昼は奥様、夜はご主人様
大豪邸の朝は、いつも静かだった。
静かすぎるほどだった。
磨き上げられた大理石の床は、窓から差し込む淡い光を冷たく反射している。廊下の壁には古い肖像画が並び、天井から下がるシャンデリアは、昼であってもなお、その存在を誇るように硝子の粒をきらめかせていた。
私は、その屋敷の女主人だった。
三十五歳。未亡人。
けれど、その肩書きが私に自由を与えたことは、一度もなかった。
「遅いわ」
私の声が、長い廊下に落ちた。
目の前で膝をついていた若い執事が、深く頭を下げる。
「申し訳ございません、奥様」
二十九歳。
この屋敷の執事としては若い。若すぎるほどだった。けれど、その所作に乱れはない。背筋はまっすぐで、顔を伏せていても、ただ従っているだけではない何かが、その全身に張りついている。
私はそれが昔から気に入らなかった。
いいえ。
気になっていた。
「廊下の花瓶を全部替えなさい。客間の銀器も磨き直して。庭師が落とした枝が東の回廊に残っていたわ。あれも片づけておいて」
「かしこまりました」
「それから、使用人用の階段。埃が溜まっていた」
「すぐに確認いたします」
「確認じゃないわ。掃除しなさい」
「承知いたしました、奥様」
返事はいつも同じだった。
逆らわない。
不満を口にしない。
目の前の男は、どれほど無茶な命令を与えても、淡々とこなす。下働きに回しても、執事としての仕事を増やしても、眉ひとつ動かさない。
それが、私を苛立たせた。
私はゆっくりと彼の前に歩み寄った。
「顔を上げなさい」
「はい」
執事が静かに顔を上げる。
その顔は整っていた。若いころからこの屋敷にいるにしては、使用人特有のくたびれた影がない。むしろ、厳しく磨かれた刃のような冷たさがある。
私は指先を伸ばし、彼の顎に触れた。
周囲にいた数人のメイドたちが、息を呑む気配がした。
私は気にせず、その顎を軽く持ち上げる。
「お前の立場は?」
彼は私を見た。
低く、迷いのない声で答える。
「私は奥様の忠実なしもべです」
私は少しだけ目を細めた。
「そう。なら、言われたことは全部やりなさい」
「もちろんでございます」
「今すぐ」
「はい、奥様」
彼が立ち上がろうとしたとき、年若いメイドが一歩前に出た。
「奥様、あの……銀器でしたら私が――」
私はそのメイドへ視線を向けた。
たったそれだけで、メイドは声を失った。
「誰が口を挟んでいいと言ったの?」
「も、申し訳ございません」
「お前は、自分の仕事を完璧に終わらせているの?」
「いえ、その……」
「なら黙っていなさい。私はこの執事に命じたの。お前にではないわ」
メイドは顔を青くし、深く頭を下げる。
「申し訳ございません、奥様」
私は冷たく言った。
「下がりなさい。次に余計なことを言えば、今日中に屋敷から出ていってもらうわ」
「はい……!」
メイドが逃げるように下がる。
執事はその様子を横目で見ただけだった。助けを求めることも、庇うこともない。ただ私の前に立ち、静かに頭を下げる。
「奥様。すべて、本日中に終わらせます」
「当然よ」
私は彼を見下ろした。
「お前は、私の執事でしょう」
「はい」
少し間を置いて、彼は言った。
「奥様のものです」
その言葉に、胸の奥が一瞬だけ揺れた。
けれど私は、表情を変えなかった。
「なら、働きなさい」
「かしこまりました」
執事は踵を返し、廊下の奥へ歩いていく。
その背中を見ながら、私はふと、五年前のことを思い出していた。
私がこの屋敷へ嫁いできた日のこと。
一般家庭で育った私は、この屋敷の空気になじめなかった。広すぎる部屋。多すぎる使用人。歳の離れた夫。夫は私より二十歳近く上で、私に優しくはあったが、それは愛情とは違った。
飾り物を丁寧に扱うような優しさ。
壊れないように箱へ入れておくような優しさ。
私は金に困らなかった。
けれど、自由はなかった。
どこへ行くにも誰かがつく。何を買うにも誰かが記録する。誰と会うにも夫の了承がいる。食事も、服も、時間の使い方も、全部この屋敷の規律に飲み込まれていった。
私は次第に冷たくなった。
使用人に八つ当たりをした。
自分が息苦しい分だけ、彼らにも息苦しさを与えた。
そんな中で、まだ下働きだった彼が目についた。
年若い男だった。
掃除も、荷運びも、庭の手入れも、夜遅くの雑用も、何を押しつけても愚痴を言わなかった。重い箱を運ばせても、深夜に呼びつけても、ただ静かに頭を下げた。
私は最初、それが腹立たしかった。
