第8話 行きたい
ルミエールの中で、「知りたい」が「行きたい」に変わる回です。
「ママ、私、過去に行けないかな」
ブランシュの手が止まった。
「過去?」
「おじいちゃんとパパが作ったタイムマシン、あるでしょ。あれに乗って、過去に行きたいの」
ブランシュはすぐには返事をしなかった。けれど、その沈黙だけで十分だった。
「……無理よ」
落ちた声はやわらかいのに、動かなかった。
「まだあのタイムマシンは完成していないの。誰も乗ったことがないって、パパから聞いているわ。そんなものに、ルミエールを乗せるわけにはいかない」
ルミエールは息をのみ込んだまま、ブランシュを見上げた。
「それに、過去に行ってどうするの。帰れなくなったらどうするの」
「でも……」
「ノアールの闇の魔法は強いわ。ルミエールの魔法が強くても、ノアールの力にぶつかって、何もできないかもしれない」
止めたいのだとわかる言い方だった。
「でも、このままじゃいられないの」
「知ってしまったのに、何もしないなんてできない。私、どうしても過去に行きたい」
ブランシュは苦しそうに息をついた。
「……無理よ」
ルミエールは少しうつむき、それでもすぐに顔を上げた。
「じゃあ、パパにお願いしてくる」
ブランシュの表情がかすかに揺れた。
「……パパはまだ仕事中よ」
「それでも、話してくる」
返事を待たず、ルミエールは部屋を出た。
*
パパの仕事部屋の扉は半分だけ開いていた。中では画面の光が静かに揺れている。
「パパ、話があるんだけど」
「何だね、ルミエール。パパは仕事中だよ」
それでもルミエールは引かなかった。
「あのさ、おじいちゃんとパパが作ったタイムマシン、あるでしょ」
そこでようやく、パパが手を止めた。
「……ああ」
「あれに乗って、過去に行きたいの」
一瞬、部屋の空気が変わった。
「何を言っているんだ」
返ってきた声は低かった。
「あれはまだ試作品だ。人を乗せて、過去や未来へ行った例はない。実際に行けるかどうかも、まだ確実じゃない」
「でも――」
「だめだ」
はっきりした声だった。
「そんなタイムマシンに、大事な娘を乗せるわけにはいかない」
ルミエールの肩が少し落ちた。
「……パパもだめなのね」
「だめに決まっている」
「わかった」
口ではそう言ったけれど、諦めたわけではなかった。
ルミエールは背を向け、そのまま部屋を出た。
*
「おじいちゃん」
研究棟の奥で、祖父は設計図を広げていた。
「おお、ルミエール。どうしたんだね」
「おじいちゃんにお願いがあるんだけど」
「可愛い孫のためなら、まずは聞かないとな」
ルミエールは一歩近づいた。
「あの……おじいちゃんとパパが作ったタイムマシン、あれ、私乗ってみたいの」
「ああ、あれね」
祖父は少し笑った。
「乗るだけなら、中に入ることはできるよ。ただ電源は入れずに――」
「そうじゃなくて」
ルミエールはその先を遮った。
「タイムマシンを使って、過去に行きたいの」
祖父の顔から笑みが消えた。
「それはだめだよ」
「どうして」
「まだ試作品で、人は乗って過去や未来に行っていないんだ。安全が確認されていない。可愛い孫に、そんな危険なことをさせるわけにはいかない」
祖父はゆっくり首を振った。
「ごめんな、ルミエール。他のお願い事なら叶えてやれるかもしれない。でも、こればっかりは無理だ」
その声は本当に困っていた。
*
部屋に戻ったルミエールは、ベッドに腰を下ろした。
ママもだめ。
パパもだめ。
おじいちゃんもだめ。
無理。
危ない。
行かせられない。
言われたことはわかるのに、胸の奥は少しも静かにならなかった。
「……でも」
小さくこぼれた声が、部屋の中で消えた。
ノアールを助けたい。
ママの後悔を止めたい。
地球が壊れていった未来も、変えたい。
このまま何もしないなんて嫌だった。
もっと私がタイムマシンに詳しくなればいいのかしら。
研究して、自分でタイムマシンを作る。
そこまで考えて、ルミエールは首を振った。
「そんなの……何年かかるの」
あのタイムマシンは、ルミエールが生まれるずっと前から研究されてきたものだ。
最近やっとここまで形になったものに、今から一人で追いつけるはずがない。
そんなことをしていたら間に合わない。
きっと後悔する。
ルミエールは机の上のノートを引き寄せた。
試作品。
安全未確認。
帰れないかもしれない。
書き出してみると、みんなが止めた理由はいやになるほどはっきりしていた。
でも、何も知らないまま「行きたい」と言っても、また止められるだけだ。
だったら、自分で調べてみるしかない。
「……研究棟で調べてみよう」
つぶやいた瞬間、胸の奥で少しだけ形ができた。
自分の目で見ること。
何が危険で、何が足りないのか知ること。
説得するなら、そこからだった。
*
翌朝、ルミエールはいつもより早く部屋を出た。
家の中はまだ静かだった。止められる前に行ってしまいたかった。
