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第85話 すべては、あの日の一文字から始まった

ライブの夜、ルミエールの胸には消えない違和感が残っていました。


それは、ノアールとレンの歌声だけではなく、もっと昔の記憶へとつながっていきます。


ライブの熱気は、まだ街の空気に残っていた。


歓声はもう聞こえない。


それなのに、ルミエールの胸の奥だけが、まだざわついていた。


家へ戻ると、ソレイユはまだ興奮した様子だった。


「すごかったですね、今日のライブ。桜のステージも綺麗でしたし、次の曲も演出がすごくて……!」


ソレイユの声は明るかった。


本当に、ただ素晴らしいライブを見た後の顔をしていた。


ルミエールは少しだけ黙ってから、問いかける。


「ソレイユは、ノアールのライブをどう思いましたか?」


「どうって……すごかったです。ノアールもレンさんもかっこよくて、映像も光も本物みたいでした」


「……本物みたい、ですか」


「はい。あの黒と紫の演出、すごかったですよね。魔法陣みたいなのも出ていて、映画みたいでした」


ソレイユは、何も疑っていない。


あれは全部、ステージの演出だと思っている。


ルミエールは、胸の奥に残る違和感を押さえるように、静かに息を吸った。


「私は……魔法陣と、黒い何かが見えました」


「黒い何か?」


ソレイユが不思議そうに聞き返す。


「映像じゃなくて、ですか?」


「分かりません」


ルミエールは答えた。


「でも、ただの演出には見えませんでした」


ソレイユは不安そうにルミエールを見る。


けれど、ルミエールはそれ以上詳しく話さなかった。


まだ何も分かっていない。


今は、確かめる方が先だった。


ルミエールはスマホを手に取った。


ノアールに直接聞くこともできた。


けれど、ライブのあとで疲れているかもしれない。


それに、今の自分が何を聞きたいのかも、まだ分からなかった。


少し迷ってから、ブランシュへメッセージを送る。


『今日のノアール、ライブのあと大丈夫そうでしたか?』


しばらくして、ブランシュから返事が届いた。


『ごめんなさい。今日は私も直接会えていないの。ノアールなら、今夜はホテルに泊まっているわ』


ルミエールは、その文字を見つめた。


ノアールは、ここにはいない。


様子を確かめることはできない。


あの黒いものに、本人は気づいていたのか。


それを、今すぐ確かめることはできなかった。


スマホの画面を閉じようとした時、ルミエールは以前ブランシュと話したことを思い出した。


レン君と海斗君と凛さんは、子役の頃から一緒だったこと。


レン君とノアールは、昔から仲がよかったこと。


そして、ブランシュが何気なく言っていた言葉。


「レン君と一緒なら、心配ないわ」


あの時は、ただノアールを安心して任せられる相手という意味だと思っていた。


けれど今は、その言葉が少し違って聞こえる。


レンとノアールは、いつから一緒だったのか。


海斗と凛は、何を知っているのか。


さらに、アンナの言葉が胸の奥に浮かぶ。


レンの次は海斗。


海斗の彼女の凛が怒っている。


ただの噂だと思いたかった。


けれど、あの日の廊下で見た光景が、どうしても頭から離れない。


ノアールと海斗が並んで歩いていた。


海斗の距離は、ただの共演者にしては近かった。


そして少し後ろに、レンと凛がいた。


レンは落ち込んだように見えた。


凛の表情は硬かった。


あの時は、ただ気まずい場面を見てしまっただけだと思った。


けれど今は違う。


ライブのステージで見えた黒い揺らぎ。


ノアールとレンの歌声。


海斗と凛の表情。


すべてが、ばらばらではない気がした。


その時、ルミエールはふと以前のことを思い出した。


ノアールが留守にしていた日。


開いていたノアールの部屋へ、ルナとブランが勝手に入り込んでしまったことがあった。


「ルナ、ブラン。だめですよ」


二匹を捕まえようとして、ルミエールは部屋の中へ入った。


その時、机の上に置かれたカードが目に入った。


黒いメッセージカード。


そこに書かれていた短い文字。


04.01 — You were there.