次に、試したくなった。
その次に、気になった。
そして今。
彼は、私の執事になっている。
私の命令を聞く男。
昼の屋敷が終わるころ、長い廊下に夕陽が差し込んだ。
私は食堂でひとり、紅茶を飲んでいた。
執事はまだ働いていた。銀器を磨き、客間を整え、使用人階段を掃除し、私が思いつきで命じた余分な仕事まで片づけている。
窓の外がすっかり暗くなったころ、彼はようやく私の前に戻ってきた。
「奥様。ご命令の件、すべて完了いたしました」
「そう」
私はカップを置いた。
「遅かったわね」
「申し訳ございません」
「言い訳は?」
「ございません」
私は椅子に座ったまま彼を見上げた。
「疲れた?」
「いいえ」
「嘘ね」
「奥様の前で、疲れたとは申しません」
「可愛げがない男」
「恐れ入ります」
私は小さく笑った。
「下がりなさい」
「かしこまりました」
彼は深く頭を下げた。
その姿は、昼の終わりそのものだった。
従順な執事。
冷酷な女主人。
誰が見ても、そう見える。
けれど夜になると、この屋敷には別の規律が生まれる。
誰にも知られてはならない規律。
私の部屋へ続く廊下は、夜だけ不自然なほど静かになる。
使用人たちは近づかない。執事長ですら、ある時刻を過ぎるとその廊下へ足を踏み入れない。それが誰の命令なのか、屋敷の者たちは知らないふりをしていた。
私は寝室の前で待っていた。
昼間のドレスから、夜用の濃紺のローブに着替えている。髪もほどき、首元の宝石も外していた。昼の私を飾っていたものをひとつずつ剥がすと、残るのはただの私だった。
三十五歳の女。
自由になりたかった女。
そして、その自由の形を間違えたまま、彼の前に膝をつくことを心地よいと思ってしまった女。
控えめなノックが三度響いた。
私はすぐに扉を開けた。
そこに、執事が立っていた。
昼と同じ黒い服。白い手袋。完璧に整えられた姿。
けれど目が違う。
昼間、私に向けていた従順な目ではない。
私を逃がさない目だった。
私は深く頭を下げた。
「お待ちしておりました、ご主人様」
彼は返事をしなかった。
ただ私の横を通り過ぎ、部屋の奥へ入る。
豪華な椅子に腰を下ろし、ゆっくりと足を組んだ。
私は扉を閉め、その前に立ったまま、一度息を吸った。
「こちらへ来い」
低い声だった。
昼間の丁寧な声ではない。
夜の声。
私の胸の奥を、静かに縛る声。
「はい」
私は彼の前まで歩き、膝をついた。
床は冷たかった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
彼は肘掛けに片腕を預け、私を見下ろしている。
「昼間はずいぶん偉そうだったな」
「申し訳ございません」
「メイドを叱った」
「はい」
「俺をこき使った」
「はい」
「楽しかったか」
私は少しだけ顔を上げた。
「……ご主人様がお許しくださるなら」
彼の目が細くなる。
「答えになっていない」
「昼の私は、女主人ですから」
「夜は?」
私は喉の奥が震えるのを感じながら、静かに答えた。
「ご主人様の忠実なしもべです」
彼が微笑んだ。
冷たい微笑みだった。
昼間、私が彼に向けていたものと、よく似た微笑み。
「もう一度言え」
「私は、ご主人様の忠実なしもべです」
彼の指が伸び、私の顎に触れた。
昼間の私と同じように。
けれど、力は彼のほうがずっと強かった。逃げられないように、しかし傷つけないぎりぎりで、私の顔を持ち上げる。
「いい子だ」
その一言に、私はまぶたを伏せた。
彼は私を見つめながら、しばらく黙っていた。
その沈黙の中で、彼の胸の内だけが、静かに過去へ沈んでいく。
------執事の胸の内
俺は中学を卒業してすぐ、この屋敷に入った。
最初は下働きだった。朝から晩まで掃除をし、重い荷を運び、上の者に怒鳴られ、食堂の隅で冷めた食事を掻き込むだけの日々。
その屋敷に、五年前、彼女が嫁いできた。
あの日のことを、俺は忘れたことがない。
豪奢な車から降りた彼女は、宝石よりも美しかった。けれど、幸福そうではなかった。隣にいた年上の夫に微笑みかけながら、その目はどこか遠くを見ていた。
一目惚れだった。
身分も、年齢も、立場も、すべて違う。
それでも目を奪われた。
亡くなった夫が彼女を愛していないことは、すぐにわかった。大切にしてはいる。金も与える。何不自由ない暮らしも与える。だが、彼女自身を見てはいない。
彼女もまた、夫を愛していなかった。
それを決定的に知ったのは、夫が死ぬ前夜だった。
