第三話:新たな世界
朝起きたくないと思うのは、この後に何も起こらないと理解しているからなのだろう。もし起きた三時間後に恋人と遊びに行くならば、すぐに飛び起きて朝食を摂るのだろう。今の私にはそれがないから、起きるのが少し億劫なんだと言い訳している。
布団を片付けて、顔を洗ってから冷蔵庫の中の賞味期限が切れたヨーグルトの容器を取り出して、ガチャガチャとかき混ぜ液状にしたものを流し込む。プレーンヨーグルトが不味いのは一生変わらないのだろう。
スーツを着て、カバンの中身が揃っているのを確認してからコートを羽織って家をでる。
普段より二本ほど早い便の電車に乗って、会社へ向かう。イヤフォンから流れるジャズのベースがやたら早いのが不快で、歩くペースが自然と早くなってしまい、出勤時間の三十分前には会社の下のコンビニに到着していた。
普段は二分もかからない買い物を少し長くするために、雑誌コーナーに立ち寄って昔少しだけ読んでいた少年誌を開く。
(こち亀終わっちゃったのか......)
私は大して内容も気にせずパラパラとページをめくって、少し黒くなった親指をスーツに擦り付ける。目当ての野菜ジュースを買って、自分の職場であるビルの七階まで向かう。ドアを開ければいつもとは違ってホコリ臭くない暖気が広がっていた。
「あ、おはようございます絢瀬さん!」
私の一つ下の後輩である佐藤が大きすぎる声で挨拶をしてきた。女子だけど正式な野球部員として活動していたせいで声がでかいらしいが、元気すぎるのも困りものだ。
よく見てみれば彼女は雑巾を持って、デスクを全て拭いていた。
「あなた......これ毎日やってるの?」
「下っ端の役目は慣れっこですからね! あ......もしかして迷惑でしたか? それなら、しー、でお願します」
おそらく私の年齢であれをやったら痛々しいだけだろう。口元に人差し指を当てる行為なんて、ここ最近見ていない。
「善行を怒れるほど立派じゃないからね、私も手伝うわよ」
今までの朝に比べたら比較的楽しいものになった。これを機に佐藤とランチを共にし、今晩の酒の約束まで作ってしまうほどの中になれたのは社会人になってから初めて嬉しいと心の底から思うことができた。
*
「ビールの美味しさってものがまだわからないんですよね......苦くて飲みにくいっていうか」
私が勢いで生を二本頼んでしまって、佐藤は今ジョッキとにらめっこをしている。飲み会ではいつもウーロン茶を頼んでいるらしいのだが、私はいつも飲み会を断っているせいでそこらへんを把握してあげれていなかったのが悪い。
だが、私が飲もうかと言っても彼女は「苦手なものを克服したい」と言ってジョッキから手を離さない。
「確かに苦くて苦手って人は多いわよね、まぁそれならこうやって飲んでみてよ」
私は瓶のジンジャーエールを注文して、彼女のジョッキの中身を少しだけ飲んでから割ってあげる。
「ソフトドリンク......まぁ、ジンジャーエールで割れば基本的にスッキリして飲みやすくなるわよ」
「わかりました......では!」
そう言って佐藤はジョッキの中身を勢い良く喉へと流し込んでいく。アルハラとかにならないか心配だが、度数も高くないしソフトドリンクで割ってるから平気だろう。一瞬でもそう思った私が愚か者だった。
「せんぱーい!!私もっと飲めますよーー!!」
佐藤は飲めるタイプの方だった。五杯目を注文しようとしたところで私が止めていなければ止め処なく飲んでいたことだろう。酔っ払った彼女に肩を貸しながら、佐藤の帰路を歩く。
「へへ〜、先輩の肩あったかいです......」
「はいはい。 困った時は手でも肩でも貸すから、もうこんなに飲まないでよ」
幸い、あまり雪が積もっていないから歩きやすくって助かった。佐藤の言っていた帰り道があっていればあと数分で家に着くはず。私は古びた街灯が照らす薄暗い道の奥を見すえる。すると、何やら足元のおぼつかない男が歩いてきた。
「......佐藤。 あの人あんたの知り合い?」
「えっ......? えっと...あれ?」
佐藤は私から離れてその男に向かって歩いていく。
「そらくん......? なんでこんな場所にいるの?」
呼び方から察するに佐藤の恋人だろうか。だが、確かに彼女の疑問のとおりだ、いくら通り道といえどあちらから歩いてくる必要性などない。それほどお互いに愛し合っているなら佐藤が飛びつきに行くはずだ。
彼の歩行速度はこちらよりも速い。立ち止まりましょう、という佐藤の言葉に賛同した私が悪かった。その一瞬が私を絶望の底に叩き落とすには長すぎたからだ。
「うっ......」
私の腹部に強烈な痛みが走る。何が起こったかもわからずに地面に倒れこみ、上から聞こえる佐藤の苦悶の声に反応するのに時間がかかってしまった。
