第2話 後藤と最初の魔女
「そういうわけね……」
うっすらと笑みを浮かべていた。
・
半年前。ネクタイが結べなくなった。
そこからは流れるように休職し、退職した。都内の暮らしを引き払い、郊外のアパートに移った。
【ランドリー パール】。新しいアパートには洗濯機置き場がない。毎度そこへ向かうのは確かに手間だが、私にはそのほうがよかった。洗濯機が回っている時間は、何もしなくても許される時間だ。心安らぐ。
今日も雨だった。雨なのに人がいない。昼下がりだからかもしれない。
長椅子に座ってぼんやりと、揺れる洗濯機をなんとなく視界に収めて、雨音に耳を傾けた。
ランドリーの古さも相まってなんとも情緒的で、心が静かに波打つような心地よさがあった。
だから、扉から現れた女性に対して、思わず二度見をしてしまったことは私の不覚である。
これが、私と『魔女』の、最初の邂逅である。
・
「そういう場所なのね。理解したわ」
適応が速い。
「つまり……とても怖いなあ……という状況ってわけね。核心は......」
彼女は私をまっすぐと射抜いて、右手を三角帽のつばにかけた。陰った顔から瞳が一つだけ覘いている。
「私はエルタイト。名前を聞いてもいいかしら」
「後藤です」
答えるや否や、帽子をグイっと上げてエルタイトさんは顔を光に晒し、楽し気にほほを緩ませた。
「ありがとう、君を好きになれそうだわ」
「……そうですか」
どう返せばいいかわからずそう言ったのだが、エルタイトさんは眉間にシワを寄せた。その頬が赤く染まっている。
「……こっちが恥ずかしくなるから、ちゃんと照れてほしいのですけど」
「無茶言わないでください……」
・
目に入るのは、彼女が開いた扉だ。
扉の先見えるのは、雨模様の外ではなく、デスクに本棚、時計やらクローゼット、ベッド……人の暮らしに染まった部屋だった。視線を横にずらしてランドリーの窓を通すと、バタバタと降る雨が見える。夢か幻覚なのだろうか。
彼女の様相は三角帽にローブという、いわゆる魔女である。
お互いおずおずと、駒を一つずつ進めるような慎重さで言葉を交わした。エルタイトさんは魔法使い、魔女であるらしい。書斎の扉を開けたらここにつながっていたという。
この場所、ランドリーについては何も知らないようだったので、ここが「洗濯をする場所」であると伝えると、「何をどうやって、どのようにして、そうなっているのか」と、彼女はしゃがみ込んで洗濯機を興味深げに見つめ始めた。
彼女のいた場所では魔法が存在しているそうで、魔法を用いていない仕組みというのが、とてもとても、気になるのだと。
扉の方へ行ったかと思えば、すぐに戻ってきた。抱えた服を興奮気味に差し出してきたので、丁重に洗濯機に入れた。それから彼女は洗濯機の前に張り付き、じっと見つめ続けている。
やがて洗濯機の前から立ち上がって、こちらを向いた。
「すごく回ってたわ」
「すごく回ってます」
「君のも回ってるの?」
「それですね」と指をさしたら、また洗濯機の前でしゃがんでしまった。少しして、満足したのか隣に戻ってきた。
「ここはすごい場所で、あれはすごいモノね」
「そうですね」
「魔法でもやってみたいわ」
「やっぱり、便利なんですか? 魔法って」
「上手ければね」
修行とかいるのだろうか。
「まあ、私下手だけどね」
「……そうですか」
「でも、私は下手なことを気に病んでいないので、全く問題じゃないの」
「へえ」
「ね?」
「そうですね」
・
「私ね、ちょっと迷っていることがあるの」
エルタイトさんは物憂げに視線を窓の外に逃がしていた。乾燥機が揺れている。
「後藤さんに言うのも変な話だけど……いい?」
「どんと来いとは言えませんが、それでもいいなら」
小さく笑って「ありがとう」と言って、私を見た。
「エビと、カニ……」
「はい」
「どっち食べようかなって」
「……夕食ですか?」
「そうね」
腕を組んでうーんとうなった。悩むにしては、食べたいと感じて抱く方向性が違いすぎる気がする。
甲殻類であるとか、水生生物であるとかって共通点はあるが、エビかカニか、どちらを食べようか悩んだことがあったか。回転寿司くらいだし、その時は両方の皿を重ねた覚えがある。
いやそもそも、私が想像するようなエビとカニなのか。その前提が正しいのだろうか。
「そのカニは……ハサミがありますか?」
指を二本立ててハサミを模して見せた。
「ないわ」
もう違う。
「では……脚は何本ですか?」
「ん~……8か、10本だったかな。あんまり覚えてないかも……」
