出発
話の最中腕の方で妙な心地がした。妙とは何だとも言われても違和感としか形容しがた い。痒みに似ていたが掻く気にはなれない。 それは感覚点に嫌になる程の刺激を与えない でいる。ただ何かが乗っているような心地がしたのであった。それでふと目を上げて腕を確かめると蟻が一匹手の甲で足掻いている。その妙な心地は彼が私の皮膚の上に居たが為であった。
居間の中で珍しい者に出会ったものである。興味本位で注視していると、親が虫かと 尋ねてきた。いや、蟻だと私は答えた。そうした後は黙り込んで蟻を観察し続けた。狭小な甲の上に居座るこの蟻は張り付いて落ちる気配はない。
親が廊下に捨ててくればと呟く。確かにそうするものである。が、私は彼をまだ手放し たくはなかった。昆虫が気になる子猫のように純粋な興味が湧いたのであった。
この蟻には上へ上へと向かう性質があるらしい。決して手の裏にはいかずこちらの見えるところでうろうろしている。又面白いところは、程よい時に掌を返し彼の天地を引っ繰り返すとそれに従って登り始める。そんな天に常に向かっていく様には愛着が湧く。いつしか彼を飼いたいという気持ちも生じていた。
親が下まで行って――私の家は集合住宅の上の階にあった――捨ててくるかと提案してきた。私は受け入れて廊下へと向かった。
外は既に暗がりが目立っていた。街の景色を見やると、通りを歩く者の靴音がその闇の中にひっそりと響いていたし、ぽつんと並ぶ街灯が街路樹の影を落とし込んでいる。時刻は8時を当に過ぎていたと思う。
今夏8月21日は周知の如く散々な天気であった。昼間は晴れていたのに夕暮れからは雨が降りしきる。やんだと思っても、遠く雲の切れ間から雷が轟いている。わざわざそれを今語るのだから無論その日の話であるのだが、その時には雨はやんでいた。雷も収まっていた。熱帯雨林のような激しい湿気が雨の途切れと共に感じられたのである。
蟻もこの湿気にはまいっていたようで上というものを見失ったように腕の周りをぐるぐると彷徨っている。らせん階段の中を行き来しているようであり、ある時は二の腕のあたりにまで侵入する。そんな時は腕をひねって要領よくやってやると甲の辺りまで戻ってき てくれる。それをしないとその内彼を背中の辺りに見失いそうであった。
そうして小さな運動があったのち私に連れられた彼はエレベーターホールにつく。ホールには電灯がある訳で、充分な光に彼は照らされた。彼の触覚や足がよく見えた。私自身の産毛に挟まれているのも。すると、私の脳裏によぎる光景があった。
私はジョジョの最後を思い出した。ジョジョとは「ジョジョの奇妙な冒険」というア クション系統の少年漫画のことである。そのあるクライマックスが頭をよぎったのである。そのシーンはプッチという神父が黒幕であるストーリーにあるが、それを語るには少々前置きとネタバレが必要だ。聞いてやってもいいという方はお聞きいただきたい。
さて、プッチという神父であるが、彼は信者や司祭仲間がいるわけではない。常に孤独に裏で動いてその信念を貫いているような類の狂信者である。彼は確かに神学を学ぶわけだが、それ自体を盲信してはないようである。どちらかというと教義に自身の人生観や体験を付加させたものを盲信している。無論、彼は物語の悪役であり、吐き気を催すような邪悪である。その独りよがりの信仰のために人を物の様に利用していくのである。そして、彼が目指す「天国」へと向かうので あった。
主人公勢がプッチの野望を阻止する為に動くわけだがプッチの運がよいためか主人公勢が劣勢に陥る場面が多い。話は主にその繰り返しで進む。そして、物語が終盤を迎えると、プッチの能力が完成し、世界中の生命体の時のみを加速させるという難解な場面がある。そして、それだけではプッチの暴走は止まらない。彼の言う天国とはその先にあるものであり物語は更なる展開を見せる。