「あの人がいなくなれば、私は自由になれるのに」
彼女はそう漏らした。
ひとりきりのつもりだったのだろう。
だが、廊下の陰にいた若い下働きだった俺だけが、その言葉を聞いていた。
そして翌日、夫は急死した。
突然だった。
屋敷は騒然となった。
その中で俺だけは、彼女の言葉を握りしめていた。
あの夜からすべてが始まった。
卑怯だった。
俺はそれを知っていた。
彼女の弱みを握り、脅し、夜だけ自分を「ご主人様」と呼ばせた。逃げ場を奪い、立場を逆転させた。キスをした。ベッドを共にする夜もあった。
けれど、俺にはわからなかった。
彼女が本当に自分をどう思っているのか。
嫌悪しているのか。
諦めているのか。
それとも、ほんの少しでも、同じ熱を抱いているのか。
たとえ卑怯だとしても、離れたくなかった。
彼女のそばにいたかった。
そのためなら、自分はどこまでも汚くなれると思った。
-----
「酒を注げ」
彼の声で、私は現実に戻った。
「はい、ご主人様」
私は立ち上がり、サイドテーブルの上の酒瓶を手に取った。琥珀色の液体をグラスへ注ぐ。手元がわずかに震えて、硝子が小さく鳴った。
彼はそれを見逃さなかった。
「震えている」
「……申し訳ございません」
「怖いか」
私はグラスを差し出した。
「わかりません」
「わからない?」
「怖いのに、嫌ではないのです」
彼はグラスを受け取る手を止めた。
「お前は、いつもそういう言い方をする」
「ご主人様が、そうさせるのです」
「俺のせいか」
「はい」
彼の口元がかすかに緩む。
「昼間なら、そんなことを言えば叱っていたな」
「昼間なら、私はあなたを叱ります」
「今は?」
私は彼の足元に膝をついたまま、顔を上げた。
「今は、ご主人様に叱られる側です」
彼はグラスを置いた。
そして、不意に私の腕を取った。
「来い」
私は抵抗しなかった。
彼に引き寄せられ、膝立ちの姿勢のまま彼の近くへ寄る。彼の指が再び私の顎を持ち上げた。
目が合う。
夜だけの距離。
昼なら許されない距離。
「奥様」
彼がわざとそう呼んだ。
私は小さく息を呑む。
「夜にその呼び方は……」
「嫌か」
「……いいえ」
「なら答えろ。お前は誰のものだ」
胸の奥が熱くなった。
私はゆっくりと答える。
「ご主人様のものです」
彼は満足したように微笑み、私を引き寄せた。
唇が重なる。
最初は冷たく、命令のようなキスだった。
けれどすぐに、その奥に押し殺した焦りと飢えが滲む。彼の手が私の背に回り、私は彼の胸元を掴んだ。
拒みきれない。
拒みたいわけでもない。
私はその矛盾を抱えたまま、目を閉じた。
-----
翌日。
昼の屋敷は、何事もなかったかのように動き出した。
私は再び冷酷な女主人になっていた。
「お前、昨日磨いた銀器、まだ曇っているわ」
「申し訳ございません、奥様」
「やり直し」
「かしこまりました」
「それから、温室の鉢を移動して。南側の光が強すぎる」
「はい」
「客用寝室のカーテンも替えなさい。あの色、気に入らない」
「承知いたしました」
執事は昼の顔で頭を下げる。
昨夜、私の顎を持ち上げた手が、今は白い手袋の中で礼儀正しく揃えられている。
私はそれを見て、わざと冷たく言った。
「聞いているの?」
「はい、奥様」
「返事だけは立派ね」
「ご期待に添えるよう努めます」
「期待していないわ。命令しているだけ」
「承知しております」
彼は従う。
私は命じる。
昼の私たちは、それでいい。
昼ごろ、私は長い廊下を歩いていた。
窓から差し込む光が床に斜めの線を描いている。屋敷の奥へ向かう途中、若い男性使用人が花瓶を抱えて立ち止まった。
「奥様」
「何?」
「先ほどの花ですが、こちらの白いものより、淡い紫のほうが奥様のお召し物に合うかと思いまして」
「……お前、花のことがわかるの?」
「実家が花屋でしたので、少しだけ」
私は思わず足を止めた。
使用人は慌てて頭を下げる。
「差し出がましいことを申しました」
「いいえ」
私は花瓶の花を見た。
確かに、淡い紫は美しかった。白より少しだけやわらかく、廊下の冷たさを和らげている。
「悪くないわ」
「ありがとうございます」
使用人が安心したように笑う。
その表情があまりに素直で、私はつい小さく笑ってしまった。
「お前、意外と見る目があるのね」
「奥様にそう言っていただけるとは光栄です」
「調子に乗らないことね」
「はい」
その瞬間。
背後から声がした。
