三章
三章 白雪姫、襲来する
クラス全体の雰囲気がよくとも、何かしらグループというものは存在する。律が桜と柚希の両名と特に親しくしていたように。その二人がいなければクラスに居場所がない、なんてことにはならなくてよかったと、律は購買に向かいながら思った。三年間を共に過ごしたクラスメイトたちは、みな気心知れた仲だった。居心地が悪くならないよう、一人にしないよう、必ず誰かが手を差し伸べる――現に、律も円香からお昼を一緒にどうかと誘われていた。
いつもならば三人で学食に向かっていた。だが、今日は、高等部の校舎との丁度堺にある学食棟まで行く必要はない。円香たちは弁当持参であったので、購買で簡単に済ませてしまうことにしたのだ。昇降口の近くにある購買付近は、それなりの生徒がたむろしていた。とは言え、売り切れることはまずないので、律はなんの心配もせずに人の群れに混じる。すぐに商品の前に行き着くことはできた。
(そうだ、キッカちゃんのお昼も買わなくちゃ)
保健室はすぐ近くだ。寄っていこうと決め、キッカの分のパンも買った。結局朝は、キッカに魔力を与えてあげることもできなかった。真木がいなければついでに食べてもらおうと思いながら、律は自分用のサンドウィッチを手に取ろうとした。ラスト一つのフルーツ生クリームサンドに指を伸ばす。が、横からも白い手が、す、と出てきた。
「あ」
手が触れ合う。思わず顔を横に向け、律は恐怖のあまり喉を凍らせた。
無言で、一つ下の後輩が手を引っ込める。その速さは、律に残像すら見せた。よほど嫌だったのだろうかと、先輩たる律はトホホと心の中で涙する。本当に、なぜ自分はここまで理不尽に嫌われているのだろう。
「あの……どうぞ」
手を引き、努めて穏やかな表情を作る。だが、眉間に皺を寄せる狩屋椋子は、視線だけで人を殺す術を会得しようとしているかのような気合すら感じられるほど、鋭い目で律を睨んでくるばかりだった。その殺人視線を真っ向から受けた律は、恐怖で一歩後退する。
「ちょっと、どいてくれない、赤羽さん」
とん、と背中がぶつかった音がした。冷ややかなその声音に、律は慌てて身を翻す。
「灰木さん……」
名を呼ぶと、灰木里沙はふんと鼻を鳴らした。同じ陸上部だった少女だ。常に日焼け予防をしていた彼女の肌は、相変わらず白い。律より頭一つ分背の高い彼女は、羽虫でも見るような目つきで律を見ていた。
「突っ立っていられると迷惑なのだけど、分からないのかしら?」
「ごめんなさい」
律は彼女も苦手だ。クラスこそ違うが、部活をやっていれば毎日顔を合わせる。陸上部は一枚岩ではない、いくつか派閥があって、灰木里沙という少女はその内の一つを纏めるリーダーだった。派閥というものがよく分からなかった律は、部内では分け隔てなく誰にでも話しかけたし接することができたが、その態度が気に入らなかったらしい里沙は、何かと律に冷たく当たった。彼女との仲が微妙なのは自分にも原因があると分かっていた律は、慣れたもんだと言わんばかりに笑ってみせる。だが、その態度に、里沙は目を細めた。
「……少し小耳に挟んだのだけど、内部進学を希望しているらしいじゃない」
「え、ああ、そうだよ」
なぜそんなことを言い出すのか分からず、律は目を瞬かせた。すると、里沙は嘲笑する。
「きちんと枠に入れればいいわね、赤羽さん。あなたと高等部でも会いたいものだわ」
それが嫌味であることなど、律だって分かっていた。だが、だから憤慨するという選択肢はない。表情に怒りも不快も滲ませることなく、律は「がんばるよ」とただ笑ってみせた。それが相手の怒気を煽っているということは気付いている。だが、その反応以外にどう対応すればいいのか、律には分からなかった。ぴく、と里沙の目下が動く。やばいまた地雷踏んだかも、と一瞬律が焦りの色を浮かべた時、彼女と里沙の間に人が割って入った。
「これください」
深海を思わせる、静かな声音だった。きっちり結えられた二つの長い三つ編みが揺れる。何食わぬ顔で上級生の間に割り込んだ椋子は、律がほしがっていたフルーツサンドとコロッケパン分の代金を、購買のおばちゃんに渡していた。ちっ、と舌打ちを小さく漏らし、里沙は取り巻きを引き連れて踵を返す。暫く律は呆けていた。というのも、椋子が相変わらず厳しい目つきのまま律を凝視し、尚且つ、唐突にフルーツサンドを突き出してきたからだ。受け取れ、と言わんばかりに手にしたフルーツサンドを律に押しつけてくる椋子に、律は恐る恐る手を出した。ぽとり、とフルーツサンドが手に落ちる。
「あの、これは……」
年が一つ違うとはいえ、比較的小柄な体格の律と椋子は目線がほぼ同じだった。真正面から律を見つめていた椋子は、「あげます」と低い声を出して背を向けてしまう。え、と律が一人あたふたしている間に、彼女はいなくなってしまった。
フルーツサンドは手にしたまま、律は、キッカの分と本来の自分用のパンを数個購入し、首を捻りながら保健室へ向かう。椋子はどういうつもりなのだろう。ますますわけが分からない。
「人間って不思議だなぁ」
