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第87話 扉の向こうのノアール

第二夜のステージ後、ノアールは「ごめんなさい」とだけ言って走り去ってしまいました。


ルミエールとブランシュは、レン、海斗、凛から話を聞いている途中、別荘の執事から連絡を受けます。


ノアールは、泣きながらルミエールの別荘へ戻っていました。

レンと海斗と凛、そしてルミエールとブランシュは、ノアールについて話し合っていた。


ステージのあと、ノアールは「……ごめんなさい」とだけ言って走り去った。


記憶が戻ったのかもしれない。


幼い日のことも、レンのことも、海斗と凛のことも。


誰もすぐには答えを出せなかった。


その時、ルミエールのスマホが小さく震えた。


画面に表示された名前を見て、ルミエールは息を止めた。


別荘の執事からだった。


『ルミエール様。突然のご連絡、失礼いたします』


続く文面を読んだ瞬間、ルミエールの表情が変わった。


『先ほど、ノアール様がお戻りになりました。かなり泣いていらっしゃるご様子で、そのままお部屋に入られました』


「……ノアールが」


ブランシュがすぐにルミエールを見る。


「どうしたの?」


ルミエールはスマホを握ったまま、レンと海斗と凛、そしてブランシュに向き直った。


「ノアールは、私の家に帰ってきているようです」


レンが顔を上げた。


海斗と凛も、静かにルミエールを見る。


「行方不明にならなくて良かったです。でも、泣いて部屋にこもっているみたいなので、心配です」


ルミエールはブランシュにも視線を向けた。


「急いで帰ります」


ブランシュはすぐにうなずいた。


「私も一緒に行くわ」


「ブランシュさん……」


「ノアールを、このまま一人にしておけないわ」


ルミエールは小さくうなずいた。


「ありがとうございます」


そして、レンたちに向き直り、静かに頭を下げた。


「お話の途中ですみません。また、こちらから連絡します」


ブランシュも、隣で丁寧に頭を下げた。


「失礼します」


レンは何かを言いかけた。


けれど、今のノアールに会いに行くべきなのは、自分ではないと分かっているように、唇を結んだ。


「……分かった」


海斗も、凛も黙ってうなずいた。


凛が静かに言った。


「ノアールを、お願いします」


その声は落ち着いていた。


ルミエールはもう一度、深く頭を下げた。


「はい」


ブランシュも小さくうなずき、ルミエールと並んでその場を離れた。


外へ出ると、夜風が頬を冷ました。


ライブ会場のざわめきは、まだ遠くに残っている。


けれど、二人の足はもう迷っていなかった。


待たせていた車に乗り込むと、ルミエールは運転手に告げた。


「別荘へお願いします。できるだけ急いでください」


車が静かに走り出す。


窓の外を、街の光が流れていく。


ルミエールはスマホを握りしめた。


ノアール。


どうか、そこにいてください。


別荘に着くと、ルミエールとブランシュはそのまま二階へ向かった。


ノアールの部屋の前は、静かだった。


ルミエールは扉の前で足を止め、そっと声をかけた。


「ノアール。私です。ルミエールです」


返事はなかった。


「ブランシュさんも一緒に来ています」


それでも、中からは何も聞こえない。


ルミエールは少し待ってから、もう一度声をかけた。


「ノアール。大丈夫ですか?」


長い沈黙のあと、部屋の中から小さな声がした。


「……今、誰とも話したくない」


ルミエールは扉を見つめた。


ノアールの声は、泣いたあとみたいにかすれていた。


「一人にして」


ルミエールは静かにうなずいた。


「分かりました」


ブランシュが、そっとルミエールの肩に手を置いた。


ルミエールはもう一度、扉の向こうへ声をかけた。


「私たちは近くにいます。何かあったら、呼んでください」


中から返事はなかった。


ルミエールとブランシュは、ノアールの部屋から少し離れたダイニングへ移動した。


テーブルには、軽食と温かい紅茶が用意されていた。


サンドイッチを前にしても、ルミエールはすぐには手を伸ばせなかった。


「少しでも食べましょう」


ブランシュが静かに言った。


「倒れてしまったら、ノアールを支えられないわ」


ルミエールは小さくうなずき、サンドイッチを一口食べた。


しばらく、二人は黙っていた。


やがて、ルミエールがぽつりと言った。


「私たち、気づけていなかったんですね」


ブランシュが紅茶のカップを持ったまま、ルミエールを見る。


「ノアールのこと?」


「はい。ノアールが、こんなにいろいろな気持ちを抱えていたこと。レンさんのことも、海斗さんのことも、凛さんのことも……全部、子どもの頃の出来事からつながっていたのに」