「持ち場に戻りなさい」
執事だった。
低く、冷えた声。
男性使用人はすぐに姿勢を正す。
「申し訳ございません」
「奥様のお時間を奪うほど暇ではないはずだ」
「はい。ただちに」
使用人は花瓶を抱え、足早に去っていった。
廊下に、私と執事だけが残る。
私は横目で彼を見た。
「何か?」
彼は昼の顔で頭を下げた。
「いいえ、奥様」
「今の言い方、少し怖かったわ」
「部下への指導です」
「そう」
私はわざと微笑んだ。
「妬いたの?」
彼は一瞬だけ、まぶたを伏せた。
「奥様」
「冗談よ」
「昼間にそのような冗談は、お控えください」
その声に、私はわずかに胸が鳴った。
「命令?」
「お願いでございます」
「執事のくせに?」
「はい。奥様の執事ですので」
私はそれ以上言わず、廊下を歩き出した。
背中に刺さる視線が、いつまでも消えなかった。
その夜。
彼はいつもより早く私の部屋へ来た。
ノックの音だけで、怒っているとわかった。
私は扉を開け、頭を下げる。
「お待ちしておりました、ご主人様」
彼は無言で部屋へ入った。
椅子には座らない。
扉が閉まるなり、私の腕を掴んだ。
「昼間の男は何だ」
声が低かった。
私は視線を伏せる。
「花の話をしていただけです」
「笑っていた」
「……はい」
「楽しかったか」
「いいえ」
「嘘をつくな」
私は黙った。
彼の手に力が入る。
痛いほどではない。けれど、逃がさない力だった。
「俺の前では、あんな顔をしない」
「ご主人様」
「昼間、俺をこき使い、夜は俺に跪く。そういう女が、他の男には自然に笑うのか」
「違います」
「何が違う」
「私は……ただ、少し驚いただけです。花の話をする使用人が珍しくて」
「それだけか」
「はい」
「俺に隠し事は?」
「ありません」
彼は私の顎を掴んだ。
「では、なぜ目を逸らす」
私は息を詰めた。
「怒っていらっしゃるから」
「怒っている」
「申し訳ございません」
「謝れば済むと思っているのか」
「思っていません」
「なら、どうする」
私は彼を見上げた。
夜の私は、昼のように言い返せない。
けれど、その中に嫌悪だけがあるわけではなかった。
「ご主人様が望むように、叱ってください」
彼の目が揺れた。
怒りだけではない。
独占欲。
不安。
私を失うかもしれないという、彼らしくない怯え。
「お前は、俺を何だと思っている」
「ご主人様です」
「違う」
彼は吐き捨てるように言った。
「俺は、お前を脅した男だ」
私は黙る。
「お前の弱みにつけ込んだ。自由になりたかったお前を、別の鎖で縛った。わかっている。俺は卑怯だ」
「……」
「それでも、他の男に笑うお前を見ると、気が狂いそうになる」
胸が痛んだ。
私は彼の手にそっと触れた。
「ご主人様」
「慰めるな」
「慰めではありません」
「なら何だ」
私は小さく息を吸った。
「私は、逃げていません」
彼の指が止まる。
「ここにいます」
「それは、俺が脅しているからだ」
「それだけなら、もっとあなたを憎んでいます」
彼は何も言わなかった。
私はそれ以上、胸の内を明かさなかった。
明かしてしまえば、何かが崩れる気がした。
彼はしばらく私を見つめてから、低く言った。
「今夜は、俺のそばから離れるな」
「はい、ご主人様」
「返事だけでは足りない」
「では、どうすれば」
彼は私を引き寄せた。
「俺だけを見ていろ」
私は逆らわず、彼の胸元に手を置いた。
「はい」
その夜のキスは、怒りの名残を含んでいた。
けれど、どこか縋るようでもあった。
-----
数日後。
私は執事長を呼びつけた。
年配の執事長は、この屋敷に長く仕える男だった。私の亡夫の時代から屋敷を取り仕切り、使用人たちにも重んじられている。
その日、彼は別の雑用で屋敷の端へ回されていた。
私が命じたことだった。
「執事長」
「はい、奥様」
「少し話があるわ」
「かしこまりました」
私は応接室で執事長と向かい合った。
扉は閉めた。
使用人を下がらせた。
「今日の話は、他言無用よ」
「承知しております」
「あなたなら、屋敷のことを一番よくわかっているでしょう」
「長く仕えておりますので」
私はしばらく黙った。
執事長は急かさない。
ただ静かに、私の言葉を待っていた。
私はゆっくりと口を開いた。
その内容は、まだ誰にも言えないものだった。
彼にも。
夜になって、予想どおり執事は私の部屋へ来た。
「執事長と何を話していた」
挨拶もなく、彼はそう言った。
私は頭を下げたまま答える。