率直に一言呟き、律は白塗りの扉を開けた。先生ー、と間延びした声をかけるが、返答はない。窓の開いた保健室は、風鈴がちりりんと鳴るばかりだった。ベッドを囲うカーテンは開けっ放しで、室内に誰かいるようではない。
「学食にでも連れて行ったのかな……」
真木がキッカを連れて学食まで行く姿を想像し、それもおかしな話だよなとは思いつつ、律は保健室をあとにした。早く昼を食べてしまって、キッカと養護教諭を捜そう。そう心に決めて。いらなくなってしまったかもしれないパンが入ったビニール袋を引っ提げ、彼女は小走りに教室まで向かった。
「遅かったね、律ちゃん」
既に、昼休みの一〇分が消費されていた。先に食べ始めていた円香に声をかけられ、律は適当に相槌を打つ。購買混んでて、と言うと、同席していた他の少女たちが頷いた。でも学食は高等部の先輩たちと共用だから居づらいよね、購買のサンドウィッチはおいしい、自動販売機に新しく抹茶ミルクが入った。雑談に花が咲き、笑いながら律は椋子が渡してきたフルーツサンドを齧った。そして、ぼそりと呟く。
「狩屋椋子さんって、どんな子なのかな」
水筒からお茶を出していた円香が、小首を傾げた。「狩屋さん?」
「あー、律ちゃんやたら睨まれてるもんね」
同席していた少女が苦笑いを浮かべる。律が狩屋椋子に嫌われている、というのは、周囲にも知られていることだった。お茶を一口飲み、円香が手を組む。
「妹が同じクラスなんだけどね、クラスでもやっぱり浮いてるみたい。部活動、学業共に成績優秀だけど、協調性がないって。去年の文化祭も合唱コンクールも、クラス活動には参加してくれなかったみたいだよ。授業もよく抜けるし、先生たちも対処に困ってるって」
「弓道部だっけ。全国入賞でしょ、すごいねー」
「でもサボり癖ありで頭いいとか羨ましいっていうか小憎らしい……」
「そんなプチ問題児に、なぜか嫌われてる律ちゃんって……」
口々に色々語るクラスメイトたちに、律は食べていたフルーツサンドを嚥下してから応えた。「実は、さっき購買で、」
――狩屋さんがこれをくれたの。
そう言ったのに、この言葉が最後まで届けられることはなかった。ぴしゃん、というか、どかん、という音を立てて、教室の引き戸がものすごい力で開けられたからだ。室内にいた全ての人間の視線が、黒板横の引き戸に向けられる。そして、誰もが口を失ったかのように沈黙した。さらりとした黒絹のような髪が靡く。
「赤羽律はおるか? ……おらんのか? ――おるではないか!」
それは、あまりに衝撃的な闖入者の言葉だった。誰もがぽかんと口を開けている。円香は、箸で摘んでいた卵焼きをぼとりと落とした。名前を呼ばれた律は、こちらへ向かってやって来るその美しい少女を、ただ硬直して見ているしかなかった。
その優雅な姿、古風な言葉遣い、男子小学生を引き連れて従者にし、あまつさえ「姫様」と呼ばせていることから、彼女はこう呼ばれている。変態美人――或いは、歩く貴族、と。何者にも汚されていない新雪の如く白い肌、長い手足、絵画を思わせる端麗な顔立ち、黒絹を彷彿させる美しい黒髪。そこに華を添えるのは、青い髪飾り。
音戯女学園高等部二年、彼女の本名は、
「白野、先輩……」
誰かがどこかで口にする。掠れた声で名前を呼ぶ。白野林檎――それが、この美しい少女の名前だった。
「ついて来るのじゃ、赤ずきん。ぐずぐずするでない、魔女がどうなってもよいのか」
億しもせず、白野林檎はそう言った。ぎょっと、律は目を見開いて立ち上がる。彼女が発したワードに過剰反応したのは、幸いにも律一人だった。髪を靡かせ、林檎は颯爽と教室を出て行く。そのあとを、律は小走りに追いかけた。廊下をぐんぐん進む林檎は、周囲から奇異とも羨望ともつかぬ目で見られている。その後ろにつく律もまた、好色の目に晒されていた。連れて行かれた場所は、普段ならば施錠されているはずの屋上だった。なんで入れるのか、と律が疑問に思っていると、屋上のドアを開けながら林檎が冷たい声音で告げる。「安心せい。人払いはしてある」
そういうことを聞きたかったわけではない。
「いやあの、意味分かんないんですけど」
あらゆる疑問を込めて、律は冷や汗を垂れ流しながら口を開く。びゅう、と強い風が一瞬吹いた。靡く髪を押さえる林檎と、一定の距離を保って向かい合う律は、緊張と疑問で圧死しそうだった。この人も前世に関係のある人なのだ、ということは訊かずとも理解できる。そうでなければ、自分のことを赤ずきん、などと呼びはしないし、魔女のことにも言及しないはずだ。
ぎゅ、と、緊張を紛らわすために拳を握る。風がやみ、林檎が赤い唇を動かした。
「お主、どういうつもりじゃ『赤ずきん』。魔女を匿うなど勇士にあるまじき姿、言語道断じゃぞ。しかも、よりにもよってまたあの『狼』と手を組むとは……」
怒気を孕んだ声音に、律は眉をひそめる。
「大神さん……?」
おおかみ、とだけ聞いて、すぐに彼女の脳内に浮かぶのは、今朝も一緒にいた男子高校生たる大神刹真のことだった。随分憎々しげに名を呼ぶのだなと疑問を抱いていると、林檎は腕を組んだ。