ブランシュは、ゆっくりとカップを置いた。


「そうね」


その声は静かだった。


「私も、気づけていなかったわ」


ブランシュは少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「ノアールは、私の妹よ。だから、どこかでずっと、守ってあげる子だと思っていたの」


ルミエールは黙って聞いていた。


「でも、いつの間にか大人になっていたのね」


「大人に……」


「ええ。誰かを強く想うことも、誰かを傷つけてしまうことも、自分でも分からないまま一線を越えてしまうことも」


ブランシュは、ノアールの部屋がある方へ目を向けた。


「ノアールも、いつの間にか大人な悩みを抱えるようになったのね」


ルミエールは、静かにブランシュを見た。


「大人な悩み……」


「子どもの頃の気持ちだけでは、もう片づけられないわ」


ルミエールは小さくうなずいた。


「そうですね」


ブランシュは紅茶のカップを両手で包んだ。


「私はノアールの姉で、ノアールより年上だけど……正直、こういうことで悩んだことはあまりないのよね」


ルミエールは少しだけ考えてから、うなずいた。


「私もです」


「ルミエールさんも?」


「はい。私はずっと、目の前のことに一生懸命でした。ロボット技術や未来技術のことが大好きで、気づくとそちらに夢中になっていました」


ルミエールは、少しだけ照れたように笑った。


「だから、人間関係でこんなふうに悩んだことは、ほとんどないんです」


ブランシュは静かにうなずいた。


「私も似ているわ。仕事を頑張って、借金を返して、好きなピアノやバレエやスケートや音楽の勉強をして……いつも目の前のことで必死だった」


紅茶の湯気が、ゆっくりと上がっていく。


「人にどう思われるかは気にしたけれど、誰かとの関係で自分が揺れることは少なかったわ」


ルミエールは、ノアールの部屋の方へ目を向けた。


「でも、ノアールのことは別です」


ブランシュも小さくうなずいた。


「ええ。ノアールのことになると、どうしても悩んでしまうわ」


「私もです」


二人の間に、少しだけやわらかな沈黙が落ちた。


やがてブランシュが、ふっと微笑んだ。


「何だか、私たち……不思議と似ているわね」


ルミエールは一瞬だけ、返事に迷った。


ブランシュさんと私が似ているのは、きっと偶然ではない。


そう思っても、今はまだ言えない。


ルミエールは、少し照れたように微笑んだ。


「はい。私も、そう思います」


ブランシュは紅茶のカップを見つめた。


「人間関係で悩むより先に、目の前のことに夢中になってしまうところまで似ているなんて」


「でも、それも悪くないと思います」


「そうね」


ブランシュは、ノアールの部屋がある方へ目を向けた。


「人間関係に詳しくない二人が、大人な悩みで苦しんでいるノアールを待っているなんて、少し不思議ね」


ルミエールは静かにうなずいた。


「でも、ノアールを大切に思う気持ちは本当です」


「ええ」


ブランシュの声は、やさしかった。


「それだけは、ちゃんと伝えたいわね」


その時、廊下の方で小さな音がした。


ルミエールは顔を上げた。


ノアールの部屋の扉が開いたのだと、すぐに分かった。


しばらくして、廊下を歩く足音が聞こえてくる。


ルミエールは思わず立ち上がりかけた。


「どうしよう……」


ブランシュが、そっと手で制した。


「今は、話しかけないほうがいいわ」


「でも……」


「話したくなったら、ノアールから話しに来るよ」


ブランシュの声は静かだった。


ルミエールは、廊下の方へ目を向けた。


足音はお手洗いの方へ向かっているようだった。


「……そうですね」


ルミエールは小さくうなずき、もう一度椅子に座った。


しばらくして、戻ってくる足音が聞こえた。


その途中で、小さな声が廊下に落ちた。


「……ルナ」


ルミエールは顔を上げる。


廊下にいたルナを、ノアールが見つけたのだろう。


小さな鳴き声がした。


少し間を置いて、ノアールの部屋の扉が静かに閉まった。


ノアールは、ルナを連れて部屋へ戻ったようだった。


ルミエールは、扉の方を見つめた。


「今、ルナの声がしましたね」


ブランシュは、少しだけ安心したように微笑んだ。


