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番外編 雨夜の脅迫

夫のが亡くなって数日後のこと。


雨音が、屋敷の窓を叩き続けていた。


夜の書斎は、昼間よりもずっと狭く感じられた。

実際には広い。天井は高く、壁には古い肖像画が並び、重厚な机も、燭台も、厚いカーテンも、すべてがこの屋敷の歴史と権威を語っている。


けれど今、私にはそのすべてが檻に見えた。


そして、その檻の扉を閉めたのは、目の前に立つ執事だった。


黒い燕尾服。白い手袋。乱れのない姿勢。

昼間なら、彼はただの使用人だった。私が命じれば跪き、私が呼べば現れ、私が退けと言えば音もなく消える男。


そのはずだった。


「……返しなさい」


私の声は、低く震えていた。


執事の手には、一通の便箋がある。


私の筆跡。

私の秘密。

私の喉元に突きつけられた刃。


――あの人がいなくなれば、私は自由になれるのに。


亡き夫が倒れる前夜、私が囁き、そして誰にも見せるつもりなどなく書いた言葉だった。


執事は、その便箋を静かに折りたたんだ。


「できません」


「命令よ」


「今夜の私は、奥様の命令に従うためだけの執事ではありません」


その言葉に、私は息を呑んだ。


「お前……自分が何を言っているのかわかっているの?」


「はい」


「なら跪きなさい」


私は立ち上がり、冷たく命じた。


「今すぐ。主人に逆らったことを詫びなさい」


いつもなら、それで終わるはずだった。


けれど彼は動かなかった。


雨音だけが、二人の間に落ちる。


「跪きなさいと言っているの」


「嫌です」


短い言葉だった。


けれど、その一言が、私の胸を強く打った。


嫌です。


使用人が。

執事が。

この私に向かって。


「……もう一度言ってみなさい」


「嫌です」


彼は一歩、前へ出た。


私は反射的に後ろへ下がった。背中が椅子の背に触れる。


それ以上、退けなかった。


「今夜、跪くのは奥様です」


空気が凍った。


私は彼を睨んだ。


「ふざけないで」


「ふざけてなどおりません」


「私に跪けと?」


「はい」


「お前、本当に壊れたのね」


「壊れたのは、もっと前です」


執事の声は静かだった。けれど、その静けさの底に、長く抑え込まれてきた熱があった。


「奥様がこの屋敷に嫁いでこられた日から、私はずっと壊れていました」


「気持ち悪いことを言わないで」


「承知しております」


「なら黙りなさい」


「黙りません」


その瞬間、私の中で何かが揺らいだ。


彼は机に便箋を置いた。

だが私が手を伸ばすより早く、彼の白い手袋がその上を押さえる。


「触れてはいけません」


「それは私のものよ」


「今は私が持っています」


「盗人」


「はい」


「卑怯者」


「はい」


「脅迫者」


「その通りです」


何を言っても、彼は揺らがない。


むしろ私の言葉をすべて受け入れたうえで、それでも一歩も退かない。


それが一番、恐ろしかった。


「何が望みなの」


私は睨みながら尋ねた。


「金? 地位? この屋敷の権限?」


「奥様です」


即答だった。


私は声を失った。


彼はまっすぐに私を見ていた。


「奥様が欲しい」


「……下劣ね」


「はい」


「身の程を知りなさい」


「知っております」


「私はお前の主人よ」


「はい」


「お前など、私が明日にも追い出せる」


「その前に、私はこの便箋を親族の方々へ渡します」


私は唇を噛んだ。


執事は、机の上の便箋を指で軽く叩いた。


「奥様は疑われるでしょう。亡き旦那様の死を望んだ女として。たとえ罪に問われなくても、噂は残ります」


「黙れ」


「親族は屋敷の管理に口を出す。使用人たちは奥様を見る目を変える。社交界は、奥様を美しい未亡人ではなく、夫の死を待っていた女として語る」


「黙りなさい!」


私は机を叩いた。


燭台の火が大きく揺れた。


けれど執事は、ただ私を見ていた。


「私は、そのすべてを止められます」


「……脅しておいて、守るつもり?」


「はい」


「矛盾しているわ」


「奥様が私をそばに置いてくださるなら、私は生涯この秘密を守ります」


「置かなければ?」


「奥様は自由を失います」


冷たい宣告だった。


私は彼を睨みつけた。


「最低ね」


「はい」


「愛しているなどと言いながら、私を縛るの」


「愛しているから、縛ります」


その言葉に、胸の奥がざわついた。


執事はさらに一歩近づいた。


机を回り込み、私のすぐ前に立つ。


「奥様は、誰も近づけない」


「当然よ」


「誰にも弱みを見せない」


「見せる必要がないもの」


「誰かに見られそうになると、切り捨てる」