「赤ずきんよ、お主、今際の記憶は持っているのか?」
「い、いまわ?」
「死の間際という意味じゃど阿呆! で、あるのかないのか、はっきりせい!」
「あ、ありますあります」
怒鳴られ、反射的に頷いた。ある、というよりは、「知らされている」という方が正しいのだが、この際、記憶を知っているというのはあるのと同義だろうと、律はひたすら首肯する。林檎は片眉を動かし、綺麗な声にドスを滲ませた。
「では、一体どういうつもりじゃ、またもあの狼と手を組み、よもや魔女まで庇うとは」
「私、『前世』だからとか、『勇士』だからとか、そういうのにこだわりたくないんです。だってここはメルシェンじゃないし、私は赤ずきんであると同時に赤羽律って人間だから」
「ほぉ。では、自分の死やメルシェンでの聖戦、全て超越して狼と手を組み、魔女を庇っていると。そういうことだな、赤ずきん」
「まあ、そうなります」
実を言えば、前世の記憶を全て思い出しているわけではないので、「全てを超越して」というのは嘘になる。魔女はともかく、なぜそこまで刹真を頑なに拒絶するのか、律にはよく分からなかった。刹真自身の言動を省みても、彼が赤ずきんの眷属であったことは明白だ。ならば、共に戦った仲間なのではないのか。
それを尋ねようと一歩踏み出したところで、林檎が冷たい眼差しに愉悦の色を乗せた。
「ならば容赦する必要はないな、のぅ、赤ずきん!」
夏にも拘らず、急激に冷え込んでいく空気が、律の脳内に警鐘を鳴り響かせた。ぎらつく太陽は真上にあるのに、鳥肌が立っている。その身を抱くように腕を這わせた。
「お姉さん!」
悲痛な子供の叫びが鼓膜を裂く。振り返ると、出入り口のところに青い髪が見えた。
「キッカちゃん!」
慌てて駆け寄ろうとする。だが、その足はすぐに止まることとなった。キッカの首筋にナイフが突きつけられたからだ。今朝方見かけた、林檎の従者たる七人の男子小学生たちがキッカを捕らえていた。手首には氷の手錠と思わしきものがつけられている。自然と溶けそうではなかった。不自然に凍結されたそれは、夏の日差しを受けても水滴一つ浮かべていない。
「行かせぬぞ、赤ずきん」
背後の声が、まるで大気を凍らせたかのようだった。律の行く手を阻むように、巨大な氷柱が現れる。先ほどよりも酷い寒気がした。気温が下がり続けている。もう一度、律は林檎に向き直った。そして、目を見張る。彼女の前にいたのは既に白野林檎ではなかった。
透けるような白い肌は変わらない。だが、服装も、頭髪も、目の色も、全てが違っていた。目が痛いほど輝く銀髪に、紺碧の宝石のような瞳。纏うターコイズブルーのドレスは、綺麗な身体の線をはっきりと描き出していた。黒いレースがあしらったショートグローブを歯で噛むことによってはめ直した彼女は、不敵に微笑む。元々現実離れして綺麗な人間だったが、目の前にいる存在は最早、人間離れした美しさだった。神々しい、といっても過言ではない。ば、と音がし、扇が彼女の口元を隠した。
その変化に呆ける律を目にし、白野林檎――否、メルシェンを救うべく戦った「最初」の勇士、「白雪姫」は、鼻を鳴らして嘲笑った。
「なんじゃお主、よもや幻俗も知らぬのか? 呆れたものじゃ、それでは魔法も使えないのか。……まあ、お主の魔法はそもそも使えないものであったが……」
言いながら、白雪姫は手を空中にかざす。見る見るうちに、透明な刀身を持った氷の剣が作られていく。それを手にした彼女は、「最後」の勇士たる赤ずきんに刃先を向けた。
「あの狼と手を組むというのなら容赦はせん。――覚悟しろ、赤ずきんメロ」
「うそォ!?」
剣を一振りし、白雪姫はこちらへ突っ込んでくる。現実へと引き戻された律は、わたわたと辺りを駆け回った。一気に間合いを詰めてきた白雪姫の一刀に、迷いも惑いも存在しない。空気を裂く音が鼓膜の裏側で何度も繰り返される。氷でできた剣とはいえ、魔法で作られている以上、強度は普通の氷とはわけが違うだろう。
「待たんかっ、これ、待つのじゃ!」
間一髪のところで剣を躱し続ける律に、白雪姫が唸る。
「いやいやいや待ってたら死にますよねこれ」
反撃など考えることもおこがましいと言うように、律はひたすら逃げ続けた。白雪姫が扇を下から上に振り上げる。瞬間、律が逃げようとした先に細い氷の柱が幾重も生えた。足が竦む。そこを、白雪姫は見逃さない。笑う彼女が一閃する。竦んでいた足は力をなくし、かくんと折れるように律は膝をついた。それが功を奏したのか、振り切られた一閃は氷の柱を大根でも切るような軽快さで切り裂いた。切られた上半分がゆっくりと倒れていくのを、律は青ざめた顔で見送る。
「む……少し切れ味が悪いかの」
しみじみした口調で手にしている剣に目を近づける白雪姫から、律は這いつくばりながら離れた。その動きは、黒いセーラー服も相まって、ゴキブリのようだった。
(今ので切れ味悪いってどんだけ……!? つーかなんで殺されかけてるんだっけ、あれれ? なんでこんなことになってるんだっけ!?)
