくわえた老齢の運転手は、丁寧に頭を下げる。抱き上げているキッカには己の学ランを被せている刹真は、少し蒼い、だが穏やかな表情で「お久しぶりです」と返した。そのやり取りに、林檎が鼻を鳴らした。

「よせ不動。そやつに礼儀は無用ぞ」

「またお嬢様はご無体なことをおっしゃる。昔はあれほど親しくしていらっしゃったのに」

 車に乗り込む刹真と顔を合わせたくもないと言いたげに、林檎はつんと横を向いた。幼児が拗ねたようなその様に、運転手は薄く笑って席に戻る。この二人は(前世は抜きに)一体どういう関係だったのだろうと律が思案している間に、車は彼女の家の前に着いた。なんで私の住所、と問いかける前に、林檎の真横にいた男子小学生がピースをしてきたので、律は礼だけ言って車から降りる。最近の小学生は恐ろしい。

「今日は俺も君の家にいさせてもらうよ。何があるか分からないしね」

 そう言いながら、刹真も車から降りる。ひゅーひゅー、と、林檎が大人気なく囃すのを、従者たちが止めた。それに一瞥すらくれることなく、刹真は律の了解もなしに玄関へと進んでいく。えっえっ、と一人困惑しながら、律は林檎に向かって頭を下げ、刹真のあとを追った。

「さすがに男の人を家に連れ込むのはちょっとその倫理的に問題があるっていうか、こ、心の準備っていうか家の準備っていうか、そういうものがありましてねえ!」

 刹真の前に回り込み、律は彼の足を止める。

「はあ? 何を心配してんだか、このマセガキ。君分かってるわけ、命かかってんだよ命」

「う……それは、そうですけども……」

「君が守るって言ったこの魔女だって危ないんだよ? 呑気なこと言ってられるの?」

「でも、さすがに親が許可しないし……」

「ああ、大丈夫。バレないよう勝手に赤ずきんちゃんの部屋行くし」

「もっと問題だよ!」

 ごちゃごちゃと騒ぐ律に、刹真は遂に溜息をついた。キッカに被せていた学ランを羽織り、彼は幼い魔女を律に背負わせる。そして、やれやれと首を振った。

「仕方ない……」

 やけに諦めがいい。色々言うとまた機嫌を損ねそうだったので、挨拶もそこそこに律はキッカ共々、家に入った。眠ったままのキッカを自室に連れて行く。まだ窓ガラスが割れたという事実を両親には伝えていない。そろそろ伝えないとまずい。まずいが。

「はぁ……絶対に怒られるよね……」

 キッカをベッドに寝かせて嘆く。自身もベッドの端に腰を下ろしたところで、

「うわーダンボールで補強って。君にすごく似合ってると思うよ」

 ぐるんと首が回った。割れたベランダの窓をしげしげと見つめる不法侵入者が一名。荒々しい足取りでベランダの少年の元まで向かい、律は叫んだ。

「帰ったんじゃないの!?」

 悠々とベランダから室内に侵入してくる刹真を押し返す力もなく、律は逆立つ感情のままに彼を睨みつけた。彼女の勉強机に備えつけられた椅子にどさりと腰かけた刹真は、退屈そうな表情で応える。

「帰るなんて一言も言ってないよ?」

「あの流れだと帰るでしょ普通……!」

「残念ながら普通は無視する主義なんだ」

「でもちょっと予想してた私がいる……」

「期待してた? もうちょっと凝った演出するべきだったかな? 颯爽登場みたいな」

「いいからもう、黙っててよ大神さん」

 がくりと膝を折り、律はカーペットに爪を立てる。この男がいると全てにおいてペースが崩される。きっ、と目つきを悪くして、彼女は刹真を見上げた。偉そうに足を組む男子高校生は、薄い唇を引き結んだまま表情を変えない。

「ご飯もお風呂も用意してあげないんだから」

「ああ、その辺はご心配なく」

「……私、本気なんだけど、大神さん」

 ちゃちな脅しに動じることもなく、刹真はただ淡々としていた。

 椋子のことや、今後の展開について尋ねようとも思ったが、自分自身の整理もつかないうちに問い質したところで受容できるわけがないと、何度も口を開いては言葉を呑み込んだ。その様子に気付いてはいたが、刹真も自分から無理に話を振ることはなく、鞄に忍ばせていた文庫本を読みふける。

