第42話 新しい朝と、気になること
新しい家から、初めて学校へ行く朝。
全部が変わったわけではない。
けれど、昨日までとは少し違う一日が始まっていた。
ルミエールの家で迎える、初めての朝だった。
ノアールは制服に着替え、鞄を持って廊下に出てきた。
表情は落ち着いているように見えたけれど、足取りは少し硬かった。
(まだ、慣れていない)
ルミエールはすぐにそう思った。
起きる場所も、朝食を食べる場所も、玄関へ向かう道も違う。
それでも、ノアールはちゃんと制服を着て、学校へ行こうとしている。
今はそれでいい。
「おはよう、ノアール」
ルミエールが声をかけると、ノアールは少し遅れて頷いた。
「……おはよう」
ソレイユはもう玄関近くで靴を履いていた。
「ノアール、今日はルミエールの家から初登校だね」
「……うん」
ノアールは小さく答える。
その声はまだ弱い。
でも、昨日の夜よりは少しだけ落ち着いていた。
ルミエールは執事へ向き直る。
「今日の放課後、動物病院に行きます。ルナとブランを、それぞれキャリーケースに入れて用意しておいてください」
「かしこまりました」
「病院が終わったら戻ります。夕食はその後でお願いします」
「承知いたしました」
短く予定を伝え、ルミエールはノアールを見る。
「行きましょう」
三人は車に乗り込んだ。
学校へ向かう途中、かつてのマンションの近くを通る。
ノアールの視線が、少しだけそちらへ向いた。
ルミエールは何も言わず、隣に座っていた。
学校に着くと、いつものように生徒たちの声が飛んできた。
「ルミエールさん、おはよう」
「ソレイユちゃん、おはよう!」
少し遅れて、ノアールにも声が届く。
「ノアールさんも、おはよう」
ノアールは一瞬だけ戸惑い、それから小さく返した。
「……おはよう」
ルミエールは、その横顔を見た。
返事ができた。
それだけで、昨日より少し進んでいる。
廊下を歩いていると、一人の男子生徒が近づいてきた。
「あの、LUMISORAアニメ同好会って、まだ入れますか?」
ルミエールが足を止める。
「もちろん。昨日は事情があってお休みしていたの。今日は動物病院の予定があるから活動できないけれど、明日は開ける予定よ」
「そっか。じゃあ明日、行ってみます」
桐谷君はそう言って、廊下の向こうへ戻っていった。
(希望者がいてよかった)
LUMISORAにも、少しずつ人が集まり始めている。
少し先で、男子の声がした。
「ソレイユ!」
振り返ると、悠斗が立っていた。
ソレイユの表情が、ぱっと明るくなる。
「悠斗!」
声の弾み方が、いつもと違った。
ルミエールは、その変化を見逃さなかった。
「一緒に行こうぜ」
悠斗がそう言うと、ソレイユは少し照れたように笑う。
「うん。じゃあ、またあとでね!」
ソレイユと悠斗は、一緒に一年生の教室の方へ向かっていった。
ルミエールは、その背中を見送る。
(ソレイユ、少し夢中になっている)
恋は悪いことではない。
けれど、私たちはノアールを支えるためにここへ来た。
(大丈夫かしら)
ルミエールは、ノアールの方へ向き直った。
「教室へ行きましょう」
「……うん」
その日の授業中、ノアールは昨日より少し落ち着いていた。
分からないところで手は止まる。
けれど、ノートを開いて、黒板を見ようとしている。
ルミエールは、必要な時だけ短く補足した。
答えを全部渡すのではなく、ノアールが自分で追えるように。
昼休み。
ソレイユからメッセージが届いた。
『今日は悠斗たちと食べるね』
ルミエールは画面を見て、短く息を吐く。
楽しそうなのは良い。
けれど、少し早い。
(あとで、ちゃんと話さないと)
ルミエールはスマホをしまい、ノアールに向き直った。
「今日は私と食べましょう」
ノアールは少し安心したように頷いた。
放課後。
ソレイユは悠斗と一緒に校門の方へ向かった。
「じゃあ、またあとでね!」
明るく手を振るソレイユの横顔は、やはり少し弾んでいる。
ルミエールは、それ以上追わなかった。