だらだらと汗が湧き出てくる。寒いのに、汗腺が開ききっているようだ。氷柱の壁の向こうにいるキッカは大丈夫だろうか。お昼ご飯を食べる時間は果たしてあるのだろうか。授業をサボることになったらどうしよう、っていうか生きて帰れるのだろうか。
様々な疑問が恐怖と一緒に溢れてくる。ゴキブリ走りをやめて立ち上がった。行く手には氷柱の壁、お姉さん、お姉さん、と叫ぶキッカの声が聞こえる。氷柱に背中をつけ、腹を決めて振り返れば、氷の剣を引きずりながらゆっくり歩んでくる白雪姫の姿が見えた。
彼女は完全に手を抜いている。それは誰が見ても明白で、どう足掻いても律には絶望しかなかった。鋭い音がする。思わず目を瞑った。痛みはない。だが、頬から首にかけてものすごい冷気が肌を痛めつけてくる。恐る恐る目を開けると、白雪姫の顔が間近にあった。そして、顔のすぐ横には、氷柱に深々と刺さった氷の剣が見えた。
「弱い……相変わらず弱すぎる。赤ずきん、お主、何も変わっとらんようじゃの」
剣から手を離し、白雪姫は律を冷めた目で見下ろした。哀愁とも同情ともつかない表情をしている白雪姫に、律は、灰木里沙に見せたようなへらへらした笑みを浮かべる。
「あははは……じゃあ、見逃してくれませんか、なんて」
それを聞くなり、白雪姫は紺碧の目を見開いた。林檎のように赤い唇が忙しなく動く。
「ふざけたことを申すな。妾は、此度の聖戦こそ必ず魔女共を血祭りに上げると決めておるのじゃ! 前世において、魔女どころか不届きな獣一匹仕留められなかった恨み、お主で晴らさせてもらおうぞ」
「それ私関係ないじゃないですかっ」
八つ当たりで殺されてはたまったものではない。首をぶるぶる振る律に、白雪姫は扇を広げ、口元を隠してから告げた。彼女の憤りに呼応したかのように、氷柱が崩れていく。背もたれを失った律は体勢を崩し、尻餅をついた。氷の剣が音を立てて落ちる。白雪姫の紺碧の瞳には、強い憎しみと怒り、そして悲しみの色が滲んでいた。
「関係ない? それはない! お主があの場でむざむざ殺されなければ――」
「白野先輩、私は、」
「白野ではない、妾は白雪姫じゃ!」
「あ、じゃあ白雪姫さん、私は、」
言いかけたところで、唐突に、辺りの氷が消えていった。溶ける、のではなく、最初から存在していなかったかのように、忽然と消えたのだ。は? と目を瞬かせたのは律だけではなかった。氷を操っていた白雪姫自身が、何が起きたか分からないというように辺りを見渡す。そして、見る見るうちに、彼女の銀髪は元の黒へ、紺碧の瞳は茶色に、青いドレスは白いセーラー服へと変わっていく。
「は? なんじゃこれ」
「なんでしょう、これ」
元に戻ってしまった己の姿に、白雪姫――白野林檎は、驚きを隠せないと言わんばかりに自分の身体のあちこちを触り出す。応答しつつも、律はそっと、彼女の視界から消えていく。キッカを捕らえていた小学生たちも、どういうことなのか分からないらしい。互いに顔を見合わせ、「姫様、大丈夫ですか?」と声をかけていた。当のキッカを目にして、律は確信する。キッカが、指先を口に含んでいた。氷の手錠も消えていく。
あの子供は、白雪姫の魔力を食ったのだ。
だが、そのことに目敏く気付いたのは律だけではなかった。
「お主だな、小娘」
どす黒い血を吐き出すような声音が、氷の刃と共にキッカへ向かって飛んだ。やはり魔力が足りなくなっているのか、数十センチほどまで小さくなっている。だが、数はあった。もし命中すれば重傷は必至だ。真っ直ぐキッカへ向かっていく氷の刃を止めようにも間に合わない。
「キッカちゃん!」
叫ぶ。俯いていたキッカが顔を上げた。あぶない、そんな呑気な言葉しか飛び出てこない。だが、幼い子供の顔面に赤い花が咲くことはなかった。キッカの周囲に張り巡らされた何かに阻まれたように、突然、空中で氷の刃が停止したのだ。スカートの裾を翻し、林檎がキッカを睨みつける。
「腐っても魔女か……。お主、名を名乗れ!」
す、と、キッカの赤い目が細くなった。初めて見る子供の険しい顔つきに、律は動けなくなる。相変わらず体感温度は寒いままだった。鳥肌は、消えない。
「キッカ――七人の魔女『暴食』のキッカ」
堂々と名乗ったキッカに、林檎は意地悪い笑みを浮かべた。音を立てて、氷の刃がアスファルトの上に落ちる。それは間もなく、消えていった。
「ほお。暴食ということは『オスナーゼ』の後釜か。欠員を新たな補充するとは、魔女共は人材に困らないらしい。やはり根源から絶つしかないようじゃの。悪く思うな、年若き魔女よ。この『白雪姫』が直々に相対してくれる」