その時は、ただのカードだと思った。


けれど今は違う。


ルミエールは記憶をたどる。


もう一枚。


映画決定の時のカード。


その裏面。


N7R8


ノアール七歳。


レン八歳。


そして、台本の端に残されていた走り書き。


「ここ、来たことある?」


川沿いの桜。


白い花。


ベンチ。


指先が止まる。


「……繋がった」


ルミエールは、まずソレイユに最低限のことだけを伝えた。


過去を変えに行くのではない。


何が起きたのかを確かめに行く。


その言葉を聞いた瞬間、ソレイユは迷わず言った。


「私も行きます」


「だめです」


ルミエールは静かに首を振った。


「二人で行けば、それだけ目立ちます」


「でも……」


「過去にいる人たちに気づかれたら、何が変わるか分かりません。今回は、助けに行くのではありません」


ルミエールは、地下へ続く扉を見つめた。


「確かめに行くだけです」


ソレイユは、まだ何か言いたそうだった。


けれど、ルミエールの声は揺れなかった。


「私一人で行きます」


そのあと、ルミエールは祖父へ電話をかけた。


事情を話すと、電話の向こうで祖父はしばらく黙っていた。


やがて、低い声が返ってくる。


「見るだけだ。干渉してはいけない」


「はい」


「過去を変えようとすれば、今ある時間まで壊れる」


ルミエールは、スマホを握ったままうなずいた。


「分かっています」


通話を終えると、ルミエールは地下の秘密扉を開けた。


そこにあるのは、ルミエールが未来から来た時に使った、ソレイユの星のタイムマシンだった。


円形の空間。


中央の装置が淡く光る。


ルミエールは時間軸を入力する。


《04.01》


《川沿い・桜》


《白い花》


《ベンチ》


《N7R8》


空間が歪む。


光が収束する。


ルミエールは、迷わず踏み込んだ。


桜が満開だった。


夕暮れの川沿い。


川の音が、静かに響いている。


ルミエールは、桜の木の下にあるベンチの近くで、二人の子どもを見つけた。


一人は、猫耳の黒い髪の女の子。


もう一人は、泣いている男の子。


胸が、かすかに鳴る。


あれは――。


ルミエールは、気づかれないように距離を取りながら近づいた。


近づくにつれて、二人の顔がはっきり見えてくる。


幼いノアール。


そして、幼いレン。


レンはベンチのそばで泣いていた。


「……かあさん、いなくなった」


小さな声だった。


けれど、その言葉は、はっきりと聞こえた。


ノアールはレンのそばに立っていた。


心配そうに、泣いているレンを見つめている。


「レン」


ノアールが、そっと名前を呼んだ。


レンが顔を上げる。


ノアールは少し背伸びをして、レンの頬へそっとキスをした。


「私、大きくなったらレンのおよめさんになる」


レンは、涙の残る顔で固まった。


ノアールは、そっと人差し指を口元へ近づける。


「しー。秘密だよ」


桜の下で、二人だけの小さな秘密が生まれた。


ノアールは、レンを見つめた。


「私が、レンのお母さんに会わせてあげる」


ノアールは、魔法書を抱えていた。


「私、実は魔法使いなのよ」


その声は、秘密を打ち明ける時のように弾んでいた。


ノアールはベンチに座り、魔法書を開く。


ぱらぱらとページをめくりながら、探していたページを見つけた。


「これね」


ノアールは顔を上げると、魔法書を持ったまま立ち上がった。


片手には魔法書。


もう片方の手には杖。


夕暮れの桜の下で、幼いノアールは小さく息を吸う。


そして、覚えたばかりの詠唱を口にした。


けれど、その途中で、ふっと表情が揺れる。


「あ……間違えちゃった」


その瞬間だった。


空気が変わる。


桜色だった光が、ゆっくりと濁っていく。


風もないのに、花びらが渦を描いた。


けれど、そこに混じって落ちてきたものは、桜ではなかった。


黒いもの。


ひらひらと揺れながら、ノアールとレンの間へ落ちてくる。


「……なに、これ」


ノアールが空を見上げた。


レンも、涙の残る顔で立ち上がる。


「花びらじゃない……」


黒い気配は、ノアールのまわりで濃くなっていく。


花びらの渦の中心に立つノアールの胸へ、その黒い影がゆっくりと沈んだ。


同時に、レンの足元にも小さな欠片が落ちる。


それは影の破片のように揺れて、気づかれないまま、静かにレンへ触れた。


その一部始終を――


少し離れた木陰から、海斗が見ていた。


声を出せない。


好きだった。


でも、言えなかった。


その隣で凛が、海斗の袖を掴む。


震えているのは、海斗の方だった。


凛は、桜の向こうの二人を見つめたまま、小さく言う。


「海斗には、私がいる」


海斗は何も言えない。


桜が舞う。


光が揺れる。


そして、闇は根を下ろした。


時間が戻る。


ルミエールは、現在へ戻ってからも、見てきた光景をすぐには振り払えなかった。


ノアールの胸へ沈んだ黒い影。


レンに落ちた、小さな欠片。


その場にいた海斗と凛。


全部が、あの日から始まっていた。


ルミエールは術式を調べる。


あの時、幼いノアールが唱えた言葉。


その一文字。


たった一文字。


けれど、その一文字で、術式はまったく別のものへ変わっていた。


呼ぶはずのなかったものを呼び、触れてはいけないものに触れてしまった。


「未完成魔法……禁断術式」


小さく声が漏れる。


違う存在を呼んだ。


だから消えなかった。


だから共鳴した。


ノアールが救急車で運ばれ、命が危うくなった時も。


ソレイユとノアールの力が揺れた時も。


黒い影が現れた。


魔法陣のようなものが浮かんだ。


あれは、その場で突然生まれたものではなかった。


ずっと、残っていた。


ずっと、ノアールの中で眠っていた。


そして今回は、レンにも欠片があった。


だから、二人の声が重なった時、闇が共鳴した。


「覚醒じゃない……」


ルミエールは、震える声でつぶやいた。


「これは、あの日の事故の続きなんです」


レンは、覚えていた。


だから、カードを残した。


04.01 — You were there.


あの日、君もそこにいた。


N7R8。


ノアール七歳。


レン八歳。


台本の端に残された言葉。


ここ、来たことある?


それは、レンがノアールに向けて残した、記憶の欠片だった。


けれどノアールは、覚えていない。


レンのことも。


あの日の約束も。


桜の下で起きた出来事も。


ルミエールは、書き写した術式を見つめる。


原因は分かった。


けれど、答えはまだ遠かった。


消すのか。


光へ戻すのか。


その選択ひとつで、ノアールの記憶まで揺らいでしまうかもしれない。


でも、このまま放っておけば、また同じことが起きる。


ノアールを壊さずに。


レンの欠片も傷つけずに。


あの日から続いている闇を、どう光へ戻すのか。


ルミエールは、書きかけの術式を見つめたまま、静かに息を吸った。


考えなければならない。


すべては、あの日の一文字から始まっていた。

すべての始まりは、幼い日の桜の下にありました。


次回は、第二夜のステージへ進みます。

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