「使用人に語ることではないわ」


「だから私は、切り捨てられる前に奥様の首輪を掴みました」


私は思わず息を呑んだ。


「……誰に向かって言っているの」


「お前に」


その呼び方に、全身が強張った。


昼間の彼なら、決して口にしない言葉。


奥様ではない。


お前。


それだけで、部屋の上下が反転したようだった。


「今、何と呼んだの」


「お前」


執事は低く繰り返した。


「夜だけは、俺にそう呼ばせろ」


「許すと思うの?」


「許可を求めているわけではない」


その声は、もう完全に昼の執事ではなかった。


丁寧な言葉遣いも、従順な姿勢も、主人への礼も、すべて脱ぎ捨てた男がそこにいた。


私は平手を振り上げた。


だが、彼はそれを止めた。


白い手袋に包まれた手が、私の手首を掴む。


強くはない。

痛くもない。

けれど逃げられない。


「離しなさい」


「嫌だ」


「命令よ」


「今夜は命令するのは俺だ」


ぞくりとした。


怒りのはずだった。

屈辱のはずだった。


なのに、その奥に、名づけたくない震えがあった。


「お前は私を脅しているのよ」


「そうだ」


「それで私が従うと思う?」


「従う」


「なぜ言い切れるの」


「お前は自分が築いたものを失えない」


彼は私の手首を離さなかった。


「屋敷も、名も、未亡人としての立場も、冷酷な女主人としての仮面も。お前はそれを捨てられない」


「……知ったようなことを」


「知っている」


「知らないわ」


「知っている」


執事の声が低くなる。


「夜中、誰もいない書斎で泣いていたことも。亡き旦那様の肖像画を裏返したことも。朝には目元を隠して、何事もなかったように使用人たちの前に立つことも」


「黙って」


「誰にも助けを求められないことも」


「黙りなさい」


「自由になったはずなのに、まだ檻の中にいることも」


「黙れ!」


私はもう一度、手を振りほどこうとした。


けれど彼は逃がさなかった。


そのまま、私の顎に指をかけた。


昼間なら、私が彼にする仕草だった。


従属を確かめるために。

立場を思い知らせるために。

顔を上げさせ、視線を奪うために。


今、それをされているのは私だった。


「やめなさい」


「俺を見ろ」


「嫌よ」


「見ろ」


強い声だった。


私は睨み上げた。


彼の顔が近い。


雨を映したような暗い瞳。

その奥には、執着と、焦がれるような想いがあった。


「五年だ」


彼が言った。


「五年、俺はお前だけを見ていた」


「私は見ていないわ」


「知っている」


「お前など、ただの執事よ」


「それも知っている」


「なら――」


「だから今夜、変える」


彼の親指が、私の顎をわずかに上げた。


私は息を詰めた。


「言え」


「何を」


「俺を追い出さないと」


「……馬鹿なことを」


「言え」


「言わないわ」


彼は私の手首を放した。


だが安心する間もなく、机の上の便箋を取った。


「なら、明日の朝にはこの手紙が親族のもとへ届く」


「卑怯者」


「そうだ」


「そんなやり方でそばに置かれて、満足なの」


「満足などしない」


彼は苦しげに目を細めた。


「だが、いないよりはいい」


その言葉は、脅迫者のものにしては弱すぎた。


私は一瞬、言葉を失った。


執事は低く続けた。


「お前に嫌われてもいい。憎まれてもいい。軽蔑されてもいい。だが、屋敷から消されるのだけは嫌だ」


「……愚かね」


「ああ」


「惨めだわ」


「そうだ」


「そんなに私が欲しいの」


彼は答えなかった。


代わりに、私の顎を持ち上げたまま、顔を近づけた。


「欲しい」


囁きに近い声だった。


「ずっと」


胸が跳ねた。


私は彼の胸を押した。


「近いわ」


「逃げるな」


「命令しないで」


「なら、俺から目を逸らすな」


「お前は使用人よ」


「今夜だけは違う」


「違わない」


「違う」


彼の声が、さらに低くなる。


「言え。俺をそばに置くと」


「……」


「言え」


「……置くわ」


やっと絞り出した言葉は、自分の声ではないようだった。


屈辱に喉が焼ける。


彼の瞳がかすかに揺れた。


「もう一度」


「調子に乗らないで」


「もう一度だ」


私は睨んだ。


だが、彼は便箋を持つ手をわずかに上げる。


私は歯を食いしばった。


「お前を……屋敷に置くわ」


「誰として」


「執事としてよ」


「違う」


「何が違うの」


「ただの執事ではない」


私は息を荒くした。


「何を言わせたいの」


彼は私を見下ろしたまま、静かに告げた。


「お前の秘密を握る男として」


頬が熱くなった。


怒りで。

