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あの学園をざわつかせた衝撃の出逢いから早くも1年が経つ。
この1年の間、ミリジーヌを「運命の人」と称した少女――ヒロ・ナフク・ニオリフは、あれから事あるごとにミリジーヌに付き纏い続け、ミリジーヌも彼女をいないものとして扱い、視界から少女の姿を追い出す事に専念していた。
出会った頃とは違い、ミリジーヌの表情が無となっているのは、少女に付き纏われてひと月もする頃に、ミリジーヌが嫌悪を表情に出そうと、ヒロには何ひとつ応えない事を悟り、何かしらの反応をするだけ労力の無駄だと判断した結果だった。
しかしヒロがミリジーヌに付き纏う事に、ミリジーヌに何ひとつ利点が無かった訳でもない。
ミリジーヌが入学当時に危惧していた、下位貴族の子息たちが寄って集るという事態を避けられているのだ。
ヒロは下位貴族の中でも上位に位置する家の出だった為か、下位貴族の子息たちはミリジーヌに恋慕う彼女の無言の圧に恐怖し、ミリジーヌに近寄らないのだ。
子息たちが近寄らないのは助かるのだが、その代わりなのか、気が付けばミリジーヌの周りには下位貴族の子女たちが集り、虎の意を借りて威張り散らしている。
ヒロを追い払うことを諦めた以上、子女たちの行動を嗜める程度しか出来ないミリジーヌは、どうしてこうなったのかと現状を誰かに問いたくて仕方がない。
子息たちに囲まれるのも困るが、子女たちに囲まれるのも、水面下と言うにはあまりにも浅過ぎるやり取りを頻繁に子女たちが交わす為、空気がギスギスとして落ち着かないのだ。
その日もそんな攻撃的な空気に晒され、どうしたものかと困り果てているミリジーヌに1人の男が声をかけた。
「貴様の取り巻き共はいい加減どうにかならないのか」
ミリジーヌはその低い声に無性に腹立たしさを感じ、しかしその声に覚えが無いことに首を捻った。
一先ずは掛けられた声に対応するべきだろうと、ミリジーヌは相手の顔の位置を見上げるとにこやかな対応を行う為に意識して口角を上げた。
「私もどうにかならないかと常々考えておりますわ」
ミリジーヌは自分が思ったよりも低い声が出た事に驚いて口元を隠した。
この分ではにこやかな笑顔を浮かべる事にも失敗したかもしれないと考えながらも、努めて涼しい表情を作る事に尽力する。
ミリジーヌの返答に、男が鼻を鳴らした。
「手伝ってやろうか?」
この程度も自分で解決出来ないのかと言わんばかりの言葉、上から目線の嘲り。
ミリジーヌは謎の既視感に寒気がし、空気を吸い込んだ喉がヒュッと音を立てた。
ミリジーヌはこの感覚を知っている。
突然痛み始めた頭に、ミリジーヌは耐えきれずにその場に蹲った。
男が焦って心配するような声が、子女たちがその騒ぎに気付いた音が、周囲の騒めきが、全ての音が遠くに聞こえる。
そんな中に駆けてくる誰かの足音だけが嫌に明瞭に聞こえ、ミリジーヌはそちらに視線をやった。
「ミリジーヌに何したの!?」
少女の叫ぶ声が聞こえる。
少女が男の襟元を掴み上げ、何か叫ぶような応酬を交わし、男の襟元を突き飛ばすように離すのが見える。
少女がこちらに近寄って、その手が、私の肩に…
ミリジーヌがそこまで考えた所で、何かを打ったような渇いた音が高く響いた。
「触らないで」と誰かが言う。
少女の顔が、泣きそうに歪んだのが見えた。
何処からか訪れる充足感に口角を上げる。
ミリジーヌの意識は、そこで途絶えた。
***
男がミリジーヌに何かを告げる。
男の声も、顔も、服装も、体格すらもボヤけて最早男であるかどうかも判らなかったが、ミリジーヌはそのボヤけた何かを"男性である"と認識した。
男が発した言葉は泡のように何処かへと消えてしまい、男が何を告げたのかまるで理解出来なかったが、男の告げた言葉にミリジーヌの胸はまるでナイフで抉られたかのように痛んだ。
ミリジーヌはその痛みに涙を流しながら男の背後を睨み付ける。