さらにコマを進めると世界が一巡するのである。何を言ってるのか分からないだろうが、あらゆる生命体が死に至る前に世界が終焉を迎えまた世界が一から始まり今に至るのである。その時、一巡前の記憶は繰り越されるし一巡にかかる時間は一瞬に等しい。感覚としてはRPGで二周目を始めるようなものであろう。
しかし、プッチ曰く運命は決定されているのである。その時間の加速ですらも運命に決定されているのである。一巡した為に人は未来に何が起こるか過去を顧みるのと同等にできるわけだが、過去と同じく変えられない。それは必然である。もしその電車に乗ったら事故で死ぬと結果がわかってても決定された運命に因って死ぬのである。
プッチの運命への捉え方はニヒリズムに近いといえば一般的にもわかるであろう。運命は避けられないから受け入れるれば楽になる――それがプッチの運命論である。加速と一巡の相互によってそれが全人類はおろか宇宙中の生命体で可能となる。それがプッチの目指した「天国」であった。
「覚悟こそ幸福」、神父はそう作中で語った。覚悟とは悟るの意味があるが、私個人しては、運命を受け入れるのがイコールとして幸福になるのか疑問である。私としては「行い」が欲しい。そんな私の懸念を推し量るかのように物語にはまた一つの展開が組み込まれている。
一巡後の世界には一巡前に死んだ人間は至らないという現象がある。逆をいえば一巡後の世界に来させたくない生物は一巡前に殺せばいいのである。プッチは自分に反する因縁をことごとく嫌い一巡前に主人公勢を殺していった。しかし、エンポリオ少年という主人 公勢の生き残りがいたのである。彼がプッチと決戦を行うこととなる。
作中の描写によると、少年の死は運命に組み込まれていないがプッチのみが運命に抗えるから殺せるらしい。プッチの死も同様に運命に組み込まれていないため少年はプッチを殺せない。だが、それにも穴はある。少年は仲間から受け継いだ能力を以てして、高濃度の酸素をプッチ自身に吸わせて殺すのであった。
そうして、プッチが瀕死の状態で言ったのが「覚悟こそ幸福」である。それに対し少年が言い放ったのが「正義の道を歩むことこそ運命」であった。
エンポリオが止めを刺した直後、何かを象徴するかのような一巡後の蟻の描写が挟まれている。一巡して宇宙が始まりを迎え、蟻は他の生物と同じく一巡した今にほっぽりだされる。蟻であるから勿論砂の上である。しかし、その様は意味ありげであった。大気の前で震えながらこうべをあげる様はさながら神秘を感じざるを得ない。
腕の中を懸命に行き来する蟻を見てそのシーンが頭をよぎったわけである。
私にはこのシーンがわからなかった。結局これが表わすものは、プッチの運命論の実現か少年の正義の勝利か何回読んでも納得のいく結論は得られなかった。だから、印象が強く残っていたのであろう。
あまりにも出来すぎていると私は思った。私は不意にこの蟻が幻に見えてきたのである。頭は、熱さと湿気で熱中症になるやもと思うくらいに朦朧としていたし、その印象深いシーンが何かの拍子に夢の如く見えてきてもおかしくない――そうまで勘ぐった時に親もこの蟻を見ていたのを思い出した。そうなるとこれは現実である。出来すぎているのである。ならば、彼に運命を感じざるを得なかった。
蟻は私の思いの外で平然としていて自分が馬鹿らしくなった。不思議に眺めていたら無事一階に到着していた。エレベーターに乗り込む住民と目が合った。その時分、私は一つミスを犯してしまう。挨拶をした折蟻から目を離したのである。そして、蟻を見失った。 少なくとも腕にはいないようであったし、おそらく服の中にいるのであろうが、最悪地面に落ちたのかもしれぬ。私は家族を失ったような心地がし、なんだかやるせない寂しさで 心が満ちていた。