屈辱で。

それ以外の何かで。


「最低」


「言え」


「最低よ」


「それでも言え」


私は彼を睨みながら、ゆっくりと言った。


「お前を、私の秘密を握る男として、そばに置く」


その瞬間、彼の表情が変わった。


勝ち誇るでもなく、笑うでもなく。


ただ、長い飢えがわずかに満たされたような顔をした。


「いい子だ」


「っ……!」


私は反射的に彼の胸を押した。


「その言い方をやめなさい!」


「嫌だ」


「私はお前の主人よ!」


「昼はな」


「夜もよ!」


「夜は違う」


彼は私の顎をさらに上げた。


「夜のお前は、俺の秘密を恐れている」


「……」


「そして、俺を見ている」


「見ていない」


「嘘だ」


彼の顔が近づく。


私は逃げようとした。けれど椅子と机に挟まれ、退く場所がなかった。


「触れたら許さない」


「もう許されていない」


「なら、これ以上罪を重ねる気?」


「お前が止めろと言えば止める」


その言葉に、私は固まった。


彼は私を見つめていた。


強引で、傲慢で、卑劣で。

それでも、その最後の線だけは、私に委ねていた。


「言え」


彼が低く囁く。


「本当に嫌なら、止めろと言え」


私は言えるはずだった。


止めなさい。

離れなさい。

下がりなさい。


いつものように命じればよかった。


けれど声が出なかった。


執事の瞳が揺れる。


「……言わないのか」


「勘違いしないで」


私の声は震えていた。


「許したわけじゃない」


「わかっている」


「お前を受け入れたわけでもない」


「それでもいい」


「私はお前を憎むわ」


「構わない」


「軽蔑する」


「受ける」


「いつか必ず、跪かせてやる」


その言葉に、彼はわずかに笑った。


「その時まで、そばにいる」


次の瞬間、彼は私に口づけた。


乱暴ではなかった。


けれど、遠慮もなかった。


長く押し殺してきた想いを、もう隠す気がない口づけだった。


私は目を見開いたまま、彼の胸を押していた。


離れろと命じるべきだった。

突き飛ばすべきだった。

頬を打つべきだった。


なのに、できなかった。


雨音が遠くなる。

燭台の火が揺れる。

屋敷のすべてが、この一瞬だけ息を潜めているようだった。


やがて彼が唇を離した。


近すぎる距離で、彼は私を見下ろす。


「……今のは、忘れなさい」


私はかすれた声で言った。


彼は静かに首を振った。


「忘れない」


「命令よ」


「従わない」


「お前……」


「今夜の命令は、俺がする」


彼は私の顎から手を離さず、低く告げた。


「明日の朝、俺はいつも通り奥様と呼ぶ。頭を下げ、命令に従い、完璧な執事として振る舞う」


「当然よ」


「だが夜になったら」


彼の指が、私の顎をそっと撫でた。


「お前は俺から逃げられない」


私は彼を睨み上げた。


「脅しでしか繋ぎ止められない男が、偉そうに」


「そうだな」


「哀れだわ」


「ああ」


「でも、その紙がなくなれば終わりよ」


「なら、奪ってみろ」


彼は便箋を内ポケットにしまった。


「俺から」


その挑発に、私は唇を噛んだ。


彼は一歩下がり、再び執事の顔に戻った。


背筋を伸ばし、深く一礼する。


「失礼いたします、奥様」


呼び方は戻っていた。


けれど、もう何も戻っていなかった。


「待ちなさい」


私が呼び止めると、彼は扉の前で振り返った。


「何でございましょう」


「明日の朝、いつも通り私の前で跪きなさい」


「かしこまりました」


「私が命じれば、床に額をつけるのよ」


「はい、奥様」


「そして今夜のことは、誰にも言わない」


「もちろんでございます」


「その紙も、誰にも見せない」


「奥様が私を捨てない限り」


私は睨んだ。


彼は静かに微笑んだ。


「おやすみなさいませ、奥様」


扉が閉まった。


私は書斎に一人残された。


雨はまだ降っている。


唇に、彼の熱が残っていた。


私は震える指でそれに触れ、すぐに手を下ろした。


「……許さない」


誰もいない部屋で、私は呟いた。


「絶対に、許さないわ」


けれどその声は、怒りだけではなかった。


屈辱。

恐怖。

そして、認めたくないほど強い動揺。


あの執事は、私の弱みを握った。


私を従わせた。


私に、自分の存在を刻みつけた。


昼の屋敷では、私は女主人でいられる。

彼は忠実な執事でいられる。


けれど夜が来れば。


あの便箋一枚で、私たちの立場は静かに反転する。


私は椅子に深く沈み込み、雨の窓を見た。


唇の熱は、まだ消えなかった。

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