第61話 心落ち着く場所、その裏側
今回は、本編第57話「心落ち着く場所」をルミエール目線で描いた外伝回です。
強い魔法のあと、ルミエールはブランシュと二人で過ごす時間を持ちます。
ルミエールは、床に座り込んだまま動けなかった。
ノアールは息を取り戻した。
ソレイユも無事だった。
それなのに、体の震えだけが残っている。
ブランシュの手が、背中に触れていた。
その温かさだけを頼りに、ルミエールは呼吸を整えていた。
部屋の中には、まだ魔法の名残が残っていた。
床に刻まれていた黒い紋章は消え、壁を這っていたひびも薄くなっている。
窓から入る朝の光が、床に落ちた杖を照らしていた。
ショコラが先に動いた。
「まずは休ませよっか」
明るさを残した声だった。
けれど、その手つきは慎重だった。
ショコラはソレイユをベッドへ横にし、毛布を肩まで整えた。
ソレイユはまだ状況を飲み込みきれていない顔をしていたが、体が限界だったのだろう。
すぐにまぶたが落ちた。
ノアールは、ショコラに支えられて隣の部屋へ移った。
ルナが先にベッドへ跳び乗り、丸くなる。
ノアールはその横へ倒れるように横になった。
眠るまで、ほとんど時間はかからなかった。
二つの部屋の扉が、少しだけ開けられる。
ショコラは水を置き、灯りを落とし、二人の呼吸を確かめてから廊下へ戻ってきた。
ルミエールは、まだ床に座り込んでいた。
立たなければと思う。
けれど、足に力が入らない。
ブランシュが前に立った。
「部屋で休みましょう」
手が差し出される。
ルミエールは、その手を見た。
白くて、あたたかそうな手。
昨日、ドアの下から紙を差し込んでくれた手。
さっき、自分を現実へ戻してくれた手。
ルミエールは、ゆっくり手を重ねた。
ブランシュは強く引かなかった。
ルミエールが立ち上がるまで、そこにいてくれた。
部屋までの廊下が、いつもより長く感じた。
ブランシュは歩幅を合わせてくれる。
その横顔を見ると、胸の奥がまた痛くなった。
今この世界にいるブランシュは、まだルミエールのママではない。
それでも。
こういうところは昔から変わらない。
言葉より先に、必要な距離まで来てくれる。
部屋に入ると、ブランシュは布団をめくり、ルミエールを横にさせた。
毛布が肩までかかる。
足元のスリッパがそっとよけられる。
まるで、ずっと前からそうしてきたみたいな手つきだった。
ブランシュはベッドのそばに腰を下ろした。
「体は痛くない?」
ルミエールは答えようとして、途中で止まった。
痛い場所はない。
けれど、胸の中はまだ落ち着かなかった。
言葉にしようとすると、喉の奥が詰まる。
「……怖かった」
やっと出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
ブランシュは、ルミエールの背中に手を置いた。
ルミエールは毛布を握る。
「一人で」
そこで止まった。
続きは出てこなかった。
一人で見つけて。
一人で判断して。
一人で助けを呼ばなければならなかった。
あの黒い部屋で、ノアールとソレイユが倒れている姿を見た時、頭の中が真っ白になった。
ブランシュの手が、背中を撫でる。
「ちゃんと呼べたでしょう」
その声を聞いた瞬間、また涙があふれた。
ちゃんと呼べた。
確かに、呼べた。
あの時、ルミエールはブランシュに電話をかけた。
助けて、と言えた。
けれどそれは、ブランシュさんを呼んだというより。
もっと奥にある、ずっと我慢していた気持ちが動いたからだった。
ママ。
心の中で、声がこぼれる。
ママ。
怖かった。
一人で抱えきれなかった。
助けてほしかった。
ルミエールは、ブランシュの胸元に顔を埋めた。
自分から抱きついたことに、少し遅れて気づく。
それでも離れられなかった。
ブランシュは一瞬だけ息を止めたようだった。
けれどすぐに、ルミエールの背中へ腕を回してくれた。
「怖かったわね」
その一言で、もう駄目だった。
ルミエールは声を殺しきれずに泣いた。
ブランシュの服を握る手に力が入る。
子どもみたいだと思った。
でも今だけは、どうしても離れたくなかった。
ブランシュは、何も聞かなかった。
どうしてそこまで泣くのか。
どうしてそんなふうに抱きつくのか。
そういうことは聞かず、ただ背中を撫でてくれた。
しばらくして、ブランシュが言った。
「ルミエールさん」
「……はい」
「あなた、私に似てるわ」
ルミエールの指が、ブランシュの服をつかんだまま止まる。
「何でも一人で抱え込むところとか」
ブランシュは困ったように笑った。
その笑い方も、昔から変わらない。
ルミエールは、顔を上げられなかった。
似ているのは当然だった。
あなたは、私のママだから。
でも、この時代のブランシュはまだそれを知らない。
だからその言葉は、胸の奥にしまった。
「……そうかもしれません」
やっと、それだけ答えた。
ブランシュの手が、また背中を撫でる。
「今度から、電話でもいいし、メールでもいいから、私に相談して」
ルミエールは返事をしなかった。
声を出すと、また泣いてしまいそうだった。
「私に話したからって、すぐに全部解決するわけじゃないかもしれないけど」
ブランシュの声は落ち着いていた。
「一人で抱えるよりは、少し楽になることもあるでしょう?」
ルミエールは、ブランシュの服に額をつけたまま、かすかに息を吐いた。
その言い方も、よく知っている。
「それと……落ち着いたら、今度一緒に出かけましょうか」
「……出かける?」
「ええ。ショッピングでも、お茶でも。相談じゃなくてもいいの。普通に話す時間を作りましょう」
ルミエールは、ようやく少しだけ顔を上げた。
ブランシュは困ったように笑っていた。
未来では当たり前だった時間。
隣に座ってお茶を飲んで、何でもない話をする時間。
それが、この世界でも少しだけ近づいてきた気がした。
「……はい」
ルミエールは小さく答えた。
「行きたいです」
言ったあと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
ブランシュは、ルミエールの髪にそっと触れた。
「じゃあ、約束ね」
約束。
その言葉が、今は不思議なくらい心に残った。
ルミエールはまだ泣き疲れていた。
体の力も戻らない。
けれど、さっきまでより呼吸は楽になっている。
部屋の外では、ショコラが行き来する気配がした。
水の入ったグラスを置く音。
扉を確かめる音。
ルナが小さく鳴く声。
その気配を聞きながら、ルミエールのまぶたが重くなっていく。
ブランシュの手は、まだ背中にあった。
離れない温かさに包まれながら、ルミエールは心の中で、もう一度だけ呼んだ。
ママ。
声には出さなかった。
けれど、その言葉を抱えたまま眠れた。
それだけで、今は十分だった。
読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、本編第57話「心落ち着く場所」をルミエール目線で描きました。
本編では短く描かれていた休息の時間を、外伝ではブランシュとルミエールの関係に寄せて書いています。
「まだ私のママではない」と思っていたルミエールが、少しずつブランシュを頼れるようになっていく回でもありました。