とにかくは外に出ることにするがどうも影が怖い。夜闇の視界の遮りが世間の無縁を囁いてくるようであり、私はここでの目的を失っているのに気づかされる。彼の居場所がわからぬ限り帰るべき土の上に帰った保証は得られないのである。だが、自然と私の足は 芝生へとみ向かっていた。真実がわからないならわからないなりに、先が見えないなら見えないなりにも人は頑張ってみるものである。
芝生の上で私は服や手足をばたつかせた。 体中に振動を伝えることで蟻を振るい落とそうと考えているが、ふと蟻をつぶしてしまわぬかと懸念した。足を揺らしていると靴の裏から草を踏んでいるのがわかってくる。そうすると蟻も踏んでもおかしくはないという思いが強くなっていく。
未知が多い中で心配がつのるとあらぬ妄想をするものである。次第に泥にまみれたスニーカーに踏みつぶされるちっぽけな蟻の姿が鮮明に浮かんだ。もし実現したら皮肉たっぷりの物語の結末のようであり、皮肉られるわが身としてはいい気がしない。そこで怖くなってエレベーターホールの灯りの下に引っ込んだのであった。
エレベーターが上がっていく中、私は悩まされていた――虫如きにここまで悩まされる男はそういないであろう、と。虫はほとんど機械に似ていると思う。あの硬い殻や飛び出た触覚など姿からしてそうであるし、行動の形式はまさしく機械的だと聞いた所がある。螳螂は配偶者に身をささげ、蜜蜂は躊躇なく自己を身代りに巣を生かし、蟻だって補欠要因の為に巣の2割は働かないと決まっている。もはやシステムと言っていい。自己というものを喪失している。あの時自分が踏みつぶしていた芝と変わらぬのである。それを人間と同等に扱う自分が嫌になった。と、同時に人間が同等に見られたことに嫌になった。
エレベーターを上がりきるとどこからかほっとした気持ちが芽生える。安心とともに緊張が解けると腕に妙な心地がした。気のせいと思う程に些細だが今となっては無視しがたい例の違和感である。嬉々として見やると彼がまだ腕に居てくれた。先ほどまでは左腕 に居た彼が次は右腕に張り付いている。対岸に移ったなど思いもしないことで見落としていたかもしれぬ。
私は彼の生死を確かめ、再び腕を動かし彼をうろちょろさせると、急いでエレベーターに乗り込んだ。彼を生かすのに使命すら感じていたせいか二度手間など気にならなかった。
蟻を見ていると、ふと神の心地はこんなものかと考えてみた。人間は神の体を這う蟻であると。元居た地に戻りはしない肌の上を彷徨い続けるのかと。行列から外れては孤立するだけだと。上を目指す彼には魅力があると。
確かにキルケゴールは絶望の先で神に自己を委ねることを説いた。かといって絶望のない絶望も説いた。2つがこの蟻を中心に私の頭の中でゆらめくのである。罪の意識がないのなら蟻は神という概念を持たないというのが昨今の通説であるが、運命の極まったところでいう神の意志や奇跡を蟻が影響を受けないとは思い難い。ヤスパースのいう超越者に近い者を言ってるのかもしれぬが彼の罪意識ありきの思想ではなくもう一次元ほど下げた低俗な話をしている。ただ、蟻に価値観があるかないかを言いたいのである。
神が人間を見る、人間が猫を見る、猫が虫を見る――私が今現在この蟻を見ていると、それらは全て同じ行為に思える。到底打ち勝つことのない上位の者に対する影響とはそういうものではないか。ややこしいのは神が非実在で人間の中にのみ存在するものであることである。そういう転回をさせて貰うと蟻にも神はいる――その時はふと思ったのであった。