嗜虐的な笑みを浮かべたままの林檎は、幻俗して白雪姫になることこそなかったものの、再び氷の剣を手にした。やはり魔力量が足りないのか、先ほどよりも小ぶりで、短剣といっても差し支えないサイズだった。だが、ぎらつく刃先に込められた殺気は変わらない。
キッカが表情を更に厳しくする。ありとあらゆる空気が緊張に呑み込まれていく。が、その緊張の糸は、さもあっさりと切れてしまった。
「姫様……赤ずきんが優先では」
キッカを捕らえていた小学生の一人が申告すれば、林檎は合掌した。そして、視線を脇の律に向ける。
「そうじゃったの。おい赤ずきん、妾の手を煩わせるな、あとがつかえておろう」
「ええっ。……具体的にどうすれば?」
「死ぬがよい」
「おおっと無茶な要求きたぁー!!」
「きぃきぃと喜ぶな、今すぐ楽にしてやる、首を差し出せ」
フェンスまで後退し、律はまたもや命の危機を迎えることとなった。煌く刃先は今すぐ律の首を撥ねたくてしょうがないとうずうずしているようだった。きっと擬人化したら遠足に浮かれ、無邪気に笑う子供の姿をしているに違いない。
歩み寄ってくる林檎に、律は叫んだ。
「私を殺したらキッカちゃんも殺すんですよね!?」
「何を言う、当たり前じゃ」
「その子に害意はないんです! キッカちゃんも言うなれば七人の魔女の被害者で、」
「赤ずきんよ。妾はお主を見ていて思ったのじゃ……。魔女、魔族、そんな区分をなくして分け隔てなく人を信じ、愛そうとするお主のその姿こそ、真の勇士にふさわしいと。そして学んだのじゃ、こうはなるまいと」
「あれ今のちょっといい話だったのに!」
騒々しく突っ込むと、はあ、と林檎が肩を竦めた。
「お前あれじゃな、顔がうるさい。死ぬがよい、そしてさらばじゃ」
もう顔も見たくないと言わんばかりに酷薄な目つきをした林檎は、ゆっくりと刃を振りかざす。血の気は引いているが、テンションは下がらなかった。寧ろ下がったら負けだとでも言うように、律は悲鳴を上げる。
「いやー! ストップ、ストップ!」
逃げようにも、後ろにはフェンス。影が重なる。もう駄目だ終わったさよなら人生。辞世の句の一つでも用意しておけばよかった。無言で迫る刃に、律はぎゅう、と目を強く瞑った。暗闇の世界に刃の残像が走る。が、やってきた痛みは、刃によるものではなかった。
「いったああああああああああああああ!」
ごり、と鳴った顔面に、律の絶叫が重なる。
「あん?」
その絶叫と、自身の拳に走った鈍痛に、林檎が眉根を寄せる。
確かに握られていたはずの氷の剣は、またもや彼女の手から消えていた。突き刺したと思ったのは刃ではなく、自身の拳。律の顔面を、彼女は思い切り殴っていた。顔を真っ赤にした律は、鼻血を押し隠すように手で鼻を覆う。だが、たらたらと口元に血が伝い、アスファルトに黒い染みを作った。
「何するんですかぁ、酷いですよ!」
くぐもった声で、律は林檎に怒鳴る。刺されるよりマシじゃねえのかよ、と林檎の従者たちは突っ込んだが、聞いていたのはキッカただ一人だった。対する林檎は膝を立て、眉を下げる。しゅん、と、耳が垂れた犬を連想させた。
「すまぬ赤ずきんよ、お主の凡庸な顔を殴ってしまって形がますます酷くなったらと思うと心が痛むばかりじゃ」
「凡庸でごめんなさいね!」
「まあ大丈夫じゃ、どうせ次のページでは鼻血も何もない、最近のモブキャラにも劣る凡庸極まりない顔に戻っておろう……」
「次のページって何!?」
律の叫びを無視し、それにしても、と唸って、林檎はゆらりと立ち上がる。そして、ぱっちりした猫目を鋭く尖らせた。
「またもやお主か、魔女め!」
キッカを勢いよく指差し、林檎が怒鳴る。咥えていた指を離し、キッカは至極真面目な顔つきのまま林檎と相対した。だが、息が乱れているのか、小さな肩が忙しく上下している。顔もほのかに赤らんでおり、どうやら万全の状態ではなくなっているらしかった。
魔力を食べることはあの子供にとって、生きる糧を得ることなのに、なぜ苦しそうなのだろう。林檎の言葉に反して、今も鼻血を垂れ流している律は、様子のおかしいキッカを注視した。
「姫様。『猟師』と『狼』の気配が」
怒気に塗れる林檎を諌めるように、従者の小学生が告げる。ちっ、と舌打ちを零した林檎は、首だけ動かして律に言った。「やめじゃ。今日はこれで勘弁してやろう」
