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異世界の天下布武  作者: ビッグベアー
第五章、龍の旗
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52、あるいは導きの元

 

 この五日の間、一日も欠かすことなく彼女は祈りを捧げていた。城の中心たる中庭の一角を借り受け、暇さえあれば外へ瞑想を向けてきた。公爵への僅かばかりの治療の合間、姫の経過の診察の後、三度の食事の前や眠る前、何度でも何度でも東の空へと祈りを向けてきた。時には一人で、時には隣にアイラと二人で、森の長久でもなく、戦の勝利でもなく、ただ一人の無事を祈ってきた。ほとんどの力を失いかけた身でも、祈り続けることで何かをできるのではないかと、それしかできることがなくとも祈り続けることで何かできるのではないかと、そう考えてのことだった。

 そんなことばかりを続けていたからだろうか、いつの間にか、彼女の周りには何時しか人が集まっていた。教皇(タイタニア)を敵に回し、寄るべき信仰の対象を失った城の巨神教の信徒にとって、只管祈りを捧げる異教の徒の姿はある種、神聖さすら帯びて映っていたのだ。不安は信徒でないもにも共通のもの、この戦に負ければ故郷を失うことになる。その不安をやわらげてくれるものがあるのなら、何でも良かったのかもしれない。遠巻きに見詰めるもの、ともに祈りを捧げるものこそあれ、咎めようとするものは一人としていなかった。

 祈りの内容は人それぞれ、戦の勝利を願うものがいれば、家族や恋人の生還を願うものもいる。共通しているのはただ一つのこと。全ての願いがこの戦起因する願いである、その一点のみ。そんな願いを集約しているのが森の魔女の在り方。未だ混迷の内にある彼らにとって彼女の姿こそが道標だった。

 だが、それも彼女の感知するところではない。人が如何に増えようとも、聖女と渾名されようとも、彼女には関係ない。教えを説く気もないし、智識を与えるつもりもない。もし与えるものがあるとすれば一つ、祈りに対する真摯さそれあるのみ。森の加護を失ってしまった彼女に残されたのはただそれだけだった。

 

「――見えたぞ! ヴァレルガナの旗だ!! 」


 そんな祈りが通じたのか、巨神暦千五百九十年、八の月、二つ目の週の八日、出陣していた軍が城へと帰り着いたとの報せが城内を駆け巡った。

 その報せを聞いたその瞬間、アンナは駆け出していた。祈りも忘れて、森の巫女としてあるべき姿も忘れて、ただ夢中で駆け出していた。

人の波を搔き分け、石の階段を駆け上がり、城壁の上を目指す。そこからならば帰ってくる軍勢を俯瞰できる。祈るのと同じくらい、その場所で東の空を眺めてきたのだからそのことは良く知っている。けれども、人の波は厚く長く思うようには進めない。一刻でも早く無事を確かめたいのにもどかしくして仕方がない。これだけ待ったのに、まだ待たされるのかと思うと怒りさえ湧いてきそうだった。


「――――っ」


「巫女様! こちらへ!」


 思わず詞を使いそうになるその直前、横合いから声を掛けられる。視線を走らせるとそこには、城の姫であるユスティーツァがこちらを手招いていた。

 

「姫様のお通りである! 道を空けよ!!」


 姫へと駆け寄ると、階段を占拠している群集に向けて従者の一人がそう声を張り上げる。その一声で群衆が海が割れるように道が開いていく。当然と言えば当然ではあるもの、その光景は一種の優越感すら催させるものだった。


「…………ありがとう」


「いえ、私は後からゆるりと参りますゆえ」


 短く礼を告げ、狭間の道を駆け上がる。何度も上がってきた階段が延々のようにも思えてくる。短い足が疎ましい、気持ちだけが逸って何度もこけてしまいそうになる。それでも踏ん張って、息を切らしながらも階段を上がりきる。

 城壁の上には既に人が溢れている。その合間を縫って、東側を眺められる場所へと進む。一歩近づくごとに心臓が跳ね上がるよう。階段を駆け上がってきたからなのか、それともそれほどの不安を感じているからなのか、それは彼女にも分からなかった。

 ようやく周囲を見渡せる場所へと出ると、目の前には長々と続く軍勢があった。少なくとも、軍は無事だ。数を減らすどころか、僅かであるもの軍勢が伸びているのだから砦を救うことができたのだろう。

 だが、彼女が知りたいのはそんなことではない。彼女が無事を祈ったのは百万の軍勢ではなくたった一人なのだから。


「――違う」


 震える唇で詞を唱え、数千の人間を正しく把握する。彼を探すのはそう難しいことではない。あれだけ目立つ装束をしているのだから、すぐにでも見つけられるはずだ。けれども求めるものは見付からない。どれだけ必死に探しても、現実は変えられない。


「――――」


 何度も視線を走らせ、何度も確かめ、何度も疑い、何度も否定した。それでも彼女の求める姿は、下方弥三郎は凱旋の列には加わっていなかった。

 そのことを理解したその瞬間、彼女の世界は再びの崩壊を迎えた。もはや取り返しのつかぬほどに、崩れ去ってしまったのだ。


◇   ◇   ◇    ◇   ◇   ◇   ◇  ◇   ◇   ◇   ◇ 



 闇の中を駆けることに恐怖はない。握った手綱から感ぜられるのは僅かな戦の残り香のみ。馬にも乗り手にも微塵の迷いすらない。一寸先まで見通せずとも彼等の先頭を行く弥三郎には進むべき道が見えているかのようだった。