「今は言えません」
空気が凍る。
「今、何と言った」
「今は……言えません」
彼が近づいてくる。
「しもべが主人の命令に背くのか」
私は膝をついた。
「申し訳ございません」
「答えろ」
「時間をください」
「何のために」
「お願いです」
「お前は、俺に隠し事をして許される立場か」
私は顔を上げた。
彼は怒っていた。
だが、その怒りの奥に、またあの不安があった。
私は胸が締めつけられるのを感じながら、言った。
「ご主人様に話すための時間です」
「今話せ」
「今は、まだ言葉にできません」
「俺を試しているのか」
「違います」
「なら何だ」
私は必死に首を振った。
「あなたから逃げるためではありません」
彼は沈黙した。
私は続ける。
「だから、時間をください。少しだけでいいのです」
彼の視線が、私の顔に刺さる。
長い沈黙のあと、彼は小さく舌打ちした。
「二日だ」
「……」
「二日だけ待つ。それ以上は待たない」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。俺は許したわけじゃない」
「はい」
彼は私に背を向け、椅子へ座った。
「酒を注げ」
「はい、ご主人様」
その夜、彼は私をいつもより近くに置いた。
けれど、何も聞かなかった。
二日後の昼。
私は彼を廊下へ呼び止めた。
「次の休日、出かけるわ」
「どちらへでしょうか、奥様」
「長野県の山」
彼の眉がわずかに動いた。
「長野でございますか」
「車で二時間ほどの場所よ。一泊二日」
「おひとりで?」
「お前が付き添いなさい」
「私が、ですか」
「そう」
私は淡々と言った。
「運転手はつけない。お前が運転して。服は私服でいいわ」
彼は一瞬だけ黙った。
「承知いたしました。途中の休憩箇所、道路状況、天候、すべて確認しておきます」
「そうして」
「旅館の手配は」
「済ませてある」
「かしこまりました」
彼は昼の執事らしく頭を下げた。
けれど、目の奥には疑問が残っている。
私はそれを見ないふりをした。
その後、私は執事長を呼んだ。
「次の休日、私は一泊二日で出かけるわ。この執事を連れていく」
執事長は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「見送りはいらない。運転手も不要。使用人たちにも余計な詮索はさせないで」
「そのように申し伝えます」
「特に、行き先や目的を聞く者がいれば注意しなさい」
「かしこまりました」
私は念を押した。
「これは命令よ」
「はい、奥様」
夜。
彼は部屋へ来るなり、椅子に座り、足を組んだ。
「出かける意図は何だ」
私は膝をつき、視線を伏せる。
「その時に話します」
「また焦らすのか」
「申し訳ございません」
「執事長に話したことも、それか」
「はい」
彼は低く笑った。
「二人で一泊とは、大胆だな」
私は顔を上げた。
「だめですか」
彼は冷たい笑みを浮かべる。
「面白そうだ」
「……」
「ただし、逃げられると思うな」
「逃げません」
「どうだか」
彼は顎でサイドテーブルを示した。
「酒を注げ」
「はい、ご主人様」
琥珀色の酒がグラスへ落ちる。
彼はそれを受け取り、私を見下ろした。
「旅館に着いたら話せ」
「はい」
「必ずだ」
「約束します」
-----
出発当日。
屋敷の玄関に、使用人の見送りはなかった。
広い車寄せに、黒い車が静かに停まっているだけだった。朝の空気は澄み、庭の木々がわずかに揺れている。
彼は私服だった。
黒いコートに、落ち着いたシャツ。執事服ではない彼を見るのは、奇妙だった。若く、端正で、けれどどこか危うい。
彼は後部座席のドアを開け、昼の声で言った。
「奥様、どうぞ」
私は車の前で立ち止まった。
「助手席でいいわ」
彼が一瞬、私を見る。
「よろしいのですか」
「今日はいいの」
「承知いたしました」
彼は助手席側のドアを開け直した。
私は乗り込んだ。
彼が運転席に座り、車が静かに動き出す。
屋敷が遠ざかる。
門を出た瞬間、私は息を吸った。
まるで、胸に重く乗っていた屋根が少しだけ外れたようだった。
しばらく無言が続いた。
街を抜け、高速道路へ入るころ、彼が言った。
「それで」
声が変わっていた。
昼なのに、夜の声に近かった。
「この外出の意図は」
私は窓の外を見つめたまま答える。
「旅館に着いたら話します」
「焦らすな」
「ごめんなさい」
丁寧語になっている自分に気づいた。
屋敷の外。
昼間。
