第9話 条件
ルミエールが、ただ願うだけではだめだと知る回です。
ルミエールは資料棚の前で立ち止まった。
端末の画面だけでは、言葉が難しすぎる。
さっき研究補助員に言われた通り、入門資料から見たほうが早いのかもしれなかった。
棚には分野ごとに薄い冊子が並んでいた。
時空理論基礎。
時空座標固定の初歩。
転移装置の安全管理。
月圏内実験の記録。
ルミエールはその中から、いちばん薄い一冊を抜き取った。
表紙の角は少しだけ擦れていて、何人も手に取った跡があった。
端末の前に戻り、ページを開く。
難しい言葉は多かった。
それでも、さっきよりはずっとわかりやすい。
時間移動は、時間だけを合わせればいいわけではない。
目的地点の空間座標を固定しなければ、転移先は簡単にずれる。
月圏内の短距離遷移ですら、その調整には何重もの補正が必要になる。
まして、地球の過去ならなおさらだった。
ルミエールはノートを開いた。
条件1 地球の過去の座標を固定すること。
書いてから、少しだけ手が止まる。
条件。
そうだ。
ただ「危ない」と言われているわけじゃない。
できない理由には、ひとつずつ名前がある。
だったら、それをひとつずつ知ればいい。
ルミエールは次のページをめくった。
そこには、月圏内実験と地球圏接続実験の違いが簡単な図で示されていた。
月だけを基準にする場合と、地球と月の位置関係まで組み込む場合では、計算量が桁違いになるらしい。
地球は公転しながら自転している。
月もまた動いている。
十九年前の同じ日時に合わせるだけでは足りない。
その時の地球の位置、その場所、その高さ、その周囲の条件まで合わせなければならない。
「……時間だけじゃないんだ」
ルミエールは小さくつぶやき、もう一行書き足した。
日時と場所を同時にずらさず合わせる必要がある。
少し整理できてくると、今度は別のことが気になった。
もし、それができたとして。
もし、本当に地球の過去へ行けたとして。
帰る時はどうなるのだろう。
さっき見た記録にも、そこが曖昧なままだった。
ルミエールは別の入門冊子を開いた。
帰還設計の考え方。
難しそうな題名だったけれど、中には意外と短い説明が載っていた。
転移は「行き」と「帰り」で別の問題になる。
行くだけなら目標座標へ接続すればいい。
けれど帰る場合は、出発点の時間軸と空間座標を再び特定しなければならない。
ルミエールの視線がそこで止まった。
出発点。
今、自分がいるこの月の街。
でも、自分が過去で何かを変えたら、帰る先は本当に同じなのだろうか。
ノートに、もう一行。
条件2 帰還先をどう定義するか。
月へ帰るのか。
変化後の地球に残るのか。
未来が変わったあとでも、自分の知っている家族は同じなのか。
考えれば考えるほど、胸の奥が落ち着かなくなる。
けれど、ここでやめる気はしなかった。
ルミエールは、もう一度端末を開いた。
さっき見た「高純度魔力による補助同期」の記録を探し、関連資料をたどっていく。
出てきたのは、試験時の波形ログと補足資料だった。
補助同期に使われた魔力は、どれも高出力ではあった。
けれど安定時間が短い。
強くても、揺れが大きい。
起動の一瞬だけ合わせられても、その先が続かない。
最後の欄に、簡潔なまとめがあった。
必要なのは高出力そのものではなく、長時間の安定維持。
ルミエールはその行を何度も見返した。
「安定……」
自分の魔法は強い、と言われることがある。
でも、強ければそれでいいわけではないのだ。
むしろ、乱れず保ち続けられるかどうか。
そこが見られている。
ノートに、三つ目を書く。
条件3 魔力を一定に保つこと。
そこまで書いたところで、ルミエールはようやく息を吐いた。
三つ。
少なくとも、大きな壁は三つある。
地球の過去の座標。
帰還先。
魔力の安定。
ただ「行きたい」と言うだけでは、首を縦に振ってもらえないはずだった。
その時、端末の隅に添付記録の表示が出た。
関連映像あり。
ルミエールは少しためらってから、それを開いた。
映ったのは、今より少し若いパパと祖父だった。
二人とも白衣姿で、円形の装置のそばに立っている。
タイムマシンの試験機だ。
画面の向こうで、装置の中心が淡く光っていた。
記録映像らしく音声は抑えられていたが、警告表示だけははっきり見える。
座標補正開始。
同期率低下。
出力維持不能。
試験停止。
光が一瞬強くなったあと、すぐに消える。
パパが何か言い、祖父が険しい顔で計器を見る。
その表情は、ルミエールが知っている家での顔とは少し違っていた。
軽い失敗ではない。
そういう空気が、映像の短さだけでも伝わってきた。
次の映像も同じだった。
少し条件を変え、また止まり、また記録が終わる。
成功していない。
何年もかけて、何度もやって、それでもまだ届いていない。
ルミエールは映像を閉じた。
「……こんなの見たら、そりゃ反対するよね」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰にも聞かれなかった。
パパもおじいちゃんも、本気で作ってきたのだ。
遊びで止めているわけじゃない。
自分を子ども扱いしているだけでもない。
危険を知っているから止めている。
それがわかってしまうと、胸の奥が少し痛んだ。
けれど、その痛みは不思議と気持ちを弱くしなかった。
むしろ逆だった。
ちゃんと知ったうえで、それでも行きたいと思ってしまった。
ルミエールはノートの空いたところに、さらに書き足した。
感情だけではだめ。
条件を聞く。
何を満たせば検討できるのか聞く。
そこまで書いて、手が止まる。
そうか。
自分はずっと、許してほしいと思っていた。
行かせてほしいと頼んでいた。
でも今、主張するのはそこではない。
どうしたらいいのか。
何を満たせば「だめ」ではなくなるのか。
それを考えなければならない。
ルミエールはゆっくり顔を上げた。
「……お願いの仕方、間違えてたのかも」
そのひとりごとは、思ったより静かだった。
泣いて頼んでもだめ。
気持ちをぶつけるだけでも足りない。
必要なのは、答えを急がせることではなく、条件を引き出すこと。
パパか、おじいちゃんか。
たぶん、どちらでもいいわけじゃない。
パパは止める時、感情より先に危険を言っていた。
おじいちゃんは、最初にやわらかく受け止めてから、安全の話をした。
今聞くなら、先に行くべきは――
「おじいちゃん……かな」
ルミエールはそうつぶやいて、ノートを閉じた。
答えをもらいに行くのではない。
条件を聞きに行く。
それなら、また違う話になるかもしれない。
閲覧室を出る前に、ルミエールは窓の外を見た。
白く広がる月の街は静かだった。
守られたこの場所から、十九年前の地球へ行きたいと願っている。
無茶だと思う。
それでも、その無茶を、ただの無茶のままで終わらせたくなかった。
ルミエールはノートを胸に抱え、閲覧室の扉へ向かった。
次は、ただ頼みに行くんじゃない。
何が必要なのか、聞きに行くのだ。
読んでいただきありがとうございます。