その言葉で、キッカを囲んでいた林檎の従者たちが身を引く。緊張の糸が途切れたのか、キッカは折れるように膝をついた。自らの命が長らえたことに安堵するよりも早く、律は倒れた子供の元へ駆け寄る。鼻血はまだ止まっていなかったが、それどころではなかった。ハンカチで鼻を押さえながら、キッカを抱き上げる。
上気した顔は苦しげで、眉間の皺がそれを如実に象徴していた。キッカちゃん、と震えた声で魔女の名前を呼ぶ律を、林檎はひどく憐憫の念がこもった目で見つめていた。
「本当に変わらず、敵に手を差し伸べてしまうのだな、お主は……」
律自身が知らない、前世の赤ずきんメロの姿。その姿を噛み締めるように呟く林檎の声音には、後悔や懐古といった、様々な感情が入り混じっていた。キッカの乱れた髪を梳きながら、律は首を振った。ようやく血が止まったのか、ハンカチを外し、彼女は続ける。
「敵、じゃないです。この子は――行き場所がないんです。仲間だったはずの魔女たちからも疎まれて、また聖戦なんかに巻き込まれて。私だけでも、仲間でいてあげたいんです。独りは、何よりも辛いですから」
真っ直ぐな瞳を目にし、林檎は律に視線を合わせるよう、しゃがみこんだ。膝の上に肘をつき、彼女は何もかもを見透かすような目をする。そして、ぼやくように口を開いた。
「独りは辛い、か。それは、お主の高慢ではないのか、赤ずきん。果たして、お前のその優しさが本当に『優しさ』なのかどうか、妾には判別できぬわ」
どういうことですか、と律は顔を上げる。だが、その問いに直接、彼女が答えることはなかった。「そうは思わんか」――膝を伸ばし、そう声を張り上げた先は、屋上の給水塔だった。律もつられて、視線をそちらへ投げる。給水タンクの影から現れた人物に、はっと彼女は目を見開いた。ぱんっ、と、渇いた音が空気を裂く。だが、音が鳴るよりも早く、林檎の小さな従者たちが、彼女の前に立ち塞がった。七人が七人、一斉に手をかざす。巨大な鏡が浮かび上がったかと思うと、それに銃弾が吸い込まれた。まるで水底に沈む石のように、ゆっくりと。
肩にかかった髪を背中に流し、林檎は花を鳴らした。
「随分な挨拶ではないか、猟師よ。同じ学園のよしみで何度も妾に下るよう打診していたのに、毎回つれない返事で少し寂しかったのじゃぞ?」
狙われたというのに、感情を乱すことなく、全て予期していたとでもいうような余裕っぷりを見せつける林檎は、腰に手を当てて給水塔の方へ身体を向けた。キッカを庇うように身を捩る律は、給水塔から飛び降りた人影に目を細めた。つばの広い羽根つき帽子にブラウンのコート姿――手にしているのは、猟銃。猟師さん、と、律は小さく呟いた。
「わたしは、『赤ずきん』以外の眷属になる気はない」
ぴたりと歩みを止め、猟師は銃口を律――ではなく、彼女が抱くキッカへと向けた。それを認識するなり、律はキッカを庇うように抱き締め、猟師に背を向ける。
それを見ていた林檎は、面白そうに目を細めた。口元に浮かぶ笑みは、震えながら銃を構える猟師と、必死でキッカを守ろうとする律を見比べる度に濃くなっていく。
「っ……! なんで! なんで魔女なんか庇うんですか、赤ずきんさん!」
その叫びは、あらゆる負の感情を閉じ込めたようなものだった。
律の胸に、正体不明の痛みが走る。キッカを背後に置いたまま振り返り、彼女は我が目を疑った。猟師の身体を包むように、黒い霧がどこからともなく現れたのだ。これも魔法かと、律は身構える。霧は銃口に向かって吸い込まれていき、そこから、黒い弾丸が放れた。真っ直ぐ律に向かって飛んでくるそれを、咄嗟に林檎が反応し、残量少ない魔力で氷の柱を生み出して壁にする。だが、立て続けに連射された黒い弾丸は、氷の壁に阻まれても尚、その威力を失うことなく、前へ前へと進もうとする。
さすがの林檎も表情を一変させた。余裕の仮面を取り去ったように、切羽詰った声で従者たちに声をかける。
「小人たち、鏡はまだ出せぬか!」
「今はまだ無理です、あともう少しで……!」
舌打ちを漏らした林檎は、振り返ることもせず律に向かって叫んだ。
「赤羽律、早く行くのじゃ! その魔女を守りたいのであろう!?」
「白野せ、……白雪姫さん、でも、」
「安心しろ、あとで必ず殺してくれるわ、お主もその魔女も、妾の手でな」
息で笑ってみせる林檎に、律は頷いてからキッカを背負う。血のついたハンカチがひらりと落ちた。だが、いなくなることは許さないと言わんばかりに、黒い弾丸は加速する。氷柱に入ったひびは大きくなる。これはもたないと、林檎は悔しげに歯噛みした。更なる氷の盾を生み出そうとするが、上手く氷が精製できない。あの子供、相当な魔力を食いおったな。そう毒づいた直後、彼女の従者たちが主の足を抉いた。「姫様、失礼します」