「ノアール、猫には心を開いたようね」


「はい」


ルミエールは胸に手を当てた。


「ルナがいてくれて、よかったです」


ブランシュも静かにうなずいた。


「ええ。今のノアールには、言葉より先に、そばにいてくれる子が必要なのかもしれないわ」


それから、一時間ほどが過ぎた。


廊下の奥で、また物音がした。


今度は、ノアールの足音がダイニングの方へ近づいてくる。


ルミエールは顔を上げた。


ノアールはダイニングに入ると、二人を見ないまま冷蔵庫の前に立った。


飲み物を取りに来たのだろう。


冷蔵庫の扉を開けたまま、しばらく動かない。


ルミエールは静かに立ち上がった。


「ノアール」


ノアールの手が止まった。


けれど、振り返らなかった。


少しの沈黙のあと、ノアールが小さく言った。


「……みんなに、合わせる顔がない」


ルミエールは何も言わず、ノアールの背中を見つめた。


「レンにも……海斗にも、凛にも」


ノアールは冷蔵庫の扉に手をかけたまま、うつむいていた。


「私、ひどいことした」


その声は、今にも消えそうだった。


ブランシュも、静かに立ち上がった。


「ノアール」


ノアールは首を横に振った。


「覚えてるの。レンのことも、海斗のことも、凛のことも」


声が震えた。


「全部、思い出したのに……どうしていいか分からない」


ルミエールの胸が痛んだ。


ノアールは、ようやく飲み物を一本取り出し、冷蔵庫を閉めた。


「まだ撮影もあるのに」


小さな声だった。


「行きたくない」


ルミエールは、すぐに答えなかった。


ブランシュも、何も急がせなかった。


ノアールは飲み物を握ったまま、うつむいていた。


「今夜は、休みましょう」


ブランシュが静かに言った。


ノアールは顔を上げなかった。


「でも……」


「今は、ノアールのことが一番よ」


ブランシュの声はやさしかった。


「撮影のことも、レンさんたちのことも、明日考えましょう」


ノアールは何も言えなかった。


ルミエールも、そっと言った。


「私たちは近くにいます」


ノアールの手が、小さく震えた。


「……私、どうしたらいいの」


ルミエールは、ノアールを見つめた。


「ひとつずつで大丈夫です」


ブランシュも静かにうなずいた。


「今夜は眠れなくてもいいから、横になりましょう。ルナも一緒にいるわ」


ノアールは、しばらく黙っていた。


そして、小さくうなずいた。


飲み物を抱えるように持ったまま、ノアールは部屋へ戻っていく。


扉が閉まる音が、静かな廊下に響いた。


ノアールが部屋へ戻っていく音を聞いて、ブランシュは小さく息をついた。


「だいぶ回復してきたみたいね……」


ルミエールも、閉じた扉の方を見つめた。


「はい。少しだけ安心しました」


ブランシュは、ノアールの部屋がある方へ目を向けた。


「ルナがいてくれて、よかったわ」


ルミエールも静かにうなずいた。


「はい。本当に」


「今のノアールには、言葉より先に、そばにいてくれる存在が必要なのね」


ルミエールは、部屋の中にいるノアールとルナを思った。


ノアールはまだ、人には話せない。


でも、ルナを抱きしめることはできる。


それだけで、少しだけ安心できた。


何も解決していない。


ノアールはまだ、レンにも海斗にも凛にも会えていない。


撮影の朝も、すぐそこまで来ている。


それでも、ノアールは部屋から出てきた。


声を出した。


行きたくないと、自分の気持ちを言えた。


それは、小さな一歩だった。


ブランシュが、隣で静かに言った。


「今夜は、これでいいわ」


ルミエールは小さくうなずいた。


「はい」


部屋の中には、ノアールとルナがいる。


廊下には、ルミエールとブランシュがいる。


それぞれが眠れない夜を抱えながら、朝を待っていた。


読んでくださりありがとうございます。


今回は、記憶を取り戻したノアールが、ルミエールの別荘へ戻る夜のお話でした。


まだ何も解決していません。

それでも、ノアールは部屋から出て、少しだけ自分の気持ちを言葉にできました。


ルミエールとブランシュは、無理に扉を開けるのではなく、そばで待つことを選びます。

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