けれど、車の中は二人きりだった。
立場が、自然と反転していく。
彼は横目で私を見た。
「もうその口調か」
「……だめですか」
「いや」
彼は前を向いたまま言った。
「悪くない」
私は膝の上で手を重ねる。
「疲れていませんか」
「運転しているのは俺だ。お前が気にすることじゃない」
「でも」
「疲れたら休む。心配するな」
少し間を置いて、彼は言った。
「お前こそ、気分は悪くないか」
私は驚いて彼を見る。
「気遣ってくれるのですか」
「悪いか」
「いいえ」
胸が温かくなった。
「嬉しいです」
彼は少しだけ眉を寄せた。
「そういう顔をするな」
「どんな顔ですか」
「俺が困る顔だ」
私は小さく笑った。
彼はそれ以上言わず、前を向いた。
長野県に入るころ、景色は大きく変わった。
ビルの輪郭が消え、山並みが近づいてくる。空気が澄み、道路の脇には緑が増えた。途中の休憩を兼ねて、彼は小さな蕎麦屋の駐車場へ車を入れた。
「ここで昼にする」
「調べてくれていたのですか」
「当然だ」
「ありがとう」
「礼はいい」
店内は落ち着いていた。
木の香りがして、窓の外には小さな庭がある。私たちは向かい合って座り、ざる蕎麦を二つ頼んだ。
店主が水を持ってきて、にこやかに言った。
「ご夫婦でご旅行ですか」
彼の手が一瞬止まった。
私はその横顔を見た。
迷ったのは、ほんの一瞬だった。
私は微笑んで答えた。
「そうです」
店主は嬉しそうに笑う。
「いいですねえ。今日は天気もいいし、山のほうは夜、星が綺麗ですよ」
「楽しみにしています」
店主が去ったあと、彼は黙っていた。
私は蕎麦猪口に薬味を入れながら言う。
「嫌でしたか」
「何が」
「夫婦だと言われたこと」
彼は箸を取らず、私を見る。
「お前が肯定したことに驚いただけだ」
「嘘です」
「……」
「動揺していました」
彼は視線を逸らした。
「悪いか」
「いいえ」
私は少しだけ笑った。
「私も、少し動揺しました」
「なら、なぜ肯定した」
「否定したくなかったから」
彼の目が揺れた。
その顔を見て、私は胸が締めつけられた。
彼は黙って蕎麦を食べ始めた。
私も箸を取る。
蕎麦は冷たく、香りがよかった。
けれど、その味よりも、向かいに座る彼の沈黙のほうが、ずっと私の中に残った。
------
旅館に着いたのは午後だった。
山の中腹にある、静かな高級旅館。
部屋へ案内されると、そこは想像以上に広かった。畳の香り。大きな窓の向こうには庭があり、その奥には専用の露天風呂が見える。石造りの湯船からは、白い湯気が立ちのぼっていた。
仲居が下がると、部屋は二人だけになった。
彼は荷物を置き、すぐに私を見た。
「話せ」
私は窓の外へ目を向けた。
「せっかくだから、先にお風呂に入りたいです」
「お前」
「逃げません」
「……」
「風呂から出たら話します。必ず」
彼はしばらく私を睨んでいたが、やがて息を吐いた。
「風呂から出たら、話せ」
「はい」
私は露天風呂に向かった。
湯に浸かると、身体の芯から力が抜けた。山の空気は冷たく、湯は熱い。遠くで鳥の声が聞こえる。屋敷の音はここにはない。命令も、足音も、誰かの視線もない。
私は空を見上げながら、思った。
これで終わりにする。
彼を縛ることも。
彼に縛られることも。
けれど、そう思うほど胸が苦しくなる。
風呂から出て浴衣を着ると、部屋に戻った。
彼は窓際に立っていた。
私を見るなり、言葉を失ったように黙る。
「どうしましたか」
「……何でもない」
「変ですか」
「違う」
彼は目を逸らした。
「似合っている」
私は少しだけ笑った。
「あなたの浴衣姿も見たいです」
「俺の?」
「はい。せっかく旅館に来たのだから」
「命令か」
「お願いです」
彼はしばらく私を見て、諦めたように露天風呂へ向かった。
彼が戻ってきたとき、今度は私が言葉を失った。
浴衣姿の彼は、執事服のときよりも若く見えた。けれど、ただ若いだけではない。夜の冷たさも、昼の礼儀も脱ぎ捨てたような、素の男がそこにいた。
「何だ」
「似合う」
自然に言葉が出た。
彼はわずかに目を見開いた。
「……そうか」
「はい」
「そんな顔で言うな」
「また困りますか」
「困る」
私たちは向かい合って座った。
-----
湯上がりの静けさが、部屋を満たしている。
逃げられない。
逃げるつもりもない。
私は膝の上で手を握りしめ、言った。
「この旅行が終わったら、私はあの屋敷を出ます」
彼の顔から表情が消えた。