「ふぇっ!?」
仰け反った瞬間、氷の壁を貫いた弾丸が林檎の頭上を抜ける。両手をついて、スカートが大胆に捲れることも構わずバク転を決めた林檎は、体勢を立て直すと猟師を一瞥した。黒い霧は愉悦に浸っているかのように、猟師の周りで激しく収縮を繰り返している。そして、それを纏わせる猟師の顔からは、一切の表情が抜け落ちていた。
人形のような猟師が放った銃弾は、照明がショートするような音を立てながら空間に縫い付けられていた。まだ勢いは失われていない。幾つもの弾丸が、早く撃ち抜きたくて仕方がないとでも言うように、小刻みに震えていた。
目を瞑っていた律は、その様子を見るなり、背負っているキッカに視線をやる。苦しそうに息を吐き出すキッカは、赤い目を潤ませながら必死で不可視の守りを実現させているようだった。このうちに移動しようと思っても、どういうわけか足が動かない。アスファルトと一体化してしまったようだった。
「お姉さん、わたしを下ろして、逃げて」
いつもよりずっと低い声でキッカが訴える。どうやら、キッカがこの不可視の守りを生み出している間は、彼女に触れている限り足は動かないらしかった。ぴし、と何かが割れたような音がする。黒い銃弾は、刻一刻と迫りつつあった。突破されるのも時間の問題だ。
「早く、お姉さん……! わたしはいいから、早く」
キッカが急かす。手を離せば、それだけで律は自由の身になれる。でも、そうしたらこの子はどうなる? 守ると決めたのに、あれだけ言ったのに。
弾丸が更に間合いを詰めてくる。
心臓が早鐘のように鳴っていた。あらゆる音が遠くなる。
どうすればいい、どうすれば助けられる。この身を犠牲にしても助けたい。
「お姉さんっ」
キッカが叫んだ。不可視の障壁が破られる。遠のいていた音が、あらゆる時間を超越したかのように、急速な勢いで戻ってきた。心臓が限界まで鼓動を早くする。死ぬ。そう思った。その感覚を、彼女は懐かしいと思った。
昨日よりも、ずっと緊張感に満ちた世界。何もかもがスローモーションで再生されているようだった。だが、その再生を見ているだけでは助からない。次に何をすべきか、分からない。四方から幾つもの銃弾が迫ってきている。
『赤ずきんちゃん、君には人を助ける覚悟があるのかな』
脳裏に響いたその言葉に、律は無意識のうちに頷いていた。
自分にも、魔力があるのなら。
使えるはずだ、魔法が。
弾丸がその身を貫いて、喜びのうちに炸裂しようとしたその間際、律は、木で作られた籠を目にした。赤い布が被せてある籠を。布を引き剥がし、底知れぬ黒い闇がたゆたうその中へ手を突っ込んだ瞬間、時が止まった。
あらゆる音が消えた。自らの拍動すら、分からなくなった。
キッカを背負ったまま、律はその場に座り込む。彼女の目と鼻の先で止まっていた銃弾が、ぼろぼろと粘土が崩れていくように先端からなくなっていった。その様子を目の当たりにした瞬間、どっと脱力感が押し寄せてきて、思わず手をアスファルトにつく。そうでもしないと、身体を支えられなかった。
つー、と、汗が滴る。それに合わせるように、また鼻の穴から出血した。拭う気力も起きず、ぼたぼたと鮮血が垂れ落ちる。キッカも、律に支えられていないせいで、ころりとその身を呆気なく横にした。忙しなく肩が上下し、眉間の皺はより深く濃くなっていく。
猟師の周囲の黒い霧は、蛇のように彼女に巻きついていた。そこだけ世界が違うように、歪んで見える。かつん、と足音を立て、林檎は「お主……」と眉を顰めた。そこで、唐突に強い風が吹き始める。それでも、黒い霧は晴れないどころか反発するように肥大化した。
「人が昼飯食おうって時に……。この落とし前は誰に請求すればいいのかな」
一息で言葉を続けたものの、肩で息をしている彼は、珍しく余裕がなさそうに見えた。フェンスを飛び越えてきた学ラン姿の少年に、林檎は目を細める。私立の名門女子校に男子高校生がいるなど、発覚すればただでは済まぬ事実だったが、学園の関係者に気づかれるようなへまはさすがにしないかと、彼女は面白くなさそうに鼻を鳴らした。いっそ、不審者として捕まればいいのにと思ったところで、白野林檎は忌まわしいその名前を呼ぶ。
「――遅かったな、ストレイン」
対して、名前を呼ばれた茶髪の少年は、不愉快そうに顔を歪めた。
「今は大神刹真だ。それよりどういうつもりだ、赤ずきんちゃんに手を出すなんて」