研究棟の入口は、朝の白い光を受けてひんやりとしていた。
ルミエールは入館カードをかざす。小さな音とともに扉が開いた。
「……入れた」
それだけで、少しだけ背筋が伸びた。
閲覧室にはまだ人が少なかった。保管棚、端末、透明ケースに閉じられた古い資料。
ルミエールは空いている端末の前に座った。
何から見ればいいのかも、最初はよくわからない。
それでも、手を止めていたら何も始まらなかった。
タイムマシン。
有人試験。
安全性。
帰還経路。
思いつく言葉を一つずつ入れていく。
画面には難しい題名が並んだ。
位相安定試験、時空座標固定実験、生体転送想定ログ、帰還経路算出記録。
「……難しい……」
小さく漏らしながら、それでもルミエールは読み進めた。
未有人。
安全未確認。
帰還経路不安定。
時間座標のずれ。
同じ言葉が何度も出てくるうちに、少しずつ見えてくるものがあった。
ただ過去へ飛ぶだけの話ではないのだ。
ここは月。
けれど、ルミエールが行こうとしているのは、今からおよそ十九年前の地球だった。
月の過去なら、まだ座標は絞りやすい。
けれど地球の過去となると話はまるで違う。
地球は止まっていない。
公転しながら自転し、月もまた動き続けている。
時間だけでは足りない。
日時。
場所。
その全部をずらさずに合わせなければならない。
ルミエールは画面を見つめたまま、指先をぎゅっと縮めた。
「……こんなの、難しすぎる」
記録には短い一文が残されていた。
月圏内過去遷移より、地球過去座標への接続は著しく高難度。
その下には、さらに補足がある。
時間指定のみでは不十分。空間座標と天体位置の同時固定が必須。
誤差が大きい場合、目的時代の地球圏へ到達できない可能性あり。
ルミエールはノートを開き、急いで書きつけた。
地球の過去へ行くには、時間だけじゃなく場所の計算も必要。
しかも問題は、それだけではなかった。
別の記録には、帰還について書かれていた。
一度飛ばせたとしても、どこへ戻るのか。
月へ帰るのか。
問題を解決したあとの地球に残るのか。
未来が変わってしまったあとでも、自分の帰る先は同じ月なのか。
「……帰るって、どこに?」
思わずこぼれた声は、ひどく小さかった。
ただ帰還経路があるかどうかではない。
どの未来へ戻るのかまで決めなければならないのだ。
ルミエールはもう一行書き足した。
帰還先も決めないといけない。
ページをめくる。
次に開いた記録には、起動の瞬間に生じる揺れと、座標のずれについて書かれていた。
出力は足りている。けれど安定が続かない。
その横に、小さな補足が添えられていた。
高純度魔力による補助同期は理論上有効。
ただし、生体保護と時空固定を同時に満たす条件は未確定。
ルミエールの視線がそこで止まった。
「魔力……」
もう一度、最初から読む。
理論上有効。
完全に道が閉じているわけではない。
ただ、条件が揃っていないのだ。
ルミエールはノートに書いた。
魔力を安定して使えれば可能性がある?
書いたあとで、自分でも首を振る。
「そんな簡単じゃないよね」
それでも、昨日まで何もなかったところに、初めて手がかりのようなものが見えた。
「ルミエール?」
背後から声がして、肩がぴくりと揺れた。
振り返ると、研究補助員の女性が立っていた。幼い頃から何度か顔を見たことがある人だった。
「こんな朝早くに、どうしたの?」
「えっと……少し調べものを」
ルミエールはノートをそっと閉じた。
「難しい資料ばかりでしょう。わからない言葉があったら、入門資料の棚から見たほうがいいわよ」
「ありがとうございます」
女性はそれ以上何も言わずに離れていった。
ルミエールは小さく息を吐いた。ばれてはいない。
けれど、もう子どもの気まぐれでは済まされない場所に足を踏み入れているのだと、はっきりわかった。
最後に開いた記録には、手書きの追記が残っていた。
理論は成立しつつある。だが、起動者と搭乗者の双方に強い負荷がかかる。
家族を乗せる段階にはない。
その一行を見た瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
パパはただ怖がっていたわけじゃない。
本当に危ないと知っていたのだ。
それでも。
それでも、ルミエールの気持ちは引かなかった。
危ないのはわかった。
難しいのもわかった。
けれど、方法がないわけではない。
ルミエールはノートを開き、静かに書き足した。
説得するには、気持ちだけじゃなく条件がいる。
何が危険で、
何を満たせばよくて、
自分に何ができるのか。
そこまで持っていかなければ、きっと誰も首を縦には振らない。
ルミエールはノートを胸に抱えた。
「……もっと調べよう」
知るしかない。
知ったうえで、それでも行くと言えるだけの言葉を探すしかない。
もう、何もせずにはいられなかった。
読んでいただきありがとうございます。