「何だと」
「新しい人生を歩みます」
「勝手に決めたのか」
「はい」
「執事長に話したのはそれか」
「はい」
彼は低く笑った。
冷たい笑いだった。
「俺に黙って、そんなことを決めたのか」
「ごめんなさい」
「謝るな。続きを言え」
私は息を吸った。
「亡くなった夫の兄弟との関係も....最近では不倫相手だと名乗る女も出てきて、もう疲れました。屋敷にいれば、私はずっとあの人の未亡人でいなければならない。財産を守るために笑い、親族の顔色を見て、使用人たちに囲まれて暮らす」
「……」
「私は、自由になりたい」
声が震えた。
「屋敷は譲渡します。財産も、生活に必要な分だけ受け取って、あとは放棄します。執事長には、その意向を伝えました。手続きも、少しずつ進めてもらうつもりです」
彼は黙っていた。
私は続ける。
「あなたとは、もう少しでお別れです」
その言葉を口にした瞬間、胸が痛んだ。
彼の目が鋭くなる。
「置いていくつもりか」
「あなたには、あなたの人生があります」
「俺を置いていくな」
冷酷な声だった。
けれど、寂しそうだった。
「ご主人様」
「その呼び方をするな」
「……あなた」
彼の表情が一瞬揺れた。
私はまっすぐに彼を見る。
「あなたは私より若い。未来があります。あの屋敷で、このまま執事長になればいい。今の執事長も、あなたを認めています。使用人の中でトップになれば、給料も良い。生活に困ることはありません」
「そんな話をしに来たのか」
「お願いしに来ました」
「俺に、屋敷へ残れと?」
「はい」
「そしてお前は消える?」
「消えるわけではありません。ただ、離れます」
「同じだ」
「あなたには、苦労してほしくない」
「黙れ」
彼の声が低く落ちた。
私はそれでも話そうとした。
「私は――」
その言葉は、彼のキスに塞がれた。
強引だった。
けれど、怒りだけではなかった。
行くな、と言っているようだった。
置いていくな、と叫んでいるようだった。
彼は私の肩を掴み、唇を離すと、すぐ近くで言った。
「受け入れられない」
「あなた」
「お前が出ていくなら、俺も行く」
私は目を見開いた。
「何を言っているの」
「屋敷勤めを辞める」
「だめよ」
「お前が命令するな」
「でも」
「仕事など探せばいくらでもある」
「簡単に言わないで」
「簡単じゃないことくらいわかっている」
彼は私の手首を掴んだ。
「それでも、お前を失うよりましだ」
胸が震えた。
彼は、初めてはっきりと言った。
「想いを寄せた女は、お前しかいない」
私は息が止まった。
「五年前からだ」
「……五年前?」
「あの日、お前がこの屋敷へ嫁いできた日から」
彼の声は低かった。
「俺は、ずっとお前を見ていた。お前が幸せじゃないことも、自由を失っていくことも、使用人たちに八つ当たりするほど追い詰められていたことも」
「やめて」
「やめない」
「聞きたくない」
「聞け」
彼は逃がさなかった。
「俺は卑怯だった。お前の言葉を聞いて、それを盾にした。お前を縛った。ご主人様と呼ばせた。お前の弱みにつけ込んだ」
「……」
「近くにいたかった」
彼の声がかすれた。
「お前が俺を憎んでいても、嫌っていても、それでもよかった。そばにいられるなら何でもよかった」
私は目を伏せた。
胸の内で、ずっと隠していたものが崩れていく。
私は彼の弱みになりたくなかった。
彼の人生を奪いたくなかった。
けれど、本当は。
私も、離れたくなかった。
「私は」
声が震えた。
「あなたに苦労してほしくなかった」
彼の手の力が少し緩む。
「それだけか」
「それだけじゃない」
私はゆっくり顔を上げた。
「好きだから」
言ってしまった。
もう戻れない。
「好きだから、あなたには自由でいてほしかった。私みたいな女に縛られず、屋敷に残って、ちゃんとした人生を歩んでほしかった」
彼は何も言わない。
私は続けた。
「あなたに弱みを握られたとき、怖かった。でも、どこかでほっとしたの。誰かのものになれば、自分で決めなくて済むと思った。夜にあなたの前で跪くことが、苦しいのに、心地よかった」
涙が滲みそうになり、私は唇を噛んだ。
「そんな自分が嫌だった」
彼の手が私の頬に触れた。
昼のような命令でも、夜のような支配でもない。
ただ、触れる手だった。
「俺も嫌だった」
「あなたが?」
「お前を脅さなければ、そばにいられないと思っていた自分が」
彼は苦く笑った。
「情けないだろう」
「いいえ」
私は首を振った。