「ただの挨拶じゃ。また勇士にあるまじき行動を取るようじゃったから、牽制したまで」
「相変わらずいい性格してんな。で、猟師さん、ついに血迷ったのかい?」
林檎の横に立ち、猟師と睨み合うなり、刹真は剣呑とした態度で猟師を糾弾した。歯茎を剥き出しにし、猟師が手にしている猟銃を力任せに握り締める。黒い霧がより激しく彼女の周囲で踊り出した。
「ストレイン……!」
銃を構える猟師に、林檎が警戒態勢に入る。刹真も眼光を鋭くするが、すぐ首を振る。
「待て、一時休戦だ」
言うなり、刹真は大胆にも背を向ける。その姿に、林檎も猟師も、思わず呆けた。二人を無視し、刹真は律の元に歩み寄る。だらだら鼻血を垂らす華のない女子中学生と目が合うなり、彼は深々と溜息をついた。大神さん、と掠れた声で名を呼んでくる律の鼻を、落ちていたハンカチで押さえた。それから、制服のポケットからティッシュを取り出し、血で汚れた手を拭き取る。
「不細工だね赤ずきんちゃん、実に惨めで君らしい」
その暴言に反論する力が湧いてこない。言葉の割に優しく血を拭く刹真に、律は視界が霞むのを押して礼を言おうと、唇を動かす。だが、上手く喋れない。脳味噌が痺れているようだった。ずきりずきりと、心臓が痛む。猟師の叫びが何かを呼び起こさせようとしているようだ。
不意に、猟師の周囲にあった黒い霧が消えた。空に溶けるように、ゆっくりと黒が晴れていく。殺気の塊のようだった猟師の表情に人間らしい変化が見えたところで、林檎は腕を組んだ。
「正気に戻ったか? お主、あと一歩で主を殺していたところじゃぞ」
流れる律の血に気付いてようやく冷静さを取り戻したとでも言うように、猟師は唇を噛んで顔を背けた。帽子のつばを手に取り、顔を隠すようにそれを引っ張る。コートが風ではためいた。
「いい加減、幻俗を解いたらどうじゃ。いつまでも一人好戦的なのは大人気ないぞ猟師よ」
顎を上げ全てを見下すような姿の林檎に、従者の一人がやんわりとした口調で忠告する。
「姫様、それはご自身にも当てはまるものかと」
「ん、そうじゃったか? まあ妾はよいのじゃ、強いからの」
さも当然かのように言ってのける主に、男子小学生たちは揃って口を閉ざした。そのやり取りが頭痛の種だと言わんばかりに、猟師が毒づく。
「ちっ……。馬鹿ばかり」
その毒に敏感な反応を示した変態美人こと白野林檎は、聞き捨てならんな、と仁王立ちした。足が長いせいで相対的にやたら短く見える濃紺のスカートがはためく。従者の少年たちには下着などモロ見えであったが、誰一人として気にしている人間はいなかった。
「聞こえたぞ猟師。眷属如きがこの白雪姫に喧嘩を売るとは、いい度胸ではないか。それとも、お主の大事な大事な主に落とし前をつけてもらおうか?」
意地悪く微笑む「白雪姫」に、再度猟師は舌打ちを零した。帽子が消え、セミロングだった髪は黒く長い二つの三つ編みへと変わっていく。コートはこの学園の中等部特有の黒いセーラー服に変わり、銃は何ものも存在しなかったかのように消えていった。
現れたその姿に、律は言葉なく叫ぶ。
鋭い目が特徴的だった。なんの接点もなかったはずなのに、いつからか嫌われるようになった。いつも睨まれる。理由は分からなかった。だから、苦手だった。
でも。
「そん、な……」
ティッシュを握り締める。血はまだ止まらない。
「狩屋さんが、猟師なんて」
視界が霞む。それでも、見間違えるわけがなかった。靡く二つの三つ編み、鋭い眼光。フルーツサンドの味が、急に舌の上へ蘇る。猟師――もとい、狩屋椋子は、林檎を見ることなく、その横を過ぎた。そして、律の後ろにあるドアを潜って校舎へ戻ろうとする。一瞬だけ、椋子は律を見た。だが、すぐに、何かを振り切るように、恐れるように、目線を逸らしてしまう。
「狩屋さん、」
一生懸命口を動かした。掠れた声は、誰も喋らないその空間では十分な音声ツールだった。だが、彼女は振り返らない。待って。そう大声を出したい。だが出ない。去っていく後ろ姿も、まともに認識できなくなるくらい目の前が霞んでいく。暗くなっていく。
「赤ずきんちゃん」
刹真の声を最後に、律の意識は途絶えた。
どうして忘れていたのだろうかと、たった一つの悔恨を抱えながら、
――仲間の名前を呼んでいた。日本人として育った彼女には馴染みのない名前を、ずっと。しかし、それは奇妙なほど舌触りがよく、そして、愛しいものだった。
どうして忘れていたんだろう。
深い後悔と懺悔の思いばかりが、彼女の前世の記憶を暗がりから浮上させた。