第1話 告知と空白
春の夜会は、花より噂が咲く。
王城大広間の天井は星座を真似た金箔で光り、音楽は礼儀正しく旋回し、貴族たちの言葉は自由に螺旋を描く。その中心で、私は扇を閉じた。扇骨の乾いた音は、紙がよく乾いている証拠——記録が好きな人間は、音にも潔癖になる。
「ここに告げる」
白い手袋を外しながら、レオンハルト殿下は見本のような姿勢で言った。
「アーデルハイト・フロイラインとの婚約を、解消する」
ざわめきが、計算済みの音量で波打つ。誰かの息が、演奏と同じ拍で吸われた。完璧はいつも、どこか退屈だ。
私は膝を折るほどでも、深く頭を垂れるほどでもなく、記録の姿勢で答える。
「承りました。——なお、本件の“婚約者”記録は、既に空白です」
殿下のまつ毛が一度だけ瞬く。予定にない動きだ。
「……空白?」
「王立記録管理局の原本において、“婚約者”欄は失効。貴殿の署名は有効期限を過ぎ、更新申請はございません」
ざわめきが、今度は予定外の高さを帯びる。これが“本物の噂”の色だ。
「それは、いつ」
「一ヶ月前。年度締めに合わせ、前提の整理を行いました」
私は楽師に視線で合図し、演奏を続けさせる。音楽は制度、噂は私語。私は制度側だ。
「手短に申し上げます。殿下、前提が多すぎます。推薦状の複製、匿名寄付の紐付け、予備試験の身内監督。——噂に耐える仕様ではありません」
殿下の背後で、桃色のドレスの娘が小さく肩を強張らせた。悪意よりも物語に寄っている顔だ。若さはだいたい物語経由で現実に到着する。
「怒っているか?」
「怒りは私物です。本日は持参していません」
私は礼を取り、退く。夜会は続く。制度も続く。
*
王立記録管理局。石造りの廊下はひんやりして、紙の匂いが勝つ。
局長室をノックすると、グリム課長が顔を上げた。
「婚約破棄、おめでとう」
「課長、祝う案件でしょうか」
「議事録が明るくなる。で、原本の再整理は?」
「完了しました。匿名寄付は公開か返金に差し戻し、推薦状は原本一点主義で再刻印、予備試験は第三者監督を暫定導入します」
「良い。噂への対処は?」
「放置です。噂は制度の外に置くほど弱くなる」
自席に戻ると、緑青色の公印で封された封筒が届いていた。
〈婚姻記録・付記〉
——“婚約者欄は失効。更新申請なし”
自分の名の横がからっぽだ。胸の内側で呼吸が半拍だけ軽くなる。空白は軽い。ただし、軽さは滑る。手すりが要る。
私は白紙を引き寄せ、見出しを書く。
〈手順〉
一、匿名寄付→公開棚か返金。
二、推薦状→原本一点に統合。
三、予備試験→第三者監督。
四、過去の仮承認→期限の設定。
——復讐、という語はどこにも置かない。恨みは書式に合わない。
昼下がり、ベアト商会長が来た。指は分厚く、笑顔は薄い。
「差し戻しの件だがね、公開は困る。匿名の美徳ってやつもある」
「美徳は匿名でも構いません。寄付は公開してください」
「同じことでは?」
「違います。匿名は“誰から”を隠し、公開は“どこへ”を見せます。寄付で重要なのは“どこへ”です」
彼は舌打ちを飲み込んだ。利口だ。
「返金したら?」
「その場合、あなたの名は出ません。公開を選ぶなら、あなたの名は出ます。どちらも制度で、どちらも正しい」
「……公開で」
「ありがとうございます。入口に公開棚を設けます。誰でも見えます」
帰り際、彼は振り返った。
「君、殿下を恨んでないのか」
「制度は恨みを保存しません」
「人は?」
「人はお茶で保存します」
彼は肩で笑って去った。利口な人は、笑いの温度で議論を終える。
夕刻、私は図書塔へ寄った。司書騎士ノアが、古紙の縁を撫でている。
「緑青のインク、足りるか」
「足りる。足りないのは合意だ」
「合意?」
「制度は合意で立つ。勝ち負けで立てない」
私は頷き、石段を降りる。段は思想に似て硬い。踊り場は冗談に似て楽だ。
踊り場で、先ほどの桃色の娘と目が合った。
「……あなたがアーデル様ですね」
「あなたはミレーユ様」
彼女はぎこちなく頭を下げる。
「私、悪くないんです」
「知っています」
「でも、“悪くない”って言うと、悪いみたいで」
「わかります。複雑税がかかる」
「ふくざつぜい?」
「複雑な話に、街は理解コストという税をかけます」
彼女は目を丸くして、少し笑った。
「払います。——どうすればいいですか」
「試験を受け直してください。あなた個人の一次資料が、噂を溶かします」
彼女は頷いた。理屈で頷く若さは、まっすぐで美しい。
夜、机に戻る。自分の履歴のページを開き、肩書を消す。
そして一行、置く。
「私は私を、記録に残さない」
声に出すと少し可笑しく、少し泣けた。
貴方の知る私はもういない。でも、世界は少しだけ正確になる。
扉が軽く叩かれた。
「差し入れの茶だ」
グリム課長が二つの湯呑を乗せて入ってくる。
「恨みは保存しないんだったね」
「はい。お茶で沈殿させて、朝になったら捨てます」
「ミルクは?」
「和解の時に使います」
湯気が立ちのぼり、紙が静かに乾いた。夜会の楽の音は遠く、インクの匂いは近い。
私は新しい用紙を取り、見出しを書き足す。
〈公開手順帳〉
一、寛容の代わりに、期限と公開を置く。
二、困ったら数字にして、もっと困ったら一回お茶を飲む。
三、噂は記録しない。記録は噂を要しない。
ペン先が止まる。呼吸は一定。大広間で始まった“解消”は、ここでようやく整う。
――――
【小さな勝利】原本の失効処理/公開棚の導入合意/一次資料への再受験の約束
【次話予告】第二話「原本一点主義」