カニだ。脚の数が判然としないのはカニだ。私もうろ覚えである。
正確な情報を言えなかった代わりにか、エルタイトさんは悩むそぶりを見せて、「あ」と顔をあげた。
「関節が7つあるわね」
それは……どうなのだろうか。カニの関節の数を確かめたことがない。何にしても、カニ……カニなのか。
そこまで考えて、画像でも見せればいいのではということに気づいた。文明の利器である。
スマホを取り出し、エルタイトさんの前に出した。
「これはすごい板です」
「すごい板ね」
「ここで……はい、どうですか、カニ。これですか」
「すごい……なにこれ……あ、ええ、これよ、これが……この、腕の所が違うわね。そこ以外はまんま」
「ハサミの所ですね。どう違うんですか?」
「だから、腕ね」
「……腕」
エルタイトさんが画面をそっとなぞって、カニのハサミの根本を指した。
「ここから人間みたいな腕が生えてるの」
「ええ……」
ゆるキャラでもいなさそうなデザインだ。
「まんま人の腕ってわけじゃないですよね?」
「構造が同じって感じね。肩があって、肘があって、5本指」
きちんと指が生えているのが一番怖いかもしれない。水中に引きずり込まれそう。
エルタイトさんは懐かし気に目を細めた。
「小さい頃はね、食べ終わったら、殻を手にはめて騎士様の小手みたいにして遊んだわ」
微笑ましい……のか? 子どもの腕が入るほどデカい腕を持つカニ?
ともかく、基本的にはカニはカニ。「どう食べるのか」と聞けば、食べ方もおおむね変わらないようだった。
次いでエビの画像を見せると「これはそのままね」とのことで、食べ方も同じく。
どちらを食べるのかをやっと落ち着いて考えられるようになった。そこからは侃侃諤諤と言葉を積み上げた。
価値観の相違、文化の差異、調理法の知見、海鮮料理の好み、昼食に何を食べたか、むしろお肉という選択、やっぱり海鮮という執着、乾く喉、初めての炭酸、むせて涙目のエルタイトさん、しばし窓から雨を眺める私……。
そんな白熱した議論の先に、決着した。
「……もう、どっちも食べるわ」
「そうですか……」
「あと……あれにリベンジしてもいい?」
長椅子の端に、ぽつんと置かれた缶が見えた。
「無理に飲もうってわけじゃないですよね?」
「飲み物に負けたくないのよ」
「飲食に勝ち負けはないですよ……」
乾燥機のライトだけが元気そうに点滅していた。
・
「ふわふわね」
エルタイトさんは、ローブを優しく撫でている。
「それは良かったです」
「ええ、とっても良かった」
そう言って笑った。エルタイトさんは扉のそばまで行って、少しだけ扉を開いた。
少しだけ見えたのは、外の雨模様ではなく、彼女が入ってきたときにもうっすら見えていた部屋がのぞいていた。
「うん、つながってる」
「では、お帰りに?」
ランドリーは静かだった。先ほどまでざあざあ降っていた雨の音が、かすかにすら聞こえない。
彼女の靴が音を鳴らした。視線が私に向いていた。
「そうですね、もう行きます……その前に」
思案気に、帽子を押さえて、ランドリーの扉にそっと撫でるように触れた。
「この扉について、ちょっとわかったわ」
「それは?」
「ほとんど何もわからないことが、ね」
「……そうですか」
「でも、たぶん……この何かは、この先もあり続けるだろう、というのはわかる。というかずっとあったのだと思う。これまでも、この先もあったもの、なのだと」
そう言う彼女の顔つきは、魔女というより、未知の事象を前にした研究者のそれだった。そもそも魔女らしさというのが存在するのか、私にはわからないのだが。
「えっとつまり、たぶんこの先も私みたいな別世界の誰かがここを訪れるのだと、そう思えばいい、はず」
「別世界の、誰か……」
「おそらく」
「ふむ」
「きっと」
なぜ信ぴょう性を下げてくるのか。
「だから……そうね。お話してみるのは、楽しいかもしれないわね」
それから彼女は、「では」と一礼をして、扉の先へ進んだ。
扉は静かに閉まった。エルタイトさんなのか、もっと別の何かが作用したのかはわからないが、その何かが終わったのだと、それだけはわかった。
だが、彼女が言うには、またこれは起こるらしい。楽しみかはわからない。嫌ではない。考えてみれば、何も気にせずに人と話したのは、久々だった。
あんな話をしたからか、すこし食べたくなってきた。エビとカニ。どちらも好きだが、どちらを食べるべきか……考えながら、洗濯ものを抱えて外に出た。
いや、どちらも食べよう。