そこにいる「何か」も、ボヤけて何がなんだか理解し難かったが、ミリジーヌはそれが"女性である"と認識した。
女と"目が合う"と、その女は"恍惚の笑みを浮かべた"。
女が"口を開く"。
「 」
ミリジーヌには女が何を告げたか、理解出来なかった。
***
ミリジーヌが目を開けると、真っ白に磨かれた天井が視界に映った。
身を起こして、自らの眦が冷たく濡れている事に疑問を覚えると、それを指で拭う。
水滴で濡れた指をぼんやりとした頭で眺めていると、ずきりと頭が痛んだ。
突然の刺激にミリジーヌが小さく呻くと、カーテンに仕切られた向こう側からバタバタと慌ただしい音が聞こえ、勢いよく空間を仕切っていた布が退けられた。
痛みの消えた頭で思考を再開したミリジーヌは、勢いよくカーテンを開けた割に静かだと怪訝に思って布の壁に出来た裂け目を見上げると、ヒロが何やらもじもじと落ち着きなく俯いたまま止まっていた。
「そこで何をしているの?」
ミリジーヌが思った事をそのまま口にすると、ヒロは彼方此方に視線を彷徨わせながら言葉を選ぶように口を開いては閉じてを暫く繰り返してから言葉を音に乗せた。
「……貴女が、触るなと言ったから」
そんな事を言っただろうか。
首を捻って少し考え、倒れる前にそんな声を聞いた気がすると思い当たった。
言われてみれば、あの声は自分自身のものだったかもしれない。
ミリジーヌはそう思ったが、何故自分がそんな事を言ったのか、まるで理解出来そうになかった。
ミリジーヌが考えに耽っていると、ヒロは沈黙に耐えられなくなったのか、「本当は貴女の側に駆けて行って抱きしめたいと思ってるわ」などと謎の言い訳を口走っている。
彼女は自身をミリジーヌの何だと思っているのだろうか。
そんな彼女の妄言にミリジーヌの思考は途切れ、普段は見上げる事のない少女を見上げる。
未だに視線を彷徨わせているヒロの姿に、ミリジーヌは待てを命令された犬を重ね、クスクスと笑った。
小さな笑い声に気付いたヒロが、ミリジーヌを期待するように真っ直ぐに見つめ、ミリジーヌはヒロのその姿に大きく振られる犬の尻尾を幻視した。
「貴女、まるで犬みたいだわ」
「ええ、私はミリジーヌ様の忠実な僕でしてよ」
「私の忠実な僕はノエムだけで充分ですわ」
「あのメイドですね!許せません、私という存在がありながらミリジーヌ様の近くに侍るなど……!」
まるで好き合っているかのようなヒロの言葉に、ミリジーヌは可笑しくなってきて、控えめながらも声を上げて笑った。
音を立てて笑うミリジーヌに、ヒロは暫くキョトンと惚けていたが、笑うミリジーヌに釣られてヒロも笑った。
お互いに笑い合う、温かな時間が流れる。
笑いが落ち着いてから、ミリジーヌは笑って溢れた涙を拭った。
「……あの時は触らないで、なんて言ってごめんなさいね」
「今なら触れても良いという事ですか?」
「やめて頂戴」
何となく、ここで許してしまうと、後々べったりと張り付いて剥がれなくなりそうな予感がして、ミリジーヌはヒロが自らに触れる事を強い語調で断った。
頬に空気を詰めてむくれたヒロに、小さな笑いが込み上げてきたが、ミリジーヌはそれを胸の奥に押し込めた。
「……どうしても、貴女を見ていると悪夢を思い出してしまうの」
「……悪夢?」
首を傾げるヒロに、ミリジーヌはいつも見る悪夢の事を話した。
悪夢の事を誰かに話すのは、初めてだった。
ヒロはその話に瞳を輝かせると、嬉しそうな声を上げる。
「ああ、何と言うこと!悪夢とはいえ出逢う前からずっと夢に出ているなんて!貴女の運命の人もきっと私だったんだわ!」
感情の昂ったヒロは、静止の声も聞かず、勢いよくベッドに座るミリジーヌに飛び付いた。
勢いに負け、枕に頭をぶつけたミリジーヌは、半分ほど思考を停止しながら苦しいくらいに締め付けてくるヒロの抱擁を叩いた詫びと考え容認する。
ヒロの抱擁に強張る身体に「運命の人ならば悪夢などで見ないのでは?」なんて頭の隅で考えたが、口を噤むと苦笑を浮かべるのだった。
2022/06/22 誤字修正 報告ありがとうございました