集団から外れて孤立して天を目指す彼を私は単独者として見ていたのである。蟻だって絶望を経験している。ふと動きが止まることがあるがそれがそうでないかと思う。
程よく隣のエレベーターが先に着いていたらしく次は人と出会うことがなかった。子連れがエレベーターに乗り込むのを扉越しに感じたぐらいである。慌てることもなく蟻を監視できた。判然として一匹の蟻は蠢いている。この愉快な蟻を数十秒後には地に差し出すと考えると何やらもやもやしてくる。彼のあるべき所を感じ名残惜しいとは感じなかったが、しかし、そこに帰れるか心配になったのである。
蟻はマーキングをすることで巣の場所を覚えるとテレビで見た覚えがある。皆のよく知る蟻の行列をインクで遮ると混乱が起こるのはこの為であるらしい。道を失った蟻にはこの小さな団地とて私達が知る世界というものぐらい広い。ほっぽり出されて帰れる訳もな かった。
突如として不可解なことが起こった。蟻が急に私のコントロールを受けず一方向に向かって動き出したのである。一方向といっても蟻のとっての方向ではなく、無論今までの天に向かう行為ではなく、私がどう掌を返しても私にとっての前方へ進むのである。狂っ たように見えたが落ち着く頃には蟻は上方向を無視して指先をうろちょろするだけになった。指先は湿気がふれている。先にはホールのドアがあり、外は闇が広がっている。
私は驚きを胸に秘めつつ慎重に歩を進めた。突飛な行動に落としやしないかと一層よく見据えた。まるで彼は外の世界に向かいたいようである。疎らな雲の波を縫って地表とは離れて進んでいく飛行船を思い起こされる。蟻が親指の曲りを通った時など地球の丸みまで連想された。実に力強い蟻である。彼が帰れるかの心配など吹き飛んでいた。
ここまでの経緯に暫し冥加を感じながら私は別れの場へと向かっていった。気分はやけに粛々していたと覚えている。そこは洞穴を想起させるくらいに暗い。街灯は上手く隠れてしまい頼りにならなかった。闇と判然のつかないくらいに薄れたホールの灯りで蟻を確 かめるしかなく、しゃがみ込むとその光もじめじめとした地に自分もろとも吸い込まれてしまうようである。
途端に黄泉の穴に片手を突っ込んでいる気分になった。蟻を彼岸へ送るのであると戸惑ったが、彼はすんなりと地に落ちる。あっけないので手を確かめるがもう彼はいない。が、彼の存在が暗い芝の中に見えた。その時に何か干渉波のような者を感じた。蟻と繋がったというか彼の意志を感じたのである。何とも説明しがたいが、とにかく見えない蟻が困難な中をしっかり歩みだしたのが分かったのである。そして、闇の中にいる自分が存在するのも対比でより濃くわかった。
2つの蟻のことはとても似ている。エンポリオ少年は幸福の名のもとに外道となるプッチ神父にうちかった。仲間から能力を受け継ぎ野望を打ち砕いた。その未来の先に新世界にかつての仲間はいない。縁のある者は死に絶え真に孤独となった訳であり、そうであり ながらも物語が完と記される前に旅人に言った言葉が「僕の名前はエンポリオです」なのであった。
自分自身の意志というのが大事であると思う。運という神の領域を含め限界に近づくなら意志や継続が物を言うし、自己対自己であれ自己対他者であれ迷いというのは意志と意志の相違に基づくのだろうと思う。それを踏まえて覚悟というのは運命を直視し感じ取り そこで意志を正しく歩ませることである。しかし、繋がりをなくしては霧中の妄想でしかない。闇の中の戯れである。そう、蟻を見てその夜思ったのである。
ホールで耽っているとふと右手に違和感がある。とんだ間抜けな夢想をしたなと呆れて見ると彼ではなく蚊がいた。蚊は私の血を吸うわけでもなく張り付くだけである。蚊はホールで血を吸うために飛び回るのだ。私は彼をさっと空中に反した。