今日は、動物病院の日だ。
「私たちは、ルナとブランを迎えに行きましょう」
「……うん」
帰る前に、ノアールが小さく言った。
「ルミエール……前の部屋、少しだけ寄ってもいい?」
「どうして?」
「ルナの毛とか、汚れが残っていたら……お姉ちゃんたちが困るかもしれないから」
ルミエールは、ノアールの顔を見る。
自分が置いてきたものを、気にしている。
それは悪いことではない。
「ええ。行きましょう」
二人でマンションへ寄った。
部屋に入ると、布団やカーペットにルナの毛が少し残っていた。
ノアールの顔が曇る。
「どうしよう……」
「大丈夫」
ルミエールは小さな杖を取り出し、軽く振った。
小さな光の星の粒子が部屋の中に広がる。
粒子は布団や床の上をすべるように巡り、毛や小さな汚れを吸い上げていった。
数秒後、部屋は元通りになっていた。
ノアールは、ほっと息を吐く。
「よかった……」
ルミエールは杖をしまいながら、静かに言った。
「でもね、ノアール」
ノアールが顔を上げる。
「本当は、こういうお世話も飼い主がするものよ」
「……うん」
「ごはんも、掃除も、病院も。可愛いと思うだけでは続かないわ」
ノアールは、小さく頷いた。
「……私が、ちゃんとやる」
その返事を聞いて、ルミエールは少しだけ胸が痛んだ。
(少し、きつく言いすぎたかもしれない)
けれど、ここは曖昧にできない。
命を預かるなら、最初に知っておかなければならないことがある。
ルミエールは声をやわらげた。
「一緒に覚えていきましょう」
「……うん」
その後、二人は別荘へ戻り、ルナとブランを連れて動物病院へ向かった。
病院では、健康診断とこれから必要なことの説明を受けた。
ワクチン。
手術。
通院。
費用。
ノアールは黙って聞いていた。
ときどき不安そうにルナを見る。
ルミエールは、横で必要なところだけ補足した。
怖がらせすぎないように。
でも、軽く見せないように。
帰り道、キャリーケースの中でルナが不満そうに鳴いた。
ノアールは困った顔をする。
「……怒ってるかな」
「少し怒っているかもしれないわね」
「嫌われたかな」
「すぐには決まらないわ」
ルミエールは言った。
「これからのお世話で、少しずつ関係を作っていけばいいの」
ノアールはキャリーケースを見つめる。
「……うん」
家に戻ると、ルナは猫部屋へ入った。
ブランは少し離れた場所から、落ち着いた顔でルナを見ている。
ルナはしばらく警戒していたが、やがて部屋の隅に座った。
ノアールはその様子を見て、小さく息を吐いた。
ルミエールは、猫じゃらしをノアールに渡す。
「少し遊んでみる?」
ノアールは頷いた。
猫じゃらしを揺らすと、ルナは最初だけそっぽを向いた。
けれど、少しすると耳を動かし、ゆっくり近づいてくる。
「……来た」
ノアールの声が少し明るくなる。
ルミエールは、その横で見守った。
今日、教えたことは少し厳しかったかもしれない。
でも、ノアールは逃げなかった。
ルナのために、ちゃんと向き合おうとしている。
それが分かれば、今は十分だった。
玄関の方で、ドアの開く音がした。
「ただいまー!」
ソレイユの声だ。
いつもより、ずっと弾んでいる。
ルミエールは、猫部屋の入口からそちらを見る。
(帰ってきた)
ソレイユの恋のこと。
ノアールの責任のこと。
LUMISORAに来た新しい希望者のこと。
考えることは増えていく。
けれど、ルミエールはすぐに動かなかった。
ノアールは、まだルナと遊んでいる。
ルナも、少しだけ猫じゃらしに反応している。
今は、それを見届ける方が先だった。
ルミエールは、ソレイユの声が近づいてくるのを聞きながら、静かに猫部屋の中を見つめていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、ルミエールの家から始まる新しい朝と、ルナを飼う責任についての回でした。
ノアールもソレイユも、少しずつ別の方向へ動き始めています。