 静かに時は流れ、母親が帰宅した。美咲の声に、律は顔を出そうと部屋から出る。そして、刹真がそのあとに、気配を殺し何食わぬ顔で続いた。律はそれに気付かず、母親に呼ばれて居間へ向かう。最初に刹真の存在に気がついたのは、律に洗濯物の取り込みを命じた美咲だった。「えっ、ちょっ、彼氏!?」

「はあ? ――あああああああ!」

 縁側から外に出ようとしていた律は、怪訝そうな表情を一転させ絶叫する。履きかけのサンダルを脱ぎ捨て、彼女はどたどたと足音を立てて母と刹真の間に割り込んだ。

「違うよお母さん、全然違うよ、すぐ出てくよこの人!」

「初めましてお母様。僕は大神といいます。玄創(げんそう)高校に通っています。律さんから家庭教師の依頼を受けまして」

「はっ!?」

 何言ってんだこいつ頭大丈夫か? 

 しゃあしゃあと嘘を並べ、猫かぶりにも程がある偽りっぷりで刹真は美咲の手を取った。ぽ、と赤くなる母親の顔に、律は「騙されないでぇええええ!」と泣きつこうとする。だが、刹真の足が彼女の爪先を踏みつけた。それでも顔には、理想のイケメンとでもお題をつけられたような柔和な笑みが浮かんでいるのだから恐ろしい。

「玄創高校の生徒さんに教えてもらえるなんて……! あの、お金とかは……」

「ああ、お気になさらないでください。ただ、ちょっと今晩、夜遅くまで指導してほしいと律さんからお願いされまして、夜分遅くまで滞在してしまう失礼を許してほしいのですが……」

「そんな、とんでもないです。どうぞどうぞ。夕飯も一緒にどうでしょう」

「本当ですか。嬉しいなぁ。ありがとうございます」

 誰だお前と律は刹真を凝視する。人を小馬鹿にしたような顔も、侮蔑に歪む笑いも存在しない。どこからどう見てもただの好青年にしか見えない刹真に、美咲は完全に落とされていた。

「お母さん、この人は、」

 文句をつけようとしたところで、肩に手を置かれる。ひ、と律は顔色を悪くした。指先が肩と同化しそうなほど強く圧迫してくる。心臓を鷲掴みにされたような恐怖が走った。耳元に顔を寄せ、刹真が笑う。

「じゃあ頑張ろうか、お勉強。ねえ、律さん」

 これでいいだろ、文句ないよな。そうだろ、赤ずきんちゃん。

 ――そうルビが振られていてもおかしくない。美咲がでれでれと刹真を見つめている間に、律は折れそうな膝をどうにか保っていた。

 結局、刹真は悠々と風呂まで入った。義雪は最初こそ刹真が気に食わないようだったが、おだてられると簡単に気を許してしまい、「大神くん娘を頼む」などと酔いもいい加減に刹真の肩を叩いていた。何頼んでんだよ、と、その時から律の機嫌は悪いままだったが、キッカが一度目覚めてからは落ち着いていた。

 結局、水を一杯飲んだだけでまた眠りについてしまった幼い魔女の寝顔を見下ろし、律は文庫本を読み続けている刹真を見やった。義雪のジャージを美咲が貸していたので、ああこれはもう泊める気なんだなとは思っていたが、本当にそのつもりらしい。上下黒いジャージを着た刹真は、律の視線に気がついて文庫本に栞をはさんだ。

「……あのさ、大神さんって寒がりなの?」

 ハンガーにかかった学ランに視線をやってから、律は尋ねる。時刻は一〇時に差しかかるところだった。方便にする気はなかったのか、一通り宿題を見て分からない箇所を教えてもらったおかげで、本日やるべき予習も復習も終わっている。いつ寝ても構わないのだが、まだ眠くはなかった。文庫本を放り、刹真はクローゼットに背中を預ける。