(そいつらは人間の悪意から生まれる)
今思い出したこの言葉が何を意味するのだろうか、それを理解するのには時間がかかってしまい先に佐藤が仏様になってしまう。私は立ち上がって彼の手から佐藤の体を引き剥がす。次の瞬間には私は宙を舞っていた。背中から壁に激突し、地面に倒れこむ。
肺から空気が出てしまい、むせ込んでいる途中に殴られたと思われる脇腹が痛みを訴えだした。口の中には血の匂いと味が溜まっている。喧嘩なんて何年ぶりだろうか、当時はそんなことをカッコいいと思っていた男子もいたが、こんな痛みを伴って何を得るというのだろうか。
「あんたが佐藤に何を思うか知らないけど、好きって思いは最後まで曲げるんじゃないよ......」
私に向かって拳が飛来する。もうだめだ、走馬灯も見えないんじゃ私の人生は所詮その程度のものだったってことなのだったのだろう。諦めの言葉が脳裏をよぎった。
『四然慙愧流 冬の型 颪雪・白魔』
ふわりと撫でるような風が舞い上がった。私に向かっていた拳は止まり、男は雪の上に倒れる。私は目の前に現れた男の姿を見てほんの少しだけ口角が上がったのを感じる。
「シャドウに会いやすいのは体質なんですか?」
「遅いじゃないですか。 怪我しちゃいましたよ」
「わかりましたよ......これから強くなれますから」
*
「で、どうするか決まった?」
前と同じような部屋に私と二神さんが二人っきり、私はスーツのままでここに来て面接のようなものを受けている。まぁ、面接といっても二神さんは私の隣に座っており、リプトンのミルクティーを飲んでいる。
「あれって、なんで私たちを襲ってくるんですか?」
「簡単だよ、人が悪意を向けるので最も多いのは人間だからだよ」
なるほどな、と私は思ってしまった。自殺したい子どもと親の関係といったところだろう。親は子どもをこの世に産むことができて幸せだが、死にたい子どもからしたらなんでこんな世界に産んだんだと腹をたてる。きっとそんなところだろう。
「まぁ、何はともあれ入団おめでとう。 君は既に会社を退社して、ここに居座ることになる。 ようこそ『ルーチェ』に」
二神さんは私の前にそっと右手を差し出してくれる。先ほど聞いた話だと、ルーチェとはこの団体の名前、そして二神さんとの握手は完全な入団を意味するのだとか。
私は一度大きく深呼吸をしてから両手で二神さんの右手を握る。
「これからよろしくお願い致します」
私は二神さんの手をがっちりと握り締めながら頭をさげる。だが、次の瞬間には頭を優しくポンポンと叩かれ、見上げてみれば純粋な笑顔を見せる二神さんがそこにいた。
「まぁ、堅苦しい話は置いておいて行動に移ろうか。 彼女が君の先生になる人だよ」
二神さんが指差す方向を見れば、髪を左右でまとめた小さな女の子が立っていた。背丈は小学四年生ほどだろうか、二神さんは私よりも年上らしいので少し犯罪の匂いがする。
「彼女が君の師匠になる女の子だよ。 姫野遊子さんね」
私がペコリと頭をさげると姫野さんは私の近くまでつかつかと歩いてきて、下から顔をジロジロと見上げる。
「ねぇ終夜、なんでこの子混じってるの?」
「僕に聞かないでよ、本人も自覚がないんだから影響はないんじゃない?」
私の知らないところで知らない話がされている。どう横槍を入れて良いのかわからずにしばらくその話を流し聞いていた。
「あ、長くなっちゃってごめんね。 呼び方は上でも下でもどっちでも良いし、接し方もラフで構わないよ」
はぁ、と私は少し感心めいた声を上げてしまう。随分と人の扱いに慣れている言葉運びだ。彼女は二神さんに何も言わずに、ついておいで、と私の手を引っ張っていく。私はなんとか振り向いて、頑張って、と手を振ってくれる二神さんに小さく手を振り返す。
私は姫野さんに連れられ、病院のように白い廊下を歩いていく。
「さぁ着いたよ。 せいぜい死なないでちょうだいね」
最奥にある、そこそこ大きめの扉を開いた向こうの景色は、ここを室内と忘れ去らせるようなものだった。無駄に三百六十度回転の多いジェットコースターや、雲すら突き破る程の高さのフリフォール。他にもおばけ屋敷やゴーカート、ゲームセンターといったアトラクション満載の......そう、そこはまさしく遊園地だった。
「ここでは基本的にアトラクションで能力を目覚めさせて、私とこいつで体術の向上を図るよ」
そう言った姫野さんの隣には2メートル近い巨体の哺乳類がいた。
「どうも。この遊園地のマスコットキャラクターの破・ン堕と申します」
中国人みたいなイントネーションだったが、文字は見えないのでカッコ良さはわからない。
「素質はありそうだから半年もあれば十分に戦闘ができるようになるだろうからね。 強くなってちょうだいよ?」