 その姿は戦に疲れきり、傷を負った兵たちには正しく希望そのもの。その背中だけを見て、その背中だけひたすら追うことが、彼等にとっては唯一の道だった。一度でも足を止めれば動けなくなる、一度でも後ろを振り返れば二度とは歩き出せなくなってしまうのだから。

 ヴァレルガナ軍殿隊、総勢五十名、彼らは今闇の中を進んでいた。歩き始めて半日たらず、光は未だ見えてはいない。

 あの分かれ道での炎は両軍の将にとって全くの計算外だった。東側に位置していたヴァレルガナ方は咄嗟の判断により、坑道に逃げ延びることができたものの、結果として彼等の撤退に大きな支障を及ぼすことになった。あの時残存していた兵力は百足らず、その半数がアウトノイアの城へと続く道ではなくもう一つのわき道へと迷い込んだ。何処へと続くとも知れぬそのわき道を彼らは道標すらなく彷徨うこととなったのだ、

 その迷い込んだ兵たちの救出を買って出たのが、弥三郎だった。見捨てては置けぬと炎に飛び込み、こうして彼らに合流した。自らの矜持に恥じぬため、自らの言葉に違わぬために弥三郎は自らの命を懸けたのだ。

 しかし、弥三郎が合流したところで道が開けたわけではない。背後には炎と敵が溢れ退くことは罷りならず、進むにしても先などない闇の道。どちらにしても彼らに選択肢などなかった。

 それでも彼らは進む事を選んだ。自らの意思で命尽きるその時まで前へと進み続けると決めたのだ。

 その彼等の唯一の道標、頼るべき最後の寄る辺がこの下方弥三郎という客将。戦場にて獅子奮迅の活躍をしたこの異民族ただ一人だった。


「…………それで本当に道は分かってるのか?」


「うむ、しかとな」


「そいつはまた…………」


「何故とは問うな。某にも分からん故。だが、確信しておるのだ。この道を行けばよいとな」


 馬を寄せ声を潜めてそう尋ねてきたロベルトに対していっそ清々しさすら感じさせる態度で弥三郎は答えた。ロベルトのもまた炎に飛び込んだ弥三郎に供した一人だが、彼を支える副将としてそれを問わざるをえなかった。無論彼とて弥三郎を疑うわけではない、そも疑うようならこの場に付き従うことなどしない。

 しかしそれでも、堂々と兵を率いて闇を進む弥三郎の姿は奇妙にさえ映ってしまう。一切の迷いもなければ、恐れもない。しかもそれは見せかけのものではなく本心からのもの。彼を知らぬものからすれば気でも違ったようにさえ見えただろう。

 一見狂気にさえみえるが、それでも正気であるのは明白。一切の迷いなく確信をもって弥三郎は彼らを率いていた。


「左なり。皆ついて参れ」


「応」


 再びの分かれ道、手にした松明がわずかに照らすその一方へ弥三郎は歩を進める。方角すらも定かではないこの闇の中であっても、進むべきは一つである、そういわんばかりの後姿だった。

 答えは確かにある。目には見えずとも、弥三郎には、かの森の魔女の従者たる弥三郎にだけ、道標は示されていた。

 胸のうちで僅かに熱を放つものがある。燻る種火のように仄かに心を照らすその熱こそが道標、進むべき道はその光が教えてくれる。どちらを進めば彼女の元へとたどり着けるのか、ただそれだけの事をこの意思は示していた。

 出陣の折、森の魔女より託された形見、肌身離さず身につけていたその守護が窮地の弥三郎を導いているのだ。彼女が刻んだのは守護と導きを意味する詞、如何なることになろうとも弥三郎が自らの元へと帰りつけるようにとそう願いを込めたものだ。既に力を失いかけた彼女の願いが今こうして運命を定めたのだ。

 しかして、それを弥三郎が知りうるはずはない。それでも彼女の思いは通じている、この暖かさは信ずるに足ると弥三郎は確信している。ただそれだけ、何を知るでもなく、何を感ずるわけでもなく、この光、弧熱こそが道標であると、ただ信じているのだ。

 弥三郎の先導の下、傷だらけの軍勢は進んでいく。背後から来るはずの敵の追撃はいまだに来ず、見えるべき出口は何処かも分からない。それでもただ進む、将を信じてただ愚直に進んでいく。

 そうして進むこと一日足らず。彼等の守った本隊、そして逸れた残り半数の殿隊も既にこの坑道を抜けた頃合だろう。

 本懐は果たした、この戦の勝敗は既に定まった。彼等の、ヴァレルガナの、アルカイオスの勝利だ。たとえこの坑道に屍を晒したとしても、それすらも本望。彼らが進むのは命惜しさからではない、此処で死んではこれからの忠義を果たせぬゆえ、隣に立つ戦友の命を明日に繋がんとするためだ。


「――あ」


 誰かが声を挙げた。傷を負い仲間に肩を貸されていた兵までもが走り出す。安堵とともに馬も人も力を取り戻していく。答えは明白、もはや一歩も歩けぬとそう力尽きようとするその直前、彼等の眼前に日の暖かさが降り注いだのだ。

 城へと続く道、彼等の故郷へと続く道。その行き着く先には戦の終わりが待っている、そしてまた更なる戦乱の始まりが彼らを待ち受けていた。


 

 

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