「その昔、雪の女王に会ってね」

「雪の女王?」

 からかうような表情を浮かべたまま、刹真は続けた。

「雪の女王に会ってしまった時からこうなることは決まってたんだ。攫われなかった代わりに俺は呪いを受けた」

 冗談を言っているようにも、事実を敢えて分かりにくく語っているのか、律には判別できなかった。まあ、と、刹真が手を打つ。「要するに寒がりなんだ」

 面倒くさくなったから話を切るつもりらしい。邪気なく微笑む刹真ほど信用ならないものもないと、律は追及の手を緩めようとはしなかった。さらなる質問をぶつけようとしたところで、刹真が立ち上がる。そして、無言で歩み寄ってきたかと思うと、「寝ろ」と無情な声音で律の頭を引っぱたいた。

「いったぁ……!」

 目尻に涙を溜め、律は憎しみ込もった目で刹真を見上げる。彼は鼻を鳴らし、また文庫本を読み始めた。ページを捲る刹真に、律は唸る。

「っていうか、親御さんに連絡したの」

「ああ、必要ないよ。今は一人暮らしだから」

 しらっと答える刹真に、律ははっ、と目を見開く。林檎の車に乗る間際の、彼と運転手の会話を思い出した。刹真坊ちゃんとか言われていたが、本当にお坊ちゃんなのか。

「ねえ、白野先輩とどういう関係?」

「どういうって、……主人と飼い犬? いや、俺の立場が下っていうのも納得いかないな。天敵――ハブとマングースみたいな関係だ」

「なんかどんどんあの人のイメージがおかしな方向になってく……」

「まだ雑談したい? 俺は本を読みたいんだけど」

 冷たい目で刹真が律を見る。不満ではあったが、もう寝てしまおうと、律はキッカの眠るベッドに乗り上げた。壁際に寄って眠っているキッカは、全く起きそうではない。布団に入り込み、携帯を開く。アラームの設定だけして、枕元に放った。

「大神さんは寝ないの?」

 不意に気になって尋ねると、刹真は文庫本から顔を逸らさないまま適当な相槌を打った。

「一応勉強するとは言ってあるから一二時くらいまでは電気はつけておくよ。明かりがあると寝られないタイプかな、君は」

 今は暗くなっても寝られそうにないが、余計なことは言わないでおいた。きっと、彼は今日、眠ることはないのだろう。いつ何があってもいいように。布団に入ってから暫くして、律は寝返りを打った。布団にこもったまま、彼女は話しかける。

「ねえ、いつかも、こんな風に夜、大神さんが番をしてくれたことがあったよね」

 不意に蘇った前世の懐かしい記憶を引っ張り出す。呆れたと言わんばかりに息を吐き出し、刹真はページを捲る手を一瞬だけ中断した。生じた戸惑いを消すように、次の項へと視線を移してから、彼は返事をした。

「前世の話か。しょっちゅうだったよ。君らはみんなお子ちゃまだったからすぐ寝るし」

 最初のうちは、猟師も夜通し番をしていた。だが、旅を続けるうちに、まるで何かの糸が切れたかのように、彼女も年相応に夜はすぐ眠るようになってしまった。野宿の際は交代制で火の番をしていたが、寝起きの子供は誰一人役に立たなかったことを思い出し、刹真は密やかに笑みを零す。その物珍しい彼の表情を目にすることもないまま、律は布団の中でぼやいた。「また、そうやってみんなで仲良くしたいな」

 その言葉が何を指しているのか、分からない刹真ではない。だが、ここで自分が何を言ったところで意味はないだろうと、口を閉ざした。時計の針が静かに時を刻む。

「もう休んだ方がいいよ、赤ずきんちゃん。無駄話を聞く俺の耳が可哀想だ」

 突き放すような言葉の割に、冷たくはない声音だった。それを聞いて、律は静かに目を瞑る。まだ眠れる気は全くしなかった。それでも、これ以上喋ると本当に眠れなくなってしまうと思った。感情が昂る前に、意識を手放すべきなのだ。

「うん、そうだね。ごめんね、大神さん……」

 その言葉を最後に、律は一切、口を開くことはなかった。

 ページを捲る小さな音と、時を刻む秒針の音が夏の夜に染みていく。

「雪の女王か」

 読み終わった短編小説の名を微かに呟き、刹真は視線を文庫本から外す。粗末なダンボールで補修してある割れた窓ガラスの隙間からは、微風が入り込んできていた。冷えた少年の身体を、外気はまるで虫のように這う。

悪意のガラス片を瞳に隠された人間を救うのは誰か。答えは、小説の中身と寸部も違わず少女なのだろうと、一人文字の羅列を追いかけた。



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