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貴方の知る私は、記録の外におります— 王子の婚約解消以後、私は物語の舞台を降りました  作者: 妙原奇天


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第5話 噂の温度、制度の温度

 王都の朝は、焼きたてのパンと新しい噂の匂いがする。

 公開棚の前で、人々は首を伸ばし、口をすぼめ、目だけが忙しく動いた。名前ではなく役割が並ぶ掲示は、噂の棘を丸める。だが、丸めた棘は棘で、人の掌をちくりとは刺す。


 私は棚の脇に、ひとつ新しい札を差し込んだ。

〈温度計〉

 —今日の“噂の温度”/“制度の温度”を、手をかざして確かめましょう。

 ※噂は熱すぎると火傷、制度は冷えすぎると凍傷。最適温は“ぬるい正気”。


 通りがかった子どもが面白がって手をかざし、笑う。「ぬるい!」

 母親が首を傾げる。「ぬるいのが、いいの?」

「いいのです」と私は応える。「ぬるいは“続く”の親戚。熱いは“燃える”、冷たいは“折れる”」

 母親は何となく納得した顔で頷き、パン屋へ去った。何となくは、制度の良い友だちだ。


 午前の鐘が二度。王都新聞の編集人、ブレムが姿を見せた。墨で爪が黒く、声はよく通る。

「査定官殿、“噂の温度”欄を紙面にも——毎朝の一面に載せたい。目安があるだけで、読者の火力が整う」

「いい提案です。ただし、一次資料のリンクを必ず添えてください」

「リンク?」

「公開棚の参照番号、試験の日時、**“どこへ見に行けば事実があるか”**を、常に隣に置く」

 ブレムは肩を竦め、笑った。「“目撃談”は?」

「目撃談は目撃談と記す。—記者の名前つきで」

「責任の温度は上がるな」

「上げましょう。ぬるい責任は、ぬるま湯の泥と同じ」

 彼は帽子を被り直し、指を二本立てた。「では“温度計+参照番号”、今夜入稿」


 昼前、学究院の庭から楽器の音。公開試験の演習問題が掲示され、受験生が群がっている。ミレーユは最前列、頬に汗。

「第三者監督、怖いけど、ぬるい正気を思い出す」

「思い出して。深呼吸は制度の親戚」

 私は彼女に、もう一枚の紙を渡した。

〈訂正の仕方(噂が外れたら)〉

 一、誰の噂かを書かない

 二、何が違ったかだけ書く

 三、参照番号を置く

 四、謝罪は短く、次に進む段取りは長く

 ミレーユは読んで、握り締める。「——やれそう」

「やれます。やれなくてもやれるように作ってあります」


 正午、記録局の講義室で“噂の温度”の小講義。対象は商人、祈祷会、町の古株。

「噂は非公式の早報。役に立つ時もあるが、保存すると腐る」

 私は黒板に三本線を引く。

「“火(熱すぎ)”“氷(冷えすぎ)”“湯気ちょうど”。湯気で運ぶと、遠くまで届く。方法は三つ。参照番号、期限、役割の言い換え」

 祈祷会のご婦人が手を挙げた。「昨夜の教義書、図書塔でよく借りられてね。『押し売りじゃないから読めた』って」

「それは同意の温度。燃えない信仰は、長持ちします」

 笑いが起きる。袖口の鈴が小さく鳴る。講義の終わりに、私は小冊子を配った。

〈噂温計・携帯版〉

 —財布の隣に入れてください。金と同じくらい日常で使います。


 午後、宰相補佐ギーゼルが再び現れる。今日も適温の微笑。

「“演説会”の段取り、協力願いたい。殿下が取り下げ声明を民の前で読み上げる」

「読み上げは有効です。ですが“民衆の歓呼”は演出不可」

「不可?」

「不可。歓呼は副産物。狙うと熱くなりすぎる。拍手の代わりに参照番号を配ってください」

 ギーゼルは短く笑った。「退屈で助かるやり口だ」

「退屈は平和の親戚」

「最近よく聞く比喩だな」

「流行にしておきます。流行は飽きるが、比喩は残る」


 夕刻、演説会。広場の仮設台には花ではなく、掲示板が立った。

 レオンハルト殿下は用意された原稿に目を落とし、わずかに喉を鳴らす。私は台の脇、裏方の位置から**“温度計”の札**を掲げる。


「私は、私的便宜に依拠した推挙を取り下げます。公共の成果は個人の功績から剥離し、記録管理局の判断に従う。——以上」

 短い。正しさの文体は短い方がいい。

 歓声は起きない。ただ、人々が受け取った紙片——参照番号の小札を見て、相づちの代わりに頷いた。

 私は台を降りて、空を仰ぐ。ぬるい。ちょうどいい。


 その帰り道、背中に誰かの声。

「怒っていないなら、何でここまで」

 振り向くと、若い騎士が立っていた。眉間に疑問。

「怒りは私物。私は今、公共の仕事をしています」

「公共って、誰の?」

「“次の誰か”の」

 彼は言葉を失い、やがて笑った。

「次の誰か、か。顔が見えないから、冷たい」

「顔が見えないから、ぬるいにできます。見えてしまうと、だいたい熱いか凍る」

 彼は手を上げ、降参の合図をして去った。理解はいつも、笑いと一緒にやって来る。


 夜、局に戻ると、机に封筒。王都新聞・夜号の校正刷り。

〈一面:噂の温度計(本日 湯気)

 ・参照番号:R-074(推薦原本)/D-112(寄付公開)/T-03(試験監督)

 ・“目撃談”欄:署名つき〉

 ブレム、仕事が早い。私は赤入れを少し。冗談の割り合いを2行だけ増やす。「噂が熱い方はお茶、制度が冷たい方は毛布を」

 赤字を戻すと、窓を打つ気配。細い指先がガラスを叩いた。

 開ければミレーユ。試験帰りの汗、目は海の色をして落ち着いている。

「合格。一次資料になった」

「おめでとう。結果は公共、喜びは私物です。こちらへ」

 私は台所に連れて行き、湯を火にかける。

「落ちたら、どうするってさっきまで考えてた。今は、どう続けるに変わった」

「やり直しは制度の趣味。続けるは制度の性格」

 彼女は笑い、湯気に顔を預けた。「ぬるいね」

「最適温です」


 更けた廊下。グリム課長がやって来て、湯呑を二つ、さらに一つ。

「夜号、良かったぞ。君の退屈が街にうつってきた」

「褒め言葉として受け取ります」

「褒め言葉だ。——そうだ、“一次資料見学会”をやろう。保管庫B-3を半日だけ一般公開」

「混乱します」

「混乱は、良い授業だ」

 私は少し考え、頷いた。「温度計を掲げます。湯気の時間だけ開く」


 机に戻り、今日の末尾に三行。

“火と氷のあいだに、湯気を置く。”

“参照番号は、噂に取っ手を付ける。”

“正しさは短く、段取りは長く。”

 ペン先が止まり、インクが呼吸する。ぬるい正気は、紙の上でよく育つ。


――――

【小さな勝利】王都新聞に**“噂の温度計+参照番号”常設/殿下の取り下げ公開演説を短文化で安全に実施/訂正テンプレ配布/ミレーユ合格**(一次資料化)

【次話予告】第六話「期限は誰のため」——“仮承認”に満了日を入れ、延長は公開で、を街の標準にする話。

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