「私たち、どちらも不器用だったのね」
「お前ほどではない」
「あなたも十分よ」
彼は少しだけ笑った。
初めて、冷たさのない笑みだった。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
主人としもべではない。
奥様と執事でもない。
ただ、ひとりの女と、ひとりの男が向かい合っていた。
私は彼を見つめた。
「本当に、ついてくるの?」
「行く」
「屋敷を辞めるのよ」
「辞める」
「生活は楽じゃないかもしれない」
「構わない」
「私、冷酷で無慈悲よ」
「知っている」
「八つ当たりもするわ」
「それも知っている」
「面倒な女よ」
「五年前から知っている」
私は思わず笑ってしまった。
「ひどい」
「事実だ」
「それでも?」
彼は私の手を握った。
「それでも、お前がいい」
涙がこぼれそうになった。
私は顔を伏せ、彼の手を握り返す。
「私も、あなたがいい」
彼は私を引き寄せた。
今度のキスは、命令ではなかった。
脅しでも、支配でもなかった。
ようやく互いの意思で重なった、静かなキスだった。
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その後の食事は、不思議なほど穏やかだった。
部屋に運ばれた料理は美しく、山の幸を使ったものばかりだった。小鉢、焼き魚、温かな椀物、炊き込みご飯。屋敷で食べる豪華な料理とは違い、どれも素朴で、やわらかな味がした。
私は箸を取りながら言った。
「こういう食事、久しぶり」
「屋敷ではもっと豪華なものを食べているだろう」
「豪華ならいいわけじゃないわ」
「贅沢な女だ」
「そうね」
私は笑った。
「でも、今日は美味しい」
彼も箸を取る。
「確かに悪くない」
「素直じゃないわね」
「美味い」
「最初からそう言えばいいのに」
「お前に言われる筋合いはない」
「もう、ご主人様じゃないの?」
「今は違う」
「じゃあ何?」
彼は少し考え、照れたように視線を逸らした。
「……お前の男」
私は箸を落としそうになった。
「急にそういうことを言わないで」
「言わせたのはお前だ」
「言わせてないわ」
「聞いた」
「聞いたけど」
彼は小さく笑った。
その笑みがあまりに自然で、私は胸がいっぱいになった。
屋敷では見られなかった顔。
私だけが、ここで初めて見た顔。
食事のあと、夜になった庭へ出た。
山の空気は冷たかった。
旅館の庭は静かで、灯籠の淡い光が石畳を照らしている。遠くで虫の声が聞こえ、風が木々を揺らしていた。
そして空には、満天の星が広がっていた。
私は思わず立ち止まった。
「すごい……」
都会でも、屋敷でも、こんな空を見たことはなかった。
数えきれない星が、黒い空に散りばめられている。手を伸ばせば届きそうで、けれどどこまでも遠い。
彼も隣に立ち、空を見上げた。
「店主の言った通りだったな」
「本当に綺麗」
「連れてきてよかったのか、連れてこられたのか、わからないな」
私は笑った。
「私が連れてきたの」
「そうだった」
「でも、これからは……」
私は少し迷ってから言った。
「一緒に行くのね」
彼が私を見る。
「そうだ」
私は空を見上げたまま、小さく息を吐いた。
「怖いわ」
「何が」
「自由になること」
「望んでいたんだろう」
「望んでいた。でも、本当に自由になるのは怖い」
彼は黙って聞いていた。
私は続ける。
「屋敷にいれば、私は未亡人で、奥様で、冷酷な女主人でいればよかった。決められた役を演じていればよかった。でも外に出たら、私はただの私になる」
「それでいい」
「簡単に言うのね」
「簡単じゃない。けど、俺がいる」
その言葉が、夜風よりも静かに胸へ落ちた。
しばらく星を見てから、私は部屋に戻ろうとした。
そのとき、背後から腕が回った。
彼が私を抱きしめた。
強く、けれど苦しくない力で。
「絶対に離さない」
耳元で、彼が言った。
私は目を閉じた。
「……重いわね」
「今さらだ」
「そうね」
私は彼の腕に、そっと手を重ねた。
「でも、離さないで」
彼の腕に力がこもる。
「言われなくても」
星空の下、私は初めて思った。
亡き夫の屋敷も。
未亡人という肩書きも。
奥様と執事という歪な関係も。
すべて置いていけるかもしれない、と。
彼はもう、夜だけのご主人様ではない。
私はもう、昼だけの冷酷な女主人ではない。
満天の星空の下で、私たちはようやく、同じ未来のほうを見はじめていた。




