1 変身
オスカーは、今小指一本で崖にぶら下がっている気分だ。
ヴィンセント王子が今すぐにでもアーテルへ向かおうとしている……。
せめて半日家に帰りたい。娘たちの成長を愛でて、嫁の世話を焼かせて欲しい。『そう言う所を察しろよ阿呆。』とは言えないので、普段は蔑ろにしがちな正論を持ち出す。
「いや、ほら……聖廟から帰ったら報告が要るだろう」
「そこはクリス秘書官殿にお願いできるだろう? なんといっても国王陛下の秘書官なのだから」
ヴィンセント王子が精霊に微笑むと、クリスは頷いて『承ります』と、言いやがった。オスカーは悪態を飲み込んで、真面目な友人であれば援護してくれる筈と、ジェフリーに目をやったが、彼はいまだ何かを考えているようで、こちらを見ていない。
「あのぅ……一日くらい猶予頂ければ、転移魔法陣作りますけど……」
そこに救いの手を差し出してくれたのは、意外にもブレイク公爵令嬢であった。
「転移魔法陣…… 私の使い魔がいる場所に転移できると言うことだろうか?」
普通に移動するのとは比べようもない。持つべきものは化物クラスの魔力という事か。公爵令嬢は私の視線に一瞬たじろぐ様子を見せたが、こちらの疑問を肯定してくれるように首を縦にこくこくと動かした。
「つまり……一日ヴィンセント殿下に待っていただいた方が、早くヴァレンタイン伯爵令嬢の元まで行けると言う事ですね?」
オスカーは、王子に聞かせるように公爵令嬢に確認した。若干緊張した様子ではあるが、公爵令嬢はそれも転移人数が五名程度であればと制約を設けつつも肯定してくれた。
「そうか、では一日待つ事にするよ。此処で待たせて貰っても良いかな?」
ヴィンセント王子はそう言うと、応接間のソファに座る護衛騎士の隣に座ると、瞑目した。公爵令嬢は、何やらぶつぶつと呟きながら、応接間のテーブルに筆記用具を広げて、魔法陣を描くための情報を書き付けているようだ。これはこれでオスカーも帰れなくなる。転移先の情報(ダンの居場所)はオスカー頼みなのだから、魔法陣完成のためには当然情報が必要なのだ。
オスカーは、溜息を吐いて魔法師団員の待機している広間へと戻り、彼らに『ブレイク公爵家にて待機』の指示を出したのだった。
そうこうしながら魔法陣の完成を待ち、半日を過ぎた頃にオスカーは公爵令嬢の能力に驚かされていた。転移の魔法陣は、術式自体は非常にシンプルな物でも機能する。転移先の情報に不確定要素が増えれば増えるほど、術式に入って来る繰り返し処理が増える事により、起動に必要な魔力量が爆発的に増加するのが一般的だ。
未だ完成していないが、これは、見事な術式だな。
不覚にもオスカーはブレイク公爵令嬢の描く術式を見てそう思った。無駄を省き、極限までシンプルにした処理を無駄なく繋ぐ事で、消費魔力量は少なく抑えられるように設計されているのだ。オスカーが起動すれば、彼の使い魔であるダンを探す仕組みのようだ。他の人間が起動すれば、その人間が使役する使い魔のいる所へ転移させる汎用性のある術式だ。
自分が彼女の年齢であった頃、こんな事は到底出来なかった。唯、羨ましいとは思わない。むしろ、ヴィンセント王子に振り回されて不憫にすら思える。
公爵令嬢は相変わらず、時々口をふにふにと動かしながら考えては書き物を続けている。気がつけば、応接間の机の上には、オスカーが仮眠を取っている間に見慣れぬ本が数冊増えている。公爵令嬢自身は動いた様子がないので、どうやら使い魔に集めさせたようである。そんな中、ジェフリーは相変わらず心ここに在らずと言った風で、王子はそれには触れる事なく忍耐強く魔法陣の完成を待ち続けているようだ。
公爵令嬢の様子から、もう三刻ほど待てば、魔法陣は完成するだろう。結局帰宅できなかった事に若干がっかりしながらも、オスカーは魔法師団員達に自身が留守中の体制を指示しようと応接間をそっと出た。
そして、オスカーが目を離した僅かな間に事件は起きた。
「……コレで(一旦)完成。かな?」
ブレイク公爵令嬢が小さくそう呟くと、王子が物凄い勢いで公爵令嬢の描いた魔法陣を覗き込んで『じゃぁ、早速』と、言いつつオスカーに言わせればかなり無造作に魔法陣を起動すべく魔力を注ぎ込んだ。
「あっ……そっちは試し書きで……」
「ん?」
公爵令嬢とヴィンセント王子の声が重なり、魔法陣は起動された。ヴィンセント王子が起動したのは、アリソンが半日以上かけて完成させた魔法陣ではなかった。それは、鉛白の魔術師の研究日誌にあったメモ書きのような魔法陣を万年筆のインクを入れ直した後に、試し書きがてらに書き起こした……要は単なる試し書きだが、運悪くそれは同じ机の上に、それらしい位置に置かれていた。
もちろん単なる試し書きなので、魔法陣は起動も展開もしないと思われていた。しかし、アリソンの予想に反して魔法陣は起動して王子と公爵令嬢を起動範囲に展開された。
そして…二人の姿は消え、後には彼らの着ていた衣服と、もぞもぞと這い出てくるハムスター二匹が残されたのだった。一方のハムスターが悲痛な叫びをあげようとしたのだが、それは『きゅ』と言う、やや可愛い音を応接間に残るジェフリーに浴びせるのみなのであった。




